(メモ1)茂木氏の言説にチェックを入れる

(2月3日、改題しました)

熱が下がらない状況なので、休み休み書きます。
NakanishiBさんのコメント。

(櫻井氏のような確信犯でなくても)プロパガンタ批判が(機能として)プロパガンタになるというのは現在では厄介な問題だと思います。

今日見たこのエントリも「厄介な問題」を孕んでいるようです。

茂木弘道の「世界出版ブログ日記」
2006-01-27 「WILL3月号」
http://d.hatena.ne.jp/hmotegi/20060127


ちなみに茂木氏は自由主義史観研究会の会員であり、東中野修道氏率いる南京事件研究会のメンバーでもあられる方だ。
茂木氏は言う。

南京大虐殺については、私も当初は白髪3千丈式の誇張はあるかもしれないが、あったことはあったのだろうと思っていた。ところがいろいろ調べていくうち、というか「南京事件研究会」に参加して掘り下げた研究をしていくうち、これは基本的に存在しなかったものが、プロパガンダと戦争裁判でのでっち上げ断罪によって作り上げられたものであることが疑いようのない事実であると確信するにいたった。

しかしその論拠を見ると、困ったものですね。



(チェック1)

世田谷区ほどの広さの南京に約20万人の市民が日本占領時に残されていた。

拙ブログで繰り返し述べていますが、当時の南京市は、南京城の内側である城内地区、下関など南京城に隣接した城外地区、さらに3つの郷区(燕磯区、孝陵区、上新河区)で構成されています。決して南京城の内側だけが南京市ではありません。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/sougou/map/tizu/nankin_zentai_s.gif
http://www.geocities.jp/yu77799/jinkou.html
そして、中国の言う南京事件は、北は燕小磯から南は中華門外まで、ほぼ「南京市」全域で行われたという説です。
http://www.jca.apc.org/JWRC/exhibit/China23.HTM
そして、「事件直前」(1937年12月11日)の「南京市」の人口は「不明」のはず。

最初に「事件の空間範囲」を、「中国側の主張する事件の空間範囲」よりはるかに小さく限定する、という南京事件をめぐるブラック・プロパガンダの典型的方法が用いられています。


(チェック2)

そのほとんど大部分(99%?)は唐生智防衛司令官の命令で「安全区」に集められていたのである。

「ほとんど大部分」の論拠は国際委の認識「だけ」ですよね。問題はその認識の精度です。
安全区以外の城内・城外に多くの人が残っていたという証言が多くあります。
http://www.geocities.jp/yu77799/anzentitaigai.html
http://www.geocities.jp/yu77799/anzentitaigai2.html
極めつけは「南京事件 日本人48人の証言」所収の土井申二・海軍中佐の証言ですね。下関近郊の宝塔橋街の保国寺だけで6000〜7000人居たと土井中佐は証言しています。
ということは、国際委の認識が正確でなかったか、土井中佐がウソをついているかのどちらかですね。茂木氏は土井中佐証言を虚言だと断定したのでしょうか?
現時点では、12月11日の時点で南京市の全域にどれくらいの住民が、とりわけ揚子江岸に避難途中民がどれだけ残っていたのかは不明です。


チェック3

"Documents of the Nanking Safety Zone"である。(中略)ところがこの2ヶ月間の活動記録をよく読むと、殺人として訴えられたものは27件である。

中国側の主張は、大部分の殺害は「城外」で行われたというものですから、
http://www.jca.apc.org/JWRC/exhibit/China23.HTM
そもそも城内の、それも「安全区」内の事件は、中国側の主張の中では「ごく一部」であることは当然留意すべきですね。したがって同記録への批判が、中国側の主張の全否定をもたらすものではない(←これはチェック5の伏線)、ということは、南京事件論争の常識的事柄です。


チェック4

しかもそのうち目撃者があるのが1件で、ほかはまったくの伝聞、被害者名もなしである。あの狭い安全国20万の市民すなわち40万の目が光っていたにもかかわらず、目撃がたった1件!これが実態である。

…茂木氏は前段で「この2ヶ月間の活動記録をよく読むと」と記しているのですが、では同記録の以下の文はどう読んだのでしょうか?

