愛撫・静物
- 作者: 庄野潤三
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/07/11
- メディア: 文庫
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「噴水」の不気味な感じが心に残った。
この時期に私は恋をした。相手は同じ勤先にいた年下の少女であった。
私の妻は、私の上に起こったあまりにも烈しい変化に驚き、それをみていてどうすることも出来なかった。魂の抜けた人のようになって家に帰ってくる私をみていると、そのようにして夫を不自由な、苦しい目に会わせているのは自分がいるからであり、自分がいきていることがすべての状態を悪くしてゆくのだと云う風な考え方に彼女は追い込まれていった。
彼女は鉛筆のしんを削るようにして自分の生命を削って行き、やがて心細さに堪え切れなっくなって或る夜、自ら命を絶とうとしたのであった。
妻の自殺未遂があっても浮気をやめない妻。その妻が興味を持つ近所の夫婦のことを、夫は「ずっと後」になって知る。
妻が一年もの間、その夫婦のことを私には云わないで自分ひとりの心の中で見つめていたというのが、既に私に対する無言の非難であった。
その頃、私は何をしていたか。
死を選ぶより外ないまでに妻を追いやった私でありながら、カタストローフの一歩手前で助かったのをいいことにして、未練がましく、その恋を思い切ることが出来なかった。
私はこんな風な男であった。妻が受けた傷口の深さから目をそむけて、そんなことはお構いなしにやれる男であった。
おしまいには、不如意な恋に疲れてしまって私はその少女と別れたのだ。
その間、妻は私のことを何とも云わなかった。この沈黙は、忍従ではなく幻滅を意味していたようにも思える。
不安や悲しみに彩られた夢をこの間に見たことも、妻は「永い間」夫に話さない。語られている時点の夫婦の関係は不穏さを含んでいる。
しかし「永い間」が過ぎた「ずっと後」には夫は妻の口からこの話を聞くことができているのだ。「静物」のような平穏な生活がこの夫婦にも訪れたことが暗示されているのではないかという気がする。夫婦とは、大きな悲しみを含みながらも静かに続いていくことができるものなのだと、私が信じたいだけなのかもしれないが。
大人のいない国
大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた (ピンポイント選書)
- 作者: 鷲田清一,内田樹
- 出版社/メーカー: プレジデント社
- 発売日: 2008/10
- メディア: 単行本
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感想と言うよりは覚え書き。
「折り合いをつける」ことと「妥協する」ことの違い
「誰にも出来ないこと」は周囲が認めて成立する
教養とは、本物と偽物を見分ける能力を身につけること
「これは見ておかないと」と自分で判断が付くこと
矛盾
複数の大人からの矛盾したメッセージの提示
↓
おまえがこのメッセージを理解できないのは、メッセージの容積がおまえの「理解のシステム」の容量を超えているからである。おまえはおまえのままではこのメッセージは理解できない。おまえは今のおまえ以上のものにならなければならない。
メタ・メッセージは端的に「成熟せよ」と告げている
★矛盾を受け入れる=成熟、矛盾したメッセージの提示=成熟せよというメタ・メッセージというのはなるほどと。
同一語の使い分け=詭弁術
日本国籍をもつ人
愛国者
↓
日本人
「日本人は堕落した」というときは自分を含まない
両義使いをゆるせば愛国心=愛己心と変わらない
※ピットフォール=落とし穴
★日本人ということばを二つの意味で用いるのが詭弁術というのは、自分のおろそかにしているところだと思った。自分でも同じ言葉を違う意味で使ったりする。人の言説を「うさんくさい」と思うときにはどこかにこの詭弁術が隠れているのかもしれない。注意してみたい。
言論の自由
言説の信頼性は
その人がそれまで積み重ねてきた言動から推察される判断の「適切さ」
発信者が特定されないのは「呪」
「言論の自由」の「言論」
私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け入れられ、聞き入れられ、できることなら、同意されることを望んでいるからである
という前提→相手への「敬意」
「言論の自由」とは「他者に承認される機会を求めること」
「言論の自由」とは「場の審判力」に対する信認のこと
言説が差し出され、真偽、正否を吟味され、効果を査定される場が存在するということへの信認
敬意=「予祝」
★言論の根底には、人に受け入れられたい、出来れば同意してほしいという意志が前提にあるという話。当たり前のことだが忘れがち。なんでそんなこと言うんだろうという人の意見は、何を受け入れられたいと望んでいるのかを疑問に思ってみると何かがわかるかも。
第三の場をキープすることの大切さ。
★「受け流す」みたいなことか
第三の場はどんな場面で大切か、第二の場にいることも大切なときがあるのではないか。第二の場を誰かが占めているから第三の場が生きる。