エロティシズム 〜 バタイユ

・エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える。


・生殖は生の不連続性につながっている。だが他方で生殖は存在の連続性を惹き起こしもするのである。つまり生殖は密接に死と結びついている。


・生の根底には、連続から不連続への変化と、不連続から連続への変化とがある。私たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体なのだ。だが他方で私たちは、失われた連続性へのノスタルジーを持っている。私たちは偶然的で滅びゆく個体なのだが、しかし自分がこの個体性に釘づけにされているという状況が耐えられずにいるのである。


・私たちのあいだのいかなる交流も本源的な相違を消し去ることはできないだろう


・決定的な行為は裸にすることだ。裸は閉じた状態に、つまり不連続な生の状態に、対立している。裸とは交流の状態なのだ。それは、自閉の状態を超えて、存在のありうべき連続性を追い求めるということなのだ。猥褻な印象を与える密やかな振る舞いによって、二つの肉体は連続性に開かれる。


・この連続性への開けこそエロティシズムの奥義であり、またエロティシズムだけがこの開けの深い意義をもたらす


・本質的にエロティシズムの領域は暴力の領域であり、侵犯の領域である


・侵犯は、何度繰り返されても、禁止に打ち勝つことはできないが、しかしあたかも禁止は、禁止が排除するものに栄光の呪詛を与える手段にすぎないかのようなのだ


・エロティシズムの内的体験は、その体験者が、禁止の侵犯へかりたてる欲望に対して、さらには禁止の根底をなす不安に対しても、多大な感受性を持つことを要求する。


・エロティシズムの意味である生の約束と、死の豪奢な面との結びつきを見抜くためには多大な力が必要だ。死がまた世界の青春でもあるということを、人類は一致して無視している。ほとばしりがなければ生は衰退してゆくのだが、唯一死だけがこのほとばしりを保障しているということを私たちは目隠しをして見まいとしている。


・もし本質的な禁止の中に、生き生きとした力の乱用としての自然、無化の狂騒としての自然に対する人間の拒絶を見るならば、私たちはもはや死と性活動の間に相違を設けることができなくなる。性活動ち死は、自然が、無数で尽きることのない存在たちとおこなう祝祭の強烈な瞬間にほかならない。すべての存在の特性である存続への要求に抗って自然がおこなう無際限の浪費という意味を性活動も死も持つのである。


・一過的な欲望や激しすぎる欲望は、「禁止」されなければならない。そうでないと、「労働」による生産力が落ちてしまう


・人間の社会とは、基本的にこの「労働」=「禁止」の世界である


・禁止は侵犯されるために存在している


・人間の欲望が向かう対象は、《禁止》されているのである。


・禁止は労働に対応し、労働は生産に対応している。労働の俗なる時間においては、社会は生活資源を蓄積し、消費は生産に必要な量に限定される。聖なる時間は祝祭に代表される。(中略)祝祭のさなかには、ふだん禁止されていることが許されるし、ときには強要されさえする。(中略)経済の視点から見ると、祝祭は、その度外れな浪費によって労働の時間に蓄積された生活資源を蕩尽するものである。そこには際立った対立があるのだ。


・恐怖と嘔吐感がもっと深く心を責めさいなんでいる宗教においては、万物を流転させる過剰さへの合意は、ときとしていっそう強烈である。無の感覚ほど圧倒的な力で人を横溢へ投げ込む感覚はない。だがそれでいて横溢はいささかも無化ではない。横溢は、恐怖に打ちのめされた態度を凌駕していくということなのだ。横溢は侵犯なのである。


・原初の人間たちの目には、動物が人間と異なっているとは映っていなかった。それどころか、禁止を守っていないがゆえに、まずはじめ動物の方が人間よりもっと神聖な、もっと神的な性格をもっていたとみなされていたのである。


・(生贄の話)暴力的な死のおかげで一個の存在の不連続性が破壊されてしまうのだ。後に残るもの、しのびよる静寂の中で参加者たちが不安げに感じるもの、それこそが存在の連続性である。生贄はそこへ戻されたのだ。


・人間というこの不連続な存在者は不連続性のなかで執拗に生き続けようとしている。だが死によって、少なくとも死を見つめることによって、不連続な存在者は連続性の体験へ引き戻されるのだ。


・一般に供犠の行為とは、生と死を合体させること、死に生のほとばしりを与えること、生に死の重々しさ、目まい、幅広さを与えることなのである。(中略)。逆にまた協議においては死は同時に生のしるしであり、無限定性への開けになっているのである。


・性交の最中の動物のカップルは、二つの不連続な存在が近寄って、瞬間的な連続性の流れにより一体化するという事態から成立しているのではない。厳密に言えば合体などないのだ。暴力の支配下にある二つの個体が、性的結合の秩序だった反射作用によって結びついて、危機の状態-両者それぞれ自己の外に存在している状態-を共有するということなのだ。たしかに雌雄二つの存在は同時に連続性へ開かれている。だが曖昧模糊とした意識の中では何も存続しない。危機のあとには、双方の存在の不連続性は元のままである。これは、最も強烈であると同時に最も無意味な危機なのだ。


・性器が充血すると、それまで生が立脚していた精神の平衡は崩れてしまう。激情が、突然、一個の存在を奪ってしまうのだ。


・肉体の運動に没入する者は、もはや人間ではなく、獣たちのように盲目的な暴力そのものになりきっている。


・贈与する当の者にとって、贈与は、自分の財産の消失である。贈与する者が贈与で利益を得ることもあるが、しかしこの者はまずはじめ贈与せねばならない。この者は、まずはじめ、多少とも全面的に、彼の贈与を得る集団全体にとって増加の意味を持つものを自分に対して放棄せねばならないのである。


・自分の姉妹を贈与する兄弟は、自分の近親の女との性的結合の価値を否定するというよりはむしろ、この女を他の男と結びつけ、また彼ら自身を他の女と結びつける結婚のより大きな価値を肯定しているのである。気前のよさを基底にした交換には、直接的な享楽よりももっと広汎で強烈な交流がある。より正確に言えば、祝祭性は、運動の導入を、自己閉塞への否定を前提にしているということだ。(中略)性の関係は、それ自体、交流であり運動である。


・我々の生は、全体としてみるならば、不安に陥るまで浪費を渇望している。不安がもはや耐えられなくなる限界まで渇望している。つまり、人間の生は本質において過剰なのである。生とは生の浪費のことなのだ。生は限りなく自分の力と資源を使い尽くしてゆく。生は自分が創造したものを際限なく滅ぼす。生ある存在の多くはこの運動のなかで受動的である。そして極限において私たちは、私たちの生を危険にさらすものを決然と欲する。運よく力に恵まれたら、人間はたちどころに自分を消費し、危険に身をさらしたがるのだ

・エロティシズムの本質は汚すことだという意味で、美は第一に重要なのである。禁止を意味している人間性は、エロティシズムにおいて侵犯されるのだ。人間性は、侵犯され、冒涜され、汚されるのだ。美が大きければ大きいほど、汚す行為も深いものになってゆく。