「キリストにあって成長」

 「わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。」(詩篇16:8)

 さて、なにか自分だけでしなければならないことがあると考えている人がたくさんあります。かれらは、キリストに頼って罪のゆるしを得ていながら、正しい生活を自分の力で送ろうとするのであります。しかしそうした努力はみな失敗に終ります。イエスは「わたしから離れては、あなたは何一つできない」と仰せになります。恵みに成長することも、私どもの喜びも人のために役だつこともみな、キリストと一つになるか否かにかかっています。恵みに成長するのは、毎日、毎時、かれと交わり、かれにあることによります。……
 あなたは、自分を神にささげ、全く神のものとなり、神に仕え、神に従い、キリストをあなたの救い主として受け入れたのです。あなたは自分ではおのれの罪をあがなうことも、心を変えることもできませんでした。しかし神におのれをささげ、神がこれをすべてキリストのゆえになしたもうたと信じたのであります。信仰によってキリストのものとなったのですから、また、信仰によってキリストのうちに成長するのであります。これは、こちらからも与え、また、神からも受けることであります。自分の心も意志も奉仕もすべてを神にささげ、神のご要求にことごとく従わねばなりません。そして、服従する力をうけるには、あらゆる祝福に満ちあふれたもうキリストを心に宿し、キリストをあなたの力、義、また永遠の助けとしてうけなければなりません。〔こうしてあなたは従う力を受けるのであります。(日本語訳脱文)〕
 毎朝、神におのれをささげ、これを最初の務として、次のように祈りましょう。「主よ、しもべを全くあなたのものとしてお受け入れください。私のすべての計画をあなたのみ前におきます。どうか、しもべをきょうもご用のためにお用いください。どうか、私と共にいましたもうて、すべてのことをあなたにあってなさせてください」と。これは毎日のことです。毎朝、その日一日、神に献身して、すべての計画をかれにお任せし、摂理のままに実行するなり、中止するなりするのです。こうして、日ごとに生涯を神のみ手にゆだねるとき、次第にあなたの生涯がキリストの生涯に似てくるのであります。
 キリストにある生涯は、平和な生涯であります。感情の興奮はないかも知れませんが、いつも変らない平和な信頼をもった生活であります。自分に望みがあるのではなく、キリストに望みがあるのです。自分の弱さはキリストの力に、無知はキリストの知恵に、もろさはキリストの持久力と一つになります。すると私どもは自分をながめて自分のことばかりを考えないで、キリストをながめるようになるのであります。キリストの愛を瞑想し、その性格の美しさ、完全さを心にとめて考えましょう。キリストの自己犠牲、キリストのへりくだり、キリストの純潔と聖潔、またその比類なき愛を魂の瞑想課題といたしましょう。キリストを愛し、キリストにならい全くキリストに頼ってこそ、私どもはキリストのみかたちに変えられるのであります。(キリストへの道92〜95)

よろしくお願いいたします。

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Photo by (c)Tomo.Yun http://www.yunphoto.net