basoraketの日記

2011-11-09

澤瀉久敬『「自分で考える」ということ』

13:33

(※1)



 写真がないので自分でうつしてみました。汚い写真でごめんなさい。
 
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 自分で考えるという言葉はよく聞く。でも自分で考えるというのはどういうことかとなるとよく分からない。それって本当に自分で考えたのだろうか、誰かから言われたことをそのまま鵜呑みにして自分の考えにしてしまったんじゃないのか、とか思ったりする。

 同類の本はたくさんあるけど、本書は、全ページ143ページ(あとがき除けば139ページ)で1、2日で読める。
 いくつかの出版社から出ているけど、自分が読んだのは角川文庫版。

 短い本は前に書いてあったことを忘れないから私のようなものでも読みやすい。「自分で考えるということ」について、自分自身は考えが整理される感じで、とても勉強になった。

・・・

 澤瀉久敬『「自分で考える」ということ』は昭和38年、西暦1963年4月4日に発行された。ケネディ大統領が殺害された年。その前年にはキューバ危機があった。翌64年には東京オリンピックが開かれた。私が生まれたのは発行から17年後。
 内容として含まれる講演「理性の窓をあけよう」は1960年、「ほんとうの文明」はその数年前のものだそうだ。
 しかし、世界が冷戦で緊張し、日本が新しい出来事を迎えようとしている、そういう時に発行され、読まれたということに着目したい。もっともいつだって世界はそうなのかもしれないが。(追記、この記述は大失敗があり、歴史の認識に説明を書きました)。

 澤瀉久敬(おもだかひさゆき)さん(※2)は1904年生まれで、京大文学部を卒業、医学博士哲学について著書を書かれた。本書が刊行されたとき58歳になるのか。1995年に亡くなられた。ベルクソンの研究で著名と言っていいと思う。

 ついでながら、南山大学の教授を務めていたこともあった。だからそのせいか、この本には名古屋城とか愛知用水だとか愛知県生まれの人にはなじみある言葉が出てくる。
(あとがき読み返したら、「読書について」という一章が愛知県で行われたものらしいから、そのせいかなと思い直した)。


・・・

 この本は、日本における「理性の欠如」を問題とした本である。
 著者の主張は「理性なくしては、民主主義はない」という点にも広がり、ただ個人の問題だけにとどまらない。


 澤瀉さんは、まず、人間は一人ひとり違っており、ある意味で不平等である事実に着目する。 
 これに対し、デカルトの『方法序説』を引用し、「良識というものは、すべての人が同じようにもっているものである」と述べる。(「良識」という点で先のダライ・ラマ会見を連想された方も少なくないと思う。)

 すなわち、人間にあって平等なものは理性をもっているということであり、そこからこそ哲学は始められるものである。そして、万人平等の礎石の上にでなければ万人の幸福は求められず、また、求めるべきではない。理性なくしては、民主主義はない、と言う。
 一人の人間として尊敬に値するのは、天賦の才や生まれつき恵まれていることによるのではなく、「単に、純粋に、人間であることにおいて、優れていることでなければならない」。だからこそ、理性に従って行動するべき人こそ尊敬するべきなのだ。
 権威ではなく、正しいものが秀れているものでなければならない、事柄が好き嫌いで決められてはならぬ、という。
 
 では「理性」とは一体なんなのだ?説明してもらおうじゃないか。

 …人の声を聴くとは、他人の言うなりになるということではない。多くの人々がそう判断するから自分もそれに従うというのは、理性的ということではない。どこまでも「自分で考える」ということがなければ、その人は理性人とはいえない。
 いったい常識とは世間一般が承認している知識であるが、良識とは各人がどこまでも自分自身で行う判断である。常識は受動的であり、動物的である。良識は、しかし、能動的であり、人間的である。というのは、自分の力でものごとを判断する者のみが、真の人間であるからである。理性的であるとは、批判的精神をどこまでも堅持することである。子供のように他人に手を引いてもらって歩くのではなく、自分の足であるかねばならぬ。理性人として生きるのは、闇の中を一人で歩くようなものである。…(略)
…外からは光が与えられていない。自ら灯をともさねばならぬ。自分自身のうちに、自分を導く光はないだろうか?ある!それが理性という光である。そうして、この理性の光はすべての人に平等に与えられている。


 だが疑問に思うだろう。誰にでも理性がある…だと。じゃあなぜbasoraketのような馬鹿者が存在するのだ、と。basoraketのような馬鹿者は理性がないので、人間としての価値はないだろう、と。

否、そうではない。すべての人間は理性をもっている。不合理なことや間違いの起こるのは、理性がないからではなく、理性をもちながら、その理性を正しく扱うことを知らないから起こるのである。


 なるほどね。
 「理性を正しく導く方法」が問題なのだという。
 理性をもつとは方法を持つということと述べられる。

 じゃあ、その理性を正しく導く方法とはどんなだ?

