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ぼうふら漂遊日記

2009-12-20 昭和日本の「神話」 宇宙戦艦ヤマト(少し加筆修正)

宇宙戦艦ヤマトのこと 宇宙戦艦ヤマトのことを含むブックマーク

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宇宙戦艦ヤマト 復活篇』、日劇の周囲に列を作って徹夜…まではしないまでも、初日に駆けつけてみると物凄い長蛇の列(みんなの目当てはほとんど『ワンピース』)。一時間半余裕を持って行ったのだが全く足りず、イレギュラーな人手に劇場の誘導措置も遅れて冒頭5分を見逃してしまった。


予告映像のバタ臭い湖川キャラや、ゲームみたいな戦闘シーンの平板で無機的な印象、石原慎太郎原案のストーリーアルフィー主題歌と、キツい出来は重々覚悟して、映画として、現在の表現として最低レベルであったとしてもそれはそれと呑み込んで、大スクリーン勇壮な『ヤマト発進!』を観るだけで良しとしよう、くらいの気持ちで出かけたつもりだったのだが… 人間、どうしたって無意識レベルの「盲目希望」みたいなものは捨てきれないものなのか、やはり実際に目の前で展開されるものを見てしまうと辛かった。正直、事前の予想を遥かに超えたダメージだった。涙も出ない。

加えて、若い人たちはみんな「ヤマトって元々こんなもんでしょ」くらいの認識だということが、ひしひしと伝わってきて二重に辛い。


「この時代に勧善懲悪は陳腐」「元々、ヤマトキャラクターは個人じゃないから、内面がない」

もっともな感想だと思う。

かつての任侠映画などと同じで、「義理」「人情」のリアリティよりも、それがいかに音楽のごとく美しく描かれているかという、主観的な感情を盛り上げる「様式美」こそが本質の娯楽映画だから、大味でご都合主義な物語や設定は魅力でもあるのだが(獅子奮迅の活躍をしない「ただリアルなだけのヤマト」なんて誰も見たくはない)、逆にそこに半端になまなましい現実の比喩が織り込まれると、現在の擦れたお客さんには陳腐さが際立って見える。

人の背景や性質を描写することなく、誇りと自己犠牲だけを謳うストーリー(というよりもメッセージ)の大味さは、作り手自身の身勝手なナルシズムを露わにする結果しか生まない。


これらはすべて『復活篇』に限らない、ヤマトが最初から孕んでいた要素だが、それでも尚(そうした要素も含めて)僕はヤマトが好きだったし、今でも好きだ。

殊に、74年に放映された最初のテレビシリーズ宇宙戦艦ヤマト』には、こうした要素と同時に、イノセントな一体感やヒロイズムの敗戦による蹉跌と反省や、逆にそれを丸ごと捨ててしまったその後への懐疑といった要素が、半ば無意識に刻まれていた。未整理、無意識な、市民の建前ではなく庶民の情念だからこそ、僕らのような小さな子供の胸にも生々しく、自然に響いた。

そもそもヤマトは、ガンダムエヴァンゲリオンのような、はじめに個人ありきの話じゃない。比べるならむしろ、最初のモノクロ版『ゴジラ』が適当な(もっと近いのは旧作の『日本沈没』)、言ってみれば昭和日本の「神話」だ。個人の力ではどうにもならない巨大な運命に翻弄されながら、それでも絶望的な状況に立ち向かう懐かしい小さな人々物語だ。エンジン始動波動砲発射時の、アナログ感満載な長い長いプロセス。多くの人間が持ち場を分け合って巨大なものを動かす描写。それがそのまま作品の魅力の核だった。

当時「戦争賛美だ」という進歩ジャーナリズムからの攻撃に対して、アニメファン達は過敏に反論していたけれど、確かにヤマトは敗戦以来、それ自体悪のように言われていた「団結」や「勇壮」、「使命感」といったものを肯定的に謳った。敵はいつも、いかにも昭和プログラムクチャーな、分かりやすい巨悪だった(しかも、悪のイメージは、かつての同盟国だったナチスドイツへと、曖昧に転化されていた)。

けれど半面、たとえば第一作では、核の暗喩の影が色濃かった波動砲は、最初の試射を除いて、敵に向けて直に撃たれたことは一度もなかった(発射自体、シリーズ中数度しかない)。ストーリーの大半は、実は「未知の大宇宙への冒険」という要素が強く、派手な砲撃戦さえ実はほとんど無かった。

