「カルバリーの十字架」

  「されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人達も、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。」(ルカ23:33)

 カルバリーの十字架は力強く、なぜ私達が現在キリストを愛すべきかという理由、また、あらゆることにおいて、主を第一に、そして、最善として、そして、究極として考えるかという理由を提供する。私達は十字架の足下にくずおれたざんげのためにふさわしい場所を占めるべきである。私達は、カルバリーの山に登り、十字架を見上げ、苦悩のうちにある私達の救い主を見、ひん死の神のみ子、不義の者のための義なる方を見る時、心の柔和と謙遜の教訓を学ぶことができるのである。ひと言でご自分を助ける天使の軍団を招集することもできたお方、からかいや騒ぎの対象となり、ののしりと憎しみのまとになられた方を見つめなさい。主はご自身を罪のために犠牲として与えられた。非難されても、主はひるまなかった。偽りの告発がされても、主は口を開かれなかった。主はご自分の殺害者のために十字架の上で祈られる。
 主は彼らのために死のうとされている。主は彼ら一人一人のために無限の代価を払おうとされている。主はご自分が偉大な代価で買われた人を失いたくないと思っておられる。主はつぶやくこともなく、打たれ、さげすまれるままにされた。そして、この無言の犠牲は神のみ子なのである。主のみ座は永遠からであり、主のみ国には終わりがない。…見よ、カルバリーの十字架を見上げよ。あなたのために苦しまれる王の犠牲を見つめよ。…
 神のみ子は私達のために拒まれ、さげすまれた。あなたは、十字架が全部見えるところで、信仰の目でキリストの苦しみを見つめながらあなたの試練、あなたの敵の話を語ることができるだろうか。キリストの青ざめた、わななかれるくちびるから、ご自分をののしる者、殺害者のために「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と、主が祈られているその時に、あなたは、あなたの敵への復讐を心の中にいだいていることができるだろうか。 …
 私達を罪の堕落と奴隷の立場から、主の右の手にあるみ座に、引き上げてくださるために神の御子が甘んじて下さった謙遜の深さを私達は避けてはならない。今こそ私達の品性の衣を洗って、小羊の血で白くするために、私達の恵みの残り少ない貴重な時間を私達が捧げる崇高な時である。そうすれば私達は、まもなく偉大なる白いみ座のまわりに立っている白い衣を着た者となるであろう。(RH1881.8.2}

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