 澤瀉さんは、まず、デカルトを紹介して、問題なり事柄なりを細かく分けねばならぬという。「問題を要素に分析するということ」が大事だと。

 そしてこれだけではない。「分けられた要素を、次に、一つ一つ、徐々に、段々と、積み重ねてゆくことが必要である。」という。
 そしてこの方法の根底にあるのは、単純なものから複雑なものへ進むということ、あるいは更につきつめて言えば、単純なものから出発するということである、という。一つの単語の意味さえ分からないのに、どうしてゲーテシェイクスピアの文章を正確に理解し、正しく味わうことができるというのか、というのだ。ふむ。

 しかし焦ってはならない。「正義と真理を愛するすべてのものが、がっちりと腕を組み、憤りの炎を内に燃やしつつ、あくまでも冷静に、一歩一歩と確実な歩調で前進するのが合理主義というものである」。「理性は飛躍をゆるさない。」ともいう。

 そして人間は間違えることもあるから、

 分析と総合のほかに、絶えず自分を省みるということが必要なのである。できるかぎり用心深く自分の周囲の万事に気をくばり、自分の行った分析と綜合そのものを繰り返して検討することが必要なのである。理性的に行動しようとする者は、常に自己反省をしなければならない。



 という。
 論語にも出てきたような話だね。

 曾子の曰く、吾れ日に三たび吾が身を省る。人の為めに謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて、信ならざるか、習わざるを伝うるか。
(巻第一 学而第一『論語』金谷治訳注岩波文庫22ページ)
 



 まとめてこう述べている。

 理性とは、ものごとを正しく判断する能力である。真と偽を区別する力である。一言にして言えば、是非を判別するのが理性である。ところが、理性はただ考えるだけでは、対象について正しい判断は下せない。対象そのものをまず正しく知らねばならぬ。けれども感覚はしばしば私たちをあやまらせる。感覚を研ぎすまさなければならぬ。感覚を鋭くするとは、むしろ感覚を柔軟にすることである。繊細にすることである。芸術家のように対象をありのままとらえ、事象のニュアンスを感得することである。それこそグッド・センスであり、ボン・サンス(良い感覚=良識)である。デカルトが良識と理性を一つのものとするのはこのためである。
 
 (略)

 ほんとうの合理主義とは抽象的な概念の遊戯ではなく、現実に即応する具体的理論である。



 その結果として、こういうことになる。

 一つの立場やイズムで割り切るのは死んだ理性であって、生きた良識ではない。…合理主義の難しさは、単純な形式主義で問題を解決せず、複雑な現実を直視し、他人を裁くよりも自分を批判し、必要な場合には自分自身を改めねばならぬ点にある。


という。

しかし、極端を喜ぶということではなく、中庸が大事だと。

中庸とは、対峙する二つの理論や立場の中間の平坦な盆地に自分を安らわせることではなく、いかなる抽象的概念的な極端論にも与せず、ひたすら真実を求めて、自ら正道を切り開くことなのである。


 なんか仏教みたいだな。

 でもさ。ギリシャみたいな哲学やってた国も経済破綻してみんなに迷惑かけてるみんな大変なことになっているよ。アメリカなんて戦争ばっかりだぜ、とか思う。合理主義自体がおかしいんじゃないのかね。そうとも思える。

 「合理主義を乗り越えるためには、合理主義を身に着けることが必要である。身に着けぬものをどうして脱ぎ捨てることができようか!」という。

 ところどころ口調が非常に厳しい。

 頭の中だけの解決や、無地安易な生活態度ではなく、汗にまみれ自分に鞭打つ果てしない努力である。それは自分の身体さえ焼き尽くす燃えるような不退転の精神力なくしては不可能な厳しさをもつ。



 私なんぞ聞いているだけで逃げ出したくなる。わはは。

 これが「理性の窓をあけよう」で述べられていること。
 これを深める形で「思想の英雄・デカルト」という章が続く。

 これは第一章だけど、著者がデカルトを重視するのはよく分かる。

 デカルトにとっては過去の学問は問題ではなく、学者たちのもっともらしい議論さえ無用である。しかめつらしい顔をした学者たちが、象牙の塔の、窓の小さい暗い室で、更にその窓や扉まで閉め切って、学者だけにしか通用しない言葉を使って、はてしない抽象的な議論を闘わせている。そこへデカルトは身軽につかつかとはいってくる。そして、さっと窓を開け放つ。外の大気が薫風を運んでくる。「これでいい。さあ、こうして皆で話し合おう!」とデカルトは言うのである。もちろん、それは万人の持つ理性によって問題を解決しようとするのである。


 そのあと、視点を広めて「ほんとうの文明」、さらにその中の個人に着目し「個性というもの」、最後に実践的な意味も込められたものだと思うけど「読書について」が述べられる。
 「ほんとうの文明」については今日の原発問題などを考えることにも通じるものがある。
 「個性というもの」は、歴史などにも通じる話で興味深い。
 「読書について」は、前に紹介した「本を読む本」に通じるものがあると思う。

 


 少し古いと感じる見解もあって、そのあたりは批判もあると思う。

 しかし、今日社会を見る見方にも十分勉強になるところがある、と思った。



 ※2 本当は「先生」を付けた方がいいかもしれないが、当サイトは「さん」で統一すると一応宣言したので、それで突き通す。呼び捨てのサイトもあるので、許していただきたいです。

追記
 途中論語について書き下し文を紹介しましたが、金谷治訳注のものと異なっていたので修正しました。
 その他、誤記を修正しました。

追記2
別の方の感想で、共感できました。

古本屋の覚え書き
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/19990803/p1

追記3
著者の振り仮名が間違っていましたので修正しました。恥ずかしいです。
「ひさたか」ではなく「ひさゆき」でした。

 あと論語を引いた前の本文引用の中に写し間違いがあり、「万全」ではなく「万事」でした。



追記4
冒頭(※1)にしょうもないギャグがあったのですが、後日読み返したらあまりのくだらなさにへこんだので、削除しました。

sessendosessendo 2011/11/09 15:30 リンクしていただき感謝に堪えません。尚、著者の名前は「おもだか・ひさゆき」です。

basoraketbasoraket 2011/11/09 15:58  sessendoさん、はじめまして。コメントありがとうございます。
 著者の名前を間違っていた件、非常に恥ずかしいです。
 不勉強ですが、何卒よろしくお願いします。
 ありがとうございました。