新雑誌『For Everyman/フォーエブリマン』創刊


新雑誌『For Everyman/フォーエブリマン』、ついに創刊の運びとなりました。
創刊号は、旧作日本映画を紹介する特集が並びましたが、読書、映画、音楽観賞といった営みを、僕たちひとりひとりが生きることと切り離さず、その一部として考え、語る、総合誌的なものを目指していきたいと思います。
「僕たちの暮らしそのものについても、同じ温度でざっくばらんに取り上げ、考える」 、「意識するのが辛いこと、言いにくいこと=切実なことほど、なるべく逃げず、恥ずかしがらずにゆっくり考える」、「難しいことは易しく、易しいことは面白く」、といったことを心がけながら、むしろ表面的にはブレつつ試行錯誤していくつもりです。
以後、お見知りおきを。よろしくお願いいたします。

For Everyman/フォーエブリマン vol.1


特集1 「いま、木下恵介が復活する」山田太一×原恵一 4万字超ロング対談 
「日本の社会はある時期から、木下作品を自然に受け止めることができにくい世界に入ってしまったのではないでしょうか。しかし、人間の弱さ、その弱さが持つ美しさ、運命や宿命への畏怖、社会の理不尽に対する怒り、そうしたものに対していつまでも日本人が無関心でいられるはずがありません。ある時、木下作品の一作一作がみるみる燦然と輝きはじめ、今まで目を向けてこなかったことを多くの人がいぶかしむような時代がきっとまた来るように思います」山田太一『弔辞』より
震災を経験し、バラバラな個人が貧困の影に怯えるいま、「近代個人の淋しさを人々に味あわせるに忍びない感受性を持ちつつ、自身はその孤独を敢えて引き受けて明晰な個人であろうとした」通俗を恐れない巨匠が、最良の後継者お二人の語りの中に蘇る。


特集2 大映「悪名」「犬」シリーズ再見&藤本義一ロングインタビュー 
「現実を安易に楽観せず、だからこそ否定面を大げさに嘆くほど呑気でもない」「苦しみ、哀しみを受け止めながら剥き出しにしすぎない、隣人への節度と労り」娯楽映画の安定感について。
今東光勝新太郎田宮二郎、そしてアルチザン魂を語る。(取材・構成 奈落一騎)他


未公開シナリオ『六連発愚連隊』全掲載&追悼高田純 
仁義なき戦い』と『ガキ帝国』を、結ぶミッシングリンク
「人や社会の汚れを認めず、否定すればするほど、極道は減ったかわりに、カタギ外道が増えてはいませんか?」
ピラニア軍団松田優作泉谷しげるらの熱き連帯。そして、笠原和夫の「100箇所の付箋」。


●『本と怠け者』&『For Everyman』ダブル刊行記念 荻原魚雷×河田拓也「高円寺文壇 再結成対談」
「誰もが明るく生きられるわけじゃないし、苦しく考えながら生きざるを得ない人生もある。地味な文学者たちに、そんな勇気と居直りを貰った」
下積み経験と、文学遍歴を語り合う。


書評 
山田太一空也上人がいた』  河田拓也
竹中労『聞書 庶民列伝 上』  佐藤賢
古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』 渡辺真吾
『脚本家白坂依志夫の世界』 松本るきつら
高野真之BLOOD ALONE』 たかやまひろふみ


エッセイ
追悼 出崎統  松本るきつら
「祭ばやしが聞こえない 〜関東甲信越小さな旅打ち〜」  天野剛志


『For Everyman』発刊の言葉に替えて
ジャクソン・ブラウン&デヴィッド・リンドレー『LOVE IS STRANGE』について 河田拓也


表紙イラスト TAIZAN
http://www.facebook.com/pages/%E6%B3%B0%E5%B1%B1TAIZAN/154855114587879
写真 藤井豊(岩手県普代村堤防 4月撮影)
A5版 240ページ 1000円(税込)

新雑誌『For Everyman/フォーエブリマン』創刊

※新しい日記はこのエントリの下からになります。


●『For Everyman/フォーエブリマン』公式blog開設いたしました。http://d.hatena.ne.jp/foreveryman/ 
こちらでの通販も間もなく開始します。ブックマーク等、よろしくお願い致します。


●創刊のご挨拶。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20111023


取り扱い店一覧はこちら
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20111103#p2

出来ることを見極めて力を尽くす

自分抱えているの不幸に対して周囲があまりに無関心だと、孤独感が高じて虚無的になりがちだけれど、やはりそれでも、誰より誰がより不幸かというのは最終的には主観の問題ということになる。自分より不幸な人に対する配慮というのは、だからごく大切なことだけれど、何が何より不幸かを主張し合う方向は最後は泥仕合にしか繋がらない。
重要なのは、何が自分を不幸にしているのかを静かに見つめて、その条件が動かし難しいことであれば運命として甘受して、深く諦める努力をすること。しかしその上で、自分の叶えたい望み、努力やはたらきかけによって実現可能な(可能性のある)望みは何かを見極めて、そこに力を尽くしたり、これをよすがに他者と提携したり、共感を育んでいくことだと思う。

福田恆存「「妻の座」という言葉を捨てよ」について

「私は男女・夫妻の平等に反対してゐるのではない。女性の解放は女性が目醒める事によつて可能になるといふのは浅薄な知見であつて、それにはまづ男性が目醒め、納得してくれなければ、どうにもならぬのである。男女・夫婦の間柄は労使の対立とは異なつて、片方が目醒めただけでは、お互ひに不幸になるばかりと決まつてゐる」「男はただ時の勢ひで頭を下げた。自分の相手の花子とか梅子に対してではない、一般に「女なるもの」といふ抽象名詞に頭を下げたのである。いや、女に対してでもない、単に平等といふ観念に頭を下げただけである」「大事なのは男と女ではない、夫と妻ではない、家庭である。家庭の原理は封建時代も近代もない、常に「仲好くやつて行かう」の一語に尽きる。嬶天下の方がその原理に適ふ場合もあり、亭主関白の方が適ふ場合もある。一概には言へない。が、夢、平等を原理とすべからず、和を原理とすべし」
福田恆存「「妻の座」という言葉を捨てよ」

