2012-01-19 「坂本真綾(様)に捧げた大品の前振り」9
■[小説?]File 11 突然彼女は消えてしまった ―All At Once, No Her
古ぼけたドアベルの音色に迎えられて探偵真武意十全とその助手である紅沢が喫茶「有鐘堂」を訪れたのは、うららかな春の午後だった。窓のない「有鐘堂」に入った瞬間に、どこかノスタルジックな空気に包まれるのは、ランプ風の照明と煉瓦を模した壁のせいだろう。並ぶテーブルはビクトリア朝のアンティークらしく、艶やかな表面からは柔らかい優しさが立ちのぼるようだった。
「いらっしゃい」
「……ん?なんや、今日はお前が店番か」
カウンターの中で微笑んだ青年を見つけて十全は渋面になった。普段ならドイツ人の血の混じったクォータのマスターか、鮮やかなライトブラウンの髪を咲かせた詩音がいるのだが、今日は長身で、耳にかかるほどの髪を自然にそよがせた、鋭い印象の青年が立っていた。
「お前、目つきの悪さ直した方がいいぞ。客が寄り付かん」
スツールに腰掛けながら十全は毒づいた。紅沢は隣で苦笑する。カウンターの中の青年は知的な鋭さと凶暴さをおし包むように微笑んだ。
「『鶴瓶効果』のあんたに言われたくないよ。その顔で依頼人騙してるんだろ?」
十全は目が垂れていて、時々線で引いたように細くなる。初対面で好印象を与えるので、紅沢が有名な落語家にあやかって「鶴瓶効果」と名付けたのを彼は知っているのだ。十全はぎろっと紅沢を睨みつけて溜め息をついた。
「買い付けです。別にヤバい薬じゃないですよ。詩音は、大学のプログレッシブロック同好会の歓迎合宿とかで、山中湖のペンションでキング・クリムゾンづけだそうです」
容貌に似つかわしくない穏やかな口調だった。石動狼、現在大学生。高校生の頃から「有鐘堂」の常連で、時折店番を任されることもある。紅沢は彼をモデルに小説を書いたこともあった。武闘派の上に頭脳派という、テロリストになったら一番厄介な人間だと紅沢は感じていた。
「お前のコーヒーはいまいちなんや。味に深みがない」
「まだ修行中なんだよ、ほっといてくれ。つけがいくら溜まってるのか知ってるか?十全さん」
「お前には関係あらへん。未だにあっちこっちで女泣かせとるって聞くぞ?」
「そりゃ誤解だ、今は奥さん一筋だから。それとも、羨ましいかい?」
学生結婚をしている狼は、高校生の頃は相当遊んでおり、そちらの武勇伝も豊富だった。片方の眉を上げ小馬鹿にしたように笑うと、十全はさらに渋い顔になった。
「あほぬかせ。お前、ろくに大学行っとらんやろ。こないだ明日葉ちゃんから電話あったで」
「あいつ……別に俺が大学いこうがどうしようが勝手だろ?へぼ探偵に突っ込まれるようなことじゃないね」
「ほー、へぼ探偵ね。明日葉ちゃんがストーカーにあった時、解決したったのは誰やったかな?」
「ちゃんと金は払っただろ?別にあんたに頼まなくたってストーカーくらい」
「どうせ力づくやろ?すぐにお前はそれや、せっかくキレる頭もっとるのに使い方を知らんからそうなるんや」
「まるで自分が頭の使い方を知ってるみたいに言うじゃねえか。人の私生活覗いて小金稼いでるくせしやがって。コーヒー飲ませねえぞ」
「なんやと?」
狼にとって喧嘩を売ることは、赤字覚悟のバーゲンセール並みに安くてお手軽だった。十全も短気な方なのですぐに交渉が成立する。がたり、とスツールから十全が立ち上がると狼はにやりと凶暴な笑みを浮かべた。
「まあまあ、二人とも」紅沢は両手を上げて二人の間に割って入る。「大人なんだから、ここは知的に勝負しようじゃないか」
