わっしー

 鷲田清一の『悲鳴を上げる身体』より。かなり長く引用。

  文化の<内>にいるということの意味から考えることにしよう。
 
  働く、食べる、話す…… 生活のどの局面をとっても、(物であれ他人であれ)じぶん以外のものにかかわることなくして私的な生活すらありえない。 じぶんをも含め、それらの総体をいまとりあえず <世界>と呼んでおくとすると、じぶんと世界との関係を安定したものにするには、それをいつもある一定のかたちに組織し、編成しておかなければならない。 じぶんにとって世界のなにが重要であるか、物事をどのように取り扱い、他の人びとにどのように関係しなければならないかを、解釈し、決定しながら生きていかなければならないわけだ。

  さて、こうした世界とのかかわりを、わたしたちその都度じぶんひとりの手で、一からはじめるわけではない。 わたしたちは、世界がいかなるものであるかを、あるいはそのなかでいかに身を処していくべきかを、先行する世代から微細な点にいたるまで指示されてきたわけだし、またその都度わたしたちが直面する現実世界はいつもすでになんらかのかたちで構造化されている。 要するに、わたしたちはまずなによりもこの世界( 人びとの <解釈>によってすでにかたちづくられている世界)に住み込むことから、みずからの生活を開始するわけだ。 わたしたちと世界とのあいだには、いつもすでに一定の解釈の網の目がはりめぐらされているのであって、世界のそうした <解釈>(=形態化)の作業は、あらかじめ設置されている解釈装置 ―これは言ってみれば、世界をそこに映し出すスクリーン、あるいはそれを通して見る眼鏡のようなものである―にじぶんをならしてゆくというかたちで営まれる。 世界の見方だけではない、手の使いかた、歩きかた、話しかた、礼のしかた、ものの覚えかた、みなそうである。

  ひとはよく、宇宙、あるいは自然という物体的世界こそ、文化の差異を超えて普遍的・客観的に存在するものだと言う。 しかし、宇宙や自然もまたそのようなものとして、わたしたちの文化のなかでとらえられてきたものだということを忘れてはならない。 その意味でいうと、文化の差異は、現にある世界の解釈上の差異ではなく、世界そのものの構造の差異だと言える。

 ふとしたきっかけで見つけたので忘れないようにとおもって。とても参考になるし、助けになる文章だとおもう。

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

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