当世引キ蘢リ気質

リフレ政策を発動せよ

2007-12-30

[]仮称「1対1の会話だと話せるが、3人以上の「グループ」になったとたん黙り込む」問題について

はてブをちまちまチェックしているとなかなか興味深いエントリーを発見。

http://blueperiod.blog.shinobi.jp/Entry/1030/

これは多分ね、多人数間コミュニケーションにおける注目リソースの分配問題。集団での会話が苦手な人というのは出来上がったコミュニケーションに分け入るのが苦手なのだと思う。

どういうことか説明する前に会話一般についてちょっと考えてみる。ちょうおおざっぱに言うと会話というのは以下の三つの段階に分けられる。

まず相手の話を聞いて内容を理解するフェイズ、次に会話の内容に応じた応答を考えるフェイズ、そして実際に発言するフェイズと、これらを遅くとも2、3秒以内にはこなさなくていはいけない。会話というのは実は結構高度な情報処理。*1まあ人間というのはそれなりに上手く出来ているので、個人差はあれ大体の人は1対1であればこの辺のことを問題なくこなせる。で、ここで関係してくるのが1対1の会話と集団でのそれとの違い。それも最も大きな要因はコミュニケーションを取る相手への意識の集中と分散だろう。

1対1での会話の場合は、コミュニケーションを取る相手が限定されているため、自然お互いの言動に意識が集中することになる。従って、相手の話の理解があやふやであったり、反応が遅れてたりしても、その後のコミュニケーションの継続で挽回は可能だ。ところが多対多の多人数間コミュニケーションの場合は事情が異なってくる。この場合は単純に会話を成立させ得る相手の数が多くなる。従って、注目すべき対象の数は増えるし、自分以外の複数の相手が成立させている会話内容の多様性も広がる。これらはもちろん処理すべき情報が飛躍的に増大することにも繋がるが、最も大きなことは自分以外の誰かと誰かが会話を成立させることができるということだ。これはつまり自分がその場の注目から外れるということを意味する。

さて、ここで問題になるのが多人数間で自分が積極的に会話を成立させていく困難である。それはすなわち複数の対象に分散した他人の意識を自分に集中させることであったり、現在会話中の複数人の意識をある意味で強引に自分に向けさせる困難ということだ。これには1対1のコミュニケーションと違ってゼロの状態から他人の注目リソースを集める能力が必要になってくる。多対多のコミュケーションというものは自己アピールの要素が大きいのではないだろうか。そもそも元記事の主題が恋愛関係のスレッドから取られているのは興味深いところだ。

*1:実際はこういう風な段階にキッチリと分けられるわけではなく、状況把握とフィードバックが複雑に絡み合って同時進行していくものだと思う。

2007-09-09

[]武道の必修化と憲法問題についてちまちま

なんかこういうの久しぶりだなー。先日崎山伸夫さんのブログ武道の必修化に関するエントリーがあって、ブクマコメントを付けたところ本人から応答が。

私のコメントがこれ

2007年09月08日 bhikkhu law, politics, education 神戸高専判例は武道必修自体を違法としたんじゃなくて、代替措置を認めなかった校長の裁量権逸脱を違法としてるんすよ。なんでもそうだけどWikipediaだけで記事書くのはちょっと危ない。

で、崎山さんの応答がこれ

2007年09月09日 sakichan ↓id:bhikkhu 判例は読んだ上でなんだが。「例外として代替措置を用意して済ませるのかもしれないし、あるいは、…。しかし、」代替措置を新教育基本法下の文部省や教委レベルで認めないかもしれない、ということ。

判例は読んだそうなので武道必修自体は違法としてないというのはご存知だということなのか。でも、そうすると記事中の

これは最高裁判例として生きている状態のものなわけで、趣旨も含めてこれと真正面からぶつかるんじゃないかと。

という部分がいまいち意味不明に。この文だと武道必修化自体が判例と矛盾すると読めるし、実際ブクマコメ欄にもそのように解釈してしまってる方がいるようですよ。でも必修化自体は判例でも違憲とされているわけではない以上、その政治的賛否はともかくとして「趣旨も含めてこれと真正面からぶつかる」わけはないんですよね。代替措置設ければいいんだから。まあ要すればこの件を「手続き論」で攻めるにはちょっと拙いのではないか、というのが私の意見でございます。参考に件の最高裁平成八年三月八日第二小法廷判決全文を引用しておきましょうかね。

一 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。

1 被上告人は、平成二年四月に神戸市工業高等専門学校(以下「神戸高専」という。)に入学した者で

ある。

2 高等専門学校においては学年制が採られており、学生は各学年の修了の認定があって初めて上級学年に進級することができる。神戸高専の学業成績評価及び進級並びに卒業の認定に関する規程(以下「進級等規程」という。)によれば、進級の認定を受けるためには、修得しなければならない科目全部について不認定のないことが必要であるが、ある科目の学業成績が一〇〇点法で評価して五五点未満であれば、その科目は不認定となる。学業成績は、科目担当教員が学習態度と試験成績を総合して前期、後期の各学期末に評価し、学年成績は、原則として、各学期末の成績を総合して行うこととされている。また、進級等規程によれば、休学による場合のほか、学生は連続して二回原級にとどまることはできず、神戸市立工業高等専門学校学則(昭和三八年神戸市教育委員会規則第一〇号。以下「学則」という。)及び退学に関する内規(以下「退学内規」という。)では、校長は、連続して二回進級することができなかった学生に対し、退学を命ずることができることとされている。

3 神戸高専では、保健体育が全学年の必修科目とされていたが、平成二年度からは、第一学年の体育科目の授業の種目として剣道採用された。剣道の授業は、前期又は後期のいずれかにおいて履修すべきものとされ、その学期の体育科目の配点一〇〇点のうち七〇点、すなわち、第一学年の体育科目の点数一〇〇点のうち三五点が配点された。