『知的?』
「そう。僕が問題を出すから、二人に推理を披露してもらう。狼くんが勝ったら十全は謝る、十全が勝ったら今日のコーヒー代はただ、と」
二人は視線を激しく衝突させ、しぶしぶ頷いた。紅沢は、とりあえず狼にブルーマウンテンを注文して、五秒ほど、樫の一枚板から削り出したカウンターの柔肌のような艶に目を落した。それから顔を上げ、話し始めた。
「ある本を読んでいたんだけどね……」
その本には、そう、仮にヨウコさんとしようか、ヨウコさんが登場するんだ。彼女は某国立大学の学生で、それなりに複雑な人間関係と、戦慄するような過去があるんだけど、まあ今回それは置いておこう。ヨウコさんは身長百五十センチに惜しくも足らない、なかなかに小柄な女性なんだ。外見は緩やかな三次元曲線でもちろん構成されているし、内面はかなりカオスで複雑系、つまりはちゃんとした人間ということ。髪はボーイッシュなショートカット、トレードマークは常に手放さないライムグリーンのノートパソコンと、広いおでこ。彼女は随分それを気にしている。
さて、物語の内容はまあちょっと省くとして、ある寒い冬の夕方、いつものようにヨウコさんは大学前から地下鉄の駅までの市営バスに乗った。前から乗り込んでお金を払って、後ろから降りる、普通のバスだね。ヨウコさんはその日の運転手さんを何度も見たことはあったけど、運転手さんの方はどうだかは知らない。とにかくヨウコさんはいつも通りお金を払って、定位置であるバスの一番後ろの運転席側に座った。そこで外を眺めながら徒然に思いを巡らせるのがヨウコさんのいつもの癖なんだ。
運転手さんは一見してベテランとわかる人だけど、乗り込むお客の顔をいちいち覚えているかどうかはわからない。その日、大学前で乗り込んだのはヨウコさんを含め三人、降りていったのは二人、バスの中には十三人のお客がいた。
お客のうち、ヨウコさんを除いた十二人を少し説明すると、まず運転席のすぐ後ろに、大学前から乗ったカップルが一組。もちろん大学生で、男の方は茶髪でロン毛、バックパックを持っていて、女の子はわりと清楚な感じの、白いコートの似合う子だった。
通路を挟んで反対側の優先席には、大学よりはかなり前にあった総合病院から乗ってきた老婆が一人と、その介添えらしき若い女性が一人脇に立っている。老婆は病人とは思えないほどしゃんとしていて、むしろ付き添いの女性の方が病気ではないかと思えるほど青ざめていた。
カップルの後ろの席に、やはり病院から乗ってきた高校生らしき少年が一人。彼は右腕を吊っていて、悔しそうな表情を隠さないところを見ると、怪我のせいで運動部の活動に参加できないなんてことを容易に想像できる。
少年の後ろにはやはり病院から乗り込んだ、背の低いスーツ姿の中年男性。彼の顔は四角くてパーツは乱雑におかれた福笑いのようだった。相好を崩して時々手許で写真を見ている。きっと、子供が生まれたんだろう。
後部ドアのすぐ前の席には、病院と大学の間で乗ってきたセーラー服の少女が座っている。鮮やかな茶色の髪を神経質そうにかきあげながら、コンパクトを覗き込んで化粧に余念がなかった。
ドアの後ろの座席には、やはりセーラー服姿の女子高生が二人、けたたましいさえずり声で自分達のパーソナルスペースを主張してはばからなかった。
彼女達を見てうんざりした表情なのは、一つ飛ばして後ろに座っている線の細い青年。ポータブルCDプレイヤーのヴォリュームを上げて自分の世界の構築に努めているけれど、ヘッドフォンから音が漏れる音だって充分に騒音だ。
