2009-04-18 基本、ブックマーカーの俺が散らばった文章をまとめる実験 
さて、司馬遼太郎を元ネタとして話を始めよう。
まず、司馬遼太郎は戦車乗りでした。
戦後はともかく、戦前〜戦争中の日本の戦車はとにかくしょぼかった(好きな人はごめんね)。
エンジンはディーゼルエンジン(ただし、技術的にはすさまじい)。装甲は紙のよう。
なぜか?日本には資源がないから。軽油安いし。
で、運転が無茶苦茶難しかった。戦車の運転手として、名人芸を問われた。
アメリカはどうか?
当然、ガソリンエンジン(しかもオートマ)。楽々前進。運転簡単。
司馬遼太郎は戦車乗りの一人として、米国の戦車と自国のそれを比べたとき、大変無念な思いをした訳ですよ。技術って普遍的なもので、優れた技術はそれを扱っている人間にはすぐに分かる。
で、この差はなんなんだろう?という話になる訳だけれども。
司馬遼太郎曰く、"文化"と"文明"の違い。今でこそ、日本のサービスは優れているけれども、戦前の日本は、"名人の文化"だった。「できないのは、お前がグズだからだ」という文化。タクシーの運ちゃんが「私は助手時代から一度も道を間違えたことがないのですよ」と威張れる文化(戦前の道路は、道は整備されていないし、道路標識もほとんど無かったので凄いことらしい)。
戦争中、すでにアメリカは、ベルトコンベアを採用したT型フォードの生産とかから始まる、機械の大量生産・大量消費の社会に入っていた。で、品質のバラツキをなくすため、品質管理をアホでもグズでも出来るように普遍的なマニュアル化、"文明化"した。日本の場合、品質は個々の情熱と自負心と技量に依存した"文化"だった。
日本は戦後、(サービスにおいて)、名人主義、"人はみな有能"という考えを捨てた。で、品質管理(QC)が、日本産業の基本的性格の一つになった。つまり、アメリカの"文明"を吸収して、日本"文化"にしてしまった。その結果、日本の航空会社のスチュワーデス(あえてこの語を使う)は(優しい)母親となって客を扱う、とは司馬遼太郎の弁。
まあ、大体、アメリカは移民の国であるから、モザイクのようにバラバラにまとまって住んでいる"文化"の違う住人達をまとめるには、普遍的な価値観の"文明"が必要だった面もあるかも知れない。
だから、アメリカは、"文明"的には優れているが、"文化"的には未熟、と言える。
だから、四つ足で一生懸命スタコラ歩く哀れなデザインのマシンを蹴り上げることが出来るのだ。Yes, We can !
参考映像→http://www.youtube.com/watch?v=W1czBcnX1Ww
じゃあ、日本文化の本質って何よ?という話になるわけだが。
まあ、俺辺りが簡単に説明できれば、誰も苦労はしないよなあwとは思いつつ、適当に私見を書こう。
結論から先に書くと、「禅的構造への落とし込み」だと思う。
じゃあ、"禅"とは何かというと、Wikipediaによれば、「ただひたすらに(坐禅を)実践せよ」とか「以心伝心」とか「言葉でなく体験」みたいな説明が出てくる。要するに、「空気読め」ということだと思う。多分、それが、日本人を日本人たらしめている。
「禅的構造への落とし込み」の例。
例えば、日本庭園の枯山水庭。とか言うと俺にもよく分からなくなるので、例えば、漫画とか。
昔の劇画でもアメコミでもバンドデシネでもいいのだが、基本的に良く描き込んである。でも、劇画は廃れ、現在の日本では、あまり描き込まれていない、もっとシンプルな記号化された漫画が主流だ。
これが何を意味するか?