4 被上告人は、両親が、聖書に固く従うという信仰を持つキリスト教信者である「エホバの証人」であったこともあって、自らも「エホバの証人」となった。被上告人は、その教義に従い、格技である剣道の実技に参加することは自己の宗教的信条と根本的に相いれないとの信念の下に、神戸高専入学直後で剣道の授業が開始される前の平成二年四月下旬、他の「エホバの証人」である学生と共に、四名の体育担当教員らに対し、宗教上の理由で剣道実技に参加することができないことを説明し、レポート提出等の代替措置を認めて欲しい旨申し入れたが、右教員らは、これを即座に拒否した。被上告人は、実際に剣道の授業が行われるまでに同趣旨の申入れを繰り返したが、体育担当教員からは剣道実技をしないのであれば欠席扱いにすると言われた。上告人は、被上告人らが剣道実技への参加ができないとの申出をしていることを知って、同月下旬、体育担当教員らと協議をし、これらの学生に対して剣道実技に代わる代替措置を採らないことを決めた。被上告人は、同月末ころから開始された剣道の授業では、服装を替え、サーキットトレーニング講義、準備体操には参加したが、剣道実技には参加せず、その間、道場の隅で正座をし、レポートを作成するために授業の内容を記録していた。被上告人は、授業の後、右記録に基づきレポートを作成して、次の授業が行われるより前の日に体育担当教員に提出しようとしたが、その受領を拒否された。

5 体育担当教員又は上告人は、被上告人ら剣道実技に参加しない学生やその保護者に対し、剣道実技に参加するよう説得を試み、保護者に対して、剣道実技に参加しなければ留年することは必至であること、代替措置は採らないこと等の神戸高専側の方針を説明した。保護者からは代替措置を採って欲しい旨の陳情があったが、神戸高専の回答は、代替措置は採らないというものであった。その間、上告人と体育担当教員等関係者は、協議して、剣道実技への不参加者に対する特別救済措置として剣道実技の補講を行うこととし、二回にわたって、学生又は保護者に参加を勧めたが、被上告人はこれに参加しなかった。その結果、体育担当教員は、被上告人の剣道実技の履修に関しては欠席扱いとし、剣道種目については準備体操を行った点のみを五点(学年成績でいえば二・五点)と評価し、第一学年に被上告人が履修した他の体育種目の評価と総合して被上告人の体育科目を四二点と評価した。第一次進級認定会議で、剣道実技に参加しない被上告人外五名の学生について、体育の成績を認定することができないとされ、これらの学生に対し剣道実技の補講を行うことが決められたが、被上告人外四名はこれに参加しなかった。そのため、平成三年三月二三日開催の第二次進級認定会議において、同人らは進級不認定とされ、上告人は、同月二五日、被上告人につき第二学年に進級させない旨の原級留置処分をし、被上告人及び保護者に対してこれを告知した。

6 平成三年度においても、被上告人の態度は前年度と同様であり、学校の対応も同様であったため、被上告人の体育科目の評価は総合して四八点とされ、剣道実技の補講にも参加しなかった被上告人は、平成四年三月二三日開催の平成三年度第二次進級認定会議において外四名の学生と共に進級不認定とされ、上告人は、被上告人に対する再度の原級留置処分を決定した。また、同日、表彰懲戒委員会が開催され、被上告人外一名について退学の措置を採ることが相当と決定され、上告人は、自主退学をしなかった被上告人に対し、二回連続して原級に留め置かれたことから学則三一条に定める退学事由である「学力劣等で成業の見込みがないと認められる者」に該当するとの判断の下に、同月二七日、右原級留置処分を前提とする退学処分を告知した。

7 被上告人が、剣道以外の体育種目の受講に特に不熱心であったとは認められない。また、被上告人の体育以外の成績は優秀であり、授業態度も真しなものであった。

なお、被上告人のような学生に対し、レポートの提出又は他の運動をさせる代替措置を採用している高等専門学校もある。

二 高等専門学校の校長が学生に対し原級留置処分又は退学処分を行うかどうかの判断は、校長の合理的な教育的裁量にゆだねられるべきものであり、裁判所がその処分の適否を審査するに当たっては、校長と同一の立場に立って当該処分をすべきであったかどうか等について判断し、その結果と当該処分とを比較てその適否、軽重等を論ずべきものではなく、校長の裁量権の行使としての処分が、全く事実の基礎を欠くか又は社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超え又は裁量権を濫用してされたと認められる場合に限り、違法であると判断すべきものである(最高裁昭和二八年(オ)第五二五号同二九年七月三〇日第三小法廷判決・民集八巻七号一四六三頁、最高裁昭和二八年(オ)第七四五号同二九年七月三〇日第三小法廷判決・民集八巻七号一五〇一頁、最高裁昭和四二年(行ツ)第五九号同四九年七月一九日第三小法廷判決・民集二八巻五号七九〇頁、最高裁昭和四七年(行ツ)第五二号同五二年一二月二〇日第三小法廷判決・民集三一巻七号一一〇一頁参照)。しかし、退学処分は学生の身分をはく奪する重大な措置であり、学校教育法施行規則一三条三項も四個の退学事由を限定的に定めていることからすると、当該学生を学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って退学処分を選択すべきであり、その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要するものである(前掲昭和四九年七月一九日第三小法廷判決参照)。また、原級留置処分も、学生にその意に反して一年間にわたり既に履修した科目、種目を再履修することを余儀なくさせ、上級学年における授業を受ける時期を延期させ、卒業を遅らせる上、神戸高専においては、原級留置処分が二回連続してされることにより退学処分にもつながるものであるから、その学生に与える不利益の大きさに照らして、原級留置処分の決定に当たっても、同様に慎重な配慮が要求されるものというべきである。そして、前記事実関係の下においては、以下に説示するとおり、本件各処分は、社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違法なものといわざるを得ない。

1 公教育の教育課程において、学年に応じた一定の重要な知識、能力等を学生に共通に修得させることが必要であることは、教育水準の確保等の要請から、否定することができず、保健体育科目の履修もその例外ではない。しかし、高等専門学校においては、剣道実技の履修が必須のものとまではいい難く、体育科目による教育目的の達成は、他の体育種目の履修などの代替的方法によってこれを行うことも性質上可能というべきである。

