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断片集

2012-08-31

ああ無情

 自分のやってきた勉強、研究じみたものが、結局、ものにならないということに薄々気づいて、気づいたところで他に打ち込めるものなどとうになく、ただ日々の張り合いがなくなるだけであり、そうした堂々巡りの末に、再びまた書物に向かう。
 そんな人生。



 夏が終わる。
 
 
 自分の人生でなにが喜びなのだろうか。
 

2012-08-20

江ノ電

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今回の旅の目的。

2012-08-19

赤はまさに赤となり

 今日はこれに。
 no title
 
 シャガールの絵を通して、赤はまさに赤となり、青はまさに青となる。作品を生で観ることでしか味わえない色の神秘。
 上記URLにもあるけれど、《空飛ぶアトラージュ》(1945年)が特に良かった。戦争期の作品は、他の作家・ジャンルの創作物も含めて、非常に興味深い。


 
 余談だけども、グッズ販売コーナーにはやはり圀府寺先生の最新のご著書が。先生の低音ボイスが思い返され。

ああ、誰がシャガールを理解したでしょうか? (阪大リーブル)

ああ、誰がシャガールを理解したでしょうか? (阪大リーブル)

2012-08-18

China Town

 横浜中華街ではこちらにお世話になった。
 接筵(地図/写真/横浜中華街/中華料理) - ぐるなび
 名物スープチャーハンと水餃子を食べたのだが、とってもおいしかった。店に通いたくなる味。
 

 そして、約7年ぶりに関帝廟に行った。
 高校の修学旅行の最終日は、横浜中華街だった。関帝廟の正面階段を下りてゆくとき、当時の記憶がまざまざと蘇った。

2012-08-17

横浜美術館特別展より

 横浜美術館で観たのはこれである。
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 非常にポップであるというのが全体を通しての印象である。展示の前半は彫刻、後半は絵画やスケッチといった類であるが、中盤には作者のアトリエを再現した空間もしつらえてあって、そこにかかっていた一枚の大きな絵にはとても惹かれた。タイトルは忘れた。
 作者の描く少女たちは、その透明感とうらはらに常に何かをかかえている。かかえたままで、われわれをまっすぐに見つめてくる。彼女たちはわれわれ自身なのかもしれない。


 作者のアトリエを再現した展示室2には、とても背の低い入口が特別に設置してあって、それはおおよそ150cmくらいなのだけれど、大人は当然に身をかがめなければ入れない。ところが、こどもは、そのままで入ってゆける。
 こどもになるということ、こどもであるということ、自由であるということ。
 大人はなにかしら不自由をしなければ閉ざされたままだ。

2012-08-16

旅を終えて。

 お盆休みは横浜と鎌倉に行ってきた。
 渋谷、みなとみらい、横浜美術館、赤レンガ倉庫、神奈川県庁付近、新江ノ島水族館、鎌倉大仏、小町通り、鳩サブレー本店、横浜中華街、関帝廟。ざっとこんなものだろうか。


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みなとみらいな風景。



 新幹線の中で、同時に、『芸術作品の根源』も読み深めることができた。ただ、おもうにハイデガーの思索を自分のことばで後追いすることは、しょせん彼の「詩作」のコピーに過ぎないのではないか。彼の用いるユニークな用語とその斬新な概念の前衛性にからめとられて自分のことばでまとめるということが非常に難しい。もしできることがあるとすれば、それはおそらく注釈ということである。しかしそれはハイデガーの専門家の負うべきところであろう。
 かくして、再び僕は立ち止まる。

2012-08-11

存在は包み込みを内在している。

 中古レコード屋で見つけた逸品。

マーラー:交響曲第9番

マーラー:交響曲第9番

 とてもあたたかい。特に弦。
 
 第4楽章はいつも「どれくらい僕をやさしく包み込んでくれるか」という観点で聴いてしまっている。包み込むやさしさ。あたたかみ。



 存在と包み込みをからめて色々考えられないものかなと直感的に直観的にしたのだが果たして。

2012-08-09

ほも

 そのものが「現にそこに在る」ということを記述しようとおもったら、内的なベクトルのせめぎ合いを、恒常性(ホメオスタシス)にまつまる二極のせめぎあいを、述べるしかない、のではないか。
 そういう暗黙のテーゼを前提すれば、ハイデガーの言っていることすべてすんなりと理解できるのだが。
 
