お引越し

はてなダイアリのサービス自体が終了するそうですね。そのうちお引越ししなきゃなぁと思いながらもうなんだかんだ、8年?やってきたので、思い入れもそれなりにあるわけで。

ダイアリを書き始めたころは、看護師じゃなかったし、結婚もしてなかったし、仕事辞めるなんて思っていなかったし、まさか大学院に行くなんて、、思ってもみなかった。とにかく、いろんな人との縁の中で生きてきた、本当に導かれて、いろんな人が助けてくれた、ただそれだけの、ありがたい生き方をしてきたと思います。(こんなに運使い果たしてだいじょうぶかと今後が心配になるくらい)


とにかく嵐のことを書きたくて始めたブログだったけれども、ただただ、抱えていたものをアウトプットする場所がほしかったのだとも思う。そう思うと、今はあの頃より感情の聴き方、伝え方を身につけていると思えるし、わたしの凝り固まった頭は出逢いのなかで、だいぶ解れたようにも思う。いまだに、どうしてもそれは許せん、と思ったり、ちょっとしたことでものすごーく感動したりすることもあったりして、まだ凝り固まってるからすごく困るときもあるのだけど。


コメントやり取りさせていただいたり、いつもひまわりつけてくださったみなさま、本当にありがとうございました。あの方だったり、あの方だったり、名前が思い浮かばれます。永らくお世話になりました。もうほとんど、もうほとんど、あの当時にダイアリ書かれていた方はいらっしゃらない。だからこそ、なのか、この場所にいる意味というか、やっぱりはてなダイアリが好きで、最後の方には好きなことばっかり書いて(書きやすくなったのか?)いました。

本当にありがとうございました。
ではでは、また、いつかお逢い出来る日まで。

あぁそうか

最近、「君の膵臓を食べたい」をもう一度読んだ。
前に読んだのは1年前ぐらいだったか..
自分の中で落とし所が見つからなくて、もう一度読んでみようと思ったところだった。

さて話は変わり。最近の看護理論の授業でプレゼンするために資料を作っていた。そこで「前提」という言葉が出てきていたので調べてみたのだ。理論における「前提」という概念は、どうやら「誰も疑う余地もないような当たり前の概念」のことを指すらしい。

本題に戻る。わたしは「つくづくひとりじゃ生きられないなぁ」と思ってきたし、それは「前提」だった。疑う余地もないのだから、それがどうしてなのかって言葉にすることもなかった。

でもこの本の中で答えのようなことが書いてあった。生きることがどんなことか「君」から聞かれた彼女は「人とつながっていること」そして「自分ひとりじゃ、生きているってわからない」と答えた。そっか、誰かがいてくれないと生きているってわからないから、それは生きていることにはならないのか、と妙にすとんと心に落ちるひとことだった。

最近ハイデガー存在と時間を読んでいた。例えば話したいと思う人がいて、話を聴きたいと思う人がいるからこそ、自分は存在していることに気づく。生きていると思えるのも自分が存在していいと思える目の前の大切な人がいてくれるからこそ。
いつかクレヨンしんちゃんのパパひろしが言った、「命が大切なんじゃない、しんのすけお前の命が大切なんだ」という名言がふと思い浮かんだ。
目の前の大切な人に大切だと伝えること、それは生きていることを伝えることにもなる。毎日の些細なやり取りは誰かの心を助けてくれるのかもしれない。

なんかそんなことを考えてしまう涼しい夜です。

〇〇な人の末路

「この人はどうしてこの文章を残したのだろう」と考えることで知識は数倍にも深まる。例えばナイチンゲールが看護覚え書を残すに至った理由。彼女はもともと統計学の視点から公衆衛生を考えていたことでそこに至った。歴史を辿るとあの人とあの人がここで繋がってたのか!なんて発見もある。今までは目の前の患者さんとお話するときに聞かせてもらうこともあったのだけど、今はお世話になっている教授や院生、そして本の中の偉人たちに聞かせてもらっている。