まず、描き込むだけの時間がない、という面はある。つまり、「資源が少ない」のだ、我々は。島国は。で、例え結果的でも、描き込まれていないということは、紙に染みついたインクの量は少ないということである。ということは、それだけ、"何を紙に染みついた少ないインクにするか"考えなければならない。その結果、"何を書くか、どの線を選ぶかなどを作家が(生き残るために)魂を込めて選択しなければならない"(もちろん、適当に描いている人もいるかも知れないが、読者を脱力させるための線や展開などの構造を(無意識のうちに?)選んでいると思う)
で、アニメも描き込みの量が少ないわけだが、ストパンの監督は、エヴァンゲリオンの庵野秀明に「お前の描くパンツには魂がこもっている」と褒められたわけだ。
ゲームもそう。わびでもさびでも萌えでも良いのだが、日本の強みは現実の換骨奪胎と記号化であり、「逆に要素を少なくすることで、対象者に想像力を使わせる」のだ。禅的構造への落とし込みとは、「対象者に想像力を使わせるための魂のこもった取捨選択」だ。小さくまとめ上げる。美を追究する。そのために職人は技を磨き、我々は空気を読む。
で。
ハッカーの話になる。
「ソフトウェアは工業製品ではない」、Rubyのまつもと氏が講演 " @IT
http://www.atmarkit.co.jp/news/200904/10/matz.html
つまり、まつもと氏は、名人主義だ。
まさに、ハッカーとは、名人主義だ。
そして、はてなでたむろしている連中も、名人主義だ。
だが、そこが彼らの、我々の、日本人の限界性でもある。日本の技術者のかなりが未だに、紙のような装甲と、ディーゼルエンジンを装備し、精神を病むほどの"根性"で、自分を、現実を、だましだまし、日々を戦っている。
とは言え、泣き言や呪詛を並べても仕方がないのだろうが。
ソフトウェア工場は失敗だった?
どうだろうか。歴史で繰り返される技術者の奢りであるかも知れないという疑念は?
正直、アメリカなら、やりかねないのではないか?
そのうち、ソフトウェア設計を合理化/普遍化/文明化/マニュアル化し、アホでも作れるようにしてしまうのではないか?
大抵のソフトウェアが適当に注文するだけで、9割方、自動生成されてしまうとか。しかも何回もやり直し可能。
俺はそれを恐れる(そして、楽しむ)。
現に、アメリカ発のインターネットというテクノロジーで、編集者は青息吐息ではないか。多分、思いも寄らない方向から、必殺の一撃が来る、と考えた方が自然ではないか?
そいつは、非人道的に、無慈悲に、機械的に我々を殺しに来るのだ。我々は合理的結論で殺される。OK.原爆はアメリカにとって合理性があったのであろう。殺される方はたまった物ではないが。それが村上春樹が恐れているものではないか。しかし、"技術革新は誰にも止められない"。
果たして、アホに生きる権利があることを許さない、名人主義のその狭量さが、限界性を作っているとしたら。そして、よりハッキリ言えば、技術バカ(ギーク)がやり手の営業マン(スーツ)に負けるように、好きでやっているアマチュアがプロフェッショナルの作った構造的罠に負けるように、負けるのが宿命づけられているとしたら(日本vs欧米のスポーツもか)。
もっとも、人間はどこかしらの部分で優越感を感じていないと生きていけない生き物であるから、腕のある人間はアホに優越感を感じて、差別して、見下して、生きているのだろう。底辺の人間が、例えば、外国人に優越感を感じて、差別して、見下して、生きているように(繰り返すが、それを自覚し、どう振る舞うかが重要なのであって、その感覚を無くせなどとは言っている訳ではない(というか、存在論の部分に関わってくるので無くせない)。どうプラスに活かすか。"かわいげがある"というのは、見下しているが、プラスの評価だ。だから、日本が"カワイイ"文化で世界に浸透してしまうというのは、結果的に正しい。日本人は連中に"文化"を教えねばならない(←ネトウヨの勝手な思い込み))。
