ダ・ヴィンチの都市計画

日端康雄著「都市計画の世界史」第4章の「ルネッサンス」の項の、

 この時期には、レオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二〜一五一九年)を始め、多くの優れた芸術家、建築家が輩出し、活躍した。一四八四年、ミラノはペストの人口の三分の一が罹病、五万人以上が死亡した。その後ダ・ヴィンチは、自ら居住するミラノの都市拡張計画を提案している。

という記述を見て、どんな提案であったのかすごく気になった。*1

というわけで、先月、その参考文献に書かれていた長尾重武著「建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ―ルネッサンス期の理想都市像」(1994年)を読んだ。以下、この本から引用する。

 一四八四年から翌年にかけて、ミラノにペストが猖獗をきわめ、五万人以上が死んだ。(中略)レオナルドはこの悲惨な現実を眼前にして、ミラノの都市改造について思いめぐらした。密集して住む都市の不衛生な状態がペストの前にひとたまりもないことを痛感したからであった。

最近、東京でも「新型インフルエンザ」流行のニュースがありましたけどね。まっ、とりあえず、まず、ダ・ヴィンチは都市の中心部に「広場」をつくることを提案した。そして、もう一つの方法を提案した。

 都市中心部の過密状態を解消するもう一つの方法が分散であり、レオナルドはミラノの都市構造を的確に把握するべきだと考え、ミラノの中世以来のほぼ円形にまとまりをもった街を拡張し、市壁外に環状の新市街地を形成するよう進言した。

「一〇個の街に、五四戸の家と、三万人の住人を移しなさい。その家は部屋がうまく配されて、風通しがいいようにし、そして、まるでやぎのようにひしめき合い、悪臭を放ち、死にいたるペストの種を蒔き散らす人々の集まりを解きなさい」

 このようなレオナルドの案は、一四九〇年代前半に主として展開されている。一四九三年頃の基本計画では、郊外に環状に一〇の都市を建設することが提案されており、具体的にはその一つをまず建設し、その様子をみて環状の全市を完成することを提案した。(中略)衛星都市のようでさえある。

ダ・ヴィンチが考えた「衛星都市」は、「中央に大きな広場があり、回廊がめぐらしてある。それを中心に、道路、運河が対象的に配されている」。また、「道路の幅は、家の一般的な高さと同じようにする」ことで「内部に『風、光、清潔さ』が行き渡るのを保証する」という提案であった。

(続く) →「理想都市

*1:別ブログ(用心シロ!都市と建築が世界を征服する)の「ノエル」の記事参照