城郭紹介・筑前国福岡城

今日紹介するお城は、福岡県福岡市の福岡城だ。このお城は、豊臣秀吉の名軍師、黒田孝高(如水・官兵衛)の嫡子、福岡初代藩主黒田長政によって、関ヶ原の戦いの翌年にあたる慶長6年から7年を掛けて築かれた大規模な城郭で、築城当時の地名は「福崎」で有ったが、孝高の祖父に当たる黒田重隆が、若いころに山陽地方随一の商業都市として繁栄していた備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)http://maps.google.com/maps?q=%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E5%B8%82%E9%95%B7%E8%88%B9%E7%94%BA%E7%A6%8F%E5%B2%A1&hl=ja&ie=UTF8&ll=34.701471に在住し目薬を売るなどし財を成し、黒田家再興を成した云わば再起の地名にちなみ「福崎」から「福岡」と改めている。今では県名・市名にまで成った「福岡」岡山県人としてなんだか嬉しい。さて少し話題がそれるがこの地名の所縁と成った備前国福岡一帯は、吉井川の利を生かした水路による交通(江戸時代は高瀬船が有名)が盛んだった関係で、砂鉄や炭などの工業原料の運搬も容易く、古くは平安時代古備前派として日本刀の五箇伝(5大作刀系列)の1つ備前伝と呼ばれている作刀技法が興り、鎌倉期から江戸期に掛けその技法は受け継がれ、福岡一文字派長船派、畠田派、吉岡一文字派、吉井派と多くの派を輩出し栄え、世に多くの業物を作出した我が国きっての武器製造専門集団の地でも有る。山陽地方随一の商業都市として繁栄し、孝高の祖父が在住した理由も分かる様な気がする。流石に福岡一文字派の一振りと成れば、下でも重要文化財に準ずるクラスの高価なものが多い為、夢のまた夢だが、時代が下がり、戦国時代末期に活躍した末古刀(古刀末期の意)の代表刀工、茎銘「祐定」の脇差と茎銘「備前国長船住祐定」短刀(鎧通し)を所蔵していたことが有った。どちらも鎬造りの小板目の良く詰んだ地肌に匂い本位の脇差は丁子羽、短刀は直刃と備前伝祐定特有の美しい作刀で有った。