国立文楽劇場 11月公演(その3) 通し狂言 仮名手本忠臣蔵

平成24年度(第67回)文化庁芸術祭主催 11月文楽公演
通し狂言  仮名手本忠臣蔵 かなでほんちゅうしんぐら
 【第一部】 
 大  序   鶴が岡兜改めの段、恋歌の段
 二段目   桃井館本蔵松切の段
 三段目   下馬先進物の段、腰元おかる文使いの段、殿中刃傷の段、裏門の段
 四段目   花籠の段、塩谷判官切腹の段、城明渡しの段
 五段目   山崎街道出合いの段、二つ玉の段
 六段目   身売りの段、早野勘平腹切の段 
 【第二部】
 七段目   祇園一力茶屋の段
 八段目   道行旅路の嫁入
 九段目   雪転しの段、山科閑居の段
 大  詰   花水橋引揚の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2012/11104.html


四段目   花籠の段、塩谷判官切腹の段、城明渡しの段

「花籠の段」は、塩谷判官切腹の段の直前にある、嵐の前の静けさという位置づけの段だ。築山の花ざかりを観て機嫌の良い顔つきの塩谷判官をみた顔世御前は、自分も塩谷判官の心をおなぐさめしようと、鎌倉の八重桜、九重桜(一重と八重の花が咲く品種のことと思う)を取り寄せ、大きな花籠に活ける。あふれんばかりに桜の活けられた大鉢と顔世御前の艶やかな競演が印象的だ。しかし、顔世御前は、塩谷判官が機嫌の良い顔(かんばせ)だったのは、切腹の覚悟を決めたからだということは、まだ知らない。なにも知らない顔世御前の無垢な心遣いと美しさに、まだ上意が下っていないという不安が加わり、その後の悲劇を一層、際立たせる序章となっている。また、顔世御前にやさしい詞をかける原郷右衛門と、すでに塩谷家に見切りをつけ、今後の身の振り様を考えている斧九太夫に、早くも家中の分裂の兆しも見え隠れする。


「塩谷判官切腹の段」では、御上使の石堂馬之丞と薬師寺次郎左衛門が館に到着すると、塩谷判官は早速、丁重に迎える。読み上げられた御上意は、国郡の没収と切腹というものだった。御上意を伝え終えた御上使を御酒で労おうとする塩谷判官に、薬師寺は、切腹を仰せられるのに、当世流行の長羽織をぞべらぞべらと着ていると悪態をつく。すると、塩谷判官は、すでに覚悟はしていると、羽織の下に着用していた白裃の死装束姿となる。

家中の臣下達により、畳が二畳分持ち込まれ、それに白い布をかけられ、四方に榊のような小枝が置かれる。切腹の準備が整うと、塩谷判官は、白布に覆われた畳の上に座す。肩衣を取り除け、由良之助の名代なのであろう力弥が持ってきた三方を引き寄せると、その上の腹切刀の九寸五分を押しいただく。同じく家老職でしかも上席の斧九太夫がその場に居ながら、由良之助の名代であろう力弥にそのような役割をさせたということは、それだけ、塩谷判官の由良之助に対する信頼が厚かったということだろう。

塩谷判官は、由良之助を待つが、由良之助は赤穂の本国からなかなか到着しない。その間、塩谷判官の「由良之助は」という詞と力弥の返答以外は、三味線が長い間を置いては一音弾き、というのを繰り返すばかりだ。緊迫した空気の中、沈鬱な表情でじっと動かない人形達と、沈黙の中、間をとって弾かれる三味線の残響音に、焦燥感が募っていく。

とうとう塩谷判官は「是非におよばぬ これまで」という詞と共に、切腹をするが、間一髪で、由良之助が切腹の場に駆け込む。観る側は、この時、初めてこの物語の主人公である由良之助を目にするのだが、それが、主君の一世一代の危機に駆けつける姿だというのは、象徴的であるように思う。