2 他方、前記事実関係によれば、被上告人が剣道実技への参加を拒否する理由は、被上告人の信仰の核心部分と密接に関連する真しなものであった。被上告人は、他の体育種目の履修は拒否しておらず、特に不熱心でもなかったが、剣道種目の点数として三五点中のわずか二・五点しか与えられなかったため、他の種目の履修のみで体育科目の合格点を取ることは著しく困難であったと認められる。したがって、被上告人は、信仰上の理由による剣道実技の履修拒否の結果として、他の科目では成績優秀であったにもかかわらず、原級留置、退学という事態に追い込まれたものというべきであり、その不利益が極めて大きいことも明らかである。また、本件各処分は、その内容それ自体において被上告人に信仰上の教義に反する行動を命じたものではなく、その意味では、被上告人の信教の自由を直接的に制約するものとはいえないが、しかし、被上告人がそれらによる重大な不利益を避けるためには剣道実技の履修という自己の信仰上の教義に反する行動を採ることを余儀なくさせられるという性質を有するものであったことは明白である。

上告人の採った措置が、信仰の自由や宗教的行為に対する制約を特に目的とするものではなく、教育内容の設定及びその履修に関する評価方法についての一般的な定めに従ったものであるとしても、本件各処分が右のとおりの性質を有するものであった以上、上告人は、前記裁量権の行使に当たり、当然そのことに相応の考慮を払う必要があったというべきである。また、被上告人が、自らの自由意思により、必修である体育科目の種目として剣道の授業を採用している学校を選択したことを理由に、先にみたような著しい不利益を被上告人に与えることが当然に許容されることになるものでもない。

3 被上告人は、レポート提出等の代替措置を認めて欲しい旨繰り返し申し入れていたのであって、剣道実技を履修しないまま直ちに履修したと同様の評価を受けることを求めていたものではない。これに対し、神戸高専においては、被上告人ら「エホバの証人」である学生が、信仰上の理由から格技の授業を拒否する旨の申出をするや否や、剣道実技の履修拒否は認めず、代替措置は採らないことを明言し、被上告人及び保護者からの代替措置を採って欲しいとの要求も一切拒否し、剣道実技の補講を受けることのみを説得したというのである。本件各処分の前示の性質にかんがみれば、本件各処分に至るまでに何らかの代替措置を採ることの是非、その方法、態様等について十分に考慮するべきであったということができるが、本件においてそれがされていたとは到底いうことができない。

所論は、神戸高専においては代替措置を採るにつき実際的な障害があったという。しかし、信仰上の理由に基づく格技の履修拒否に対して代替措置を採っている学校も現にあるというのであり、他の学生に不公平感を生じさせないような適切な方法、態様による代替措置を採ることは可能であると考えられる。また、履修拒否が信仰上の理由に基づくものかどうかは外形的事情の調査によって容易に明らかになるであろうし、信仰上の理由に仮託して履修拒否をしようという者が多数に上るとも考え難いところである。さらに、代替措置を採ることによって、神戸高専における教育秩序を維持することができないとか、学校全体の運営に看過することができない重大な支障を生ずるおそれがあったとは認められないとした原審の認定判断も是認することができる。そうすると、代替措置を採ることが実際上不可能であったということはできない。

所論は、代替措置を採ることは憲法二〇条三項に違反するとも主張するが、信仰上の真しな理由から剣道実技に参加することができない学生に対し、代替措置として、例えば、他の体育実技の履修、レポートの提出等を求めた上で、その成果に応じた評価をすることが、その目的において宗教的意義を有し、特定の宗教を援助、助長、促進する効果を有するものということはできず、他の宗教者又は無宗教者に圧迫、干渉を加える効果があるともいえないのであって、およそ代替措置を採ることが、その方法、態様のいかんを問わず、憲法二〇条三項に違反するということができないことは明らかである。また、公立学校において、学生の信仰を調査せん索し、宗教を序列化して別段の取扱いをすることは許されないものであるが、学生が信仰を理由に剣道実技の履修を拒否する場合に、学校が、その理由の当否を判断するため、単なる怠学のための口実であるか、当事者の説明する宗教上の信条と履修拒否との合理的関連性が認められるかどうかを確認する程度の調査をすることが公教育の宗教的中立性に反するとはいえないものと解される。これらのことは、最高裁昭和四六年(行ツ)第六九号同五二年七月一三日大法廷判決・民集三一巻四号五三三頁の趣旨に徴して明らかである。

4 以上によれば、信仰上の理由による剣道実技の履修拒否を、正当な理由のない履修拒否と区別することなく、代替措置が不可能というわけでもないのに、代替措置について何ら検討することもなく、体育科目を不認定とした担当教員らの評価を受けて、原級留置処分をし、さらに、不認定の主たる理由及び全体成績について勘案することなく、二年続けて原級留置となったため進級等規程及び退学内規に従って学則にいう「学力劣等で成業の見込みがないと認められる者」に当たるとし、退学処分をしたという上告人の措置は、考慮すべき事項を考慮しておらず、又は考慮された事実に対する評価が明白に合理性を欠き、その結果、社会観念上著しく妥当を欠く処分をしたものと評するほかはなく、本件各処分は、裁量権の範囲を超える違法なものといわざるを得ない。

右と同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。その余の違憲の主張は、その実質において、原判決の右判断における法令の解釈適用の誤りをいうものにすぎない。また、右の判断は、所論引用の各判例に抵触するものではない。論旨は採用することができない。

 よって、行政事件訴訟七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=25577&hanreiKbn=01

個人的には武道の必修化なんて激しくどうでもいい、というかせいぜい週に一度の授業ごときで礼儀と公正な態度を涵養とかバカじゃネーノププー*1という感想しか抱けないところではありますが、エホバの人とかが激しく嫌がるのはわかるのでそのあたり「もし本当にやるのであれば」代替措置を設けるべきなのだろうなあ、とは思いますね。実務でも神戸高専の判例が存在する以上代替措置を設けないなんて選択も無理筋なんじゃないですかね?日本政府というのも最高裁を完全にシカトするほどアグレッシブじゃないでしょう。

で、この件に関してはid:mescalitoさんがブクマコメ欄で何か書いていらっしゃいまして、この人はたしかid:swan_slabさんと同一人物なので法律に関しては私なぞより遥かに詳しいはず。でも参考URI示しといて開いたらプライベートってのは何かのギャグなのか。認証受けろということですかそうですか。