それに、穀物を育てながら、畑を保守しながら、計画に戦略にロジスティクスにストラテジーに取り込まれて生きるのではなく、その時々において、メシの種(獲物)を見つけて狩りをする戦術や技術やタクティクスやアートや道(タオ)を追求するというのも一つの生き方であろう。男だね。侍だね。無形の型。戦略などないので強い者だけが生き残る。生き残ったから強い。まさに逆転の発想。なんということでしょう。匠の遊び心が光ります。お前ならどこへ行ってもやっていけるさ。じかい、ほくとのけんつ〜!奥義、万物流転!誰だ、日本人は農耕民族だから、みたいなことを言ったやつは。責任者出てこい(とは単純には言えないのだろうけど。経済は生き物で、強弱の違いこそあれ、両面の才能は必要だろうから)。
・・・・・・少し落ち着きました。
さて、では、はてなは、どんな立場を取るのか。
名人主義のSNSへ向かうか。2ちゃんねらの底辺にいるようなアホの流入を前提にして、文明化するのか(一時期、そちらに傾きかけた・・・というか、あの時のはてな社長は血迷っていたのだろうか?)。今は、どちらでもない、なんだかよく分からない、迷走している状態だ。
それとも、近松門左衛門が虚構と現実のはざまに真に我々の心をうつものがある、と言ったように、迷走状態のはてなであるからこそ、我々の心をうつものがあるのだろうか?"不満を言う楽しみ"。"馬鹿な子ほどかわいい"。"灰色の魔女(違う)"。なんかね〜、"相手の優越感をコントロールする"のがサービス業だとしたら、『あたしは、はてながどうしたっていいと思うし、何も言わないわ。はてなはよくやったと思うもの』ですよ(と、また話が明後日の方向へ)。
2009-01-17 ”JRPG戦略の失敗とPS系の復調”のコメント欄の議論について 
実験で、トラックバックさせていただきます。
下記の記事のコメント欄の議論について。
http://gamenokasabuta.blog86.fc2.com/blog-entry-1009.html#comment-top
■JRPGの"作業感"について
・JRPGの作業感を逆手にとるゲームの存在。「俺は作業が楽しいんだよ!」という、JRPG→日常系作業ゲームへの進化。
■抽象化と編集性(要所を切り取る技術)について
・「玉を遊ぶのがゲーマーであって、玉石混淆の中から玉を探し出す作業なんて、やりたくない(DAKINIさんの記事より)」とすると、"模するべき現実"が玉石混淆である以上(→現実はクソゲーという意見)、それのコンピュータ上での再現を目指している(過去形かも)、洋ゲーをやりたくないゲーマーがいるのは当然と言えば当然ということになる。また、それ故、洋ゲーの世界観は"野放図"になりやすい。そして、それを嫌う人もいる。ただし、コンピュータ上で再現される理不尽性は、デジタルな悲しみを生んだりする。
・例えば、「ペルソナ4」は、時間の流れがカットされ、テンポ良く流れていく(詳しくは遊ぶか、ニコ動で見てください)。アニメ的ラノベ的漫画的世界観のゲームとしてJRPGを生き残らせる方法論。
・日本の場合、"現実の要所(快楽のツボ)を切り取ってゲームにする技術的なもの"が高い。昨今は欧米も日本の良さを"学習"しているが、まだ日本に一日の長があるような・・・。というか、元々の思想(西洋人なら、禅の思想とか言いそうですが)のベースが違うため、有限性を活かすコンパクト化は多分、日本人の方がうまいと思います。そして、昔は、コンピュータの性能の有限性が"足かせ"に、現在は、割くことが出来るリソース(主に資金)の有限性が"足かせ"になっている。
