第12回ナディマスタートランスミッションスタディシェアiiii(冬プロジェクト4次元)

4次元ナディは私にとっては「迷宮」のテーマそのものでした。

「人は迷宮で迷う(自らを見失う)のではない。人は迷宮で自分を見出すのだ。
人が迷宮で出会うのはミノタウロスではなく、自分自身である

迷宮というのは、「人を迷わせる場所」と思われがちですが、人を迷わせるための道路は迷路であって、迷宮というのは、一筆書きで道が走っているある特定の構造をした若者のための一種のイニシエーションの場所で、トロイアクレタなどの都市に必ず存在していた、ということをナディを受ける前に思い出しました。

そのきっかけが、最近読んだ「迷宮」を巡るイエスマグダラのマリアの物語でした。

実はナディは受けるかどうか迷っていたのです。というのも、ナディの日、とある宝石の講習会を受ける予定になっていたためです。

しかし、その数日前、たまたま開いた本の中に、ルシファーと宝石がとても深い関係にあるという記述を目にして、「う〜ん、じゃあやっぱり宝石講習会にもナディにも出た方がいいのかな」と思い、とりあえずナディの時間ぎりぎりまで、そちらの講習会にも出ようかと思っていました。

でもやっぱりナディ当日は結構ナーバスになっていました。
しかしその日の朝ひいたカードが「安心と安全」のカードだったので、まあ、大丈夫だろうと思って当日を迎えました。

で、いよいよ夕方からまず宝石の講習会。

講習会を受けるうちに私はどんどん混乱してしまいました。
この講師の方の主張をまとめると、宝石にはパワーがあり、「正しい」宝石を身に着けていれば人間の「本来の」潜在能力が発揮される。だから私はこうして宝石の正しい使い方を多くの人に無料でお教えしたい、というものでした。

確かに講習会では、宝石のエネルギーによってワインの味が変化したり、身体の不調が癒えたり、どんどん実証的な効果を体験させてもらうのですが、どうしても分からなかったのは、講師の方が何度も言う、
「皆さん、これは宝石の力ではありません。皆さんそれぞれの力を宝石が引きだしているだけです」という部分と、「宝石にパワーがある」という部分。
力があるのは人間なのか宝石なのかが、だんだん混乱してきて分からなくなるのです。なので、ある瞬間は、この講師の方の言うことにうなずくことができても、別の瞬間には「え?」と首をかしげたくなり・・・ということの連続。
もちろん、「人間性が一番ですよ」とか「例外はあります」といったことは言うのですが・・・。

途中参加者のひとりが、「人間性と宝石の力とどちらが先ですか?」と質問された時、その講師の方が、「まずは宝石で潜在力を出して、その後成長をすればいい」と答えたのを聞いた時、私の中では「ああ、これがイカロスの翼か!!」と思ったのです。

イカロスも迷宮がらみの登場人物ですが、迷宮に閉じ込められてしまった時、蝋でつくった翼で脱出しようとして、その翼の力を過信して結局海に落ちてしまったという話になっています。

イカロスの翼というのは、ある意味では「宝石」と似ていると私には感じられました。あるいはルシファーエネルギーと。

つまり、本当は自分ではない力に依存させているのに、自分の力でできているのだと思いこませるものでもあるのだなと。


確かに宝石は、力を与えてはくれます。しかし、それは多分イカロスの翼のようなもので、迷宮のイニシエーションを避けるためのショートカットでしかなく、最終的には進んでいるようで大きく退化する(=海に落ちる)ことになりかねないものではないかと私には思えたのです。

また、この講師の方が再三言う、「昔は人間は自ずとこうした超能力を発揮していた」という言葉にも引っかかりを感じていました。
じゃあ、「そうした力が私たちからなぜ失われてしまったのか?」という問いへの答えが最後の最後まで分からずじまいだったことです。
おそらく、ルシファーもその答えは決して答えられない/答えない存在なのではないかと私は思いました。


気づきのない、意識の進化や成長のないままに与えられた力は、イカロスの翼。自分自身で獲得したわけではない偽の翼なのではないかと私には思えました。

でも、こう思ってしまうと、昨今色んなところで手に入るありとあらゆるヒーリンググッズが、とっても疑わしいものに感じられてきて仕方なくなりました。あれもこれも、いままで信頼していたものがほとんどすべて、イカロスの翼のようなものでしかないような気がしてきて。。

そういうわけで混乱の極地の中、講習会を中座して電車に乗って帰りました。
その途中、どうしても読みたいと思って、例の迷宮の出てくる小説を開いたのです。
読もうと思った場所は、アリアドネテセウスによるミノタウロス退治とその後のくだりが書かれている場所でした。
この小説では、アリアドネ=女神的なもの/マグダラのマリアテセウス=キリストのプロトタイプとして書かれています。

