bogus-simotukareの日記

2018-05-19

新刊紹介:「歴史評論」6月号(その2:ヤミ市)

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http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20180520に書き切れなくなったのでこちらに書いておきます。

・詳しくは歴史科学協議会ホームページhttp://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生なりに紹介できる内容のみ紹介します。

特集『特集/第51回大会報告特集 歴史における危機と復興の諸相II』

【テーマ】災害・復興と社会の変容

第二次世界大戦後日本の闇市に見る危機と復興(初田香成*1

(内容紹介)

 無能のため、うまく紹介することができないのですが、初田論文に関連してネットで見つけたヤミ市関係の記事を紹介しておきましょう。

参考

■ヤミ市(闇市)(ウィキペディア参照)

 一般的に日本の「ヤミ市(闇市)」として有名なものは、第二次世界大戦後の混乱期に成立した商業形態である。終戦直後の日本では、兵役からの復員や外地からの引揚げなどで都市人口が増加したが、輸入が途絶えた状態で政府の統制物資がほぼ底を突き、物価統制令下での配給制度は麻痺状態に陥っていた。

 敗戦後間もない1945年(昭和20年)11月1日に「餓死対策国民大会」が日比谷公園で開催されている。翌年の1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデーには、25万人の労働者が参加して「飯米獲得人民大会」が開催された。

 1947年(昭和22年)には法律を守り、配給のみで生活しようとした裁判官山口良忠が餓死するという事件も起きている。

 もともとは「闇市」だったのが「イメージが悪い」「配給じゃ食えないんだから仕方がないだろう」「(最近は)新宿ゴールデン街、吉祥寺ハモニカ横丁など観光資源的な意味での宣伝」つう意味で「ヤミ市」に表現が変わっていくわけです。

 配給で食えないからヤミ市ができるつう意味では「北朝鮮に存在するらしいヤミ市」なんかも話は同じでしょうね。まあ、一般日本人が観光で訪朝する限りはそんなヤミ市には行けないでしょうが。

 ちなみに山口氏については以下を紹介しておきます。

■山口良忠(1913年〜1947年:ウィキペディア参照)

・終戦後の食糧難の時代に、闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で餓死した事で知られる。

 食糧管理法違反で起訴された被告人を担当し始め、闇米を取り締まる判事の自分が闇米を食べていてはいけないという思いにより、1946年(昭和21年)10月初め頃から闇米を拒否するようになる。

・なおその自らに厳しい態度から、食糧管理法違反で逮捕された人々に対しても過酷であったのではないかと考える者もいたが、むしろ同情的であり、情状酌量した判決を下す事が多かったと言われる。

・この事件から、闇米を食べなければ生きて行く事自体が不可能であり、食糧管理法それ自体が守る事が不可能な法律であったという意見もあり、食糧管理法違反事件ではしばしばいわゆる緊急避難の適用が弁護士によって主張されたが、裁判所によってことごとく退けられていた。

 食糧管理法を遵守して餓死した者として、山口の他には東京高校ドイツ語教授亀尾英四郎(1895〜1945年)、青森地裁判事保科徳太郎が知られている。

■ヤミ市(闇市)(ウィキペディア参照)

 このような状況の下で、戦時中の強制疎開や空襲による焼跡などの空地でヤミ市がはじまった。

 現在ではヤミ市の多くは商店街や繁華街となっており、かつての面影はない。

 一部の地域の裏通りにかつての闇市を思わせる一角が残っていることがあり、例えば、新宿西口思い出横丁歌舞伎町新宿ゴールデン街、中野の中野サンモール、上野のアメヤ横丁(アメ横)、下北沢の駅前食品市場、吉祥寺のハモニカ横丁、大阪の鶴橋商店街、神戸の元町高架通商店街などが知られている。

■ヤミ市が登場する作品

映画

・『酔いどれ天使』(1948年、黒澤明監督)

・『肉体の門』(1948年、マキノ正博監督)

・『野良犬』(1949年、黒澤明監督)

・『浮雲』(1955年、成瀬巳喜男監督)

・『続・拝啓天皇陛下様』(1964年、野村芳太郎監督)

・『肉体の門』(1964年、鈴木清順監督)

・『あゝ声なき友』(1972年、今井正監督)

・『仁義なき戦い』(1973年、深作欣二監督)

・『人間の証明』(1977年、佐藤純彌監督)

・『瀬戸内ムーンライトセレナーデ』(1997年、篠田正浩監督)