塩谷判官は、由良之助の姿をみると、「やれ由良之助 待ちかねたわい」と、声をかける。さらに最期の言葉として「由良之助。この九寸五分は汝への形見。わが鬱憤を晴らさせよ」というと、自害する。


なお、この切腹の段では、浄瑠璃の詞章の中には、顔世御前が出てくるのだが、実際には舞台上には顔世御前の人形はない。以前、国立劇場でこの場を観た時は不思議に思われたが、こうやって観てみると、完全に武士の論理で展開されるこの段の様式美をみせるためには、顔世御前がいない方がずっと良い演出のように思う。初演から既にそうだったのか、それとも途中で変わったのかは私には分からないが、どちらにしても人形遣い側の演出が浄瑠璃の詞章を凌駕した例という気がする。それにしても、このような重要な場面で、卓越した場面設定の浄瑠璃の詞章よりも、さらに優れた演出を思いつき、敢えてそれを実行する人形遣いというのも、すごい。

顔世御前は再度、焼香で出てくる。この後、新潮社の『浄瑠璃集』にある「仮名手本忠臣蔵」には、一通りの焼香の後、塩谷家の家臣達の間に、今後の身の処し方に関して不和が起こる場面が描かれている。ここで、由良之助は家臣達に向かって塩谷判官の形見の九寸五分を見せ、「この切先には。わが君の御血をあやし。御無念の魂を 残されし九寸五分。この刀にて師直が。首かき切って本意を遂げん。」言い、この時点で、初めて家臣達の間で敵討ちの意志が確認される。歌舞伎では、花籠の段は省略されていたが、この場面は省略されていなかった。文楽では、花籠の段で既に斧九太夫が、敵討ちに反対の考えを持っていることが示されることや、敵討ちをすることは言わずもがなであるせいか、ここの場面は、省略されていて、そのまま城の明け渡しの場面となる。ツメ人形達が、それぞれ、無念がったり、惜別の情に耐えないという思い入れをしながら城を去っていく。最後に一人、門外に出た由良之助は、提灯についた塩谷家の紋を刀で切り取り、大事に懐にしまうと、提灯を消す。真っ暗闇の中、由良之助は九寸五分を取り出すと、塩谷判官の無念を自分でも味わうかのように、形見の刀についた塩谷判官の血を舐めると、「はったと。にらんで。」で、見得となる。2009年12月の鑑賞教室でこの場面を観た時は、感動したものの、由良之助が、どういう感情でいるのか、良く分からなかった。しかし、今回は、由良之助が塩谷判官の遺志を汲んで敵討ちの決心を固めた場面と感じた。


五段目   山崎街道出合いの段、二つ玉の段
六段目   身売りの段、早野勘平腹切の段 

五段目・六段目の主人公は、早野勘平で、由良之助は出てこない。それでも、もし、二段目で、お能の「鉢木」が利かせてあると考えるのが妥当で、浄瑠璃作者達が、「鉢木」の常世の、《主君に大事があらば、一目散に馳せ参じる姿》に理想を見ているとしたら、五段目・六段目は、主君の大事に馳せ参じることの出来なかった人の物語であり、同じテーマの下に展開される物語としてみることが出来ると思う。

この点は考えてみると、いろいろと興味深い。

ひとつには、おかるが届けなくてもよかった顔世御前の返歌を塩谷判官に届けてしまったことが、師直の度を超したいやがらせの発端となった部分があるが、この物語の中では、そのことが全く不問に付されていることだ。今の時代なら、問題が起こった場合には原因を究明するというのが定法であり、もし今の時代の人がこの物語を書けば、きっと、おかるの返歌を届けたという行動は妥当だったかどうかという視点も入ってくると思う。しかし、この物語の中での、おかるの咎というのは、勘平を城から連れ出したせいで、勘平は、いざという時に馳せ参じることが出来なかったということなのだ。だから、おかるは祇園お茶屋に身売りして、勘平の名誉回復のための御用金を調えることによって、ある意味、罪を償うことになる。