放射能に侵され、海の干上がった「赤い地球」と、地下都市で息を殺す滅亡に瀕した人類という、ビジュアル込みのイメージが与える切迫感は、子供向けのアニメとしては前代未聞のものだった(それは、大戦末期の日本人の思いそのものだっただろう)。

そして何より、生き延びてしまった負い目を黙って背負い続ける沖田艦長。

ヤマト的なものがアウトオブデイトになっていく80年代以降、遠い未来の物語であるヤマトの、娯楽室で将棋を指したり、出征した兄の帰省を迎える古代家で近所の人々が宴会を開いていたりするアナクロな生活描写が、失笑を誘うネタとして振り返られたりしたけれど、こうした共同体の泥臭さと温かさが、空気のように自然に描かれていることは、今となってはその後のアニメではついぞ見られないヤマトの魅力だ(それは、ガミラスの、常にデスラーの顔色を伺い合う陰険な空気や、イスカンダルでの藪機関士の反乱の後のバツの悪さといった無意識の暗さや閉塞としても現れる。無機的なメカだらけの美術だけが目立ち、メインキャラクター以外ほとんど人の気配がしない、何だか閑散と冷たい復活篇での変化が、また象徴的に思える)。


加えて、詳細な天体の設定、描写に裏付けられた、圧倒的な宇宙の広さ。

それまでのアニメ(いや、当時は「テレビまんが」だ!)では、世界の中心は地球で、宇宙といえば空の延長くらいの感覚だったのに(世界征服を目論む組織が、毎回攻めて来るという展開が、子供番組の定番だった。ワープ波動砲といったSF考証だけでなく、〜光年とか、大マゼラン星雲といった単語や天体の位置関係も、多くの子供たちにとってはじめて触れるものだった)地球は大宇宙の片隅の小さな星に過ぎず、はるかに優れた科学力を持った他文明(彼らの前では、地球人野蛮人扱い)や、超自然の神秘が行く手には広大に膨らむ。イスカンダルは途方もなく遠く、恐ろしいほど広大な宇宙は、怖れ(畏れ)と好奇心(ロマン)とを同時に掻き立てた。

小学校入学前だった僕には、戦艦大和を通して太平洋戦争とその敗戦を知ったのもこの時だったし、実家の応接間で埃をかぶっていたブリタニカ百科事典で、宇宙軍艦写真を眺め、過去未来と世界の広がりが一度に自分の中に流れ込んで来て、目眩がするようだった。

子供にとっては、未知の現実と分厚いフィクションが融合して、まさに「ある世界が、そこに丸ごと存在する」と感じる経験だった。

現実の生活感と、遠く巨大な未来をつないでいたのは、それを本当に「らしく」見せる丁寧な描写と設定であり、何より松本零士の、温かい懐かしさと未知と神秘への憧れを同時に体現する、オーラを纏った作画だった。

釈迦さまが天竺までありがたいお経を取りに来させるごとく(豊田有恒によると、ヤマトの物語は西遊記を下敷きにしているらしい)、スターシャは人類に自らの手で未来を勝ち取る試練を与え、14万8千光年の旅をさせる。彼方から厳しくも優しい視線を送る女神を目指し、「生き延びてしまった」負い目を抱えた老英雄が、明日を担う若者たちを率い、過去の遺物の戦艦未来への箱舟として旅をする。こうした基本プロット、そして放射能汚染された赤い地球や、干上がった海に夕陽を浴びて佇む赤錆びの大和、といったビジュアルが喚起するものが既に圧倒的で、大人を含めた当時の日本人に衝撃を与えるに充分だった。


しかし、後に作られ続ける続編からは、世の中自体がそうだったように、戦争の影も、広大な未知への夢も、影を薄くし形骸化していく。

男女の恋愛イコール世界平和的な、大味な観念=テーマが前面に打ち出され(古代と雪のバカップルぶりに象徴的。ただ、70年代当時、「幸福な家庭」にさえ満足せずに膨れ上がり、その先に進む個人の欲望というものを、人々はまだ想像できなかった)、実質としては派手な戦闘と「自己犠牲」の美しさがインフレ化していく。

生き残ること。豊かになること。自分たちの生の営為の根本にあるエゴを直視し、政治の延長としての戦争を描くことを忌避してきた、美的感傷的な日本人の(つまり、ヤマトという作品が根本に孕んでいたものの)、負の部分が際立ち、それを大仰、曖昧な愛のイメージ(今回は地球愛=エコロジーか…)で誤魔化す展開が露骨になっていく。