ちょうどヨウコさんの座っているすぐ前に、通路を挟んでOLらしき女性二人が腰掛け、話に華を咲かせていた。バリだかシンガポールだかという単語から想像するに、二人して冬の日本を脱出し、南の島へ逃避行の予定のようだ。二人とも通路にバカでかい、象でも入れそうなスーツケースを置いていた。
ヨウコさんは、小脇にノートパソコンを抱え、オレンジ色のバッグを背負っていた。外を眺めながら彼女が考えていたのは、地球の平和にとっては重要なことなんだけど、まあそれもここでは割愛しても大丈夫だね。
大学から終点の地下鉄駅まで、停留所は四つあった。一つ目で乗り降りはなくて、二つ目で老人が一人乗って、セーラー服の女子高生が二人降りた。三つ目では老婆と付き添いの女性が降りて、四つ目でも乗り降りはなかった。終点の地下鉄駅でバスは乗客を全部吐き出すことになった。途中で一人乗って、二人降りて、また二人降りているから都合三人減って、バスには十人乗っていたわけだね。その十人はちゃんとバスから降りたわけだ。
それなのに、ヨウコさんはそれっきりいなくなってしまった。いつの間にか消えてしまったんだ。乗客がバスを降りてから、いくら探してもどこにも見つけられなかったわけさ。
さて、これは一体どういうわけだろう?
話し終えた紅沢は悠然とブルーマウンテンの深い苦味を味わった。十全と狼は一度顔を見合わせると、お互いにやれやれ、と肩を竦めた。
「どうぞ」
「ああ、それは間違いないよ」
「……まったく、下らんすぎるわ。なあ、狼」
「確かに。紅沢さん、底が知れるよ」
「……じゃあ、二人ともわかったわけ?」
『当然』
二人があまりに自信ありげに頷いたので、紅沢は少しむっとした。
「ふん。それじゃあ、聞かせてもらおうか」
「まあ、待った。このままどっちかが口に出してしまったら、後に言う方は『同じだ』と言って引き分けに持ち込むことができるやろう?」
「んなせこいことしねえよ、俺は」
「わからへん。せやから、ここは解答は紙に書くことにしよう。もちろんべにー、お前もや。それで、後からあってるかどうかチェックしようやないか」
「……細かいところに頭が回るね」
狼は軽く肩を上げて同意した。紅沢も頷いて、スーツの内ポケットからメモ帳を
取り出して三枚破り、それぞれ十全と狼に手渡した。
約五分ほどして、十全と狼は解答を書き終えた。紅沢も書き終わって、カウンターの上に伏せておいておく。
「じゃあ、僕にまず読ませてよ」
「ああ、ええよ。でもな、こんなもんいくらでも答えを考えられるで」
「そうそう。どれが一番ましかってだけの話だぜ」
二人は問題に随分不満を抱いているようだった。口々に文句がついて出る。それを聞き流して紅沢は二人のメモに目を通し始めた。狼は十全に入れるモカマタリのために、コーヒーポットに湯を湧かし始めた。ことことと、小さな機関車のたてるような音が店内を走り始めた。
二人ともいくつか解答を書いていた。まず最初に、「ヨウコさんは透明人間だった」説。なるほど、紅沢は頷いた。これはひょっとしたら一番かも知れないな、と。ただ、ヨウコさんはちゃんとした人間だと言ったはずなので、没。それ以外の点ではまあ全てを説明できる。
次は、「運転手さんが嘘をついた」説。つまり、人数に関して運転手さんが嘘をついたか、あるいは数え間違いをしたか。これでももちろん説明できるだろう。しかし、没。紅沢は、バスに乗り降りした人数が「運転手さんが数えた人数」とは一言も言っていない。あれは、極めて客観的な事実であって、運転手の主観がそこに入る余地はないのだ。
