「わたしたちは刻んだ像に仕えてはならない」

 「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。」(出エジプト記20:4,5)

 「わたしたちの創造主はわたしたちの最高の献身を、また第一位の忠誠を要求される。神に対するわたしたちの愛を減じ、この方に当然なすべき奉仕を妨げる傾向のあるものは何であっても、それによって偶像となる。ある者にとっては土地や家屋、商品は偶像である。神への奉仕が第二義的に考えられている一方で事業は熱心にまた精力的に行う。家族の礼拝は無視され、個人的な祈りが忘れられる。多くの人々は自分の同業者と公正に取引きしていると主張し、そうすることで自分たちの義務全体から免じられていると感じているように思える。しかし十誡の後半の六条を守るだけでは十分ではない。わたしたちは全心全霊をこめてわたしたちの主なる神を愛さなければならない。あらゆる教訓に対して服従しないことは何であっても・・・神の律法の要求を満足させることはできない。
 繁栄によって心が非常にかたくなり、神を忘れ、同胞の欠乏を忘れている人々がたくさんいる。クリスチャンであると告白する者が、宝石やレース、高価な衣服を身につけることにより自らをあがめているが、その一方では主にある貧しい人々が生活の糧を求めて苦しんでいるのである。救い主の血を通して贖いを主張する男女が、他の魂を救うためにと委ねられた財産を浪費し、自分自身に名誉をもたらす時にだけ喜んで差し出しながら、宗教のためには捧げ物をいやいや惜しそうに出すのである。これが偶像礼拝者である。」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1882年1月26日)
 「思いを神から引き離すものは何であっても、一種の偶像であるとみなされる。それが今日の教会にほとんど力がない理由である。」(原稿2,1893年)
 「第二条は、像や類似した形のものによって真の神を礼拝することを禁じている。多くの異教国民は、自分たちの像は神を礼拝するための象徴にすぎないと主張した。しかし、神はこのような礼拝は罪であると宣言された。物体をもって永遠のお方を象徴しようと試みるときに、神に関する人間の観念は低下するのである。人の心は主の無限の完全さから離れるときに、創造主よりも被造物のほうへひかれるのである。」(人類のあけぼの上巻356)
 「神は人を探られる方である。このお方は真の心からの奉仕と偶像とを区別される。」(原稿126,1901年)

http://www.sda1888.com/
聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG
http://dailydevotion.jugem.jp/?eid=126


 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村