これは、男女のことに限らない話と思う。たとえば一緒に家庭を営んでいくとか、具体的な目標に向けて落としどころを意識しないと、その為の現実的な工夫や妥協点も見えて来ない。人はそれぞれ、主張する力も、理解力や許容量もそれぞれなのだから、何をもって本当の平等かと考えると雲を掴むような話になる。
表面的に和を維持するために、一方が(誰かが)ひたすら我慢していたら健康な関係とは言えないが、そうならないよう配慮するとしても、我慢や配慮の量が本当に等分になることはまず不可能だし、だとしたらある程度はそういうものと諦めることも必要になる。どんな人間関係、集団、社会にしろ、完全な解決はないと自覚して、程度への感性の問題だと意識しながらやっていくより無いのだと思う。

読書は一生がかり

通院の待ち時間に、芥川龍之介『舞踏会』を読む。帰りに、いつも竹の子生活でお世話になりっぱなしの音羽館で、岩波文庫チェーホフ3冊と、ガスカール『種子』。何だか学生時代に戻ったような読書だが、楽しい。

しかし、学生時代は殆どの本を、何もわからないまま無理矢理読んでいたんだなと痛感する。わかるための条件が自分の中に熟していなかったというか。正直、今読むのが丁度いい感じだ。

若い頃の悩みや、心の中にある問いが今に比べて浅いものだったということでは無く、それをどこにどう位置付けるかの見取り図や引き出しが整っていなかったということ。知識や経験が積み重なっている分、今の方が生きるのはずっと楽だ。考えを位置付け納得する言葉を持っているというのは、強いことだ。
ある程度の土台が出来てくると、わかっていないことが何かもわかってくるし、わからないなりにそれなりに自分を支えてもいける。
反語に反語を積み重ねて人生に教わる部分も多いことだから、急いでも仕方がないのだけれど。

石田衣良編『危険なマッチ箱』(文春文庫)

彼の著書を読んだことが無く、たまたま見つけたまったく未知のアンソロジーだけれど、意外にも(失礼!)面白いセレクト(乱歩や星新一のような大メジャーから、俳人の西東三鬼まで)。編者のコメントも率直で良かった。「アフォリズムはいかにシャープでも、なかなか人生の奥底には届かないものだ。そうとわかっていても、ぼくは表面の切れ味や華やかな機智が好きだ」「人間はとかく飽きる生きものだ。そこで人生や世の中の実感派として、井伏鱒ニや山本周五郎色川武大が登場してくる。(…)自分では到底書けない世界とあきらめているけれど、やはり作品は素晴らしい」

泉麻人編『おすもうさんのおしり』(福武文庫)

相撲についての小文アンソロジー。趣味的に固め過ぎていない、緩くて自由で、けれど一編一編が粒立っている好アンソロジーだった。しかし、フラットであることがお洒落だった時代らしい、ストレートに柔らかさを主張するタイトルだけで、ズシンと手応えのある信頼できるもの(本に限らず)を求めていた若い頃の自分だったら、手が伸びなかったと思う。それ以前に、野球とか相撲とか、世の中の人たちが全員関心があって当然とされているものが、子供の頃から苦手だった。斜に構えて恰好つけているわけではなく、本当に、息が詰まるように苦手だったのだ。何より、家の者が野球や大相撲の中継を見ていると、自分が何よりも楽しみにしている…というよりもほとんどしがみつくように見ていたアニメ(5~6時は再放送、7~8時は新作の放送時間帯だった)が見られなくなることに腹を立てていた。
しかし、テレビ視聴が人々の共有体験たり得にくい世の中になってみると、そんな自分のような者さえ、前のめりになって意識的に選ばなくても、何となくみんなを緩く繋いでくれるものの在り方を、何だかおおらかに感じて懐かしいような気もしてくる。歌謡曲が広い世代から愛されるのも、同様の理由があるのではないか。
「ともあれ誰が日本という国のボスなのか、わからなくなった時代に、国民的スターが相撲の世界に君臨し、ああやっぱり相撲は日本の国技なのだーなんとなく妙にホッとした気分になっている平成四年の秋である」。こう書く編者は、この頃そうした気分をすでに感じはじめていたのかもしれない。
とはいえ、そうした飢えが高じて、人々が一体感を本気で(ヒステリックに、押し付けがましく)求め始めると、自分は途端にまたアレルギーの方が出てしまうのだが。盛り場は、ちょっと寂れているくらいの方が懐かしく、肌に合うのだと思う。

「上京以来、僕は、疲れた同世代ばかりを見てきた。全共闘で疲れた人、麻薬をやり過ぎて、また麻薬に高望みし過ぎて疲れた人々、同棲と痴話ゲンカで疲れた男と女、みんなが疲れて休みたがり、刺激のない歌や文学が氾濫していたのだ。うんざりだった。
そんな中北の湖は、まさしく光り輝いていた。巨体と抜群の反射神経を使っての取り口は、甘ったるくなく、何となく僕の中に滓のように残っていた敗北感を一掃してくれたのである。あの強烈なかち上げで先輩力士達を吹っとばすたびに、僕は、そうだ俺だってあいつらを吹っとばすことができる、と思えたのである。敗戦の後のフジヤマのトビウオみたいなものだった」
村上龍「僕のミーハー的北の湖恋歌」