震災半年に思う

 当初、死者数8万5000人なんて、某海外メディアが報じていた。国内のメディアも3万人超えは確実と伝え、明治三陸津波を超えて、明治以降の津波災害では最悪の記録となると、私も思っていた。

 結局、死者・行方不明者数は2万人を割り込む見通しだが、この震災がもたらした傷跡の深さは死者数に関わらず、私たちの心に決して消えることのない擦痕を残し、のちのちまで引きずることとなるだろう。

 あれから半年。北海道から千葉までの沿岸部に大津波を引き起こした超巨大地震が起きたのは、冬の終わりの3月。春を迎え、夏を過ごし、秋風が吹き始めた東北の人々は、何を見て、何を思い、何を将来へ託そうとしているのか。

 テレビでみる震災半年特集番組は、ガレキの片づけは終わったけれど被災者を取り巻く環境に大きな変化がないことを伝えていた。私は岩手県陸前高田と大船渡しか行ってないが、三陸沿岸部をほぼ全域網羅した同僚は、多少の差はあれど、どこもかしこも壊滅状態であることを、ため息混じりに語っていた。

 半年程度では復興はこれが限界なのか、それとも政府や行政の対応に不手際があったからというべきか。

 どちらも間違いではないと思う。でも私は、これだけ生活が豊かになった日常に襲いかかった自然災害の凄まじさに、人々が理解・順応しきれず戸惑っているのではないかと見ている。

 明治三陸津波のころは、建物は木造かやぶき屋根が当たり前で、鉄筋コンクリートなんてものはない。漁船もすべて木造で手こぎ、遠洋漁業どころか近海で獲れるサケやアジやイワシ・サンマ、浜で拾えるワカメ・コンブ・ウニで、人々は生計をたて、自給自足の生活をしていた。

 津波で家々は流されたが、高台移転も新築も、すべて自前でやっていた。建築業者や左官屋など、それを専門にしている職人などいない。漁師は農家も兼用し、ときに大工になったり土方になったり、石工にも早変わりしていた。

 だれもがオールラウンドプレイヤー。だから復旧は早かったし、人々の絆も深かった。

 もちろん、復興資金にこと欠いたことは想像できるが、ひとびとは裕福な生活より、安全で安心できる暮らしをこそと、そのために汗を流した。駅の近くだの商店街に行きやすいところだの、学校のそばだのといった要望がネックになって、復旧が遅れたケースがあったかどうか。

 「生きられること」が絶対無二の条件であり、生き残った人たちのすべてだった。

 いまはどうだろう。

 明治期とは格段の差がある生活環境。しかも明治三陸津波より死者数は少ない。にもかかわらず、当時より復興は遅れていると見てよさそうだ。

 生きられるという条件はクリアした。次は? さらにその次は? 人々の要望に際限はない。震災を契機に、あわよくば震災以前を上回る環境と行政サービスを得ようという下心がちらつく。

 それがいけないとはいわない。むしろ、与えられて当然だと思う。彼・彼女らは地獄を見て命拾いした人たちだ。

 ただ、何かが歪んでいるような気がする。度重なる津波災害を乗り越えた、たくましき人たちの子孫なのに、奇跡の復興をなしとげた先人とは、微妙なズレがあるように思えるのだ。

 その正体はなんだろう。いつか見えてくるかもしれないが。