*1:このあたり教育というのは左右問わずイデオローグのオモチャになりやすいよね。

2007-07-29

[]今回の参院選の件

まあ下馬評通りというか自民大敗の模様。僕的には一番なんとかしなくてはいけないと思っていたのは日銀の金融政策だったりして、するとそれは争点にすらなってないわけでわりとどうでもいいかなーって感じだったのですが、*1例の政治資金規正法関連のアレとか特に年金問題とかで怒れる大衆の鉄槌が自民党に振り下ろされたようです。消費税もそうだったけど社会保障関係とか中流層の既得権関係でしくじるのはやっぱり現代民主制では致命的なんですね。まあ民主主義的には有権者が自らの利益に敏感なのは悪いことであるはずも無いのですが、民主党が参院選勝ったからってどうなんだって話ではある。

で、この件で安倍総理ご執心の公務員制度改革関連はこれで頓挫するのかな?それともまたぞろ強引に押し進めて行くのでしょうか。個人的には日本官僚制の特徴であるメリットシステムにどの程度政治任用的な制度、文化を持ち込めるかが注目だったのだけど、今回の敗北でどうも雲行きが怪しくなってきたね。だいたいがそれやるには日本の労働市場の流動性をまずなんとかしなければいけないわけで、それ政治だけで出来るもんなの?そもそも出来るの?って話なわけです。そもそも出来たからと言ってどれだけメリットがあるのかよくわからないのですが。

そして久しぶりにジャーナルスタンダード行ったら変なカード貰う。ポイントの期限が伸びたらしい。めでたいことで。政治より人生。政治より商売、です。

*1:とか思ってたら中川幹事長がお辞めになるそうで。あらあら

2007-07-14

[]「系統樹思考の世界」三中信宏(講談社現代新書

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

概要

生命がいかなる進化の経路を辿ってきたのかを視覚的に記述した図として「系統樹」というものがある。生物教科書には載っていることもあるのであれかと気づく人も多いだろう。生物学、特に進化と関わる分野ではなじみ深い概念だが、必ずしも生物学の専売特許の手法という訳ではない。例えば今この文章が書かれている文字。これには歴史的に様々なフォント存在してきたわけだが、それらは相互に無関係に発展してきたのではなく、いくつものフォントが影響し合い、一つのフォントが更なる別のフォントに分化することで生まれてきた。これらも系統樹によってその「進化」の過程を記述することが可能だ。「系統樹」とは言わば系統推定の学において共通に見られる推論形式を視覚化したものなのだ。そしてそのような広い意味での「進化」を見る視点、筆者はそれらをまとめて「系統樹思考」と呼ぶ。

系統樹という記述形式は何らかの事物が歴史的にどのような変遷を辿ってきたかを復元することでもあるのだが、これは要するに一種の歴史学でもある。しかしながら典型的な自然科学の基準*1から言えば歴史は科学ではない。歴史とは過去に起きた一回限りの出来事の記述だからだ。これは普遍性を求める典型的な自然科学とは相性が悪い。

しかしながら筆者はこの結論に異を唱える。もちろん進化論のもっとも基礎的な部分である自然淘汰や中立進化説などについてはテスト可能な普遍理論として一般化ができる。ところが系統推定のような過去の復元については典型的な自然科学の基準から外れてしまうからだ。そこで筆者は歴史が経験的にテスト可能な「科学」としてあり得るかについて検討していく。それは科学としての歴史の復権の試みでもある。

さて、そのような科学としての歴史を語る上で恐らく最も重要なのが、推論の一形式としての「アブダクション」だろう。「科学哲学の冒険」の読書メモで前にも書いたので省いて説明するが、推論の形式として代表的なものには「演繹」と「帰納」のふたつがある。前者は三段論法に代表される推論形式であり、後者は多くの異なる出来事から類似の性質を見いだし、一般的な命題として抽象化するものだ。両者は歴史的に科学的推論の典型と見なされてきたが、科学の現場では必ずしもこのような論理学的に仮説の真偽を判定するようなことが行われているわけではない。むしろ、対立する仮説群の相対的な比較として科学という営みは行われていると筆者は述べる。

そこで取り上げられるのが第三の推論形式としての「アブダクション」である。*2アブダクションとは、あるデータ群に対してそれらを説明する複数の仮説が存在する場合に、対立する仮説の中でより良い説明ができる仮説をデータからの「経験的支持」の程度によって選び出す推論である。系統推定において、それはさまざまな系統樹を描く過程で、どのような基準であり得る系統樹間を評価し、採用すべきかという推論として行われる。ひとつの例として本書で挙げられるのが「最節約的基準」と呼ばれるものである。

最節約的基準とは基準となるある変数が最小化される仮説を選択するというものであり、本書で使われている例で言えば以下のようになる。

あるPTA連絡網で伝言した内容が誤って伝えられるという事態が起きたとする。連絡網の何人かに伝言内容を確認したところPさん以前の保護者は正確な内容を把握していたのに対し、Pさんから連絡を貰った保護者は全て同じ誤りを持った内容を記憶していたとする。とすれば伝言ミスはPさんにおいて発生したと推定するのが妥当だろう。Pさんから連絡を貰ったQさんが機転を利かせてミスを訂正して伝言を伝えたのにQさんから連絡をもらったRさんがさらに同じミスをしてSさんに伝えてしまった、*3という例も考えられないではないが、そのような仮説は伝言系譜における変化の回数が最も少ないものを選ぶというこの場合の最節約的基準では採用されない。

系統推定においては以上のような最節約性の基準の他にも「最小進化基準」、「最尤基準」、「ベイズ事後確定基準」などさまざまな基準を用いて「より良い」系統樹を模索する数理モデル化が進められている。これらは言わば系統推定における文理を超えた共通の「図形言語」の研究と言えるかもしれない。

覚書

タイプとトークン:

