ブラジルへの郷愁というレヴィ=ストロースの写真集を見ました。
プロローグのはじめに写真について書かれた文章が載っていたので、
少し引用してみます。
学術探検に出発する前、白蟻や黴よけに私の行李にしみこませておいた
クレオソート---その匂いを、いまでも私は、当時の調査手帖を開いてみるたびに
感じる。半世紀以上もたって、感知できないほどになっているにもかかわらず、
この痕跡は直ちにブラジル中部のサバンナや森林を、私のうちに呼びおこしてくれる。
それは他の匂い、人や動物や植物の匂いだけでなく、さまざまな音や色とも
分かちがたく結びあわされた構成物の一部をなしているのである。どれほど
微かになっていようと、私にとって妙なる香りであるこの匂いは、私が生きた体験の、
いまもありありと甦れる一部分であり、物体であるとさえいえるのだから。
写真が私に、それと同じものをもはや少しももたらしてくれないのは、
あまり時が過ぎてしまったからというべきなのか---経った年数は、
匂いと同じだというのに、奇跡的に「もの」として残っている、私が撮った
写真のネガは、あらゆる感覚や、筋肉や脳が関与している体験の一部を
なしてはいない。ネガは、体験を想起する手がかりであるにすぎない。
私が見たり出逢ったりしたことをいまも私が憶えている、だがどこで、
いつだったのか、あまり古いことなので思い出せるとは限らない、生きものや、
風景や、出来事の手がかりなのである。そうしたものが確かにあったということを、
写真資料は私に証してくれるが、それらのものについて私に物語ってくれたり、
それらのものを私の感覚のうちに戻してくれたりはしない。
あらためて眺めてみると、これらの写真はある空白の印象、レンズには元来
とらえられないはずのものの、欠如の印象を、私に与える。「悲しき熱帯」
の版型では望めなかった数と質の、それも構図の異なるものが多い写真を刊行する
ことについては、だから私としては、自己撞着を感じないわけにはゆかない。
あたかも、私にとって起こっていることとは反対に、一般読者に対しては、
それらの写真が確かな実体を提供できるかのように振舞うことになるのだから。
その場に居合わせなかったという理由で、一般読者はこの無言の画像で満足
すべきだとでもいうように。そしてとくに、これらのすべては、もう一度
その場に行ってみても、かつての姿をとどめていないし、多くの面でとにかく
存在しなくなっているから、とでもいうように。