2012-01-18
第三舞台封印解除&解散公演「深呼吸する惑星」に寄せて、私の意識に安らぎあれ
僕達は、生きている人と話すように、死んだ人とも話すことができるんじゃないかと思うのです。生きている人と話しながら、実は話してないことは普通にあります。話しているふりをすることも、多くの人と話しながら実は誰とも話していないことも、珍しいことではありません。
だから、死んだ人とたくさん話すことも珍しいことじゃないと思えるのです。
sledoniさんが良いタイミングで第三舞台の千秋楽ライブビューを告知してくれていたので、見に行って来ました。えーと、あらすじはsledoniさんにお任せします。
あまり、芝居や第三舞台のことを知らないながらも私の感想を。
冒頭で挙げた「ごあいさつ」がロビーで入場券と一緒に配られた時から、ずっと伊藤計劃さんのことがずっと頭から離れられなかった。
「コンピューターの普及が、記憶の外部化を可能にした時、あなたたちはその意味を、もっと真剣に考えるべきだった。」GHOST IN THE SHELL 人形遣いより
落ち込んだ時や、心が落ち着かない夜は計劃さんのblogを読みに行く。そこには30歳から35歳までの計劃さんがいて、本当にしょうもないバカ話から、ガチンコ過ぎて鳥肌が立つ様な映画評論の話ができる。ちょうど、私が大学に入学してから卒業するまでの間blogを書いていてくれた(本当に暗く、友達も居なかった)。私は、一方的な一読者に過ぎないけど、計劃さんのことは師匠であり私のBIGBOSSだと思っている。
近い将来、私は計劃さんが日記をつけ始めた年齢を追い越してしまうし、計劃さんの享年を追い越すのもあっという間のことなんだと思う。それでも、30歳の彼は、35歳の病巣に体を喰い尽くされた彼は、その瞬間のまま、blogにあり続けている。
計劃さんのblogを読むのは時に辛い、あと何年か経てば私も覚悟完了した計劃さんのようになれるのかと思って。そして、余りにも自意識過剰で自分も他人も何もかもが許せなかった、計劃さんのblogだけが楽しみだった当時の自分のことを思って。
話が深呼吸する惑星の話から逸れました(一応これは単なる自分語ではなく前ふりで後で繋がるんですよ)。
芝居に出てくる記憶喪失の男,神崎が、記憶を失ってしまった理由としてこんなことを言っている(セリフうろ覚えなので意訳)。
「この星に来て、(若いころ自分のせいで自殺した親友の)立花(の幻覚)が現れたんだ。あいつは何かをするわけでもなかったが、ある時ふと鏡に映る48歳の自分と21歳の立花を見た時、俺は何者にもなれない自分に気がついたんだ。」
この深呼吸する惑星は、半分は第三舞台の往年のファンに向けたような脚本になっている。そのファンには、おそらく舞台を演じる俳優や鴻上さん自身も含まれている。
私には、単なる鳥の着ぐるみや懐メロとしか認知できなくても、セリフや仕草の一つ一つに至るまで、ファンにとっては第三舞台の歴史を意味する特別なもののはずだ。
鴻上さんは、この脚本を書いた時、辛くなかったのだろうか?
昔の芝居のフィルムを見た時、恐くはなかったのだろうか?
フィルムには当時のままの役者たちがいて、永遠にその年齢のままそこに存在する。幻覚に「他人」の幻覚が現れて、「自分」の幻覚が現れないのは、演出上の都合というだけではなく、鴻上さんが脚本家で舞台には上がらないことに理由があるように思える。それは第三舞台の芝居を見てきたファンにも同じことが言える。
第三舞台の往年のファンたちは、昔のセリフや演出が引用される度に、何を感じたのだろうか?
