もはや首都ではなかった南京

間が開きましたが、2005-04-14エントリー「日本軍は、南京で一発の銃弾も打つ正当な理由がないはず」のコメント欄から、野良猫さんの発言。

こうした確信的に不誠実に振る舞う相手に、契約や約束事の類を守らせるには、「強制力」が必要になってくる。これは個人・国家のレベルともにそう違いはない。数々の邦人殺害や一方的な条約破棄を繰り返してきた南京政府に対し、「首都である南京を攻略して積年の問題に決着をつけるべき」と当時の人達が考えても無理はありません。

つまり、政治手段だといいたいのだろうか。それならば首都が南京から漢口に移転した時点で、南京侵攻の意味は失われており、必要なき侵攻ということになる。上の論理は正当性の根拠にはなりえないだろう。

ところで、上の発言を読んで不思議に既視感を覚えたのだが、これは東京大空襲を仕掛けたアメリカの論理と瓜二つだと思う。この論理によると、東京への空爆も広島・長崎の爆弾投下も「決着を付ける」ための政治的手段として合理化されることになる。
この論理を受容してしまうと、東京や広島や長崎などの、自国民の大殺害も合理化されてしまうことになる。対韓・対中強硬派の人のなかで米国による自国民殺害という問題に対して腰が引けている、もっと言うと対米的に卑屈・自虐という現象をときどき見かけるが、このあたりに鍵があるのかもしれない。

なお、川島芳子らによって6年前に第一次上海事変を仕掛け、その後も各地で「毒化政策」などを行い、第二次上海事変の前にすでに北平(北京)・天津を軍事占領したなど、日本軍の「誠実な」行いに留意すべきことは論を待たない。