■"境界"の面白さ
・欧米ゲームは、一人称視点と三人称視点か、割とハッキリしている。日本のゲームに多いタイプは、プレイヤー=主人公ではなく、プレイヤーが主人公という他人にどれくらい感情移入できるかという点であり、重視されるのはキャラクター性(→アニメ的ラノベ的漫画的世界観)である。
・例えば、"現実と虚構"、"アートとエンタテイメント"、"自分と他人"などの境界をうろうろして、そこに面白さを見いだすのが、伝統的な日本の価値観なのかもしれない(→近松門左衛門)。つまり、ブログより2ちゃんねるの方が日本的とか。
・多分、"これからも"JRPGは、"ストーリーと自由度(言わずもがな)"、"リアルタイム制とコマンド制(一人で多人数を操作したり、(ネットプレイなどで)しなかったりするわけですから)"の境界をうろうろしている感じが多大にしますね。
■"チャレンジと伝統"の境界について
・旧来の方法論は、"海外からの新しい文法の輸入により見直しが計られる"のが日本の伝統ではないかと。
・モンハン(と前身のPSO)により、かなりJRPGの文法自体の見直しがされたと思います(もちろん、まだまだ課題は山のようにありますが)
・・・電波が多分に入っていますね。まあ、かなり考えを圧縮したということで(笑)
2008-12-06 レコーディングとディファレンス・エンジン。というかライフハック 
久々にブログを書こうと思ってこのブログを開いたら、トラックバック欄が荒れていたのでワロタ。
コメント欄を閉じていて正解だったw
まあ、著名人にケンカを売ったり、ネトウヨを名乗って、はてなで多いとされている左翼の皆さんにケンカを売ったりしている訳だから、そりゃ、荒れるよなー、と思う(追記:勝てるケンカだから、という意識はない。そこまで相手をなめていない)。もちろん、これからも好きなことを言っていきたい訳だが、今日はちょっと思ったことを書いていきたい。
で。昨日、岡田斗司夫氏の「いつまでもデブだと思うなよ」を読了した。
非常に早く読めたし、読みやすかった。本の出来もすばらしいと思う。俺は岡田氏を誤解していた部分があった。この人は非常に頭が良いと思う。ただ、俺は、敬服する人間に出会った場合、全面的に信仰状態になるのではなく(以前は「それがあれば大丈夫」的万能薬を探して彷徨っていた)、「生身でサシで向かい合って、この人に勝てる自信がどうやれば出来るか(何を持って「勝ち」とするかは俺基準による)」方法を探すことにしている。が、今のところ、正直、勝てる自信がない。今後とも分析していきたいところではある。
閑話休題。
さて、ご存じの通り、この本は岡田氏が初めて書いたダイエットの本で、馬鹿売れした。
ただ、本書を読めば分かるが、人生の問題や困難をうまく乗り越えるためのツールとしても使える。
その辺が、この記事のタイトルにあるライフハック的な話になる。
「ライフハック」はすでに一部では自己啓発的な物に弱い人達を揶揄する、笑いの対象になっている訳だが、まあ、正直、笑いたい人は笑えば良いんじゃないかなと思う。うん。大いに笑うべきかも知れない。いや、別に、夏目漱石が「向上心のないやつは馬鹿だ」と言っていたよね?とか反論するつもりもないし、もともと「ライフハック」を馬鹿にし始めた人達は、タモリの「やる気のある者は去れ」という言葉が好きなタイプの人達だと思う。そして、その間をふらふら浮遊している浮遊層がいて、得な方について、もう一方を馬鹿にするみたいな状態が続いているのが今の状態なのかも知れない。いずれにしろ、物事は一つの価値観で割り切れないと思う。両者を俯瞰した上で、自分なりに判断して、自分の適切な位置を探すのが賢いやり方のような気がしている。
・・・脱線しまくっている訳だが、では、岡田氏の唱えるダイエット法とはどんなやり方か?