私は最初それは絶望と諦めだと思った。
時が止まったフィルムを鏡に若いころの自分と今の自分を相対させたときに感じること、神崎が21歳の立花を鏡に21歳の自分と48歳の自分を見比べ、何者にもなれない自分に気がついてしまって、記憶を失ってしまったように。
絶望と諦めは、若いころの自分の「意識」から今の自分の「無意識」に向けられた殺意に他ならない。
親愛なる虚無様、
君が何も感じていないのは承知している。
君が何も意識していないのは承知している。
初めて自転車に乗れたあの日、初めて好きな人と手を繋いだあの日、あの日の私の「意識」は既に死んでいて、今はもう何も感じない。
大人になって歳を重ねるのにつれて時間の感覚が早くなってくるのは、「意識」が死んで時間が抜け落ちているからだ、学年が進むに連れて辛い学校が楽になったと感じるのは、私の魂(=意識)が徐々に磨耗して死んでいったからだ。
芝居のの最後で、記憶を取り戻した神崎は、地球の立花の墓前で踊るため惑星アルテアを去ってゆく、そこに絶望や諦めはなかった。鴻上さんや役者さんや観客であるファンたちも、みんなとても楽しそうで、誰も絶望したり諦めたりはしていなかった。
第三舞台のことはよく分からないけど、昔の鴻上さんはきっと今よりもギラギラして尖っていたはずだ、「祖国なき独立戦争」という言葉に象徴されるように。そんな芝居を見に来てた往年のファンたちもギラギラして尖っていたに違いない。第三舞台とファンは家族のように絆で結ばれていて、愛し憎しみ合った仲間なんだと思う。
そんな彼らが今回の舞台を見て、ギラギラしていた過去の自分の「意識」を真っ向から受けて笑っていられるのは、今の自分が過去の自分に支えられて生きていることを、きっと自覚できているからと、冒頭で引用したごあいさつを読み返しながら思った。
そして、死んだ人との会話が自分を支えていることに気づくのです。それは、教祖や偉人の言葉のように強烈な信仰を伴うものではなく、生きている人間の力強く生臭い言葉でもなく、じつに淡く、遠く、ささやかな言葉です。やがては、時間と共に消えて行く言葉かもしれません。会話しようと決心しないと現れない、かげろうのような言葉です。
けれど、そんな、弱く、淡く、小さな言葉が自分を支えているのだと自覚すること、そして、自分を支えるものの弱さや、はかなさに気づくことは、なかなか素敵なことなんじゃないかと思うのです。
私もいつか、鴻上さんや第三舞台のファンたちのように、昔の死んでしまった自分の存在を認めて、今の自分が過去の自分に支えられて生きているといった実感が持てるのだろうか?
最後に、伊藤計劃さんの言葉を借りての失われてしまった私の魂に弔いの言葉を伝えたい。
ありがとうございました。
あなたの物語は、今の私の一部を確実に成しています、と。
あなたの言葉は、今の私の一部を確実に縁取っています、と。
かつてあなたの言葉が真実だと思った時期もあり、いまはその頃と考え方も変わってしまったけれど、しかしあなたの用意した道を迂回してここにたどり着けたことはやたり、幸福だったんです、と。
2011-09-10
それでも読書で反社会を思う
Living, Loving, Thinkingさんから言及いただいた。
「世界の敵」? - Living, Loving, Thinking
言及頂いて嬉しくありがたく、恐れ多いくらいです。比べて私は完全に勉強不足なんで、精進致します。
的外れになっていたら申し訳ありませんが、ご返答を。
「人間」も「社会」も「世界」も「目前」のものだけではない。私は私が今まで全然会ったことのない、或いは私が今後も絶対に会うことがないであろう無数の「人間」が存在することを知っている。「社会」は「目前」の他者たちだけでなく、そのような私が会ったこともなく、また会う術もないような無数の他者たちによって構成されているということを知っている。