第一六件
十二月十五日、銃剣で傷を負った男一名が鼓楼医院に来院して語るところによれば、下関へ弾薬を輸送するため六名の者が安全区から連行されたが、下関に着くと日本兵は彼の仲間全部を銃剣で刺殺した。だが、彼は生き残って鼓楼病院に来たのである。(ウィルソン)
(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P104)

↑傷を負った男はその他5名の殺害を目撃していない、と茂木氏は解釈したのでしょうか?

第一九件 
十二月十五日、一人の男が鼓楼病院に来院した。六十歳になる叔父を安全区にかついでこようとしていたところ、叔父は日本兵によって射殺され、彼も傷を負った。
(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P104)

↑来院した男は叔父の殺害を目撃しなかった、と茂木氏は読んだのでしょうか?

第六二件 
十二月十八日の陸軍大学内にある難民収容所からの報告。十六日には二○○名の男が連行されたが、そのうち戻ったのはわずか五名であった。十七日には二六名、十八日は三○名が連行された。略奪されたものは、現金・行李・米一袋と四○○枚の病院用蒲団。青年一人(二十五歳)が殺され、老婆一人は殴り倒されて二○分後に死亡。(袪円管(訳音))
(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P107)

↑難民収容所内で、青年一人の殺害と老婆への殴打を誰も「目撃しなかった」と、茂木氏は読解したのでしょうか?

第一七六件 
一人の日本兵が一九三八年一月二日午前十時から十一時の間に、陳家巷五号の劉盤坤(訳音)が妻と五人の子供とで住んでいる家へやって来た。兵隊は家を捜査しようとした。そこでその婦人、つまり劉の妻の姿を見て家の状態について尋ねた。婦人は質問にこたえ始めた。家の中にいた人びとはこれを見て、婦人に家を出るようにそれとなく合図をした。というのは、兵隊は婦人を部屋の中へ連れ込もうとしていたからである。それで婦人は家を出ようとした。その時、彼女の夫劉盤坤は兵隊に乱暴な言葉を浴びせ、また平手打ちをくらわせた。すると、日本兵は立ち去った。

婦人は家に戻り炊事を始め、夫の方は五人の子供と一緒に食事をしようと食べ物を運んでいた。午後四時頃、同じ日本兵が銃を持ってやって来た。この日本兵は主人を出せと命じたが、近所の人たちは兵隊に生命は助けてくれるように嘆願し、一人の男などは日本兵の前にひざまづいた。劉は台所に隠れていた。日本兵は彼の姿を見つけるや、即座に肩を撃ちぬいた。H医師 が四時半頃よばれて行って見るみると、男は死んでいた。ジョン・マギー氏も少し遅れて行ったが、この現場に行きあわせた。(徐、マギー)
(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P113)

↑妻と子どもたちは主人の殺害を目撃しなかった、と茂木氏は解釈したのでしょうか?

…キリがないのでこれくらいでやめる。

とりあえず考えられる可能性。
(1)茂木氏は「Documents of the Nanking Safety Zone」を読んだにもかかわらず、内容を全く読解できなかった
(2)実は茂木氏自身はきちんと読んでいない
このどちらかだと思います。

チェック5

虐殺目撃ゼロ!これが南京の真実である。

…コメントするまでもありませんね。おそらく、自分で読みもせずに「WILL」3月号に書いたのでしょう。この程度の事実確認もせずに掲載する「WILL」誌編集部も大したものです。

これが30万虐殺になっちゃうんだからひどい話である。

チェック3の項で書いたとおり、中国側の主張は、大部分の殺害は「城外」で行われたというものですから、城内の(それも「安全区」内の)事件は、中国側の主張の中では「ごく一部」であるはずです。
しかし、茂木氏は「安全区の記録」所収の事件は虐殺目撃ゼロ(←これ自体トンデモですが)→南京大虐殺の全否定、と本気で主張しているようです。茂木氏の言説も、すいぶんひどい話ですね。