「途中で降りた女子高生の一人と入れ替わった」説。これは、「ヨウコさんがセーラー服に着替えて、一人で乗っていた女子高生と一緒に降りた」説あるいは「最初からヨウコさんはセーラー服を着ていた」説と同じと扱ってもいいだろう。確かにヨウコさんの服装は説明されなかったので、充分にあり得る仮説だ。女子高生になりすましてバスを降り、そのまま失踪する。最後に乗客が降りるところでは紅沢は「ヨウコさんが降りた」とは言っていないし、「女子高生二人が降りた」とも言わなかった。ただ、途中では「女子高生二人が降りた」と言っている。ヨウコさんは間違いなく某国立大学の学生で女子高生ではないので、残念ながら没。
そこまでを紅沢が否定すると、モカマタリにありついた十全が煙草に火をつけながら洩らした。
「なんや、厳しいな」
「当然だろう?僕の話は、ミステリィで言ったら『地の文』で、そこには嘘はない、つまり客観的な事実なのさ。だから、僕の言葉に矛盾していたらそれは間違いなの」
「はん、偉そうに。まあええわ、解決なんぞいくらでも考えつくんやで?」
「その先にちゃんとした解決が書いてあるからさ」狼も自分のコーヒーに口をつけながら、紅沢に先を読むように促した。
紅沢は最後の解答に目を落とした。ヨウコさんの前に座っていた二人のOL。彼女達の持っていたスーツケースの中に、小柄な人物が隠れていたのだ。OL二人はヨウコさんを気絶させるか殺すかして、からっぽの片方のスーツケースに押し込み、もう一方から小柄な人物が現れて、何喰わぬ顔で終点で降りる。これなら乗った人数と降りた人数に違いが生じることはない。紅沢は口元を歪めて二枚のメモを見つめていた。
「十全も狼くんも、ほとんど同じ解答を書いてるよね。同レベルってことかな?」
「俺がこいつと同レベルなわけないやろう。それより、その最後のはどうなんや?」
「まあ、一番簡単で一番まともな解答だよね。でも、さっきも言ったはずだよ?僕は嘘はついていないって」
「え?それじゃないんですか?」
「だって、これじゃあ一人多くなっちゃうでしょ?スーツケースの中にもう一人入っているなんて、僕は一言も言ってないよ」
「いいや。僕が十三人しか乗っていないといったら、十三人しか乗っていなかったんだよ。だから、二人とも外れだね」
「な……なんやそれは!だったら、お前の模範解答を見せてもらおうやないか!」
真っ赤になった十全が紅沢が伏せておいたメモに手を伸ばしたのと、ドアベルが来客を告げて空気を震わせたのはほとんど同時だった。
「悪かったね、明日葉。手伝わせてしまって」
「気にしない気にしない。どうせお店に寄るつもりだったし」
店に入ってきたのは、鮮やかなブロンドの長身の青年と、シャギーを入れた肩までの髪の、黒目がちの女性だった。生成りのコットンシャツの青年は両手に紙袋を抱えており、広く胸元の開いたセーターとボックスプリーツのミニスカートの女性の方も一つ紙袋を胸に抱いていた。やばい、と狼の口から漏れたのを紅沢は聞き逃さなかった。
マスターは探偵と探偵助手を見つけて柔らかな微笑を浮かべた。それから狼に、申し訳なさそうに微笑みかけた。
「あら、やっぱりここにいたわけね」
石動明日葉は自分の夫を発見すると、獲物を見つけた猫科肉食獣のような俊敏な動きでカウンターに歩み寄った。獲物の狼は表情を凍りつかせて動けなくなっていた。どさり、と紙袋をカウンターに乗せ、明日葉は不敵に笑った。
「きょ、今日はたまたまマスターが店空けるから、バイトで……」
「君の言い訳は聞き飽きたよ。昨日も一昨日もどこ行ってたのかな?行く気がないならとっととやめなよ。別に、君が大学やめたって誰も困らないんだから」