アリアドネの糸によってテセウスは迷宮で道を失うことなくミノタウロスを退治することができます。しかし、その後テセウスは、アリアドネと結婚するという当初の約束を果たさずにアテネへ帰国してしまうのです。
その理由が、アリアドネに求婚していたディオニソスのパワー(神威)に怖気づいたからとこの小説の作者は解釈しています。

最終的にアリアドネは、態度を変えたディオニソスの妻となり女神として空へ上げられます。
「報われない愛は本当の愛ではない。犠牲は愛によってしか報われない」
と気づき、自分が助けたテセウスがその愛に報いないのなら、それは真の愛ではないと気づいて、自らのディオニソスの求愛にこたえるのです。

一方、テセウスは、自分の下した決断に後悔しながらも、その後悔を糧にして偉大な王になったと小説では書かれています。

"The great loss made him a great leader."

このくだりを読んだときに感じたのは、「自由」の大切さでした。

つまり、テセウスディオニソスにおどされつつも、結局は自分の意志でアリアドネをあきらめてしまったのです。
しかし、自分で下した決断だからこそ、「後悔」が育ったのだとも言えます。もし、ディオニソスが力づくでアリアドネを奪うなどやむをえない外的な理由であきらめた場合には、多分テセウスの中に後悔の感情は芽生えなかっただろうからです。それどころかテセウスは責任転嫁してしまったことでしょう。

つまり、本当に自由意志で選んだ道なら、それがたとえ失敗しようとも必ず学びにつながる。

しかし、他者の導きやガイダンスに従っていると、あるいは、強制によって変化させられていると、いつでも責任転嫁する余地が残る。
だから、「自由」によて選んだもので「間違っている」ものは究極的に存在しない。
それがたとえ人間の目に(私という人間の目に)どう映ろうと。

そう思うと、真の意味で私は他者の自由意志を尊重していたことって、今までほとんどなかったように思います。
執着を愛と間違えていたのです。

(実はナディと前後して、私の選択にいちいち間違っている、正しい、と判断を入れてくる人との関係性が疎遠になっていったのですが、その人もまた私の「影」であったのでしょう)

「博愛」というテーマですが、この小説の迷宮の物語で、アリアドネテセウスをあきらめきれずに煩悶していたのが、最終的に「報われない愛」のレッスンを卒業してディオニソスの妻になると決めるのも、愛は愛によって報われる、報われない愛というのは、ないという確信があったことに関して、もう犠牲の時代ではないよ、と言われた気がしました。
なぜなら、キリストによって相応の愛のエッセンスが万人に既にもたらされているから、と。

あと、「平等」のテーマで感じたのは、迷宮は一度入ったらすべての人が必ず隈なく歩き尽さなければ出られない構造になっていることとも関係していると思いました。そう、そこで近道や抜け道はないのです。だから、どのように見えたとしても、迷宮は万人に等しくあらわれるものなのだということです。

ただ、迷宮を苦しいものにするか否かは、その人次第でもあるのだと思います。
「迷宮で人は自分自身に出会う」
このことさえ分かっていれば、幻影に惑うことはありません。


4次元(迷宮)で自分自身に立ち向かうためには、真剣さ、そして真実と愛が必要だと思いました。

迷宮では、真理を散りばめた偽の光こそが最も混乱させるものなのかもしれないと思います。
その光は、霊的成長は次のステージでいいよ、さしあたって力を開花させなさいと誘い、イカロスの翼を与えて迷宮から目をそらそうとします。

4次元で一番怖いことは、自分で自分の気持ちが分からなくなること。
なぜなら、真実だと自分が思ったものも、段階を経ると時時刻刻と変化していくから。だから、その時点で自分が「真実だ!愛だ!」と思った者も、変化していく。でも、この変化こそが迷宮を歩む歩みそのもので、そこをすっとばしてしまうと、本質にはたどり着けない。

キリストが悪に打ち勝ったというのは、まさにこの自分の中にある迷宮を隅々まで歩き尽したということなのだと思います。
そしてそれは、(女神的な存在の)愛の力(アリアドネの糸のような)によって可能になったことであったのでしょう。

4次元(迷宮)で出会うすべてのことやものが、自分自身の一部なのだと思って向き合う限り、虚偽は消える。影は、むしろ真実に近づいていくためのステップボードでもある。そして、行動のための勇気は愛が与えてくれる。

影を避けるイカロスの翼の危険性というのは、愛を受け取って上昇するのではなく、力によって上昇しようとする点にあるのではないでしょうか。
それこそまさに中途半端な上昇(進化)の苦しみです。

