ヨーロッパはいつから「ブータン」を知っているのか


クエンセル 2003-08-23より


(注:要約したため、意訳、追加、省略した部分があります。)


(1)本来、ブータンチベットを表すことばだった?


ブータンが西洋の地図に最初に現れたのはいつかという調査が2年前ロンドン最大の地図店にて開始された。そして発見されたのは、1683年の北インドの地図で、現在のブータンの位置には“Regno di Boutan”(ブータン王国)という文字が書かれていた。


◆“Bhutan and Tibet in European Cartography: 1582-1800”(ヨーロッパ地図学におけるブータンチベット 1582-1800)という論文によると、イタリア人地理学者ジャコモ・カンテリ・ダ・ヴィグノラGiacomo Cantelli da Vignolaが作成したこの地図の内容の多くは人々を困惑させた。例えば、ネパールという地名が1ヶ所だけでなく2ヶ所に、しかも、遠く離れた場所にある。この地図で、ブータン(Boutan)は17世紀にヨーロッパで「コーカサス山」として知られていたヒマラヤの北部(南部ではなく)に位置している。しかしながら、その当時までにブータンを訪れた、唯一のヨーロッパ人(イエズス教会神父のCacellaとCabralが1627年に訪問)は、この国を「カンビラシCambirasi」、「ポンテPotenteの最初の王国」、「モン」などと書いていたのである。では、イタリア人地図学者はどこからBoutanという名前を手に入れたのだろうか。


◆ある研究者によると、カンテリの(使用した)主要資料は、アジアにおける最も裕福かつ有名なヨーロッパ商人の一人であるジャン・バプティスト・タヴェルニエJean Baptiste Tavernierの書いたベストセラー旅行書、“The Six Voyages into Persia and the East Indies”(ペルシャ東インドへの6度の旅行)であったと指摘している。1676年に初めてフランス語で出版されたこの本には、ブータン王国(The Kingdom of Boutan)という部分があり、以下のような記述がある:

「この神秘的な国は広大な面積を持ち、インドから離れたところ、つまりネパール王国の山々の向こう側に位置している。そして、オスマン帝国バルト海沿岸などの遠方から訪れる裕福な商人が頻繁に出入りしている。ブータン国王ほど臣民に畏れられ尊敬されている国王は世界中どこにも存在せず、崇拝すらされている。」

◆17世紀中葉のヒマラヤ地域の地理や歴史に通じているものであれば、タヴェルニエがここで説明している内容は、「ブータンとシャブドゥン」の関係というよりはむしろ、「チベットダライ・ラマ」の関係であるとわかるだろう。カンテリの地図にある「ブータン王国」とは実際は「チベット」を示していることは明らかである。換言すれば、ブータンとはチベット全域の別名であり、同義語であるだけでなく、カシミールからベンガルまでの北部インド一帯を指すことばであったと言える。さらに、タヴェルニエはラサを首都であるとは一度も言及しておらず、カンテリも他のヨーロッパ人地図製作者達も詳細については不明確なままであった。


(2)ヨーロッパ人はいつブータンということばに出会ったか

ブータン(Boutan)に良く似た名前(Bottan, Bottanter)は1580年代頃にヨーロッパに現れ始めた。それは、敬虔で肌の色の薄い山岳民族が住んでいるとされる北インドの大国について言及する場合であった。この新しく発見された国(Bottanthis)の紹介は1597年にイタリアで出版された書籍や地図に見られる。当時の多くのヨーロッパ人がこの国のことをプレスター・ジョン(中央アジア中心部のどこかに住むとされた伝説上の僧であり王)の失われたキリスト教国だと考えていた。この忘れられたキリスト教徒との関係を再構築しようという希望は、たくさんのイエズス会神父を1620年代にチベットや現在のブータンに送り込むことに繋がった。


◆1700年から1770年代の間はブータン(Boutan)という名前は、チベット(もしくはラサ王国)全体を表す「別名」として、ヨーロッパにて発行された複数の主要なアジアの地図に確認される。これらの中で最も重要かつ詳細な地図(1733年出版)ですら、General Map of Thibet or Bout-tan(チベットまたはブータン全図)というタイトルであったことからも、それは明らかである。18世紀前半にはイタリア人布教団がラサに居住し、はっきりと現在のブータンなどの現地名に言及した多くの報告書や手紙を書いていたにもかかわらず、これらの文書は文書館で失われてしまったらしく、地図作成者のところには届かなかった。つまり、1770年代まで現在のブータンはヨーロッパ製の地図に出現することはなかったのだ。そしてブータンという名前は、ブルクパBroukpaという名前で、チベット全域を一人で旅行した(現在のブータンには入域せず)18世紀初期の「探検家」、サミュエル・ヴァン・プットSamuel van Putteによって1730年ごろ描かれた美しいスケッチ画の地図に現れた。残念ながらオランダの博物館に保管されていたオリジナルは第二次世界大戦にて焼失し、現在はその複製しか見ることができない。


(3)チベットブータンの違いはヨーロッパ人にいつ認識されたのか

◆では、ドゥク・ユルは、いつ現在の西洋式の名前を手に入れたのだろうか?それは、ボーグルの通商代表団がタシルンポ寺にてデブ・ラージャ及びパンチェン・ラマと会見した1775年以降だと考えられる。なぜなら、1774年のボーグルに対する指令で、東インド会社総督のウォーレン・ヘイスティングスはまだチベットのことをブータンと呼んでいたし、ボーグルも最初のうちはこの2つの名称を混用していた。デブ・ラージャによって1774年の雨季のティンプーに4ヶ月留め置かれた後、ボーグルはブータンの政治的、文化的、宗教的特徴に対して明確な認識を持つようになった。パリPhari付近の国境を越えるとき、彼は(チベットとは)別の国にいるという認識を持つようになったのだ。パンチェン・ラマの邸宅に長期滞在することで、ボーグルは自分が2つの異なる国を訪問したことを確信した。最終的にボーグルがベンガルに戻ったとき、彼は総督に最終報告書を提出し、デブ・ラージャの国をブータン、高原の広大な国をチベットと正式に呼ぶことを提案した。


東インド会社の初代主席調査官であるジェームズ・レンネルJames Rennellは、ドゥアール地区を分割した人物でもあるが、直ちにこのボーグルの提案を受け入れた。フランス語綴りのBoutanを英語綴りのBootanにしたのはレンネルが最初である。そして、彼の作成した地図にてヒマラヤ山脈の南部をチベットから分け、ブータンとしたのも彼であった。ボーグルがブータンを「発見し、そう名付けた」のであれば、レンネルこそが、膨大な公式地図を1780年から1800年の間に発行することで、ヨーロッパにこの新しい国の存在を認識させた人物だといえるだろう。そしてこの時期、ブータンはヨーロッパ人にとって、「ベ・ユル(隠された国)」ではなくなったのだ。■