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2008-04-12

「『何故政治にネット規制反対派の声が届かないのか?』という問いに対する管見」の再フォローアップ中編:反対論批判の持つ意味

昨日の続きの中編として、池田先生よりいただいたご指名から、webmasterがするような反対論批判を通じてどのようなことが達成されて欲しいかの狙いについて論じてみます。

ネット規制法案についてのMIAUの反対意見について、いろいろな批判が出ている。(略)

法技術的には、Bewaad氏(そのもとは大屋雄裕氏)の批判は、ほとんどその通りで、「検閲にあたる」ということはありえない。相手はプロなんだから、憲法に引っかかるような書き方をするはずがない。(略)

しかし私から逆に、法律のプロであるBewaad氏や大屋氏に聞きたいのは、そもそもこういう法律が必要なのかということだ。(略)

(略)いくら法技術的に完璧であっても、必要のない法律には意味がない。ご両所の意見はいかがであろうか?

「MIAUの発表について」(@池田信夫 blog4/10付)(webmaster注:強調は原文によります)

ある法律が必要であるかどうか、それは民主政国家においては究極的にはそれを望む有権者が多数派であるかどうかに帰着する話で、多数の者が必要だと認識すればそれがすなわちその法律が必要であることの根拠となるわけですが、一個人としてwebmasterがそれを必要と考えているかどうかといえば、必要ないと考えています。といいますか、(大屋先生のお考えは存じませんが、少なくともwebmasterは)わざわざおかしいところがあると指摘するのは、そのおかしいところを直さないと通用しないのでは、あるいは直せばもっと説得力のある主張になるのにもったいないなぁ、という思いもあってのことですし。立法論として不要だというならばそこで勝負すればいい話で、わざわざ不案内な法解釈論を持ち出して法律屋の失笑を招くことには、アジテーションによる大衆動員を狙う以上の意味などありますまい。

#「前編」でとりあげたような意見が多数だというのであれば、まさしく「アジテーションによる大衆動員」こそが狙いだということになるわけですが。

たとえば「相対性理論は正しいことが証明されているわけではない」という主張はそのとおりだとwebmasterは認識しています。相対性理論は間違っているという証拠は様々な実験を経ても存在しないので、かなりの確かさで正しいものと考えられる、といったところが妥当な評価でしょうから。ところがこれに裏づけを加える意図を持って「コンノケンイチさんが指摘するような問題点が多々あることから、相対性理論は正しいことが証明されているわけではない」という主張に膨らませたとたん、いかがわしさ満載になってしまいます。

さらには、直した方がいいのにというだけでは影響はネット規制関連に止まりますが、そのような主張がまかりとおってしまうと法体系全般に及ぶ悪影響が生じかねません。たとえば、青少年健全育成推進委員会をもっと雁字搦めにするような規定を設けないと暴走する危険がある、との認識に基づいてあれこれ規定を設けた場合を仮定します(以下、ここで設けた規定を「追加規定」といいます)。webmasterは法案を持っていないので青少年健全育成推進委員会がいわゆる三条委員会との前提で議論を進めますが、となると政府に設けられた三条委員会には、その根拠規定に追加規定のあるもの(=青少年健全育成推進委員会)とそうでないもの(=青少年健全育成推進委員会以外の既存の三条委員会)の二種類が存在することとなります。

追加規定がどのような性質を有するかについては、解釈上はふたとおりの可能性があって、

  • 当然のことを念のため規定したものであり、追加規定がなくても雁字搦めになっている、
  • 追加規定がなければ雁字搦めにはなっておらず、言い換えれば追加規定がない既存の三条委員会は暴走する危険性を承知で立法府の判断としてその危険性を放置することを是としている、

のいずれかです。法律屋であれば前者であると考えるわけですが、追加規定に関する国会審議で「追加規定を置くことでそうした暴走が起こらないことがはじめて達成されるのだ」なんて答弁が出てしまえば、少なくとも立法者意思は後者であることになってしまうわけです(同時に他の三条委員会に漏れなく追加規定を盛り込む改正法案を提出していない限りは)。司法府の判断が立法者意思に100%縛られるわけではありませんが、決して軽くない意味を持つわけで、こうしたことによって三条委員会の暴走が結果的に自己実現的予言になることは十分あり得ます。

あれやこれやで、たとえばMIAUのプレスリリースの最初にある青少年健全育成推進委員会と検閲の危険性について法解釈論的な主張をするならば、「青少年健全育成推進委員会は行政府を構成する三条委員会であり、独立性を有するといえども行政府を拘束する憲法その他から構成される既存のメタ的な法秩序に服する限度において認められているに過ぎない。したがって、仮に青少年健全育成推進委員会が暴走した場合を想定したとして、それが憲法上禁止されている検閲に当てはまるような行為に及ぶことは当然に許されないし、そのような行為に及んだとしてもそれはこの法律に反する違法な行為であるとわれわれは考えるが、法案提出者はこの見解に同意し、表現者の萎縮を招かぬようその旨を言明すべきである」といったようなものにすべきだとwebmasterは考えるのです。

#といいますか、そういった詰めができないならしない方がましだと。もちろん法解釈に先立つ問題意識に基づき、そもそも青少年健全育成推進委員会はいらない、という主張をされるのは結構なのですけれども。

結局これらは、いわばリーガルオピニオンのようなもので、本来ならば弁護士にお金を払ってやってもらうような話です(大屋先生やwebmasterがお金を取ったら弁護士法違反になってしまいますが、お金を取れるにもかかわらず小倉弁護士のように実際にロハでサービスを提供されている方もいらっしゃいます(上記池田先生のエントリのコメント欄をご覧ください))。大屋先生や小倉弁護士、webmasterらに噛み付いたところで法解釈が変わるわけでもなく、耳を傾けても決して損にはならないと思うのですが。