こうした傾向は、時代の趨勢の影響を無自覚に受けた結果であると同時に、プロデューサー西崎義展の資質が大きく働いていることは確かだろう。

かつて、戦前の男の含羞を愛してやまなかった向田邦子は、石原慎太郎を「テレない男」と呼び、婉曲に苦手意識を書いているが(『眠る盃』所収「男性鑑賞法」)、まさに西崎氏も彼と同タイプの資質の持ち主と言っていいだろう。松本零士が抜けて、石原慎太郎が加わった復活篇は更に前記の傾向が強まった。もはや「地球の危機を救うため」という受け身な形でなく、自己都合やエゴの部分を相変わらず直視しないままに、世界情勢に対して積極的に正義と誇りをアピールする分、破綻違和感もより露骨になった。

これは、僕が復活篇を受け入れられない最も大きなポイントだけれど(加えて、絶対悪を合理化するためのあの「化け物」に象徴的な、絵空事を「らしく見せる」営為の軽視)、同時に、それでもやはり西崎氏の無邪気な自信と不可分なロマンが無ければ、かつてヤマトヤマト足りえなかっただろうことも、また確かだと思う。松本零士だけでは「昭和20年8月15日以来、自分はあらゆる集団行動を信じないし、参加もしない」的な、個人的アナーキズムの色が強くなり過ぎて、昭和日本無意識に包括する神話のようなものには成り得なかっただろう(そして、ただ自分一個の「信念」と「鋼鉄の意思」だけを頼りにアナーキーに生きる、松本零士遺伝子を強力に受け継いだ海賊たちの物語が、同時公開、大ヒット中という事実に、また不思議な因縁を感じる)。

それに、そもそもヤマトガンダム以降の作品のような、個人間エゴと関係性を掘り込むような内容の作風を、誰も望みはしないだろう。


パート1は別格として、その後のヤマトで僕が一番好きなのは、実は「新たなる旅立ち」だ。

自己犠牲特攻の安易な美化は、「さらば宇宙戦艦ヤマト」以降のヤマト=西崎氏に対して言われる批判の代表的なものだが、「新たなる〜」は多くのファンに涙を流させた「最初の完結編」である「さらば〜」の直後に制作され、しかもヤマト神話における聖性の象徴のような(まさに、いつも民草を見ている「おてんとうさま」のような)イスカンダルを自爆させてしまったことで、オールドファンの多くに評判の悪い作品だ(加えて、急作りの影響で、作画もシリーズ最低レベル)。

けれど、無機的で巨大な影(暗黒星団帝国)に対し、半ば故郷に殉ずるように絶望的な戦いを続け、最後にはスターシャの盾になろうとするデスラーと、最後まで星の運命を受け入れ、利害と保身を合理化することなく、決然と滅びを選ぶイスカンダルを前に、ほとんど何もせず見送るだけの「既に豊かさに身を浸した日本のような」ヤマト、というコントラストは、子供心に強烈に突き刺さった。かつてヤマトが体現していたものの最期をデスラーイスカンダルが引き受け、ヤマトは既に傍観者でしかなくなっていることが、ここでは露になっていた。あのダイヤモンド島に目が眩み、地球を捨ててイスカンダルで生き延びようとした藪機関士に感じたバツの悪さが、何倍にも強調されて再び突きつけられた気がした。

そして復活篇。僕は未見なのだが、初号試写の段階ではラストが2パターンあり、公開版で採用されなかったバージョンは、ブラックホールに呑まれる地球を後に人類が脱出していく、まさに『日本沈没』そのものだったらしい。

西崎氏もヤマトファン達も、結局この過激な展開に耐えられず、芋を引いてしまったようだけれど、日本人的な感傷自己犠牲も、ここまで突き詰められていたとしたら、もはや無自覚な惰性ではなく、その根本的な前提ごと露になって、現在においても強力なインパクトを持つ可能性はあったと思う。パート1や「新たなる旅立ち」のような、一つの神話に成り得たかもしれない。

日本沈没』において、民衆の脱出に尽力する右翼黒幕が、最後にポツリと呟く「このまま、何もせんほうがいい。1億1千万の人間が、このまま日本列島とともに海に沈んでしまうのが、一番ええことじゃとな…」の一言の、強力な説得力が今も色あせないように。

気候や風土、そこから不可分な暮らし方とメンタリティといった、母なるものへの愛着。記憶。

それを失うとはどういうことか。日本人とは何か。何を守ることが日本人であることなのか。あるいは、それを捨てた時、自分たちは何をアイデンティティとするのか。そもそも、捨て去ることなどできるのか。捨てるとはどういうことなのか。

