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各エントリに対するコメントではなく、単純に僕にコメントがあるという場合にはこちらまでどうぞ。
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2013-03-04 (Mon)

雑記

なんなのだろうひとつ前の記事は。明らかにメンタルコンディションが今と異なることが見て取れるので気持ち悪いが記録に残しておこう。

2012-06-30 (Sat)

たいして長くもないけど参照URLがいくつかあるのでブログで。

東京大学には入ったけれど・・・ああ無常 人生の失敗を始める頭の“良すぎる”学生たち

に関して、「頭の“良すぎる”」という表現に関して。じゃあいわゆるFラン大学ではそういう学生はいないのですか?というとそうでもなくむしろ、そういう大学のほうがマニュアルを求める学生は多いと思う。家庭教師で非難関校の生徒とふれあい自分自身はいわゆる難関進学校にいた感覚として。


この記事で指摘されている「頭の“良すぎる”」学生というのは

難関大学合格者は、本当に一日十時間勉強しているか――ガリ勉という名の神話  - シロクマの屑籠

に書いてある「ガリ勉」のことなんだろうなと思うが、シロクマ先生も書いているように「ガリ勉」はあまり見かけない。実感としては高学歴なほどパターンを丸暗記して問題に挑もうという人は少ないように感じる。逆に非高学歴校のほうがパターンつめこみ教育/勉強が横行していると感じる。


まあこれも実感ベースなんで、厳密にいうと東大だから云々というのは関係ないと思うし「頭の“良すぎる”」なんて表現は高学歴コンプに寄りそう下品な見出しだと思うし、勉強に対する態度一つ取り上げて人生云々に関してまで説教くさいことが書いてあるのはもっと下劣だと感じた。


まあ「最近の若者に苦労する上司」の溜飲を下げるための提灯記事なんだろうなぐらいの気持ち。社会問題に関する重要な示唆があるとは思えない。

2011-06-12 (Sun) [ノート]物語とゲーム このエントリーのブックマークコメント

最近、「なぜ自分は(そしておそらく大体の人間は)物語を娯楽として求めるのか」ということが気になり、それに関して Twitter でつぶやいていて、もう一つの娯楽の代表格であるゲームとの関係は何かあるのかしらん的なことをつぶやいた段階で紹介を受けた記事がこれ。

no title

冒頭は

"Every medium has been used to tell stories," says Eric Goldberg, one of my oldest friends and president of Unplugged Games. "That's true of books and theater and radio drama and movies. It's true of games as well."

(試訳)

「ありとあらゆるメディアが物語を語るのに使われてきた。」私の旧友のひとりであり Unplugged Games 社の社長でもある Eric Goldberg は言った。「本、劇場、ラジオドラマ、映画は言うまでもない。ゲームだってそうなんだ。」

となっている。物語が時代・世代・文化圏を超えた娯楽であると(少なくとも Eric Goldberg 氏は考えているのではないかと)いう可能性を示唆する語りだしではないだろうか。

...と思ったら次の段落でこのステートメントをたわごとだという風に著者は評価している旨が述べられている。音楽はどうなんだと。が、まあちょくちょく読み進めていこうと思う。

と思ったが、ちょっと読み進めるとゲームの楽しみが物語性とは独立に成立することを主張するもののようである気がするので、ちょっと目的に合わないな。

ゲームのことを娯楽のアナザー代表格と Twitter でつぶやいたときは表現してたんだけどアナザーという表現をする裏にある感覚と同じようなことを言わんとしている模様。

2010-07-21 (Wed)

たなおろしやめた

文脈を持った記事になるわけじゃなし。いらないサイトとタグの整理ができたのでもうこれでいいのだ。

[][][]圏論に関して

圏論がなんか面白そうなので

谷村省吾著『「理工系のための トポロジー・圏論・微分幾何」〜 双対性の視点から 〜』を読んでいたのだけど重い圏に入ったあたりでスタミナが切れてPENDしていた。

最近は哲学科の人たちと

Basic Category Theory for Computer Scientists (Foundations of Computing)

Basic Category Theory for Computer Scientists (Foundations of Computing)

を読んでいる。

うわさによると

Category Theory (Oxford Logic Guides)

Category Theory (Oxford Logic Guides)

