弘前・杉ッ子食堂のじょんがらラーメン

津軽じょんがら節」と言えば、津軽三味線で演奏される代表的な曲の一つ。「津軽よされ節」「津軽おはら節」と合わせて津軽三つ物と呼ばれ、津軽人の魂と呼ぶべき曲となっています。
津軽三味線と言えば、東津軽郡平内町出身の初代高橋竹山大先生津軽三味線の名を全国に広めた功績は極めて偉大です。

初代高橋竹山大先生の「津軽じょんがら節(三味線じょんから)」
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津軽海峡の荒波や風雪を連想させるような情感あふれる世界は、津軽三味線の醍醐味と言えるでしょう。そんな津軽人の魂とも呼べる「じょんがら」の世界を津軽人がラーメンで表現するとこのようになります…

 
じょんがらラーメン in 杉ッ子食堂


野太いエビフライがナント2本!堂々たる貫録! 
ラーメンに入れることなく、ウスターソースやタルタルソースとともに頂いたら、さぞかし美味しいであろうエビフライをあえてラーメンに突っ込む、その精神たるや…これが「じょんがら」なのでしょう…。
ラーメンのスープを吸って、衣がグダグダになったエビフライは、海老天だったら実現したかもしれない一体感を全く見せません。ただ、ラーメンもエビフライ自体もかなり美味しいので、この不協和音を楽しむ逸品と考えたら非常に深いです。

ラーメンのスープは、弘前の食堂で良く見られる煮干ベースで甘みのある味わい。アツアツで供されるので、冷えた体を温めるにはピッタリです。トッピングはエビフライのほか、ホタテ、チャーシュー、わかめ、メンマ、たっぷりの刻みネギ。ホタテはゴロンとしたサイズで、なかなかの食べ応え。ネギとスープの相性も良い感じです。

やや細めのちぢれ麺は、スープをよく絡めてくれます。個人的に細い麺が好きなので、気に入りました。

弘前市郊外にある杉ッ子食堂は、創業約40年、津軽に典型的な雰囲気の食堂。店内はテーブルと小上がりを備え、お昼時になれば農作業中の高齢者が手を休めに訪れます。
「田畑へ出前します」というのが売りで、田んぼや畑であっても配達してくれるということで、今となっては懐かしい「ズームイン朝」(日本テレビ系列)でも放送されたそうです。

じょんがらラーメンや焼肉ラーメンなどの面白メニュー(?)は、お店を新装した時に発案されたメニューとのことでしたが、新装されてから結構な月日が流れていることを看板が示しています。
時代の波に揉まれることなく、昔ながらの雰囲気をそのまま今に伝えるというのは、実はとても貴重なこと。青森の食堂文化がいつまでも愛されることを祈りたいと思います。
 

杉ッ子食堂
青森県弘前市大字高杉字神原108-4
0172-95-2519
11:00〜18:00
不定
 
<参考> ログイン アメンバー|Ameba by CyberAgent [アメブロ]

メモ・津軽じょんがら節

知っているようで知らない「津軽じょんがら節」。インターネットで集めた情報をメモとして残しておきます。
 
つがる-じょんがらぶし 【津軽じょんがら節】
〔じょんがらは「ちょんがれ」の訛(なま)り〕青森県の民謡で、旧津軽領の芸人たちが舞台で唄ってきたもの。新潟県の「新保広大寺」が瞽女(ごぜ)によって伝えられ、津軽三味線の伴奏とともに発展した。「津軽よされ節」「津軽おはら節」と合わせて津軽三つ物といわれる。(三省堂 大辞林
 
津軽じょんがら節(つがるじょんがらぶし) [ 日本大百科全書小学館) ] .青森県津軽地方の民謡。同地方の坊さま(座頭のこと)とかホイド(本来は祝詞人(ほぎびと)の意が乞食(こじき)の代名詞になる)とよばれる遊芸人たちが、門付(かどづけ)を中心に歌ってきたもので、その源流は、天明(てんめい)初年(1782ころ)新潟県十日町市下組(しもぐみ)新保で生まれた『新保広大寺』である。それが越後(えちご)瞽女(ごぜ)などの手によって長編の「口説(くどき)節」に仕立てられると、諸国の遊芸人の間に広まり、坊さまたちの持ち唄(うた)になっていった。ところが瞽女の掬(すく)い撥(ばち)多用の三味線技法が津軽で異常に発達し始め、加えて門付にはだれにもわかる芸ということから、太棹(ふとざお)でじょうぶな犬皮、一の糸を太く、撥は厚手でたたきまくる大きく激しい技法が発達、明治に梅田豊月(ほうげつ)という名人が出現し、今日の津軽三味線が確立された。しかもちょうど同じころ、浪花(なにわ)節の台頭で『津軽じょんがら節』は『津軽浪花節』としての舞台芸に発展していった。「じょんがら節」という曲名は、関西の「チョンガレ節」(祭文の大衆化したもの)と同種の語り物の意味らしい。 [ 執筆者:竹内 勉 ]
 
津軽じょんがら節』の「じょんがら」とはどういう意味か。(出典)
回 答
諸説あり。主なものは次のとおり。
1.浅瀬石(あせいし)城主・千徳政氏(せんとくまさうじ)を滅ぼした大浦為信がその墓をも暴こうとしたことに神宗寺役僧・常縁が抗議し、浅瀬石川に身を投げた。その地は「常縁河原」、後に「上河原」(じょんがら)と呼ばれた。「じょんがら」は「常縁河原」のなまり。
2.江戸時代、阿呆陀羅経を語り物にして節をつけたものを唄う門付け芸人を「ちょんがれ坊主」といった。その「ちょんがれ坊主」の唄「ちょんがれ節」が各地に広がり、輪島ちょんがり節や津軽じょんがら節となった。「じょんがら」は「ちょんがれ」のなまり。