私もそれは理解している。「恋人と観覧車で二人きりなのにメールを打つようなものだ。」と読書を例えたが、メールは常に相手がいて成立するわけで、必ずその先は社会と接続されている(相手がオバマやジョブスだったら、恋人と話すよりもよっぽど社会的だったりするかもしれない)。
たとえ相手が死者であったとしても、いや今に名を残すような死者ならばそれは死者及び幾千幾万の兄弟弟子と群をなすことであり、現代にコミットするよりも高度に社会的な行為かもしれない。
しかし、それでも私は読書は反社会的行為であり、世界の敵になるための第一歩だと考える。
私にとって「世界」は三次元的ではなく四次元的な構造を持つものとして現れる。「世界」は〈現在〉のものだけでなく、(記憶や痕跡としての)〈過去〉や(予期や前兆としての)〈未来〉も組み込んだ仕方で存立している。換言すれば、「世界」には(「目前」かどうかを問わず)生きている人だけでなく、既に/未だ姿を現していない先祖や子孫も住んでいるのである。
世界が四次元的構造をとっているなら、それは無限に広がる四次元空間ではなく、過去を起点に未来に拡散するピラミッド型構造をとっているはずだ。ピラミッドは単なる時間軸だけではなく、物事の抽象度、上位概念、マイナ度、等で作られているはず。
ピラミッドの社会の中心と言えるレイヤは「本を読む暇があるなら野良仕事しろ」の少し上の新聞やテレビのあたりに位置している。読書という行為は、そのピラミッドの中心から遠ざかる行為のように思える。
例えば学問で言うならば、理系では数学>理学>工学、文系では文学>法学>経済学、の順番にの社会の中心から遠ざかり罪深いと言え、あらゆる学問の頂点に立ち最も罪深いのは哲学であると言える(もちろんそんなに単純なものではないけれども)。
基本的に読書はピラミッドの頂点へ向かう行為だ。
例えば、それまで資本主義経済を全く自然なものと感じていた人がマルクス主義の書物を偶々読む。それまで金正日将軍様の権威に全く疑いを抱かなかった北朝鮮青年が偶々〈韓流〉小説を読む。それは「目前」の資本主義体制とか朝鮮労働党体制にとっては「反社会的」ではあるが、同時に別の社会体制等へのイニシエーションでもある。
資本主義とマルクス主義は同じレイヤに属しているので、頂点に向かう行為とはちょっと違うかもしれないが、並列する社会を見てその上位概念を思うことは容易い。これは工学が理学の基礎研究によって発生しており、理学が数学の概念に裏付けられる関係にも似ている。
読書によってピラミッドの頂点に向かい、それを現実に応用させることでピラミッドの裾野を拡張させる。これは最初に引用したエントリに近い話だ。
生涯所得を数千万円変える“本当の”情報格差/若者よ書を求め街へ出よ? - デマこいてんじゃねえ!
しかし、読書の先にある社会に耽溺すると、社会の中心と言える、現実社会のレイヤまでなかなか戻ってこれない。
昔教科書で「人間の限りある頭脳では数学の発展は止まるので、科学の発展は止まるであろう」といった文書を読んだが、現実にはまだ数学は発展しており、もはや科学の発展では到底追いつけない領域にまで到達しており、依然としてその差は開くばかりであるように思える(すみません、現代数学とか物理学とか詳しくないので単なる印象です)。その意味において、数学は社会の中心から離れてしまった学問なのだ。
社会をピラミッドの内部とすると、世界全体はその辺や頂点を含む。
社会の敵とは、そのピラミッドの辺や頂点に属する人間だ。過去の偉大な思想家や芸術家達は、皆その上を歩いていたはずで、その人の歩んだ跡がそのままピラミッドとなり社会の一部となる。
社会の敵は、その時代においては「危険」とされて「社会の敵」と認定されるが、後の時代の人々からすれば単なる過去の思想にすぎない。
社会の敵によってピラミッド状の社会は広がり、人間の定義は拡張される。
それでは、世界の敵とは?