ある選択の連続が末路になるわけで、学校で習った世界史や日本史も、偉人の選択やその理由を知ろうとしていれば、もっともっと楽しかったのだろうし、歴史が楽しいと言っていた子たちはその楽しさを知っていたのだろうなと今では思う。もし自分が教える立場になるのなら、学生に楽しい学び方を知ってほしいと思った。知識は使わなければ忘れていってしまうけれど、学び方は結構覚えている。それから学び方さえわかっているのなら、学びたい、学べるタイミングでその力を発揮することができる。生きていく上でとても大切な力だと思う。


ところでドラマの方ですが、なんやかんや、きっといい結末になるのだろう、と結構冷静に見てたらなんと予想だにしない結末に転がってきていてなかなか見応えがある。(にかちゃん出てるから見始めたんですけどね)横尾さんの婚約者は横尾さんが仮想通貨で儲かったことをきっかけに変わってしまったけれど、世の中にはそこで変わらない人もいると思うのです。それって何が違うのかなぁって考えると、「人」としての直観だと思う。その直観って、きっと人から培われるのだろうし、その人って自分で集めている部分もあるのだろうし、だとすると感性を研ぎ澄まして「自分は」どう思うのかを自分に問いかけて考えて発信をしなければならないと思う。時間がある今だからこそ、と自分に語りかけている。

自分が不得意だと思っていることに対して、すごく得意だという人がいて、それを見習って追いつけるように頑張ろうといつまで思えばいいんだろう。あなたはこれが苦手でわたしはこれが得意だから得意なことをカバーするよ、ということはお互いを理解しているということ?分担しているということ?それとも諦めているということ?これからも永遠の課題のような気がする。

メモ

"ケアの現場はケアの「小さなかけら」が編まれたものだ"という表現が気に入っている。「蓄積」とか、「経験」とかではなく「編む」まさにそれが言いたかった..と納得した表現。

この類の本って答え教えてくれないよね。先生みたい。「触れることによって存在しているということに意味をもたらす」(私の解釈)と書いてるのだけども、どんな意味かまで教えてください先生..となる本。読みながら頷くけど何度も読んでしまう本。わかっているようでわからない、理解を促すためにほかの文献を50冊ほど読みました。結局そうするうちに知識が自分のものになっていく感覚を抱く。

前世は兄弟

名古屋ドーム行ってきました。
にかちゃんせんちゃん、3ヶ月も口をきかなかったとDVDで何気なくナレーションでさらっと挟まれたときには口があんぐりして1日限定で眠れなかったけれど、ふたりの笑顔が見られて安心しました(勝手な親心)なんとなーくだけど、舞祭組の立ち位置のことでけんかしたんじゃないか、、と思ってるんだけどどうだろう。わたしはもう、舞祭組は縛られなくてもいいのではないかと思うよ二階堂さーーん。


今回ライブで化けたなぁと思ったのはなんといっても「蜃気楼」「Break The Chains」蜃気楼はセンター(わたしの念願の夢がかなった!!!!)で舞う二階堂さんがとにかくとにかく綺麗だったことと、BTCのエスカレーターでのスタンバイが本当に綺麗だった...あれはどんな角度や構えが一番美しく見えるのか計算し練習尽くしてるのか、それともどの動作も無駄がないから自然にやっているのか教えてください。ライブというより、美術館に来ているみたいだった。心は行動に出ると思っているので仕草が綺麗な人にいつでも惹かれてしまうのだよ、、あと「Hey」の声だけでライブ行った意味があったよね、、


構成的なところで言うと、BTCの歌詞の中では「さぁ今から鎖を外そう」ともがいている段階で、最後に「赤い果実」をセトリに入れることで「鎖を外す(しがらみから解放される)」ことを表現したのかな。
BTCは徹底的に「僕と君」の世界で構成されていて、「他の誰かに否定されても君は君だから」はキスマイからファンに伝えているようで実はファンからキスマイへのメッセージだったりする。そんなことをベースに「赤い果実」では「飛び立とう明るい色へと」「届きそうで届かない未来は僕がとってあげる」とファンとキスマイとも、メンバーどうしへのメッセージともとれる歌詞が続く。そしてダンスでは鎖を7人でお互いに外す(うー何回考えても涙でそう)BTCの衣装が黒くて、セトリの最後には白かったのもこの構成を考えると納得。
これを年少ニカ千が考えたのかぁって思うとさ..

キスマイ尊し。