たとえば「水素酸素が反応すると水が生じる」という命題において、「水素」や「酸素」、「水」というのは現実に存在する箇々の物質を指すのではない。それはある特定の定義形質に特徴づけられた集合としての「タイプ」を意味する。科学というものは基本的にはこのタイプに関する普遍法則を追求する営みではあるが、それにとどまるものでは必ずしも無い。例えば実際にある時間と場所で生じる特定の化学反応が起きるとすれば、それは「ある水素分子とある酸素分子が反応するとある水分子が生じる」と表現される。この場合における水素分子や酸素分子はタイプという集合に所属する箇々の例、「トークン」と呼ばれる。このようなトークンを使った説明では歴史的な要素が含まれており、その意味では典型科学と言えど歴史から無縁であるとは言えない。

スタイナー問題:

与えられた制約条件のもとで、点と点とを結ぶ最節約グラフを求める問題。NP完全問題とも。この問題においては点が一つ増えるたびに計算量が爆発的に増えるため現代のスーパーコンピューターをもってしても解決は困難である。最適解を求めるための有効なアルゴリズムは開発されておらず、そのようなものが存在しうるかも現時点ではわかっていない。

棒の手紙

いわゆる不幸の手紙流通していく過程で不幸を棒と誤記したのがそのまま流通したもの。このような現象も系統推定による分析が可能。

雑感

進化論生物学や歴史学の科学性に関する哲学的検討みたいな代物。なかなか良い。最近流行の「生物学の哲学」その他の議論に関係してるのかな。たしか「科学も突き詰めると分野ごとに基礎付けが行われている傾向にある」みたいなことを「疑似科学と科学の哲学」で伊勢田先生が言っていたような気がするが、そういう個別分野の哲学的検討の具体例として面白く読んだ。というか本書でも触れられているが、歴史的に科学哲学の議論というのはやっぱり物理学ベースとしたもので、*4厳密にやると科学の範囲が狭くなりすぎるという問題はあったと思う。*5そこでヒントとなるのが恐らく最近流行の「程度思考としての科学」というアイディアなんだろうなあ。

あとは系統樹思考と対立する分類思考に関する話がおもしろかった。離散的な群それぞれに共通の本質を見いだして認知する分類思考は、さまざまものごとに本質を見いだして整理するという人間には非常に馴染みやすい認識方法だろう。このような認識の生得的基盤に関わる議論というのはこれから科学哲学などでも注目されていくのではないだろうか。

[]「Golden Pollen」Savath & Savalas

Golden Pollen (Dig)

Golden Pollen (Dig)

ご存知スコット・ヘレンの歌ものプロジェクト、サヴァス&サヴァラスの新譜。同名義としては一作目「Apropa't」の延長上にある作風と言えようが、今回は自らのボーカルを全曲に渡って採用する意欲的な試みが特徴。全般にスコットの気怠げなボーカルにスペインフォークロアイメージさせる悲しげな楽曲が揃っている。

ちなみに本作にはバトルスタイヨンダイ・ブラクストンが参加しているらしい。あとスコット先生、いつの間にか息子さんが誕生していたらしく、母親はなんとA Cloud Mireyaでユニットを組んでいたクラウディア・デヘーザだったりする。( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー

つーかPrefuse 73の新作があるとかいう話も出てるが、マジですか。期待age

[]「†」JUSTICE

"t" (Cross)

デジタリズムに続いて最近流行フランステクノポップの新人でございます。例によってダフトパンクっぽいキラキラ感溢れるノスタルジックメロディーテクノが多いが、2曲目「D.A.N.C.E」みたいな80年代色の濃いファンキーディスコサウンドもあり、なかなか面白い一枚。個人的に好きなのは7曲目「Valentine」、8曲目「TTHHEE PPAARRTTYY」とか、11曲目の「Waters of Nazareth」あたり。前者2曲などはもうブルース・ハック直系の由緒正しきテクノポップ。最近はここまで「テクノです!」みたいな音は珍しいんじゃないだろうか。後者のなんだかキリスト教っぽいネーミングの曲はラジオなどでも一時期よくかかっていたもの。歪みまくってブリブリ音色ハイテンションのリズムが面白い。

[]「Everybody」The Sea and Cake

Everybody

Everybody

うーん。確かにいつものシー&ケイクではあるのですが…。今回イマイチです。なんだろう。超普通のオサレインストポップになっちゃってて全然フックが無い、というか。何回か聴けば印象変わるかなあと思ってたんだけど今の所変わらず。「One Bedroom」とか「The Biz」とか「Oui」とか今聴いてもやはり良いなあと思うので、こういう音に飽きたというわけでも無し。サム・プレコップによれば「これはロックアルバム」だそうですが、うーん、どうだろね。シンプルバンドものという意味ならそうかも。

[]「Musical」クラムボン

Musical

Musical

このアルバム収録の「Carnival」がラジオでかかっていたのを聴いてみて、邦楽としては実に久しぶりの購入。クラムボンと言えばたしか僕がちゃんと音楽を聴き始めた時期にデビューしたグループで曲風としては矢野顕子とかそういう類いの歌謡ポップだと思っていたのだが、このアルバムは完全にデジロックですね。僕は邦楽というのは一部のテクノとかインスト系のアーティストを除いてほとんど聴かないのですけど、これはなんか音作りは洋楽ロックの強い影響のもとにあるようで聴きやすい。*6ただ少し安っぽい感じがしないでも無いが。

[]「Ma Fleur」The Cinematic Orchestra

Ma Fleur( プラスチックケース)

Ma Fleur( プラスチックケース)

ああ、これは良いアルバムだ。しっとりとした大人のクロスオーバーです。特に1曲目「To Build a Home」が名曲。抑制されたピアノボーカルから何か暖かい暗闇のなかで何かに包まれているような感覚を受ける一曲。続く「Familiar Ground」から「Flowers」まで、全編深いところから沸き上がってくるような落ち着いた曲ばかりで、そういうの好きな人にはBGMとしておすすめかも。

しかしこういうの聴いていると色々と思い出しちゃうね。音楽ってのは聴いている人にある種の自動的な情動形成をもたらす音波のパターンと言えるのだろうけど、そういった情動への意味付けってのは個々人で異なるものなのかもしれない。要するにそこに人生投影してるわけです。

