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2008-06-12
無防備な個人によるマスコミュニケーション
みんなも知ってると思う今日の秋葉原の事件をUstreamを使って映像配信してた。
身内だけで見てたけど2chに張られたらしく視聴者が2000人を超えた当りでサーバーとマシンの負荷の限界が来て配信終了。(略)
テレビって間違ったことを放送しないように、確実な情報が来てから放送するだろうし。生放送だとしても、これ言っていいの?ということもあるだろうからすごいタイムラグがあると思う。
そう考えると、放送権を持ってない普通の人がネットを使って外でボタンを数回クリックするだけで映像をリアルタイム配信できてしまうというのは、すごいことだよね。
「秋葉原刺殺事件に遭遇して」(@Recently6/8付)
確かにすごいことです。でも、いいことばかりではありません。
メディアスクラムやセンセーショナルな報道は、これまでマスメディアの倫理、報道姿勢を批判し、責任を問うていればよかったが、これからは個人も無関係ではいられない。マスメディアを「マスゴミ」と批判していたネットユーザーも、自らがそのマスゴミにいつでもなり得る可能性があることも明らかになった。
表現活動は誰かを傷つける可能性を持つ。誰もがメディアを持てる時代に、どの報道や情報発信が「正当」かという話はもはや無意味な問いなのではないだろうか。誰もがメディアを持った現実を受け止め、より良くするために一歩踏み出すためにどうすればいいか考えるべき時に来ている。
IT-PLUS「秋葉原事件で融解した「野次馬」と「報道」の境界」
単なる肖像権といった問題であればまだ話は簡単です。たとえば今回のような事件において、たまたまUstream(ないし類似サービス)での動画配信に、撮影者のとなりにいた人が笑いながらコメントした音声が拾われてしまったような場合を考えてみましょう。人が死んでいるのに不謹慎だとネットで注目を浴び、コメントの前にたまたま顔が映っていたので身元が特定され大いに批判されたと。その批判された者から、どうして単なる独り言を勝手に公にしたのだ、と難詰されるなんて可能性は十分にあるでしょう。
独り言であれそんなことを言うお前が悪いとか、自分は配信しただけで批判しているわけではないとか、そのように言えるのであればいいでしょう。ごめんなさい、と謝って以後気をつける人もいるかもしれません。しかし、blogのコメントにて「死ね」と書かれて自殺する人がいるのですから、罪悪感にさいなまれて自殺する人がいてもおかしくありません。藤代さんのおっしゃるがごとく「誰もがメディアを持った現実を受け止め、より良くするために一歩踏み出すためにどうすればいいか考えるべき時に来ている」のだとしても、そうした現実を受け止めず・考えずにマスコミュニケーションを図り、事後的に受け止めず考えなかったことの報いを受ける者が一定数出てくることは不可避でしょう。
#もちろん、上記の「死ね」事件を受けてのfinalventさんのご提言のように、受け止め考える方々がいることを否定するものではありません。為念。
blogはまだ言葉をつむぐ、すなわち頭の中で考えてキーを叩くプロセスは(コピペを除けば)誰もが逃れられません。そこには受け止め・考える契機が存在しますが、動画はより受身な行為で発信が可能で、伝えたいテーマは主体的に選ぶにしても、画面の隅にたまたま映ってしまったもの、あるいは上記例のように偶然拾ってしまった音声を発信してしまう可能性の排除は不可能です。GoogleですらStreet Viewでプライバシー問題が騒がれたようにこの問題に直面せざるを得なかったわけで、まして個人がこの手の問題には悩まされないと考える方がどうかしています。「炎上」リスクはblogよりも動画配信の方が明らかに高いのです。
藤代さんは、
そして、誰もが発信できるとなると、「野次馬」と「報道」の違い、そしてマスメディアの正当性も揺らいでくる。はてなブックマークには『マスコミが伝えると「報道の責務を果たす」になって、個人が伝えると「野次馬」というのは軸としておかしい』『「撮っていい人」と「撮ってはいけない人」を分け隔てているのは何だろう。カメラの口径?職業意識?倫理観?「報道」の腕章?そもそもそんなものがあるのだろうか』というコメントがあった。
IT-PLUS「秋葉原事件で融解した「野次馬」と「報道」の境界」
ともおっしゃっているわけですが、上記のような認識を前提とすると、「野次馬」と「報道」の違いが揺らぐとしても別の違いが残ることは明らかです。すなわち、「表現活動は誰かを傷つける可能性を持つ」こと、ひいては傷つけた結果がわが身に降りかかってくる可能性があることを認識している者とそうでない者との違いです。kenanさんはいみじくも「テレビって間違ったことを放送しないように、確実な情報が来てから放送するだろうし。生放送だとしても、これ言っていいの?ということもあるだろうからすごいタイムラグがあると思う」とお書きになっていますが、「すごいタイムラグ」とはこの認識に基づき可能性に備えるコストといえるでしょう。
モザイクをかける、音声を処理する、同じものを映すにしてもアングルを考える、といったようなものがその例となります。加えてマスメディアにおいては、編集やら法務やらといった直接取材をする以外の者によるチェックや責任・対応の分かち合いがありますから、完璧な備えは不可能だとしても、取材者一個人に責任が集中しないようなシステムになっています。他方でマスコミュニケーション手段を手に入れた個人は、この責任を一人で受け止めざるを得ません。事前に認識していてもなおつらいことでしょうし、まして事前に認識していなかった者においてをや。
動画配信に限らず、個人にマスコミュニケーション能力を付与するサービスは、多少の紆余曲折はあれど次第に発展していくことは間違いないでしょう。そうした世界における、無防備な個人が世界的な責任を背負わされるかもしれないリスクはどのように処理されることになるのでしょうか? 上記finalventさんの提言のような自発的なルールによって相当程度抑制される、というのがもっとも理想的な姿でしょうか。webmasterが素直に考えるに、そうした責任に直面することは「運が悪い」ことだとして、結局は実効的な対策がないまま多くの人は確率論によって責任から偶然にも免れているようなものになる気がするのですが。
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