きっと狼を睨みつけた明日葉は、そのまま視線を十全に移動させた。何故か十全も思わず全身を緊張させた。
「十全さん」
「な、なんや明日葉ちゃん」
「今度狼が大学さぼってるの見つけたら、ちゃんと説得してってお願いしたよね?」
「もちろん、覚えてるで。実際今、説得の途中やったんやから」
「……そうなの?べにーさん」
訝しげな明日葉に見つめられて、もちろん紅沢は本当のところを正直に話した。残念ながら女性をけむにまけるほど紅沢の嘘は熟練されていない。腕を組んで大きな瞳を狼と十全の間で行き来させている明日葉の後ろを通って、マスターがカウンターに入った。「帰り道で偶然会ってね」と狼に耳打ちした。
「へえ、そういうくだらない賭けをしているわけね」明日葉はゆっくりと頷いて紅沢を見た。「べにーさん、まだ正解は言ってないのよね?」
「うん、まだだよ」
「だったら、狼。わたしがもし正解を当てたら、今度こそちゃんと大学に行きなさいよ」
「……なんでそうなるんだよ」
その一言で狼は押し黙った。明日葉はしばらく無言で髪の先をいじっていたが、三分ほどしてからぱっと表情を輝かせて紅沢に耳打ちした。紅沢は目を丸くして、伏せておいたメモを明日葉だけに見せて、「大正解」と言った。狼と十全は驚きのあまり表情を失った。
勝ち誇った笑みを浮かべた明日葉は、正解の書かれた紅沢のメモを自分のミニスカートのポケットに押し込んで、くいと紅沢の腕をとった。
「え?」
「べにーさん、これから暇?」
「ああ、まあ、特に何もないけど」
「じゃあ、デートしよう」
「……ええ?」
狼の顔が一瞬固くなったのを紅沢ははっきり見てしまった。明日葉の誘いは冗談だとわかっていても、いかんせん狼の怖さを知っている紅沢は、後で修羅場が発生した時に彼にぼこぼこにやられる自分が想像できてしまうので、青くなった。
「ちょ、ちょっと待って。ほら、その……」
「ああ、いいよ、あれはほっといて。多分、ちゃんと大学に行くようになるまではわたしの前に顔なんて出せるはずないんだから。ねえ、旦那サマ?」
皮肉たっぷりに狼に微笑みかけて、明日葉は紅沢を引きずりながら店を後にした。どこか物悲しくドアベルが鳴り、どこか泣きそうな紅沢の顔がドアの向こうに消えた。十全は重々しく溜め息をついた。昔から強引な女には弱い奴だったからなあ。
「……まったく」
狼は疲労困ぱいの表情で残っていたコーヒーを一気に煽った。それからカウンターを出て、十全の隣のスツールに腰掛けた。ぎしりとスツールが悲愴な声で鳴いた。
「なんでお前、大学行かへんのや?」
「それほど刺激的じゃなくてね……まだ十全さんと遊んでた方が時間としては有意義なんだよ」
「よういうわ」
少し嬉しそうに十全は苦笑して煙草の箱を狼に差し出した。さっと手でそれを断る。
「土日しか吸わないことにしてるんだ」
「それはまた殊勝やな……確かに大学なんてさして面白いこともないかもしれんな。お前の頭じゃ特に、まわりがアホばっかに見えるやろ。でも、凄い人間かていくらでもおるんやで。まだまだお前の視野は狭いと俺は思う」
「……そうかな」
「実際、明日葉ちゃんはお前よりキレるやろ?」
「ああ、あいつは……そうだな」
狼と明日葉は高校の頃からつきあっていて、奇しくも同じ大学に進学した。それが去年の春のことで、それから二月後には結婚していて、二人をよく知る紅沢も十全も驚いたものだった。狼に理由を聞いてみると、「明日葉には勝てないことがわかったから」だそうだ。
「しかし、どうして明日葉の答えが正解なんだろうな。十全さん、他になんか可能性ないのかな」