 生物気燃悗鵑瀬曠瓮スタシスという概念、なにかにつけて有用だとおもうのであります。まだしっかりとは言葉にできないけれども。

2012-08-08

永遠の14歳

 自分は一体何者なのであろうか。
 結局のところ、何者でもなかったのである。とはいえ絶望する必要はない。今からその何者かに為ればよいのである。

2012-08-06

明るみへ

 高校時代からお世話になっている『新アクセス独和辞典』によれば、

  • Licht 光、あかり
  • Lichtung (森林の)樹のまばらな所、林間の空き地

だそうである。

 ハイデガーのユニークな思索において、ではLichtungとは?

この Lichtung という語について、ハイデガーは次のように注釈している。「Lichtung[空け開け]というドイツ語は、言語史的には、フランス語のclairiere[森の中の空き地]の直訳借用語である。この語は Waldung[森林]とか Feldung[畑を区切ること]という、いっそう古い語にならって形作られた。Waldlichtung[森の中の空き地]は、いっそう古い言葉で Dickung[密生林]と名づけられた密生した森と区別して経験される。Lichtung という名詞は、lichten(薄くなる、透ける、まばらになる)という動詞にさかのぼる。licht(明るい、輝いた、まばらな、透けた)という形容詞は、leicht[軽い]という語と同じである。何かを空け開くということは、何かを軽くすること、何かを空けるとか開けるということを意味し、たとえば、森を或る箇所で木を伐って空けることを意味している。そのようにして生じた空いたところ[das Freie]が Lichtung である。」

芸術作品の根源 (平凡社ライブラリー)

芸術作品の根源 (平凡社ライブラリー)

2012-08-05

『今が一体いつなのかわからないし、ここがどこなのかもわからない。』

 生まれてからの18年間、ずっと過ごしてきた岡山の地にこうして舞い戻ってきて、いろいろおもうことはある。
 僕の大学4年間は、なんだったのだろう。もうそれは、ほとんど幻影のように霞む。梅田、石橋、箕面、三宮、西宮、難波、奈良、京都河原町... 地名にたゆたうイメージ、過去の記憶だけが拠りどころなのだ...
 それでも、たしかにぼくは19歳から23歳を、たしかに大阪の地で過ごした。それはあの部室の、あのノートの落書きを見ればわかる。過去は塗り替えられない!  では、未来は?



 僕はもっと過去に身をゆだねる。
 過去の記憶。

 夏の朝は、自転車だ。トライアスロン大会に向けて、毎年夏の早朝は自転車で山を登っていた。中学高校時代の夏休みってどんなだったろうか。その自転車以外のことはあまりよく覚えていない。基本的には部活と勉強だったかしら。

 夏の渋川海水浴場が、ほんとうに懐かしい。父と母と妹とよく行った。海で言えば、しまなみ海道近郊の瀬戸田というところにも毎年のように行っていたものだ。ログハウスに泊まる。昼は海、夕暮れが近づけばそのログハウスの前でバーベキューをする。夜になれば潮騒を聴きながら星空を眺める。鈴虫の声も聞こえていたっけ。


 アイスが、食べたい。

 炎天下歩いて帰ってきて、まずはアイスだった。あの、しょーもないチューペットが、至高であったことよ。





 悶々としながら、日々を過ごしましょう。

2012-08-01

あうぐすとぅす

 はっきり言って、クラシック音楽は常に既存の社会制度に安住し続けてきた。
 近代以来の様々な制度、たとえば予約制演奏会や教養主義に寄りかかって今に至るクラシック音楽が、近代発祥の諸制度の地盤崩壊にともなって磨滅してゆくのも時間の問題である。
 だから、制度を修正してゆくのも必要だとおもうし、加えてこの現代においてクラシック音楽をよりそのものとして、より生き生きと(思想的に)在らしめなくてはならないとおもうのであります。(だからハイデガーをかじっているわけであります。)

 しかしどうしてこうもお前はクラシック音楽のことばかり主張するのだもっと他に政治的な主張はないのかという声も聞こえるが、僕の今のこの態度こそもっとも政治的なのであると僕は信じているから、そのような雑音にははなから耳を貸さないのである。