教わったことは全部仮説と考えると良い
研究にまつわる考察や実験、ディスカッション中でのコメントなど全て含めて、タイトルの通りだと思う。言い換えれば、教わったことも全て自分で確認するまでは疑っておくと良いだろう、ってこと。*1
先生の気持ちを考えたら、そうなるはず
学生が学生に教えたり、学生が先生に教えたりすることもあるんだけど、ここでは便宜的に、教える側・コメントする側のことを「先生側」、教わる側・コメントされる側のことを「生徒側」と呼ぶことにする。
先生側の気持ちとして、コメントした言葉を全て「正しいこと」と受け止められると気持ち悪い。そうじゃなくて、こうすることになっている、こう考えると良いのでは、というコメントを材料・踏み台にして、勉強や考え、研究を発展させてほしいって気持ちだけなんだと思う。
また、先生側も教えるってことは常に「試されている」ってことでもある。教えるトピックに関して、単純な知識量で学生側に引けを取るわけにはいかないし、ベーシックな思考力・判断力、議論の別れる部分に関する意見についても説得力のないことを言うわけにはいかない。だから、勉強するし、教えるときも、「答えを教えている」なんて思えないだろう。
生徒側は「仮説と考える姿勢」があらまほしい
生徒側は、「無条件に正しいこと」を教えられることはなくて、全て「その人の意見・知識」であり、自分で実際に確認したり、考えて判断するまでは、「全て仮説」と考える姿勢があらまほしい。
んで、上記とか下記のような理由から、生徒側が「教わっていることは仮説なんだ」と自覚的でいられれば、先生側も生徒側もハッピーに過ごせそうな気がする次第。
以下は、細かいし、脈絡もないけど一応書いとく。
後輩の指導でいつも思うこと
後輩に指導するとき、どこまで教えるのが良いのか、というのが常に頭にあるし、教える量の過不足はいつも反省する点でもある。*2
で、先生側には生徒側を見た適度な「教える分量」があると思うんだけど、最近よその先生に研究手法について教わってて思ったこと。
教わったことの一つ外まで勉強する・考える
その先生は、「言ったことを全て鵜呑みにされる」のは望んでいないだろうと思う。
むしろ、その先生としても、自分の持つ知識を分け与えた学生が、それ以上に勉強し、新しい知識や論文を見つけて持ち帰ってくることを期待しているはず。*3
んで、究極的には、「先生も知らない知識を、世界で最初に見出す」ことが期待されてるんだと思う。だから、教わったことは、自分でも確認してみて、それに何か新しいことや面白いことを付け加えて先生に返したいと思ってる。
「先生は正しいことを教えてくれる」と考える生徒側の場合
一言で言えば、研究しないほうが良い。学部生・修士の場合、博士課程進学はやめたほうが良いと思う。この辺は長くなるのでまた今度。
99.9%は仮説、という本もあったな
竹内薫の本で言ってたことの通りだなーと思ったけど、中身は覚えてないや。本のタイトルどおりなんだろう。
99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)
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仮説の使い方、ビジネスの場合・研究の場合
完全に違う話だけど。
ビジネスの場合は*4、「企画段階での仮説」を元に、お金や企業体のためになる成果を求められる。仮説そのものが正しかったかどうかってのは、事後的な重要性は低いんだろう。
研究の場合は、仮説を元に検証をしにいくから、仮説そのものの確かさ・不確かさが問題になるはず。仮説思考って言葉があるけど、ジャンル・目的によって使い方が違うのかな。