[]「Idealism」Digitalism

Idealism

Idealism

何か最近はフランス方面のテクノがリバイバルしているのでしょうか。ダフトパンクマネージャーが主宰する「Kitsune」なるレーベルから登場したこのデジタリズムと、後で書くジャスティスあたりが売れ線のモヨリ。全般にダフトパンクっぽいエレクトロダンスロックが多い。特に7曲目「Pogo」なんかは微妙にエモっぽい雰囲気に仕上がっていてなかなか良い。

[]「Year ZeroNine Inch Nails

Year Zero

Year Zero

NINがいつの間にか新作を出していた。前作制作時は何かトレントの精神状態が良好だったようで今ひとつの出来だったわけですがw。今回はまた鬱になってきたのでしょうか。なかなかいい感じの仕上がりです。で、お気に入りはやっぱり13曲目「The Great Destroyer」とか14曲目「In this Twilight」かなあ。どちらもNINらしいドラマチックで荘厳な展開が魅力。直後にピアノ曲が続いたりするのもNINらしいね。

[]「VOLTA」Bjork

Volta

Volta

ビョーク新譜です。前作買ってなくてご無沙汰なんだけど例によってビョークですね、としか言いようの無い楽曲群。悪くはないけど最初聞いた衝撃は薄れてきたかなあ。相変わらずエコロジーに代表される終末思想罪と罰価値観を体現していらっしゃるようだけど、まあいいか。ミュージシャンってそういうの好きだよね。それよりもデジパックシールで閉める仕様になってて、しかもシールが汚れて閉まらないんですけど。

[]「Mirrored」Battles

Mirrored (WARPCD156)

Mirrored (WARPCD156)

しばらく前にこれに入ってる「ATLAS」がラジオなんかでもヘビーローテで気になっていた代物。一応ワープから出てるのね。テクノよりロックと言えば良いのか、このよくわからなさが良いのかも。不穏なリズムで刻まれるミニマルな楽曲が多い。ポストハードコアとか謡ってるけどそういうものなのかなあ。とりあえず佳作。

[]「Our Earthly Pleasures」Maximo Park

Our Earthly Pleasures

Our Earthly Pleasures

マキシモ・パーク新作。前作に比べると全般にレア感が薄いと言うか、悪くはないんだけどちょっとすんなりまとまり過ぎかなあ、という印象。メロディーもいまひとつ響かないなー。残念。

[]更に久しぶりの更新

というわけで久方ぶりの更新でございます。四ヶ月ぶりか?色々あってこんなことに。前回からちょっとはてブの辺境あたりから注目を浴びたようでございますが、あの読書メモは自分でもあんまり出来が良いとは思ってなかったりする。恥ずかしいなあ。つーかあの手の話が好きならもっと前のエントリーでそこそこのものを書いたりしてるんだけどなあ。まあ何事もタイミングでございますね。

で、なんか「はて☆すた(仮称)」なるサービスはてな村民の逆鱗に触れたりして昨今騒がしいはてな界隈ですがいかがお過ごしでしょうか。僕はまだオフラインの方が忙しいのでこれからまた冬眠予定ですが、まあ落ち着いたらもっとなんかアクティブに動きたい所存。しかしこういう更新の仕方だと最新エントリ表示が役立たずですな。

*1:本書で挙げられている例で言えば、「観察可能」、「実験可能」、「反復可能」「予測可能」、「一般化可能」。

*2:「科学哲学の冒険」では「アブダクション」は広い意味での帰納としてまとめられていたが。

*3:しかもQさんには伝言内容を確認できなかった。

*4:あと論理実証主義の影響って大きいんだろうなあ。あれもストリクトで実証大好きな科学者タイプには受ける議論だろうからねえ。

*5:ちなみにそういうめんどくさい議論を省いて「科学」を定義すると、「科学とは、科学者のしていることである」みたいなギャグが出来る。

*6:つってもスパカ以来のロキノンロックバンドってみんなそうかも。

2007-03-10

[]「行動経済学」友野典男(光文社新書

行動経済学 経済は「感情」で動いている (光文社新書)

行動経済学 経済は「感情」で動いている (光文社新書)

概要

近年急速な発展を遂げ、今なお進展中の「行動経済学」という学問領域の基礎的な紹介。

現在の標準的経済学はその理論ミクロ的基礎となる人間行動のモデルにかなり強い仮定を置いている。それはいわゆる「経済人」と呼ばれる極めて合理的で利己的な人間のモデルである。「経済人」は自らの嗜好を明確に理解し、複数の嗜好間には矛盾がなく、さらにこの嗜好は常に不変である。そして、その嗜好に基づいて、いついかなるときでも自分の効用が最も大きくなるような選択肢を選ぶことが出来るとされる。また「経済人」は極めて合理的であると同時に完全に利己的であり、自己の物質的利益を常に最大化するよう行動する。

しかしながら「経済人」モデルは実際の人間行動と整合的とは言えない。特に認知心理学の明らかにした各種の認知バイアスは人間が常に合理的に行動できる訳ではないことを強く示している。例えば囚人のジレンマモンティ・ホール・ジレンマ、ベイズ定理などの条件付き確率の解釈やフレーム問題、ヒューリスティックスや各種の認知バイアスなど認知科学に興味ある読者からすればなじみ深い概念が本書には多く出てくるが、これら認知科学の成果が描き出す人間像は全知全能のごとき「経済人」モデルとは到底相容れないものである。

行動経済学はこのような認知科学の成果をもとにして経済学の新たなモデル構築に貢献しようと言う、その意味では従来の経済学の修正にとどまる試みである。

行動経済学の成果は極めて多岐に渡るがその代表的なものとして「プロスペクト理論」というものがある。これは標準的経済学における「期待効用理論」に代替理論として考案されたものであり、標準的経済学の効用関数に対応する「価値関数」と、確率の解釈に関する「確率加重関数」によって成り立っている。

「価値関数」の主な特徴としては以下の三つが挙げられる。すなわち「参照点依存性」、「感応度逓減性」、「損失回避性」である。

「参照点依存性」とは人間が何かの価値の評価をする場合に、価値そのものを絶対的に評価するわけではなく、基準となる点からの変化分を評価することを言う。例えば資産運用に置いて元本3000万円が2000万円に変化した場合と、元本500万円が1000万円に変化した場合、どちらが効用が高いと言えるだろうか。効用を最終的な富の水準で計る従来的な効用理論では前者だが、プロスペクト理論においては後者の方を高いと見る。