とは言っても、すでに有名であるが、レコーディングダイエットである。
一応、説明すると、その名の通り、最初は、何を食べたかをメモに書いていく。
次の段階として、カロリーを書いてみる・・・といった風にステップアップする。
まあ、そんな感じのダイエット方法である。
で、なぜそれが、「人生の問題や困難をうまく乗り越えるためのツール」として使えるかというと、要するに、ダイエットの方法論に通じる物があるからである。と書くと、偉そうな人生訓や「がんばれがんばれやれば出来る」と気合いの問題を無名の俺が語り出すと誤解される方もおられるかも知れないが、本書を読んでいる人には分かると思うが、全く逆である。
結局、レコーディングの名の通り、基本はまず「記録を採ること」を続けること自体が非常に重要であるということだ。
「なぜ、記録を取るだけで痩せるのか?」
要するに、記録を採っていくと、(主に)無意識的に太る行為を避け出すらしい。また、記録を採るのが面倒だから、これは食べないでおこうという意識も働いたときがあった、みたいなことも書いてあった。また、いわゆる「見える化」的効果で、自分の食習慣が理解できる。こりゃ太るのも当然だ、と理解する。じゃあ、改善できるところはないかな〜、みたいな感じで話は進んでいく。
基本的に記録を採るだけなので、無理はしていない。ただ、「行動は、習慣を作り 習慣は、人格を作り 人格は運命を作る」。「無理のない行動を習慣化する」のがミソなのだと思う。
で、例えば、自分がある問題や困難を抱えていたとする。要するにそれも、レコーディングで解決できないか?という話である。毎日毎日、直面している問題や困難の記録を付け、たまに読み返す(解決策を無理矢理ひねり出すような努力はしない)。ある日、ふと、小さな発見をする。気づく。あれって、こうすれば良いんじゃないかな?あれってこういうシグナルだったのか。個人的にちょっと思うのだが、機転が利くやつ/要領の良いやつというのは、「気づくこと」「気づき」の強化学習(ドーパミンが出て、神経回路が強化されるというアレ)を幼い頃からやってきているから、無茶苦茶「気が利くやつ」になるのかも知れない。では、意識的にやれば学習効率が違うから、今からでもやれば、それなりに自分も「気が利くやつ」になれるのではないかというのが一点ある。
まあ、それはともかく、記録を採ることによって僅かな変調、つまり、「差違」に非常に敏感になるのではないかと思う。
それが、タイトルのディファレンス・エンジンの話である。SF小説とは関係ない。残念でした。申し訳ありませんでしたー(営業社員のように)
「僅かな差違に気がつき、その差違がどういう効果をもたらすかまで想像できるようになる」そして、「自分と相手の差違がどこにあって、どうすればその差を埋められるかに気づき、その差を埋める方法を試したくなくなって仕方が無くなる」つまり、「差違による原動力(モチベーション)」。ディファレンス・エンジン。
まあ、ただ、個人的には「たまに読み返す」のは案外重要だと思う。三人寄れば文殊の知恵と言うが、昨日の自分と今日の自分は違う(「生物と無生物のあいだ」によると、かなり短い周期で人間は原子的/分子的にも完全に別の物になるらしいけど)。つまり、擬似的に何人もの別人を作り出して全員で問題を検証する。
だから、日記を付けるとか、ブログをやるとかという行為は案外重要なのかも知れない。もちろん、公開すれば、インターネットの恩恵は受けられるが、個人的な問題を公開しても自爆行為だと思うので、ブログをやる場合には内容に十分気をつけるべきであろう。昔から、日本人は日記を付けるのが好きと言われてきた訳だが、確かに悪いことではないのかも知れない。
書くことのないやつは、ある程度自分から困難に挑戦すべきだと思う。で、記録を付ける。体と違って、人格は自覚して鍛えないと、いつまでも子供のままである。もちろん、重すぎず、軽すぎず、適度な負荷をかけるべきだし、その辺は自分で調整すべきだとは思うが。このまま、40,50代になると思うと怖すぎるなー、などと自分でも思う。
2008-08-09 ダークナイトの感想(ほとんどバレなし) 
今日は、バットマンの映画「ダークナイト」をレイトショーで見てきました。
どうも、褒めるような感想になりそうもないので、ひっそりと自分のブログに書き残したいと思います。例のごとく、あまりネタバレしない方向で行きます。
