ぎおんさくら/山本唯(おととことばこ)

ぎおんさくら    山本 唯


 《岡田さんはことばの「オト」ではなくて「オン」というのがしっくりくる、私は逆にことばの「オト」というのがしっくりくる》っていう話を以前すこししていたと思うんですが、今回コラボレーションのお話をいただいて、そこのところになにか答えがみつからないかしらと思っていたんです。
 で、先日鈴木理策さんの回に参加したとき、「写真はある1点に必ずピントが合っている。写真を大きく引き延ばして展示する狙いの1つに、観るものにその1点を探させる意図がある。ピントの合わないものと対峙したとき、鑑賞者は自ずと不安になり、ピントの合っている1点を探すことになる。この時間を生み出したい。」というようなことをおっしゃっているのが頭に残りました。
 岡田さんの文章は、音の似たような「ことば」や、全くの同音異義語を平気で連投してくるので、鑑賞者はどんどん不快になってきて、意味のピントを探そうとすると思うんです。
 朗読や音楽は時間を軸に展開していくので、写真と違って時間をかけてピントを探しているあいだにどんどん次のことばが耳に入ってきて、結局、さまざまな「ことば」から意味がどんどん浮遊しっぱなしのうちに作品が終わってしまったりします。
 今回岡田さんの作品をやってみて、岡田さんは、観客の頭のなかでいろんなことばの意味が浮遊していくさまを逆に鑑賞したいんじゃないかしら、と思いました。岡田化すると自分の中にそういう(ある意味、観客には意地悪な)欲求が出てきたのを自覚しました。
 岡田さんは以前どこかで「ことばの音《オン》を揺らす」という言い方をされていて、今回のコラボでそこにちょっとさわれた気がします。
 ことばの「オト」というのは「意味」の側面をまったく持たないけれども、ことばの「オン」っていうと「意味」を形作るための1要素としての匂いがします。
 岡田さんのパフォーマンスは、ふだん意味と密着していることばの「オン」から意味が引き剥がれる、不安だけども‘怖いもの見たさ’な体験をくれる気がします。それは、「骨」とか「液体」とか、ちょっと人体解剖実験みたいなフレーズの出てくる文章の内容にも通じる気がします。
 …というわけで、書いているうちにこのことを岡田さんに伝えていなかったことに気づいたので、またお伝えしようと思います。



やまもとゆい(おととことばこ)

おとことばこのアンサーメール

 前回の+night(2010年4月17日)は、《岡田貞子+おととことばこ》のコラボレーション・パフォーマンス「ぎおんさくら」だった。テーマになったのは「さくら」、ちょうどblanClassの裏山に咲く山桜が散りはじめていて、内でも外でもさくらが舞い散る、ドンピシャリなシチュエーション、パフォーマンス後には「さくら湯」と「さくら餅」も振る舞われ、まさにさくら三昧の夕べであった。
 去年の10月、まだお互いをさほど知らない彼女たちに、「さくらの季節にコラボレーションしてよ」という私の無茶な提案ではじまったのが、今回のプロジェクト。しかしその後は丸投げしてしまったから、双方の役割分担から、どうやってコラボレートしていくかを組み立てていくのは、きっと大変だったと察する。分担はというと、テキストを担当したのが岡田貞子(舞台装置も担当した)、音づくりを担当したのが“おととことばこ”というのが大枠だった。
 岡田貞子の紡ぎだす「ことば」というのは独特で、文節ごとにバラバラに発せられた「ことば」は、それぞれが接着していない感があり、標準的な会話などで交わされる「ことば」のような一塊の文章には、なかなか聞こえてこない。眞島竜男いわく、「後になると全然思い出せない」ものなのだ。
 公開インタビューで「今回のコラボレーションで発見したことはありますか?」という質問に、おととことばこさんは「岡田貞子の文章にずっと向きあっていると、いつしか岡田さんになっていく、自分がそのことばを発していくと、頭のなかでは完全につながっていく」というようなことを話した。それを私は「岡田化」と呼んだ。
 日曜日の朝、おととことばこ(山本唯)さんからメールをもらった。この「岡田化」について、公開インタビューでは触れなかった分析が、ずいぶん的を射ていると感じたので、ほとんどそのまま載せることにした。(以下、おととこばこさんからのメールより。)
 今回の作品、来年のさくらの季節に再演したいと思っている。2人には、まだちゃんと話していないが…。



こばやしはるお