価値関数の二番目の性質、「感応度逓減性」とは利得も損失もそれが小さいうちは変化に敏感に反応するが、価値が大きくなるにつれその変化に鈍感になっていくというものである。例としては年収一千万の人が一千五百万円に昇給する場合と、年収三百万の人間が八百万円に昇給する場合が分かりやすいだろう。この場合増加分は両者とも五百万であるにも関わらずプロスペクト理論においては後者の方が高い価値を持つと見る。

価値関数の三番目の性質は「損失回避性」である。これは人が価値の評価において利得よりも損失を強く評価するということを示している。例えば50%の確率で1000円貰えるが、50%の確率で1000円失うというくじがある場合、大抵の人はそのくじを引くことを拒否するだろう。1000円を貰う確率と失う確率が五分五分だとしても、人は損失の方を強く評価するため、くじにより得られる期待値をマイナスと評価するからだ。

価値関数と並んでプロスペクト理論の核となるのが「確率加重関数」である。従来の効用理論では結果の効用と、その結果が得られる確率が掛け合わされることによって期待効用が表される。その際確率は0.5なら0.5のまま評価される。例えば0.5の確率で1000の効用が得られるとすると期待効用は500である。しかし確率加重関数においては確率がそのままの値で評価されるわけではない。つまり三分の一の確率であれば、それがそのまま三分の一と受け取られずに違った値として解釈されるということである。実証的には約0.35をしきい値としてそれより低い確率は実際より過大に評価され、それより大きい確率は過小に評価されることがわかっている。具体例としては人が交通事故よりも飛行機事故殺人リスクを相対的に大きく評価することが上げられるだろう。

また、価値関数と同じく、確率加重関数にも感応度逓減性が働くため、確率が0から0.1になったり0.9が1.0になったりした場合、0.3が0.4になる場合や0.6が0.7になる場合よりずっと大きな心理的影響を及ぼす。

以上は行動経済学のもたらした成果の一端であるが、行動経済学はいまなお多くの試みが続けられている新しい学問領域であり、進化心理学や神経経済学などの隣接分野と相互に影響を与えあい今後更なる発展が期待されている。

覚書

二重プロセス理論:人間の情報処理は直感的なシステムと分析的なシステムに分かれているとする理論。前者をシステムI、後者をシステムIIと呼称する。これらは様々な行動において複合的に利用され人間の認知処理において時と場合に応じて利用されている。システムIはおおむね日常的な処理や、迅速な判断を必要とするときに利用され、システムIIは慎重な判断を必要とするときに利用される。これらの処理は固定的なものではなく、熟練によってもどちらを使用するかが変化する。例えば車の運転がそうであるように誰でも初めての間は様々な要素をいちいち考慮してから行動するが、熟練するに従って多くの動作が無意識自動的に行われるようになる。こういった事例が二重プロセス理論によって上手く説明される。

保有効果:人があるものや状態*1を、それを持っていない場合に比べて、持っている場合に高く評価すること。価値関数における損失回避性から導かれる。例えば1950年代に1本5ドルで買ったワインが今では100ドルの値段がついているにもかかわらず、それを手放そうとせず、同じワインを手に入れるにしても35ドル以上は払おうとしない事例が存在する。これは利得よりも損失を強く評価するため、ワインを手放したり35ドル以上の金額を払ったりすることを、100ドル手に入れたり100ドルの価値あるワインを手に入れることよりも大きな損失として評価するからである。人の持つ所有物への執着はここからうまく説明できる。

また保有効果は人があるものを手放す代償として受け取ることを望む最小の値である受取意思額(WTA)と、それを手に入れるために支払っても良いと考える最大の値である支払意思額(WTP)が乖離することを意味する。このことの経済学的含意は大きい。それは例えば標準的経済理論の核心にある二つの無差別曲線は決して交わらないという性質に重大な疑問を投げかけるからである。またWTAとWTPの乖離はいわゆる「コースの定理」の前提をも揺るがすため社会全体の厚生改善の問題や社会正義の問題にも重要な示唆を与えるだろう。

現状維持バイアス:人が現在の状態から移動することを回避する傾向を持つこと。現状からの変化は、良くなる可能性と悪くなる可能性を含むが、損失回避性によって人は悪くなる結果を強く評価するので、現状維持指向が強くなるのである。

人の協力行動には「処罰」の可能性が大きく影響を及ぼすことが実験によって確かめられている。公共財ゲームと呼ばれる、ゲームの参加者が任意に与えられた手持ちの金額を任意に拠出してその見返りが全員に分配される実験がある。そこでは人の協力行動は条件付きであり、回数を経るに従ってフリーライダーが増えることによって衰退することが知られている。しかし、ここにゲームの参加者がフリーライダーを処罰することが出来るルールを設定すると、協力行動は劇的に増加することがフェールとゲヒターの実験によって示された。

p272-

マーウェルとエイムスの研究によれば「経済学を学ぶと利己的になる」ことが示されている。マーウェルとエイムスは経済学専攻の学生とその他の専攻の学生に公共財ゲームを行った。その結果、経済学専攻者の平均貢献率は初期額の20%であるのに対し、その他の専攻者は平均49%であった。この結果に対してフランクが様々な観点から「経済学を学ぶと利己的になる」のかについて検討したが、経済学専攻者は多く利己的な行動を選択した。

pp318-321

感情の働きは大きい。感情が物質と同様に快をもたらすゆえに、人は行動するのである。グリムチャーとドリスは、人間は、生理的な意味での効用最大化を目指しているのではないかと言う。標準的経済学における効用最大化とは異なり、物質的満足だけではなく、感情がもたらす快を含めたいわば総効用を最大にしようとしているというのが、生理的効用最大化である。おそらくそれは人間進化によって獲得した性質であると考えられる。しかし、生理的効用最大化がなされているという確証はまだ得られていない。

p379

興味深い。ある物や現象がアプリオリに客観的な価値をもっている訳ではない以上、事象の価値はそれを認識する主体との関係によって決定されるわけで、そういう観点から見れば物事そのものに影響されるのではなく、その物事によって快があたえられるように形成された情動が行動のインセンティブになるよう生命は進化したと考えることが出来る。