が良書らしい。

ウェブ上にもいくつか情報は見つかって列挙すると

はじめての圏論 その第1歩:しりとりの圏 - 檜山正幸のキマイラ飼育記

「圏論」 インデックス

はてなブックマーク - キマイラ飼育記 タクソノミー - cat-theory

ボブ・クックの「物理系実務者のための圏論入門」 - 檜山正幸のキマイラ飼育記

2010-07-19 (Mon)

[][][][]歴史を勉強するための書籍まとめ

高校のときはただの暗記科目だと思ってまったく歴史を勉強しなかった。センター試験は確か高校で最下位だったと思う。が、最近現代を知るために歴史に興味がわいてきたので人力検索で誰か質問していないだろうかと思って検索してみた。

すると 歴史を体系的に学ぶための書籍をおしえていただけますか? 異端.. - 人力検索はてな というのが引っかかったのだがそれでもまだ満足できない感じだったので自分で質問してみた。実を言うとはてなポイントがの失効期限が迫っているとはてなにせっつかれていたので何か質問するべきことを捜していたのだ。その結果が 僕は今まで世界史を全く勉強せずに生きてきました.大学受験時代.. - 人力検索はてな である。質問文は確かよった勢いで書いたのもあって日本語が変なところもあるがまあ、意図を汲んでくれた解答が多くてとても喜ばしい限りであった。

後日、上の質問を見た方が 2009-11-04 - Skipjack and the Sea of Stories という記事を書いてくださった。これも参考にしたい。

だが、今のところ時間が取れておらず一冊も読めていなかったりもする。

[][][]いくつかの疑似科学や反科学について

ホメオパシー

最近、とても痛ましい事件があった。ホメオパシーで乳児が死んだのである。

エラー|Ameba(アメーバブログ)

また、自分の子供に通常の医療ではなくホメオパシーを強要する母親が、それによって生じた家庭内の軋轢に関してホメオパシー指導者に相談するという内容の書き込みがなされ、それを発見した幾人かのひとが児童相談所報道機関に通報するという騒ぎがあった。

ホメオパシーによる医療ネグレクトを報道機関に通報しました(追記アリ - 地下生活者の手遊び

医療ネグレクトと思われる例があるということで通報した - Skepticism is beautiful

(see also ホメオパシーによる児童虐待の件[最初に追記あり])

ホメオパシーにおける治療にプラセボ効果以上のものは認められていない。そのようなものを通常医療を排斥する形でおこなうのは反知性主義としかいいようがないし、それを他者に強要するのは人権の蹂躙である。



ただの冗談や言論の虚飾のために間違ったことを言うのは自由であるが、一部の疑似科学や主流の科学を排斥しようとする反科学は実害を伴うのである。

水からの伝言

これは科学的事実かどうかとは関係がない。道徳の根拠を美という道徳とは何の関係ないものに求めることにある。見た目の美しさを道徳と関連付けるという点で問題である。

血液型性格診断

これも正しかったとしても結論が統計的なものに過ぎない限りはそれに基づいてここの人間について決め付けたりするのは差別である。それがたとえカジュアルな形でおこなわれようとも差別である。そしてその結論は科学的にもあやしい。

404 Not Found

no title

人をだます話術

このエントリ内に含めるのもどうかと思うが、自称霊媒師系の人たちの話術に関して。

イカサマ霊能師やインチキ占い師の手口まとめ - A Successful Failure

マチガッテル系の人々

これはあまり害はないと思うけど単なる資料として。

マチガッテル系の人々

フロイト精神分析

この本で検証されているらしい。

2009-11-16 (Mon) このエントリーのブックマークコメント

生きてはいる.しばらくブクマたな卸しでもして,エントリーにまとめていこうかと思う.

2007-11-23 (Fri) このエントリーのブックマークコメント

<censored>

2007-09-24 (Mon)

経済物理シンポに出てきた

高安(秀)さんは自著のなかで旧来の経済学の実証性に関して煽りを入れている。そのことも話題に上がったりした。

経済学経済物理学。これらの相対的位置付けはどのようになっているのだろう。

田崎さんは経済学社会科学であり、それを通して人間や社会と言うものが見えてくる類のものであって、ただの時系列解析じゃないんだからそこまであおるのはどうだろう見たいな事をいっていた気がする。

高安(秀)さんは「(経済学において)仮説に過ぎないものを法則と呼ぶのはやめて欲しい」などコメントしていた。これに関しては厳密には物理法則も仮説なわけで程度問題になるだろう。だが、実証度が低いものをいかにも確立したかのごとく呼称するのに違和感を覚えると言うのは分かる。