故郷とは、失った時、失いつつある時にはじめて、本当に強く意識されるものなのかもしれない。

僕たちの無自覚なナショナリティと、上げ底の自立への過信とを同時に浮かび上がらせ、憧れやお題目ではない「近代」の入り口と、本当の意味で向き合わせてくれたかもしれない。


少し妄想が過ぎた。

最後に、かつてヤマトがこれだけの支持を獲得したことを、ただの迷妄としか感じられずにいる若い人たち、或いは何故自分が夢中になっていたのかを分からなくなっている同世代以上の人々に、テレビシリーズパート1における(劇場版では割合されてしまった)以下のエピソードを、是非見て欲しいと思う。勘のいい人ならばきっと、当時ヤマトが強く支持された理由と、現在見返すことの意味とを感じ取ってくれると信じたい。


第10話 地球との最後の通信に湧く乗組員たちの中、一人何も映っていない画面を見つめる天涯孤独古代

http://www.youtube.com/watch?v=tt2zRbpOOoE&feature=PlayList&p=7AF2E23C00DCE25E&index=27

第13話 遊星爆弾の直撃で死んだ、古代の両親の回想。「この風景が、ずっとこのままだと良いですね」

http://www.youtube.com/watch?v=NoEjf9vL4QU&feature=PlayList&p=7AF2E23C00DCE25E&index=36

第14話 宇宙超自然によって、3週間の足止めを食うヤマト。娯楽室の風景

http://www.youtube.com/watch?v=P2901UoRHxk&feature=PlayList&p=7AF2E23C00DCE25E&index=39

第19話 ガミラスによって意図的に地球との通信が回復し、両親の窮状を見て混乱する相原

http://www.youtube.com/watch?v=tp5xTD5Z2xM&feature=PlayList&p=7AF2E23C00DCE25E&index=54

第22話 故郷と遥かに離れた空間での戦闘と、宇宙葬

http://www.youtube.com/watch?v=ajhlyhIotE8&feature=PlayList&p=7AF2E23C00DCE25E&index=63

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宇宙戦艦ヤマト DVD MEMORIAL BOX

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EMOTION the Best 宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち [DVD]

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日本沈没 [DVD]

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ちなみに、ヤマトが放送された74年10月〜75年3月というのは、『傷だらけの天使』や『寺内貫太郎一家』とそのまま重なる。

自分の原風景に食い込む映画テレビ番組は、何故かこの年と79年に極端に集中していて、ちょっと運命のようなものを感じなくもない。

映画ゼロ年代ベストテン 映画ゼロ年代ベストテンを含むブックマーク

「男の魂に火をつけろ!」さんの企画。

うっかり〆切り忘れてて、危うくやり過ごすところだったが、乗らせていただきます

http://d.hatena.ne.jp/washburn1975/20091108

取るものも取り敢えず、咄嗟に思いつくままに。

1.ロッキー・ザ・ファイナル

これはもう、付き合ってきた年月の積み重ねがあるから仕方ない。ともかく、きっちり傑作で幕引きできた奇跡に感激。

2.グラン・トリノ

まさに自分が今観たかった映画を、最良の形で見せて貰った感じ。

3.パッチギ!

時間をおく程、雑音が消えて好きになる一作。

4.シティ・オブ・ゴッド

リトル・ゼ(育ちの悪さゆえの陰惨さ)と、ベネ(遊び好きなイイヤツ)の対比に涙。

5.サマーウォーズ

藤純子の栄おばあちゃんにつきます。

6.愛しのローズマリー

ファレリー兄弟映画がつく嘘は、いつもサナトリウムのように儚くて優しい。

7.ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

ジェンダーだの、マイノリティー云々を超えて、一個の人間の持つ厄介で本質的な欲望と孤独の賛歌。

8.あの頃ペニーレイン

レスターバンクスに涙。

9.3時10分、決断のとき

洋の東西を問わず、実を感じる浪花節映画は、男の人生の友。

10.実録連合赤軍 あさま山荘への道程

「勇気がなかったんだ」に疑問はあるけれど、ともかくこれだけ微妙でしんどい題材を、冷静と緊張を持続して撮りきった根性に一票。

しかし、何でもいいが「ゼロ年代」って呼称、かつてのXジェネレーションだの、最近のロスジェネだのと同種のダサさが我慢ならんというか、背後の意図の臭みが付きまとって閉口。数年後確実に恥ずかしくなる単語だから、安易に使わないのが吉だと思うぞ。

washburn1975washburn1975 2009/12/24 23:26 ご参加ありがとうございました。集計作業も終わりに近づいております。発表まで今しばらくお待ちください!