ピラミッドの頂点を突き抜け、ピラミッドの外側に単なる点として存在する「突破者」。
人間の定義を拡張するどころか、人間の存在そのものを危うくしかねる「何か」。
いつかそんなふうになりたいと憧れる。
2011-08-19
読書は世界の敵になるための最初のレッスンだ
徹底的に中2を書く、全力でだ。
「この世もこの世の人間も、全部消えていなくなれ。自分の夢でない世界は消えてしまえ。―そういうことじゃねぇのか」
承前
生涯所得を数千万円変える“本当の”情報格差/若者よ書を求め街へ出よ? - デマこいてんじゃねえ!
本筋の読書と経済格差の話は「ヤバい経済学」と「賞金で高校生の成績が伸びるのか」でググればよろし。
私が語りたいのはこっちの話。
読書は反社会的行為である 読書猿Classic: between / beyond readers
読む者を所属する社会から引き剥がし、帰って来れなくなるかもしれない世界へと導く魔笛であり、その魂に現世(うつしよ)にまで溢れるほど夜の夢を注ぎ込む邪な水差しである。
私も読書は反社会的な行為だと思う。
読書するとは目前の人間を社会を、そして世界を無視することに等しい。
本に耽溺するとは、恋人と観覧車で二人きりなのにメールを打つようなものだ。
故にノンフィクションよりフィクションが罪が重く、フィクションの中でも最も罪が重いのは、嘘で世界を演算し、あり得るorあり得たかもしれない世界を演算するSFであると考える。
誤解のないように言うが、読書(映画、ゲーム、夢、妄想etc)は現実逃避だから反社会的なのではない。現実そのものだから反社会的なのだ。
私の体験したことは全て現実である。どれだけ夢を見たところで「夢を見た」現実に過ぎない。現実と虚構の2つの次元があるのではなく、現実∋虚構が正しい。
「現実と虚構の区別がつかなくなる」という言葉の現実とは社会のことを意味している。
真の意味での現実は各々にしか存在せず、社会とは各々の端数を切り捨てた現実の最大公約数である。
少々長いが引用部の前の会話を含めて引用しよう。
「お前は人を恨んだことがない、と言っていたな。消えてしまえと思ったことはねぇってさ」
「―言いました」
「俺はそれを嘘だと思う。あの世に帰る夢を見て、それで心を慰めておいて、他人のことは恨まずに置く。それは表裏だよ、広瀬」
「…表裏?」
広瀬は眉を顰める。たしか後藤は前にもそんなことを言っていた。後藤はうなずく。
「表と裏だ。その思考には裏がある。帰りたい、ここは自分の世界じゃない。その思考はな、ひっくり返せば消えてしまえということだ」
広瀬は瞠目した。
「この世もこの世界の人間も、全部消えていなくなれ。自分の夢でない世界は消えてしまえ。―そういうことじゃねぇのか」
子供に教育のために本を与えるのなら、自分が読ませたい本を巧妙に本棚に配置して、子供の自発的な読書の欲求を抑制することだ。本は別途お小遣い支給というのも良い、どんな本を買うか報告の義務が生まれるので、自然と親が喜びそうな本しか買わなくなる。
読書とはフォースのようなもので、正しく使えば生涯所得を何千万も増やすことができるが、一度暗黒面にとらわれると先祖代々の知的階級としての資産を一代で無にしてしまう側面も持っている。
本を読まないガキが読むようになるまでのこと - 関内関外日記
読書の暗黒面にとらわれる子供は、どれだけ注意を払ったとしても逃れることはできないだろう。子供はあなたを、そして世界を無視し始める。
あなたが、自分の子供が社会に全く貢献しない、あるいはテロリストになったとしても、ただ幸せでいてくれたらばそれで良い、というならば読書の習慣はきっと有効なはずだ。
少なくとも私にとっては有効だった。
子供の頃、学校にいけなくなって社会から外れてしまうことに怯えていた時はいつもこう考えて自分を勇気づけていた。
「図書館さえあれば生きていける」
