原発について考える。

311以来、基本的に、この問題については何も考えて来ませんでした。
2011年の3月11日から一週間ほどは、家に篭り、ネットと睨めっこ。
4月の末に福島にいくまで、いろいろ考えるだけでした。
2012年になり、反原発でもが官邸前で行われ、見に行きました。留保付きのフィールドワークつもりが、最後は叫んでいました。
311に関わるアートの表現、言葉の表現にも敏感に摂取しようとしました。
これだけです。
なにかやったことといえば。
ブログでは、ひとまず記事を立てて、思うことがあれば書き、修正をし、言葉を置き換え、自分が何を考えているのか、明確にしていこうと思います。

今日、思ったこと。
東電の人たちは、本当に大変だ。つらそうだ。それが、とても、辛い、ということ。


あと、昨日第一原発の冷却装置が停止して、発表が3時間遅れたというニュースが問題になっている。
これが問題になる意味が、僕には分からないんです。
なにか、原発について新しい出来事があれば、できるだ早く必要な対処をすべきだ。これは分かりますし、そうして欲しいです。
ただ、冷却装置の停止について気づいてから30分以内に、国や福島県に連絡はいってるんです。
自分の認識が間違っていなければ、3時間経ってようやく国民に報道されたということ(厳密にいえば報道に辿り着くために報道各社に知らせがいったということ?)。これは、そんなに遅いのですかね?俺は、普通だと思います。

原発に対しては、それについて費やされた言葉と映像のあまりの多さに正直言葉は悪いですが、辟易しています。
なかば無意識に思考は放棄してますし、津田さんのメルマガを取っているけど、原発関連の文章は無視しちゃってます。

かといって、10年後とかに、フクシマを忘れない、とか言って、周りの人となんかやるのも、俺がやるのに関しては、気持ちがわるそうです。
だって、いまこんなにも適当な態度なんだもん。

こうやって311にまつわること(地震原発、そこからの莫大な派生物)を文章にする時、本当に書く気が起きない。上の文章で、変換や誤字をなおすのがいやになるほど、今回の問題と、「美しい文字・美しい文章」には齟齬がある。


美しいキュレーション、美しい気持ちの安定、
それらをかき乱すもの、よって、(俺がいますごくすごく)近づきたくないもの
それがこの問題です。

少し気をつけて書きました。原発についても歴史、起こっていること、まつわる派生のもろもろについて、修正しつつ、このページにまとめていきます。


ひとまず言いたかったのは、
東電の人が暗い顔で・・本当に辛い。人生楽しめてるのかな。自殺したいとか思ってないかな・・・・・

あと、何が問題でなにがそれほど問題ではないか、みきわめたいということ。

そういうことをいまは考えています。

あと、amazonの倉庫とその流通をみたあとで、こういうことを書くんですが、
原子力発電所内における、美的造形。
ここについても、俺は考えたい。
ある種の効率と、安全の最適化がいかにしてはかられているか。それを明らかにすること。


3月21日 追記
近くの人が声をあがられるようにすること。
これが一番大事だと考える。
以前、建築系の話し合いに参加することがあった。
10日間ほどかけて、ある場所の改善案をまとめていくもの。
その土地は、自分とは何もこれまで関係を持たなかった場所なので、最初の2日ほどで歴史を調べて、3日ほど街を探検し調査を重ね、昨今の街の活性化の議論を鑑みながら最終的に案を策定した。
しかし、最終プレゼン(一度は街の人が、二度目は外部の建築家が評定する)になって、街の人からは異論が噴出した。
まず、街について何も分かっていないじゃないかという指摘。つまり、認識の甘さ。そして、案についての指摘。こちらの比重は弱い。
外部から来てたかだか短い期間に街を熟知することは不可能だ。
そして、その不可能な熟知をもし街の住人が求めるならそれは不毛だ。
できないことなのだから。もちろん、外部から来たものは全力で知ろうとするだろう。でも土台無理な話なのである。
では、どうするか。
それは、「熟知している人が使える知識にかえてあげること」だ。
ここでいう「熟知」を会得するには、実際にその土地に住んでみることが必要と考える。
だが、それは無理だ。ニューヨークに住めば熱海のことは熟知できない。だから、熟知している人が、熟知していない人を、中途半端に熟知させてあげること、これが重要だ。熟知させられる側は、中途半端に熟知しているとの熟知もしてね。あ、これは言ってみたかっただけね。

これがなぜ、今回の福島の件に結びつくのか。
やはり、俺はどうしても、福島第一原発のことは、実感として理解できてない。
当地の人とは温度差がある。これは絶対埋められないし、埋めた気になりたくない。絶対に。

テレビで、福島の当地の人と東京から来たタレントがみんなで座を組み話すシーンがあった。
現地で子供を育てている(いた?)主婦がものすごい剣幕で、現地には「人がいる」こと、つまり、ただ原発があるだけではなく、人の存在を忘れてほしくないことを、すごい剣幕でまくしたてていた。
わかるんだ。彼女の気持ちではなく、彼女がそう言いたい意志は、「熟知」できる。ただ・・。
それは、やっぱり今じゃなくて、何も起こる前に、溢れでてしまう前に、きけるようにしないといけないんじゃないかな。

つまりね、ここで上の話とくっつけるよ。
上の話で言いたかったことは、結局のところ、建築家がどうも俺はわかんない、ってことなんです。
これは、坂口恭平さんが言っている議論なんかともちがって、建築家やそれを目指す学生さん(周りにもいる)は、なかなか面白い案を示すのは難しい(この議論で言えば、無理)、示す必要もないんじゃないか、ってことなんです。
当地の人にが憤りを日々発し続けて、例えば行政がそれに仕方なくゆい諾々と従わざるをえない。それでもって、建築とする。
これでいいのではないかと。
「みんなの家」も、俺にはわかんないんですよ。。。。。もうね、どうしてもわかんないの。
意志はわかるんだ。そして、尊いと思うんだ。だけどね、ギャラリー間の展示でみた限りはどうしても、俺には、わかんないよ。。。

福島の件に戻るね。
外部からきた人が論じる前に、土台として、現地の人の噴出がみたい。
カタストロフの前にもあとにも。
それが起こるための基盤の整備が必要なんだとおもう。
でも、無理だともおもう。。。
(1)そのような発露は整備できるものではない。
(2)すでに噴出しているものを汲むだけの想像力に外部の者が欠けている


ううむ。。。。今日はここまでにするよ。
俺は、噴出させる手助けの努力をしたいな。。。
アーティスト志願者がいる。建築家志願者がいる。
それはつまり、、、噴出させる発火のヒモはいたるところに散らばっているわけだ。

あとは、「火」が必要なのと、「ヒモの見方」が必要なんだけど。。そのヒモがなにかっていう、勘違い!!