早川さんが非常時における経済物理の有効性を質問していた。僕は非平衡物理をやっている人がそういう質問をするというのが興味深いと思った。均衡が平衡に相当するものであるならば経済にカタストロフィックな影響を及ぼす事件が起きた直後と言うのは非平衡度がかなり大きい状態に対応すると言うことになる。であるからそのような経済状況での理論の妥当性に興味が向かうのはとても自然なことのように思えた。ちなみに、答えはNOであった。

その非常事態の話のときに高安さんが口にしたのは「そのような非常時にはどのように為替レートを決定するべきかと言うことを根本まで立ち戻って経済物理学者だけでなく場合によっては経済学者のなんかも参加して議論する必要がある。」という趣旨のことを口にされていた。

ここでひとつの考えが浮かんだ。経済学経済物理学に登場する諸概念の意味を議論するようなメタエコノフィジクスと言う側面があるのではないかと言うものである。そうであるのならば棲み分けはできそうである。

こういう切り口も可能であるし、またそれ以外で言えばもう少し歴史の古い生物物理と旧来の生物学との関係を参考にするというのもありではないだろうかと思った。旧来の生物学は僕には生物のダイナミクスの理解と言うよりは生物の博物学的分類のほうに力点が置かれているように思われる。そのアナロジーで行くと旧来の経済学と言うのは経済現象・経済政策を定性的に分類するような類の学問なのではないだろうか。それであれば定量的実証性がある程度「ぬるくて」も問題は無いだろう.

2007-09-10 (Mon)

[]なぜ原典を参照せねばならないのか。

inspired by 2007-08-22 - pêle-mêle

社会学が当時社会がおかれている状況に依存するというのは分かるのだ。そういった分野においては、時代の空気からの差分として言説を捉えなおさなくてはならないだろう。だが、倫理的問題と存在論的問題といった風に対置させた場合、このような文化・時代への依存が起きるのは倫理的問題に限ってではなかろうか。存在論的議論はそういったものから解放されている。これは存在論の定義からそうなである。

自然科学科学的実在論を実装する限りは存在論的問題を扱っているといえる。科学的実在論を採用するか否かについては議論の余地が在るらしいし僕自身無条件には受け入れる気にはならないものであるが、実際的な運用上の問題として科学的実在論を採用して問題ない。そうであるならばより高次の科学哲学理論は化学実在論を内包する形で存在するであろう。古典力学に対する量子力学のように。あるいは非相対論力学に対する相対論力学のように。したがってある適切な、現在我々がそこから出ていない、パラメーター領域においては実在論を採用しておいて差し支えない。よって、そのようなパラメーター領域内では自然科学は存在論的問題を扱っているといえるだろう。

自然科学が原典を参照しなくてもいい理由を人文系学問の用語系で語るのならこうなるであろう。

ところでこう考えてくると哲学の存在論的な問題を扱う分野で同様な累積的進歩は可能なのではないだろうかと思えて来る。しかしそうはなっていないように見える。逆に不思議だ。

2007-09-04 (Tue)

[]疑似科学と道徳

観測の範囲内で疑似科学的論理の提唱者の主張は大抵道徳的問題をはらんでいる。■たぶん科学に規範の根拠を求める幻想が大衆と提唱者にあって、そして大抵提唱者はその幻想を利用して細かい議論をカットするために「科学的」という言葉を用いるからである。つまり規範に関して議論を省いて自説を主張したい人が疑似科学の提唱者には多い。そのため疑似科学の問題は大抵道徳の問題と対になって現れる。■そこをよく練りこんで一般論として議論すれば後世に残す意味のあるものができるだろう。

2007-07-25 (Wed)

応募

はてなスターTシャツ欲しい!