この気持ちは、何千万という生涯所得の差よりもずっと大切な生きる希望だと思う。
2011-08-03
花王が取るべき一つの冴えたやり方
花王 不買に関するツイート まとめ(韓国・フジテレビ関連) - Togetter
amazonでフジテレビスポンサーの花王商品が鬼女により炎上wwwwwww:ハムスター速報
高岡騒動で鬼女がフジテレビスポンサーへ抗議、花王を筆頭に不買運動へと発展:ハムスター速報
http://d.hatena.ne.jp/fut573/20110802/1312293536 :title]
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Amazonのレビューについて - レジデント初期研修用資料
いろんな意味で残念な話だし、あんまり興味もなかったけど、まだ見聞きしない名案が浮かんだので書く。
花王は自社製品が不買運動を起こされているという事実を全面的に広告するべきである。
今回の件で、花王の売上に与える影響は微々たるものだろうと予測できる。理由として、ネット上の不買運動の影響を受ける購買層と、売上の多くを占める購買層はおそらく異なることが挙げられる。
しかし、amazonのレビューで「品質が悪い」と書きこむような、不買運動からかけ離れた誹謗中傷の類は地味に痛い。イナゴが飽きてしまった後も、花王というブランドに塗られた泥は永遠に残ってしまうからである。
企業的判断としてスポンサーを降りるというのは完全な愚策である。理由として以下の3つがあげられる。
1.スポンサーを降りたところでもamazonのレビューのような傷跡は永遠に残り続けること
2.視聴率が取れる枠の宣伝効果を失うこと
3.運動に屈するという実績を残すこと
3の影響は特に大きく、この程度のことでスポンサーを降りると判断されると、今後も同様のことを起こされるリスクが格段に増え、結果的に自社の看板に泥を塗る事になる。
無視を決め込むというのもひとつの判断だが、不買運動ならまだしも誹謗中傷で看板に泥を塗る行為を見過ごすことは、今後もおもちゃにされることを受け入れると宣言するに等しい。
よって、花王は不買運動を受け入れ、誹謗中傷とは戦う姿勢を見せつけるべきである。
具体的には、自社製品が政治的な理由で不買運動を受けていること、それに絡んで不当な誹謗中傷を受けている事実を淡々と書く。
その上で、前者の行為には「消費者の判断を問う」として受け入れる寛容さを示し(具体的に〜売上が下がったらスポンサーを降りるとか宣言すると面白い)、後者の行為は徹底的に戦う戦意を見せつける。
これが話題になれば、誹謗中傷の類は(ほんとうの意味での低い評価ですら)排除されることになるはず。
なかなかの案だと思うけど、たぶん企業広報とかなら先に思いついてるだろうなあ。
2011-07-04
ブラックスワン
またもう一つ、これに似た遊戯を当時、自分は発明していました。それは、対義語(アントニム)の当てっこでした。黒のアント(対義語(アントニム)の略)は、白。けれども、白のアントは、赤。赤のアントは、黒。「太宰治 人間失格より」
なんだか清廉潔白な白鳥が妖艶耽美な黒鳥を演じるには、恋愛経験を積むことが大事とされている映画だけど、私は違った解釈をしたい。これは白が黒く染まる映画ではなく、黒よりも闇に近い赤を目指し、赤に染まる映画だと思う。
浅田真央とキム・ヨナが北島マヤと姫川亜弓に例えられることは多い。
たわけ同盟: フィギュアスケートってたまにフギャースケートって聞こえる
北島と姫川の二人の違いを表すのに、こんなエピソードがある。
ヘレン・ケラー役のオーディションの最終選考に残った金谷英美、姫川亜弓、北島マヤの三人は「ヘレン・ケラーとして待つように」と言われて待合室に待たされる。
1時間、2時間…