だから、迷宮を抜ける一番の安全で安心な道は、味わい尽くし、隈なく歩き尽すことでしかないのです。どうせそこは、一筆書きの迷宮ですから、必ず抜けることができるものでしかないのです。
それは自分の知らない自分を見つける歩みであり、こわいけれど必ず頭上にはマリア様の月が輝いて見守っているのです。

4次元の真の恐怖は、「それは私じゃない」という否認が生み出すのでしょう。

進むことを恐れて別の道を探そうとしたり、自分自身を否定するとき、迷宮が本当に地獄になってしまう。そしてこの「否認」こそが記憶をなくしたり、分裂人格などの精神の病の根源にあるのかもしれないと思います。

改めて私は、「間違わないこと」に躍起になっていたと気づきました。
間違ってもいいのです。それがそのときの「真実」なら。

本当の真実に到達するためには偽りも経験しなければならないから。
真実に到達するためにあらゆる部分でルシファー的なものと対峙する必要がある。
自分で体験してみなければわからないし、自分の感情を信じなければわかならい。
ほんの少しでも他者の意志を入れてしまうなら、どんどん成長の機会が失われていくのです。それが、依存の真のこわさなのです。

昨今、「水瓶座の時代は黄金時代」というような、オーバーポジティブな言説をよく耳にするのですが、それは一面の真理ではあるけれど完全な真理ではないと思います。
良く言われるのが、魚座の時代的な苦しみや苦難はもう必要ないよというメッセージ。
それは確かに真理ですが、苦しみにも意味があり、それを知って初めて苦しみは真に手放せるのです。そこまでいって初めて、真に手放したと言えるのでしょう。そうでなければ、苦しみから目をそむけさせるだけの麻薬なのかもしれない。
意味(なぜ?)や気づきなく進化や上昇を煽るのは、だからこそ危険なのではないかと感じています。


まがい物の天使の翼(イカロスの翼)では、太陽の光に焼かれてしまうのです。

今までは傷は癒すことができれば善であると思っていましたが、癒すというのも様々な段階があると思います。
悪いものを取り除いてもらって満足という段階。
苦しみの意味を知る段階。
苦しみが真の喜びに代わる段階。
だから、苦しみを安易に取り除こうとすることは、逆に助けになりえないことも
あるということです。
逆に中途半端な癒しは苦しみを増すだけにもなりかねないのです。
そして、どんなヒーリングにもグッズにも、限界があるのであって、過度に力を過信させたりするものは、何かしら慎重に接した方がいいのではないかと思いました。

ナディの後の一番大きな変化としては間違うことへの恐怖や、他者が間違っている(と思う)場合に怒りややみくもな正義感を感じなくなったことです。

これはとても大きな変化です。

結果として、不思議なことですが、「安心して安全な状態で」生きているという感覚になってきました。そう、「天国」のエッセンスです。4次元の中であっても、何に出会っても、それは自分自身でしかないのだから。それを忘れて自分の影におびえるとき、本当に迷宮が地獄になってしまうのですね。

以上、今回のナディはとても濃密な学びだったように思います。
ありがとうございました!


レポートを拝見していて、あることを思い出しました。
それは、キリストも、ルシファーも同じ言葉を使うということです。
言葉の意味を拡大して解釈すると、癒すことや、力を使うこと(道具や、ある種のセオリーを使って)というのも入るかもしれません。

ここで肝心なのは、誰が、その言葉を発しているのか?ということ。
同じ言葉、その同じ言葉を発しているのが、キリストなのか、ルシファーなのかということ、それが大事なことなのかもしれません。
それを識別すること。
でも、それを識別するのは、難しい。
だから、間違うことももちろんある。
けれど、もしかしたら、ルシファーこそ、間違うことを認めないのかもしれません。
なぜなら、神が間違うことなんてないはずだから。

でも、キリストは、間違うことさえ許す。
それが、〈あなたの〉経験なら、素晴らしいと言ってくれる。
そんな違いがあるような気がします。

言葉もさらに厳密に識別してゆけば、違いに気付く。

キリストは、「あなたもわたしと同じように神である」と伝える。

ルシファーは、「あなたを神と似たものにしてあげよう」と告げる。

この違いを、誰に教え込まれるでもなく、自分で見出すことが、わたしたちの成長なのだと思います。

4次元が迷宮であること、言い得て妙というか、素晴らしい視点だと思いました。
もし間違っていなければ、ミノタウロスは、人間と野獣のあいの子でしたよね?
それが、今のわたしたちの真実の姿であると認めることは難しいことですが、たぶんそれを認めることができたときに、ミノタウロスは、キローン的な癒し主(いわゆるヒーラー)へと変容するんではなかろうかと感じました。
ギリシャ神話うろ覚えなので、間違っていたらごめんなさい、笑。
確認していないので、主旨がずれていなければいいのですが、汗。

たくさんの気付きをいただきました、ありがとうございます☆