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2013-08-14 必然への集合

必然への集合

二人が相当し、その内二人に通底する美学・原理・了解が2/2で、
一人が相当し、その内一人に通底する美学・原理・了解が1/1で、
2/2(二人に通底するもの)と1/2(二人に通底しないもの)の差分が1/1への伸び代(拡張終末の根拠)になる。

即ち1/1という唯一者性に到る為には『聖なる二者性』を想定しなければならず、
仮に無条件に唯一者的な差分を炙り出しても、例えば100/100に対しそれをしても等価的な部分との重複が甘過ぎる為、
あまりにも大きく唯一者性を取れることになるが、それでは最高峰の拡張終末にならないのだ。

そこで現れた唯一者性はそこで終わる唯一者性であり、オリンピックに対する草野球であり、ダダ的な妥協でしかない。
翻って2/2に対するそれは『最後にして最小の差分』として炙り出され、これはおそらく僕のエロス論と結び付き、
即ちエロスを追及することこそが最小最高の唯一者性に結び付く訳だ。

『自動的代謝−生理的代謝=当人の個人的代謝−万人の個人的代謝=当人のエロス』としてエロスは表されるが、
これがなければ最小最高の唯一者性は幻想であり、またその前段階としての普遍的終末も理想論で終わる筈だ。
例の理論上万人に演奏可能な楽譜は、この紐付けがあるかないかで明暗を分かつ訳だ。

理論上万人に可能な行為が現実的には大きく淘汰されるのは、
このエロスのベクトルの近似(敢えて等価とは言わない)から乖離している時に起こる現象なのだ。
しかしエロスのベクトルとほぼ等しいベクトルにその行為があるならば、
それはその人にとってはほぼ掴み取れるものだと思うのだ。

チャンピオンという言葉があるけど、あれは競技化されたものの終末と選手のベクトルがかみ合い、
その最大値を取った帰結としてあるのであって、努力量の差も当然あるが乖離量の差も当然影響しているのであり、
即ち最大値を取った者同士であれば乖離量の差で優劣が決まるという訳だ。

そう考えると上述した聖なる二者性は極めて似通ってくる。
最大値を前提とした王位争奪であるならば、それは極めて乖離のないところで決着するからだ。
しかし人生を含めたクローンでもない限りそこには美学的差分が必ずあるし、
このベクトルの幽かな乖離幅が最高度の振り幅に繋がるのである。

それらは全てベクトルの先端での現象であり、根元の部分で既に乖離的である場合、それは振り幅にはならない。
ただの脆弱なランダムウォークに過ぎないし、しかし先端での幽かな乖離オリンピック的なドラマを生むだろう。
その逆説は種々諸々の対等者によって証明され、自由の何たるかを暗喩するのだ。

ちなみに虚無から踏み外したところに唯一者性を求めるアンフォルメル的行為は、最大最弱の唯一者性にしかならない。
最大というのはランダムウォーク的な無限に帰結するという意味で、
最弱というのはディレクション的な無限から相反するという意味で、それぞれにそうならざるを得ないのだ。

またボクシングの勝利は少し面白いところがあって、虚無により肉薄した側が肉薄しなかった側に敗れることが起こり得る。
もちろん可能性が究極まで絞られている前提がなければならないが、記録的ならぬ対戦的競技には総じて同じことが言える。
これについての考察はまた別の機会にやろうと思います。

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