時間だけが過ぎてゆくなか突如、火災報知器が鳴り響く、
思わず音に反応してしまった金谷は数秒後、微動だにしない北島と姫川の姿を見て己の失敗に気がついた。そう、これも試験の一つだったのだ。
試験後にどうして火災報知器の音に反応しなかったのか聞かれて、姫川と北島はこう答えた。
姫川亜弓「ヘレン・ケラーとして待つように言われたので無視しました」
思うがまま、感じるまま、振る舞いそのものが感情を表し演技となる北島マヤ、一方、あくまでも女優として演技をすることにこだわりを持ち、完璧なな演技を目指す姫川亜弓。
ブラックスワンのレビューを見ると、姫川亜弓が自分を解放することで北島マヤに近づく映画といった捉えられ方をしているが、姫川亜弓ファンの私としては違う解釈をとる。
この映画は、姫川亜弓が己の道を貫き、完璧な演技によって遂にはマヤを越える物語だと思う。
ブラックスワンにおいて、姫川亜弓をニナとするならば、対照的なリリーは北島マヤに当たるのだろうか。マヤは乱交などしないが、狼少女になりきるために山篭りで演技の武者修行をする等の実践派の女優である。不純異性交遊を繰り返して、ラサール石井の妄想のごとく演技力に磨きがかかるニナは、アウトローという点において北島マヤに似ているのかもしれない。
しかし、これではラストシーン手前の、楽屋でニナが幻影のリリーを刺し殺し、覚醒することで完璧な黒鳥を舞うシーンの説明がつかない。
ニナが性的に抑圧されていた自分を刺し殺すことで、黒鳥への変身を遂げるなら、「白=抑圧の象徴」である母親が楽屋に現れるはずだ。
己の完璧さを求める演技を殺すことで、自由奔放な欲望のままに舞う黒鳥、ニナがそんなものを舞っていたら、感極まった現実のリリーがわざわざ褒めに来ることもない、それこそ楽屋の幻影のリリーに役を奪われてしまったも同然である。
ニナはリリーをはるかに超える恐ろしい黒鳥を舞った、この前提にたつと、楽屋でニナがリリーを刺し殺すシーンは、ニナが自分自身の感じるがまま思うがま黒鳥を舞うという意志を殺すシーンとも取れる。
それでは、ニナが目指し実際に舞うことが叶った黒鳥とはどんなものであったか
完璧な黒、すなわち赤、先代のベスの演技であった。
劇中でのベスの扱いはあまり恵まれたものでは無い。誰も見向きをしない過去の人扱いである。そんななかでもニナが唯一心の頼りにしているのがベスの存在だった。
化粧をして振付師と直談判しに行ったのは誘惑するためではない、ベスから盗んだ口紅を使うことでベスに成り切ろうとしたためだ。
振付師がリリーの黒鳥を褒め、彼女のように悩ましく艶やかに踊れと指示しても、ニナの表情はどこか上の空である。
ニナはリリーの奔放さに憧れるし、彼女と一夜を共にする妄想すら見るが、それでも彼女のバレエはニナの理想とするものではない。
リリーの背中に刻まれた、黒い翼の入れ墨が象徴的である。入れ墨が後から人為的に彫られた黒である。一方ニナは体内から黒い羽毛が生えてきて(無論妄想だが)、完璧な演技をする。
入れ墨の黒い翼と体内から生える黒い翼、どちらがより美しいかは明白だ。
羽毛が最初に生えて来る箇所が、性的抑圧の象徴である赤いジンマシンからであることも興味深い。そして、ニナが最後に本当に赤に染まることで映画は終わりを告げる。ニナを赤く染めた血液はやがて黒く凝固し、彼女を闇よりも暗く染め上げるだろう。
私はこれをハッピーエンドと考える。
赤こそが、完璧な演技こそが、思いのまま欲望を踊るよりも管理され抑制された欲望の方が、より妖艶で美しい。舞台に必要なものは人生経験ではなく演技であり、内面など不要。
内面を持たないモノが、どうすれば世界に一撃できるか非常に参考になる話だった。
蛇足だが私の解釈から冒頭のラサール石井に戻るなら、浅田真央は恋愛などする暇があれば影腹するくらいの気合いと根性で完璧な演技を目指して練習しなければならないのだろう。