2007-07-06 (Fri)

左利きはしつけで直すべきである。左利き人権は無い。

とか言う意見が痛ニュ(http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/999636.html)で紹介されていたレスに結構多くてびっくりした。

この問題には2つの論点があるように思う。

  • 左利きがマイノリティであるということ
  • マナーというものは形式的に守るべきという思考停止

それぞれについて以下に詳述しよう。

左利きがマイノリティであるということ

マイノリティだから不快

その視点からは舞台やTVで左利きとして振舞われると不快というのはマイノリティがTVに映ると不快といっていることになる。こういいかえればさすがに差別だと思う人が増えるだろう。。

マイノリティだから不便

これは実際問題として存在して、そして仕方が無いとは思う。道具作る側も商売でやってるので品揃えが悪かったり特注で高くなったりするのは需要と供給的な考え方の基では仕方が無い。見えざる神の手はマイノリティにとって救いの手ではない。ここにおいて「子供のために矯正すべき」という意見はそれなりに説得力を持つ。だが、検証はしていないが利き腕の矯正は心身へのストレスを及ぼすという主張もある。どちらに重きをおくかで矯正す「べき」か否かは変わってくる。心身へのストレスという因子とインフラや道具を用いる面での不便というのは同じ軸に無いので最終的判断は各家庭、各個人の裁量にゆだねられるべきではないだろうか。

立ち食い蕎麦でぶつかる

体の大きさが二倍ぐらいあるやつを問題とすべきか否か。まあひじひとつ余計に離れればよろしい。体が一回りでかいやつだったと思えばいいだろう。そう考えるとこれはマイノリティへの配慮が足りない差別的言説ということになる。

マナーというものは形式的に守るべきという思考停止

これは僕の個人的意見だが、意味を離れて形骸化したマナーは大嫌いだ。インド首相と会食したエリザベス女王がフィンガーボウルの水を飲んだとかいう逸話(ホントかどうかは知らないが)に見られる態度こそマナーでしょ。形式主義のスノビズムなどいらない。マナーというものは大抵便利さや、不安の解消、安全の確保を考えて「やさしさ」から構成されている。その伝統的礼儀にマイノリティへの差別が含まれるというのならばその伝統を変えてこそマナーじゃなかろうか。

マナーについて

上ではああ書いたが、しかし同じ行動を形式的に共有するということにも意味はあるのかなとも思う。最近、挨拶のもつゆるい引力に興味がある。口上をたれるタイプの挨拶ではなく、本当に「おはよう、いただきます、おやすみ」見たいなもの。僕は少なくとも実家にいるときは言わないときがすまないタイプである。親とけんかしていようとも寝る前には反射的に「おやすみ」と言ってしまうのである。そこにはほとんど感情はこもっていないと思う。形式的習慣であると思う。その形式的習慣の持つ役割は何であろうということで関心を持っている。挨拶の無い文化圏というのは知らないし挨拶というのは社会形成の基盤をなす儀式なのではないだろうか、などと思ってインターネットを調べたり書籍を探したりしている。

2007-06-23 (Sat) これじゃ生き延びれねえよ

電車の中の携帯電話はなぜ不快か

酒をのみながら斉藤環の生き延びるための羅漢一章を読み終える。

突っ込みどころ満載。斉藤さんは考えるセンスが無い人リストに入りました。

二合飲んだあとなのだがそれでも騙されないぐらいひどい。

ということをよった勢いで23に書いたのだが追記しよう。斉藤環ラカンが必要であることを納得させるつかみとして電話の中での携帯電話が不快であることをラカン精神分析の視点で説明して見せた。しかし不十分である。

本質は文脈が見えない言葉が並ぶということであり精神分析を経由する必要性は一切ない。オッカムなら切り落とすような説明だ。文脈が見えなければなぜ不快か?それは僕には断言できないが、おそらくは防衛本能と関係があるのだろう。周りで起きていることの筋道を理解できない結果不意に危険が襲い掛かってくるのではないかという不安を無意識に喚起されるからなのだろう。おそらく。

もしそうであるのならばこの問題は結局防衛本能といった言葉で単純に説明できる。

あとがきも不快であったが、詳しくはまた後日。

2007-05-17 (Thu)

こんな僕でも昔は作文が嫌いでした。

小学生高学年のときは作文が苦手だった。「課題として出す以上は何らかの基準を満たすことを求めてるだろうが、基準が分からない。どういうルールでゲームしてがんばればいいんですか?」と思っていた。また、読書感想文に関しては課題図書に選ばれるような本というのは「教訓」が潜んでいてその教訓を見抜けるかのテストだと思ってた。そしてその教訓を以下に料理するかだと思ってた。高校になって「潮騒」の読書感想文で「〜べし」とかではなく単純に「青春のみずみずしさ」に焦点を当てて読書感想文書いてた頃あたりからそういった思考から脱却できていたのだろう。