「そうやなあ……マスターは、わかりました?」
「え?」
購入してきたスティックシュガーやらコーヒー豆やらハーブティーやら新しいグラスやらをカウンターの棚にしまっていたマスターは、十全の声に手を休めて振り返った。
「ああ、さっきの紅沢さんの話ですか?」
「そうだよ。なんで明日葉にわかったんだろうな……また頭が上がらなくなっちまう」
狼が苦々しい表情でマスターに救いを求める。マスターは眼鏡の奥の目を柔和に細めた。
「……冗談?」
「そう。ミステリィを読んでいる人なら多分気づいたと思うけれどね。十全さんも、怒らないで聞いて下さい。紅沢さんは、『本を読んでいた』って言いましたよね。つまり、ヨウコさんは本の中の登場人物なんですよ」
「それはわかってますよ。ミステリィ小説から引っ張ってきたんですから」
「違いますよ、十全さん。紅沢さんはそんなこと一言も言ってないです」
「え?」
「紅沢さんは、本に書いてあったことを喋っていただけなんです。ヨウコさんの特徴も、運転手さんのことも、乗客たちの描写も、全部本に書いてあることをただ喋っただけなんですよ、第三者の視点つまり『読者』の視点で。だから『嘘はついていない』し、そう考えれば一体ヨウコさんを見つけられなかったのが『誰』かもわかるんです。基本トリックは主語の隠ぺいですね」
「……まさか、あのアホ!」
十全は見当がついたらしく、してやられたという顔でカウンターをばんと叩いた。
「くそ、そういうことか。べにーのくせに、やってくれるやないか」
「……まだよくわからねえな」
「いいかい、狼。バスから乗客たちが降りて、その後ヨウコさんを見つけることができなかったのは、『読者』である紅沢さんなんだ」
「はあ?」
「つまり、あるページを境にして、そこから後の『ヨウコ』という名前の全てが、修正液か何かで塗りつぶされていたんだよ」
「……?」
狼はぽかんとだらしなく口を開いてしまった。修正液?だから、ヨウコさんをいくら探しても見つけられなかった?なんだそれは。
「誰が降りたなんて言っていないよ、紅沢さんは。だから、本にはヨウコさんが降りる描写があったとしても、その名前が消されていたらヨウコさんが降りたかどうかなんてわからない、でもその名前のない人物は確かに降りているんだから、人数は変わらないんだよ。紅沢さんの考える正解は、『それ以後ヨウコさんの名前が修正液で消されていた』、だと思うよ」
「……確かに冗談だ、そりゃ」
狼はおかしくなって大声で笑った。悔しさを隠しきれない十全は、煙草を目一杯吸い込んで眉を潜める。
「笑っとる場合やないで」
「はあ?」
「べにーの前から消えたのは『ヨウコさん』やったが、お前の前から突然彼女が消えへんとも限らんのやから」
「……」
急に真剣な表情に戻って狼は髪をかきあげた。それから、十全に煙草を一本要求して、火をつけた。長く煙を吐き出し、それが消えていく様子を見つめながらぽつりと呟いた。
「それは、困るな、やっぱり……」
(☆メタとか叙述トリックとかに、かなり憧れていた時代がありました。今でもそうなんですが。中井英夫とか竹本健治とかを意気揚々と読んで、なるほどこういうものも世の中に存在するのかとうなずいて、どんな化け物の脳みそをしていると思いつくのだろう、と煩悶とした覚えがあります。タイトルはウィリアム・アイリッシュの「消えた花嫁(All At Once, No Alice)」をもじった、『なあばすぶれいくだうん』(作:たがみよしひさ)の「とつぜん圭子は消えてしまった」より。原題は韻を踏んでいたんですねえ。)
