ナースのお仕事/杉本智子

今週の+night↓
http://blanclass.com/japanese/


杉本 智子
[杉本智子様 at night She saw +]


“ある人”をテーマの中心として制作をおこなってきた杉本智子による、映像作品 + Live installation。「カメラを借りて写真を撮った時、ふと誰かに会っているようなとても不思議な感じがした」。まなざしそのものの中に“ある人”を感じ“彼女がみたもの”(She saw)シリーズがはじまる。


日程:4月23日(土)
開場:18:00 開演:19:30
一般:1,200円/学生:1,000円


杉本 智子 Tomoko SUGIMOTO
神奈川県生まれ。デザイン、現代美術、建築など学びながら、同時に10年以上にわたり看護師として臨床に関わる。その間の1990年頃よりインスタレーションやパフォーマンスなどの作品発表を開始。表現の形式は様々であるが、その内容はこれまで一貫して“ある人”を暗示する作品を中心に制作を行い、近年は映像や写真、音を使用したインスタレーション作品発表している。現在日本、ベルギーで活動。


 昨日一週間分の放送室を撮りだめした。ゲストは杉本智子さん。彼女は1992年、私が正式にBゼミの助手になった年、まだBゼミの学生だった。そのころのBゼミ展でおこなった掃除婦姿のパフォーマンスのことや「杉本智子様展」というタイトルの個展で見たチョコレートで鋳造した彫刻などが印象に残っている。
 昨年、久しぶりにお会いして、その後blanClassの「+ART ENGLISH TRAINING」を受講していただいたり(講座の後に最近の作品のお話をうかがって、+nightにお誘いした)、3月12日のアズビー・ブラウンの+nightのときにはバックパックに防災グッズを詰め込んで見に来てくれたり、また交流が再開した。
 作品は、今年の2月恵比寿の工房親での個展で「彼女がみたもの」シリーズを拝見した。最近の杉本の作品には、誰と特定するものでもない「ある人(彼女)」が見ている光景を、カメラ越しに見いだし捉えた、写真作品や映像作品を展開している。
 1990年代のはじめ頃の杉本作品、持ち物のシリーズなどにも「ある人」は表れている。それらのやはり特定でない人々は、提示された作品の架空の持ち主だったり(「あか」、「ピンク」1991)、作品の架空の送り主だったり(「ひよこ」1991)、どういう場合にしても杉本の頭のなかにあらわれる誰かだった。それは、カバンのなかに収まる持ちもの越しに(「あか」1991)、メモ帳の上の痕跡に(「ピンク」1991)、他愛のないやりとりのなかに(「秘密の箱|ナンシー・ノンシー」1992)、ものとものや意味と意味とのあいだにあらわれるイメージとして、存在しているように感じられる仕掛けだったようにも思われる。
 誰かが持っているものが転じて、2008年の「キカキクス」(築地場)では、誰かに持たせるものとして、ファイルケース、カードケース、バッグなどを発表している。これはほかの作品とずいぶん毛色が変わっていて、ちゃんとした機能や強度を持ったプロダクツとして成立している。そうなると「誰か」は不特定多数の誰かであり作家自身であり、当然実在の人々ということになる。
 「彼女がみたもの」をはじめたのは、カメラのファインダーを覗いたとき、写った画像をあらためて見直したときに、自分ではない誰かの視線で外の世界を眺めているように感じたからだと言う。誰かは杉本の身体のなかに内在していたものだったようだ。内在しているにもかかわらず、やっぱりその存在は不確かな存在でもある。撮られた映像もピントの合っていないものばかりだ。
 放送室ではあまり触れなかったが(公開インタビューでは聞いてみよう)、Bゼミにいた当時の杉本さんはみんなに「ナース」と呼ばれていた。なぜなら本当にナースだったからだ(Bゼミでもナース姿でパフォーマンスをしていたような記憶があるのだが…)。
 杉本は1993年「丘の上から・・・ありがとう」という展覧会を企画運営している。その展覧会は当時杉本が看護婦として勤務をしていた生田の精神神経科病院でおこなわれた。もともと入院されている方たちのための「絵画クラブ」が発端になってそれまでにたまっていた、さまざまな表現を発表する場として企画されたものだった。最初は誰もが「作品」ということの意味がわからず、戸惑いもあったらしいが、杉本との一対一の対話で、一人一人の表現の有り様と収まりどころが見つけ出されていった。最終的には入院している人たちだけでなく働いているほかのスタッフたちにも呼びかけ、ほとんどの人の同意を得て、みんなが出品して実現したのだという。
 問題なのは、杉本作品が抱えている「ある人」が何者で、その人が見ているものがなんなのか? ということだ。作品を通してみるかぎり、それはとても淡くて抽象的なものとして浮かび上がっているのだが、秘密を解くカギは、杉本のナースの経験にあるように思えてならない。「ナースのお仕事」を物語りとして回収してしまわないように注意しながら、もうちょっと考えてみようと思う。
 
 ちなみに今回のタイトルにもあらわれている「杉本智子様」は、挨拶のように形式化された敬称としての「様」ではなくて、日本語の古来「ご本人」と「言葉」を別のものとしてあつかっていたころの丁寧な使い分け、つまり本物の「杉本智子」と、言葉としての「杉本智子の様なもの(その有様)」が、名残としてあることを示しているのだという。だからその「杉本智子」も「杉本智子様」も必ずしも作家としての主体としてあるわけではないのだ。


こばやしはるお