また、五段目の最初に出てくる斧九太夫の息子、斧定九郎は忠義を忘れた人の一人だが、彼もまた、この忠臣蔵のテーマから逃れることは出来なかったようだ。定九郎は、その後、父から勘当され、強盗に身を落とし山崎に潜伏している。そこへ、おかるの父が、与市兵衛はおかるを祇園に身売りした半金、五十両を持って現れる。山道を急ぐ与市兵衛の姿を見つけた定九郎は、与市兵衛殺して五十両を強盗する。しかし、定九郎はその直後、猪と間違えた勘平に無惨に殺されてしまう。この物語の中では、たとえ主君の大事に馳せ参じていても、主君に忠孝を尽くさなかった者には、天罰が待っているのだ。


いざという時に主君のために馳せ参じて忠義を示すことが出来なかった勘平に対して、作者達が下した罰は厳しかった。五段目の冒頭では、勘平は二君にまみえることをせず、山崎にある、おかるの実家に身を寄せており、山で狩りをして生計を立てている。そこで偶然、古い朋輩の千崎弥五郎と出会う。勘平は、由良之助に敵討ちの連判に加えてもらえるよう、千崎にとりなしてくれるよう頼む。もし、これが上手くいき、与市兵衛が何事も無く家に帰りつけば、おかるが身売りしなければいけないにしても、明るさのある終わり方だったのに、作者達は、勘平にはもっと過酷な運命を用意していた。
おかるの父、与市兵衛が殺され、殺したのは勘平という自他の誤解の下、勘平は自害をして身の潔白を訴えることとなる。最後は与市兵衛を殺したのは斧定九郎だということが明らかとなり、勘平は血判にも加わることができる。最期の勘平の「ヤア仏果とは穢らはし、死なぬ/\。魂魄この土に留まつて、敵討の御供する」という言葉は、鬼気迫るものがある。主君への忠義というのは、ここまで思い詰めたものでなければならないというのが浄瑠璃作者達の考えなのだろうか。

悲劇は勘平だけに留まらず、おかるは身売りをして祇園に行ってしまった後であり、与市兵衛は亡くなり、勘平を切腹に追い込んだ与市兵衛女房が独り、残ってしまう。いざというときも忠義を貫き通すためには家族の犠牲は不可避ということなのだろう。

私にとってのこの段の救いは、おかるの前向きな健気さと千崎の友情だ。

おかるは、三段目では、単に勘平に恋焦がれる娘だったけれども、判官切腹という悲劇によって、彼女は人間として成長したのかもしれない。六段目、七段目では、勘平の健気な妻として、与市兵衛夫婦の孝行な娘として、平右衛門の兄思いの妹として、それぞれの人々のために行動する。それぞれの関係性の中で、さまざまな表情をみせてくれるが、どの顔も愛らしく魅力的だ。彼女がいなかったら、この『仮名手本忠臣蔵』は、随分と陰惨な話になっていたと思う。

それから千崎の友情も心に残る。千崎が勘平のことを信じていなければ、ひょっとすると勘平の罪は晴れなかったかもしれないし、少なくとも、勘平が死ぬ前にそれが明らかになることはなかっただろう。


以上、第一部だけでも大変な盛り沢山の内容でした。私が観た日は、顔世御前を演じる予定だった文雀師匠が休演されてしまい、和生さんと勘弥さんが代演されていました。残念でしたが、是非ゆっくりと養生されて、またお元気な御姿を見せていただきたいです。

また、清治師匠が復帰されたのは、とても嬉しいことでした。残念ながら身売りの段は、ほとんど三味線の出番は無かったのだけれど、抜群の安定した音程とテンポ(などというのは人間国宝を褒める言葉としてはひどすぎるとは思うけど)に、表情豊かな音。たとえば、才蔵の出の場面の三味線は、太棹なのに、その後に続く御簾内の長唄三味線よりも、ずっと華やかで、艷っぽく、軽やかで、本当に不思議としか言いようがない。


というわけで、まだ第二部の感想が、さらにつづきます。