元々、某レビューでやけに点数が高かったので、最近個人的に映画づいているし、いっちょ見てみるか、という感じで見てきた訳ですが、アメリカ人がアメリカ人のために作った映画だという印象を受けました。その辺を踏まえてみれば、この映画は面白いのかも知れません。素直に娯楽としてみた場合どうなのか?日本人の場合、あえて見たい人が見るべき映画、というべきか・・・。まあ、個人の趣味は色々なので、何とも言えない部分はありますが。
まず、今回もジョーカーが敵役なのですが、これが鬼のように強い。いや、多分、悪意ある神(クリエイター)の手先と言った方が正確か。とにかく、理不尽な悪役補正を感じる。バットマンは、有り余る金と最先端のハイテクで武装している訳ですが、これを文字通りあざ笑いながら、台無しにしていく。
素直に受け取れば、バットマンはアメリカ、ジョーカーはアメリカが立ち向かっている現実であり、米国の観客はバットマンに感情移入するのでしょう、多分。スーパーヒーローになれないヒーロー・バットマン。現実に存在していないスーパーパワーの代わりに、現実にある現ナマとハイテクで武装し、泥沼の現実と戦うバットマン。大切な人を失ってもフェアに戦う(追記1:いや、フェアに戦おうとする、か。)バットマン。(←この辺が私からすると、えーっ?って感じがするわけですが。ただ、アメリカが比較的フェアな国である/ありたいと思っているのは確かだと思います)神様はとても意地悪だ。ジョーカーのようにバットマンをあざ笑っている。
娯楽として生まれたヒーローが絶望的な現実や閉塞感と戦う。そんな感じの印象を受けました(追記2:そして、ヒーローと絶望的な現実や閉塞感は写し鏡になっている)。まあ、確かに今のアメリカは結構暗い時代ではあります。人物達の周りをやたらぐるぐる回るカメラ、不自然感のある立体音響の使い方は、はっきり言って不満でした。良かったのは、シナリオがやたら良く計算されていて、情報圧縮度のすばらしかったことと、ラジコンが欲しくなるメカとかですかね。
しかし、アメリカという国はスーパーヒーローにやたら思い入れがあるんだなあ、と改めて感じました。この映画の前に上映された予告編の刑務所に入るスーパーヒーロー物とか、結構、広告を見かけるアイアンマンとか、まだまだ公開されそうですし。アイアンマンに関しては、ありゃ宇宙刑事ですね。米国発の巨大ロボット物を見れる時が来るんだろうか?そういえば、ロボコップの新作も作っているみたいですが。・・・話が拡散してきたので、ここまでとします。
2008-08-02 スカイ・クロラの感想(ほとんどバレなし)など
■スカイ・クロラの感想(ほとんどバレなし) 
とりあえず、朝一でスカイ・クロラを見てきたので、その感想をいくつかの場所に貼りました。
ポニョは「興奮」でしたが、スカイ・クロラは「感動」でしたね。
具体的には、下のところに、以下の内容を貼り付けました。
http://tmp7.2ch.net/test/read.cgi/asia/1216821120/399
http://anond.hatelabo.jp/20080802161808
今日は、押井映画スカイ・クロラを見てきた。
エンタな作りだったし、非常に良かった。途中で寝なかったw
ポニョがアドリブの固まりなら、こちらはまるで推理小説の様に理屈で綿密に
構築されている様な作りだ。
イノセンスは、世界に広がりがなく、小さな事件で終わってしまってがっかり、
みたいな部分があったが、今回は違う。舞台装置たる世界設定が良く
できているというか、世界(認識)に対する説明自体が、「推理小説を解くように」
「SF小説を読み進めるように」映画になっている感じ。
CGと手書きアニメのギャップは相変わらず。いや、さらにギャップが大きくなって
いる。具体的には、CG中心の時は実写的なカメラワークを使っている。チャレンジ
としては面白いかも知れないが、正直まだこなれていない/未完成感はあった。
ヒロインの最後の笑顔は、なるほど、そうやって人は年を取っていくのか、という感じ
だった。パンフまで買ってしまった。(ポニョは買わなかったんだが)
そう。あと、映画館で見ると飛行機の音が凄い。迫力が違う。
興味のある方は映画館で見るべきだと思う。
追記:原作未読です。念のため。(追記を書こうとしたら、記事を削除してしまった(汗。)