作文系の苦手な生徒というのはひとつにはこのように課題の目的が分からないことが理由になって生まれるのではないだろうか。小学生三年にもなれば「要求の意図は?」ぐらい考えるのでそれまでにびしっとした方向性を示してほしい。何のために何をすればよいのか。

だが、それ以前にそもそも指導者側が想定している目的自体が見当違いである可能性もある。

作文にしろ読書感想文にしろ先生に見せて朱筆が入って返ってくるわけだけど、作文とか読書感想文とか内容自体に正解はないしそれを課題にしてしまうのが見当はずれに見える。いや見当はずれどころか見当をつけてすらいないように見える。当然、文法や接続詞の用法が論理的か否かに関しては正解があるし、それはチェックできる。にもかかわらず、特に小学生のときはそうだったが、朱筆は叙情性とか感性とかそういったものに関するコメントばかりだった。指導要領自体が間違っているとしか思えない。そんなことをしているうちに算数の文章題の意味が分からない生徒が量産されるわけだ。

読み返してみて、ちょっとぼやけた感じの印象を受ける文章になってしまったと自分で思うが、つまり今の作文・読書感想文教育のよくない点は、

  • 生徒に目的が十分に伝えられていない
  • 評価が難しい叙情性・感性を無理に評価しようとしていて、肝心の技巧・論理性に焦点が当たっていない。

という二点なのだろう。

2007-05-07 (Mon)

眼差しと服飾について

inspired by 「異性のためにのみ」のファッションへの大きな誤解 - 月がでたでた月がでた インスパイやされたけど引用はしない。

性的な眼差しを離れて、つまり完全に男しかいない状況で男が服装に気を使うことがあるのだろうか。それは想像がつかない。などというと「オレは男だけの集まりでもお洒落していくよ」なんていうやつがいるだろうが、本当にそいつは女性の眼差しへの意識から逃れているのか。男たちの集まりであまりダサいと思われてると合コンに誘ってもらえないだとか普段から着こなしておかないといざ女性の前でオサレするときに付け焼刃になって見透かされるとかそういうことを本当に考えてないのだろうか。その場にいるのが男だけでも外部にいる女性たちとの出会いを勘定に入れてしまっているのならばそれは純粋に男性しかいないコミュニティとはいえまい。そういったことを考えるとき本当の意味で男しかいない状況なんてのは女性が全滅でもしなければ実現しないように思う。冒頭で想像ができないといったのは実は完全に男しかいない状況で男が服装に気を使うことというよりは完全に男しかいない状況それ自体、厳密に言うならばそういう環境下での男の心理全般、のことだったのである。女性側でも似たような議論はできるのではなかろうか。

ところで、この議題に対し、我々が行いうるのは個人的視点から語られる経験の集積および思考実験である。しかし、思考実験が扱えるのは心理の中の意識可能な部分である。心理の無意識的な部分には敏感さに差こそあれ気づくのは難しい。それに敏感な人が一方的に語ったとして万人を納得させるのは困難であろう。ここでは思考実験を避けて、個人的心理を語ろう。もし僕が鏡を見て明度が同じで彩度の高い補色同士がぶつかってたりするとみるに耐えないと思うだろう。それは避けたい。だが自分がいやな気分になりたくないというだけであれば服を着替えずとも鏡を見なければいい。そう考えるのならば、結局服飾などというものは自分で自分を見るにしろ自分が視線の対象とされているという意識がなければ気を遣うべきものではないのだろう。すなわちファッションというものは I のためではなく me あるいは myself のためのものなのである。と、ここまで考えて自意識と無縁に服飾というものが存在しえる気がしなくなってきた。

ただ、まあ過ぎたお洒落というのはたぶん自分自身やあるいは服オタコミュニティで見せ合って楽しむためのものなんだろう。つまり度を越したお洒落はコスプレみたいなもんなんだろう。

