エロゲにおける恋愛と人生の絡み

 昨日書いた寝取られ話を引き続き考えてみる。
 考察 寝取られ (「独り言以外の何か」さん)

 しかし、寝取られの難しいところって、物語の到達点の置き場所だと思うんですよね。
 (中略)
 エロゲの興味深さの大きな要素として、恋愛を語っているフリをしながら人生や生命の意義レベルにまで目的を拡大するというのがありまして――寝取られではそれが難しいんじゃないかと思ったりもします。

 エロゲーである以上、主人公はエロによって救われなければならない……のかも。絶対に到達できるものでありながら、崇高なものとして配置されるセックス。だから、「寝取られる」とは、主人公から「主人公としての資格」を取り上げられてしまうことに等しいのかもしれない。というか凌辱とか鬼畜とか通り越して、ある意味エロゲーと最も矛盾した、相容れない筈の概念なのかも。性からの脱却と生きる意味の強く結びついた青春物語といえば、西澤保彦の『依存』を思い出しますが、まぁアレも寝取られではないし(つーかエロゲじゃないし)。
 今ここでふと思ったんだけど、(前にも書いたように)エロゲーにおいて物語るのは(大抵の場合)主人公♂なわけだけど、物語の根幹にいて、テーマそのものを担うのはヒロイン側である場合が多い。そんで大抵の場合、ヒロイン側にも主人公に救われる理由があるんだよね。ここでもし、(主人公がヒロインに救われる状況で)ヒロインが主人公に救われる理由がない物語があったとしたら、その物語において彼らはセックスを出来るのだろうか。そして、「寝取られ」的な状況を迎えずにすむのだろうか。
 なんだかよくわからなくなってきた。迷走。ただ、寝取られがエロゲー界隈で非難される理由には、(まぁ処女厨がどうのこうのと言う話もあるんだろうけど)、寝取られるには、物語のテーマや、物語内における「主人公が享受する救済」と同じくらいの理由を用意しなきゃならないからってのはある気がするな。
 俺は寝取られはあんまし好きじゃないです。でも好きです。って言うか、寝取られる男の心情にはあんまり興奮しなくて、ヒロイン側の心情に寄り添いたいタイプなので。でもビッチはイヤだという。難しいな(笑)。