18歳のおとよちゃんは当時、東京のお金持ちのお屋敷で住み込みの女中をしていたという。
夏の間は鎌倉の別荘で過ごすのが主家の通例で、おとよちゃんもついてきていた。夏も終わりかけていたその日も、まだ別荘に残る主家の人がいたので、おとよちゃんも別荘に残っていたという。
その日の朝、近くの海岸に「心中者」が打ち上げられたと言う。
この世で添えない男女が来世を誓ってお互いの身体を結びつけて海に身を投じ、その遺骸が海岸に流れ着いたのだ。警察による処理作業を、おとよちゃんは同僚と見物に行った。
「すごいね」などと言いながら別荘に帰った。庭で鶏の世話などしながら、常駐の爺やさんから「この辺の海岸には大きなものは打ち上がんねえはずなんだが、潮の流れが変わったかなぁ」なんて話を聞いていたら「それ」がきたという。
地鳴りとともにドカンと揺れたらもう立っていられない、咄嗟に近くにあった井戸のふちに必死でしがみついた。
揺れはおさまらない。
母屋の柱に掴まった女中頭がこちらに向かって大きな声で何か叫んでいるのはわかるのだけれど聞こえない。おとよちゃんは必死に井戸のふちにしがみついていた。
突然、声が聞こえた。
「おとよちゃ〜〜ん、そこに掴まっちゃ危ないよ--!!」
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女中頭の声だった。ふと我に返ると、高さ三尺あった井戸のふちは、地震で地中に沈み半分の高さになっていた。
あわてて手を離して井戸から離れた。あやうく井戸に落ちるところだったのだ。
ああ、命拾いした。女中頭さんありがとう、などと言っているところに、地震後の高波の余波が海岸からだいぶ離れた別荘にもやってきて、庭で恐慌していた鶏たちを根こそぎさらっていった。
鎌倉での被害は井戸のふちと鶏くらいだったが、東京の屋敷の被害は甚大で、しばらくは主家ともども逗子で過ごすことになった。
茨城の実家で東京にいるおとよちゃんのことを心配した人がいた。兄の茂三さんだ。
取るものも取りあえず茨城から満員の汽車に乗って上京し、東京のお屋敷を探すが、街は壊滅している。必死で探したがわからない。一度来たっきりで東京の地理には明るくない。
ようやく尋ねあてた妹の主家は灰燼と化していた。多くの死者を出した被服廠にも近い。
「妹は死んだ」
と思った茂三さんは、泣きながら帰郷したという。
そして数日後には、当然ながら「涙の再会」という後日談がある。
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大正12年9月1日の出来事。
「住み込み女中のおとよちゃん」こと、亡き祖母とは最後の最後まで折り合いの悪かった僕だが、昔の話を聞くのは好きだったので、震災の話や戦争の話はずいぶん聞いて、僕の中に良くも悪くも堆積しているのだ。
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