「道を示す」

  「あなたの神、主は、われわれの行くべき道と、なすべき事をお示しになるでしょう」(エレミヤ42:3)

 「イエスの美、善、いつくしみ、そして愛を瞑想すると、知的また道徳的な力が強まり、キリストのわざを行い、従順な子となるように心の訓練を続け、次のような問いをするのが習慣となるであろう。『これは主の道だろうか。イエスはわたしがこうするのを喜ばれるだろうか。……
 イエスを喜ばせたければ、多くの者はその思いと行いの傾向を決定的に変える必要がある。神は嘆きという光で罪を見ることがおできになるが、わたしたちはそのように自分の罪を見ることはめったにない。多くの者は罪の道をたどるのが習慣になっており、サタンの力の影響を受け、心はかたくなになっている。……
 だが、サタンの誘惑に対抗して、自分の心を神の力と恵みのうちに置くと、頭脳は明晰になり、神の霊に影響されて心と良心は鋭敏になり、罪がありのままに、恐ろしく罪深く見えてくる。」(SDAバイブル・コメンタリー3巻1150)
 「キリストに服従する行為、キリストのための自己犠牲のすべての行為、耐え抜いたすべての試練、誘惑に対する勝利は、ことごとく、輝く最後の勝利へ前進する一歩である。わたしたちがキリストを導き手とするならば、キリストはわたしたちを安全に導かれる。どんな罪人も道に迷う必要はない。おののきながら求める者で、ひとりとして、純潔な清い光の中を歩むことができないものはない。その道が非常に細く、また罪が黙認されないほど清いものであっても、そこを歩くことはすべての人に保証されているのであって、どんな疑い深くおそれおののく魂も、『神はわたしを顧みてくださらない』と言う必要はない。……
 永遠のいのちに導くこのけわしい道のほとりには、いたる所に、疲れた者を力づける喜びの泉がわき出ている。知恵の道を歩く者は、困難の時にも大きな喜びがある。彼らの魂の愛する主が、目には見えないが彼らのそばを歩まれるからである。一歩高くのぼるごとに、一そうはっきりとイエスのみ手が触れるのを感じる。一歩一歩、見えないおかたから来る一そう輝かしい栄光のきらめきが彼らの道を照らすのである。そして彼らの賛美の歌は、一そう調子を高めて天へのぼり、みくらの前の天使たちの歌とひとつになるのである。『正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。』(箴言4:18)」(祝福の山174,175)

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