眠いのでここで終了。

服飾の楽しみ〜ぬり絵あるいは着せ替え人形との相似性〜

上の続きで、本当に一人だけでおしゃれを楽しむ可能性としてタイトルのようなことを考えた。タイトルで大体わかりますよね。

分類

  • 絵を描く楽しみと同じレベルで自分の服装について考える。(僕は割りとこの傾向があるかも);でもほめられると嬉しい。相手が男だろうと女だろうと。まあそれは自分が何も考えず色彩感覚に任せて描いた画がほめられるとうれしいみたいなあれか。
  • ボディランゲージの一部としての服装:職場でのスーツとかtpoわきまえた服装。
  • 孔雀の羽:異性の目を意識。異性に対するアピールがある人間だという同姓への牽制もこれに回収しとく。ここにおいては度を越すおしゃれは逆にドン引き的なそんなかんじ。
  • コスプレ系:裏腹もある意味そう?服オタ同士が「ほう、これは〜ではないですか〜さん」みたいな(いやあるのかそんなやり取り?)まあフィギュアや飲んだことある日本酒が服に変わっただけ。

2007-04-14 (Sat)

正しい?そばの食べ方

http://d.hatena.ne.jp/bluesy-k/20061007/1160236347

京大の近くにある「みのり」という蕎麦屋が割りと気合が入ってる。そばの食べ方指南のようなものもテーブルのパンフに書いてあった。一回ですすりきれる量を端でつまんで口に入れるまでは噛まずに一気にちゅるっと行くのが正しいそうである。口に入れた後は当然噛むらしい。ということでそんなに量はとらないことになるからずるずると品のない感じの音はならないものなのではないだろうかと思った。まあ、すすって音出るとか自然な感じで良いじゃん、と思う。

ちょっと横にずれるけどマナーって結局やさしさでしょう。イギリス女王がインド首相と会食してインド首相がフィンガーボールのこと知らずにその水を飲んだら女王もフィンガーボールの水を飲んだとかいう話があるらしいけど女王の行為はマナー違反ではない。好意からの行為なのだから。形骸化したマナーほどうっとおしいものはないし、マナーに対するそういう考えしかもてない人を見かけるとちょっとイラット来る。

2007-03-31 (Sat)

公共サービスに関する知識の普及に関して

朝日新聞デジタル:どんなコンテンツをお探しですか?に関して、件の母親はちょっと甘いところがあったけどもそんなにひどい人じゃないんじゃないかということをうかがわせる背景がが新聞に載っていたらしい*1

それに関して、

うどんこ天気

私がこのエントリーで言いたかったのは。生活や色々で、何か困ったことがあれば、いろいろ調べて利用して欲しいです。もちろん全てには対応できませんし、不都合も多いです。融通も利かないかもです。そのあたりはまた改善していかなくちゃいけないところだとは思うんですが…でも、一応サービスはあるんです。あるのよ!あと公的なのは安いです!安いぞ!年間の所得によってもっと減ったりもします。これもちゃんと言うのよ!

うどんこ天気

というエントリーが書かれた。

が、この考え方自身が広く広まらなければ意味がない気もするので、ここに引用しておく。ここを見るような人には不便があったらとりあえず調べるという態度はわりと当たり前かもしれない。だが、それならばさらにその隣人に伝えてほしい。

2007-03-26 (Mon)

[]卒業式にアンパンマンが出たということに関する口コミ

しばらく、口コミを検索して見つけたものを

http://b.hatena.ne.jp/bluesy-k/07anpan/

に記録し続けて見ます。

更新されてから拾うまでは ask.jp が早いそうなのでそれで。

ほとぼりが冷めたあとやヤフーのブログ検索あたりだろうか。

それと、この研を調べていて アンパンマンとは何者か? という掲示板のログを発見した。アンパンマンについて議論してる。

2007-03-18 (Sun)

[]見ること・名づけること・支配すること〜名前をつけてやる〜

見ることは対象を把握しようとすることである。把握の先には支配がある。科学の発展が人間に自然を征服せしめた。などという言説をよく耳にするがこれは物質的な意味だけにおいてそうというわけでもない。理解することの向こうに支配することというがあるんだとおもう。

理解において重要な行為に概念に名前をつけるということがある。科学理論しばしばは仮説的実在をあらわす名詞を含む。また、言霊思想においては「本当の名前」を知ればその対象を支配できるとされている。


上に述べたことは断言を多く含むがあくまで直感的な話のアウトラインである。そして、アウトラインを書いていずれ詳しく書くというスタンスでアウトラインを書いてみたわけではなくて、僕の中で上の話をどう議論していいのかがわからない。何か本を読みたい。ここを読んでる方でこんなのを読んだらどうだろうというのがある方はぜひご紹介ください。

読むつもり:

「見ることの狂気」

「形の哲学ー見ることのなんとかロジー」