雑感

戦後から現代に至り研究の進む認知科学を基盤として、人間を科学する様々な学問領域が生まれつつある。標準的経済学に対しては伝統的にその前提の非合理性を攻撃する「反経済学」の流れがあるわけだが、オルタナティブとなる理論を掲示できるわけではなかった。行動経済学はそのような状況を生産的な形で乗り越え、標準的経済学の代替理論を提供できるポテンシャルを備えているように見える。まだまだ発展途上の段階だが社会科学全般の科学性向上にむけて行動経済学の役割は大きなものとなりそうだ。

[]「Days To Come」Bonobo

Days To Come

Days To Come

これは良いアルバムですね。

ジャジーでクロスオーバーなチルアウトという僕の好みど真ん中の一枚。Bonoboと言えば昔購入したninja tuneコンピレーションに一曲入っていて、それもわりと気に入っていたのだがこんな良いアルバム出してるなら早く買えば良かった。

作風はおおむねninja tuneっぽいクールクラブジャズなのだが、特にこのなんというか異国情緒溢れるメロディアレンジがものっそしびれる。加えて抑制したリズムパターンにひんやりとした感触の上物がこれまた沁みるねえ。特に2曲目表題曲の気怠げなボーカルとか、五曲目「Ketto」のハープか何かで奏でられる印象的なメロディーラインとその後のボーカルは必聴もの。最近ラジオでたまに聴く六曲目「Nightlite」も素晴らしい。バランスの良い名盤

[]「A Certain Trigger」Maximo Park

A Certain Trigger

A Certain Trigger

たしかギターバンドとしてはワープ初のリリースだったはずのマキシモ・パークの1stアルバム2005年あたりはラジオでもヘビーローテだった気がする2曲目「Apply Some Pressure」が聴きたくなって購入。この曲のグルーヴ感はなかなかのもの。全体にポストパンク/ニュー・ウェーブの匂い濃厚なギターサウンドだが、正統派なロックが聴きたい人にもおすすめかも。二千年代初頭に色々出てきたギターバンド勢のひとつとして今後の展開が楽しみかも。ストロークスとかフランツ・フェルディナンドとかあのあたりもう少し掘ってみようか。

[]「The Green Album」Weezer

Weezer (Green Album)

Weezer (Green Album)

ご存知ウィーザー3rdアルバムです。発売2001年だったのね。もう六年も前か。なんで今更このアルバムなのかというと先日ようつべで見かけた某エロバレーMADでこのアルバムに入っている「Island In The Sun」が使われていたからだったりする。ついでに言うと最近朝寝ぼけながらInter FMを聞いていたら番組中で出てきた女性出演者が過去にボーカルリヴァース・クオモと付き合っていたというのを聞いて個人的に衝撃だったからというのもあったりする。あれです。芸能人の誰それが誰それと交際中だとかいうニュースに食いつく人の気持ちが初めてわかったぜ。というかコアなファンには有名な話なのかな。

ええと、なんだっけ。このアルバムの感想か。いかにもウィーザーという音作りで、なかなかのアルバムだと思います。でもやっぱ1stかなあ。最新盤もいい出来なんだっけ。機会があれば買うかも。

[]「Palookaville」Fatboy Slim

Palookaville

Palookaville

ファットボーイスリムを買うのは何気に三枚目。今更ながらかってみた一枚。お目当てはやっぱり一曲目「Don't Let The Man Get You Down」と二曲目「Slash Dot Dash」なのだが、ええと後者はもしかしてスラドタイアップの曲なのかとか思ったり。相変わらず威勢のいいブレイクビーツに乗って表題の台詞のサンプリングがループしまくる面白い一曲。そういえばこのアルバム出た当時はラジオでもヘビーローテーションだったかも。

[]「In Between DreamsJack Johnson

In Between Dreams

In Between Dreams

なんか血迷って買ってしまったジャック・ジョンソンの激売れらしき一枚。いや、悪くはないですよ。特に「Never Know」あたりの寂しげで暖かいアコースティックサウンドはなかなか。全体的にゆるめのGラブという印象。Gラブ参加曲も入ってたりする。

[]「You Are Beautiful At All Times」Yppah

You Are Beautiful at All Times

You Are Beautiful at All Times

例によって衝動買いninja tune期待の新星らしきYappah*2の1stアルバム。一聴して「いまいち面白くないテクノ」という感想を抱いたのだが、何回か聞いてみてなかなかいいセンスしてるかも、いや名盤かもこれは、と思い始めた。作風としてはヒップホップ流れのエレクトロニカでだいたいはどっかで聴いたような音なのだが、どこか殺伐で荒涼とした哀愁漂う曲が多くて、こういうのは好物ですよワタクシ。この間のclark新譜といいなかなか粒の揃ったテクノアルバムを聴けてうれしい今日この頃。

例を挙げると8曲目などが遥か遠い古びた記憶に誘われるようなメロディーラインを持つノスタルジックな佳作でイイ。特に10曲目は名曲ぞろいのこのアルバムの中でも一番好きな曲。とうに過ぎてしまった過去を懐かしみ、ひたすら流れゆく時間への焦燥感みたいなものすら感じる寂しげで情感溢れる一曲。

[]久しぶりに更新

前回のエントリーで結構な人数が流入してたようなので落ち着くまで様子見つーか、書くこと無かっただけだけど。とりあえず有名ブロガートラバすると人が集まることを実感。すごいね。で、これからはもう少し具体的な話題を出していきたいという感じだが、どうにもこうにも時間もネタもないなあ。そういえば最近新聞の一面で前略プロフ周りの話が取り上げられててビックリしたんだけど、あのあたりの泥臭いインターネットの話を掘り下げてみたかったり、なんか良い資料ないかねえ。って、前も似たようなこと言ってたかもw

*1:財だけでなく地位や意見などを含む

*2:イパと読むらしい。