「報酬か賜物か」

 「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ6:23)

 「初め、人はすぐれた能力と調和の取れた精神を与えられていました。かれはまた人として完全で神と調和し、思想も純潔で、きよい目的をもっていました。けれども、神に背いたためその能力は悪に向けられ、愛は利己心とかわってしまいました。罪のため人の性質はすっかり弱められて、自分の力では悪の勢力と戦うことができなくなりました。こうして悪魔のとりことなってしまったのでありますから、もし、神が特別に救ってくださらなかったならば、いつまでもそのままの状態でいたことでありましょう。悪魔は、人類を創造したもうた神のご計画を妨害し、この世を悲しみと破壊で満たそうと思いました。そして、こうした災いはみな神が人類を創造したもうた結果であると言おうとしたのであります。」(キリストへの道13)
 「私どもは、生れながら神に遠ざかっています。聖霊は私どもの状態を次のように言っています。「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」(エペソ2:1)「その頭はことごとく病み、その心は全く弱りはてている。足のうらから頭まで完全なところがなく」(イザヤ1:5,6)と。私どもは全く「悪魔に捕えられて」(テモテ第二2:26)かれの思いのままに、しっかりととりこにされているのであります。神は私どもをいやし、解放しようと望んでおいでになります。けれどもこれには全き改革、つまり私どもの性質を全然新しくしなければなりませんから、私どもはおのれを全く神にささげなければなりません。
 自己との戦いは最も大きな戦いであります。自己に打ち勝ち、神のみ心に全く従うには戦いを通らねばなりません。しかし神に服従しなければ、魂が聖化されることはできないのであります。……
 神は決して造られた者の意志を強いたりなさいません。真心より、自らよく理解したうえでの服従でなければ、神は受け入れたまいません。単なる強制的服従は知性や品性の真の発達を妨げるものであって、人をひとつの機械人形にしてしまいます。創造主はこのようなことを望みたまいません。神は創造の極致である人間が最高の発達を遂げることをお望みになります。神は私どもの前に最高の祝福をおきたもうて、恵みによって私どもをそこまで導こうとなさいます。また私どものうちにかれのみ心を行うことができるように、おのれを神にささげよとすすめたまいます。罪のきずなから放たれて、神の子としての栄えある自由を味わうか否かは、私どもの選択いかんにかかっています。」(同上51-53)


http://www.sda1888.com/
聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG
http://dailydevotion.jugem.jp/?eid=126



 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村