■テレビドラマ

NHK連続テレビ小説

・『梅ちゃん先生』(2012年上半期)

・『ごちそうさん』(2013年下半期)

・『とと姉ちゃん*2』(2016年上半期)

・『べっぴんさん*3』(2016年下半期)

■漫画

・『空手バカ一代*4』(梶原一騎原作、つのだじろう画)

・『はだしのゲン*5』(中沢啓治

 ウィキペディア『ヤミ市』で紹介されてる映画についていくつか紹介しておきます。

 ちなみに『続・拝啓天皇陛下様』(1964年)、『あゝ声なき友』(1972年)は渥美清主演です。

 『男はつらいよ』(1969〜1995年)の寅さん役ばかりが注目されがちな渥美ですが「それだけではないんだ」ということは指摘したいですね。 

http://movie.hix05.com/kurosawa/kurosawa02.drunken.html

酔いどれ天使

 この映画のもう一つの重要な特徴は、戦後の混乱期を生きていた日本人の記録になっているということだ。(ボーガス注:黒沢明の)前作「素晴らしき日曜日」でも、戦後の東京の焼け野原や闇市の様子が出てきていたが、この映画でも、闇市に群がる人々が、ものを求めて必死に生きているさまが映し出されている。だからこの映画を見た人たちは、映画の場面の中に自分自身の姿を見つけ出したり、また三船の見せる怒りの表情に、自分自身の怒りの感情を重ねあわせたりしたに違いない。

https://star-director.info/category5/entry41.html

酔いどれ天使

 主役は志村喬扮する酔っ払い医者なんですが、DVDやブルーレイのカバーは三船敏郎扮する若いヤクザ。

 まー、そうした方が売れるのもわかる。志村喬がいい感じなんですが、ただ、あまりにもヤクザを演じる三船敏郎がカッコよくて、憧れます。相当のイケメンです。これ。

 しかし、志村喬の演技もまたいいんです。日本のモーガン・フリーマン*6と言われる志村(志村の方が古いですが)。

 『生きる』や『七人の侍』の演技とはまったく違う、口の悪いヤクザ顔負けの役どころなんですが、全然違和感がない。

 志村喬には、こういった乱暴で情に厚い男をもっと演じて欲しかった。個人的には志村喬史上最高の演技です。

http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/eigahyou24/zokuhaikeitennoheikasama.html

■続・拝啓天皇陛下

 「拝啓天皇陛下様」の続編で、前作と同じような構成なのだが、基本的には独立した話になっている。

 無学で乱暴者、世間に順応して行く事ができない主人公の生きざまを通して、社会的な問題点や人間の哀しさを浮き彫りにして行く良質の物語となっている。

 「拝啓天皇陛下様」も名作であったが、本作も又、前作に勝るとも劣らない名品になっている。

 軍隊生活にしか活路を見い出す事ができない主人公(渥美清)の姿は、テキ屋稼業しかできない、後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎そのままである。

 彼は、表面的ながさつさ、だらしなさのため、周囲から誤解され、毛嫌いされてはいるが、本質的には、素直で優しい心根を持つ純粋な男である。

 しかし、生来の不器用さのため、真っ当な生活を送る事ができず、どん底の生活から抜け出す事ができない。

 それは、恋愛面においても同じで、善助の方から一方的な憧れを持つ相手が現れても、それが成就する事はない。

 (ボーガス注:山田洋次が脚本に参加したこの作品において)寅次郎とマドンナの関係の原点が、すでにこの時点で完成しているのである。

 本作では、子供時代に出会った女先生(岩下志麻)、久留宮ヤエノ(久我美子)、恵子(宮城まり子)という三人の女性と善助の関わり合いが描かれるのだが、どれも哀しい結末になっている。

 戦前、戦中は差別迫害されながら、戦後は一転、闇商売からパチンコ業へと商売を拡大させ、日本の中でたくましく生きる中国人、王万林(小沢昭一)の姿も興味深い。

 彼は、善助の無二の親友であると同時に、日本という国を客観的な視点から見つめる第三者でもある。

 しかし、そんな、王の人生も又、順風満帆とは行かない所が皮肉である。

 王万林の妻、メイランとして南田洋子、戦地で善助と意気投合する後輩兵として勝呂誉、他にも、加藤嘉、田中邦衛春川ますみミッキー安川阪急ブレーブスの選手だったロベルト・バルボンなどが顔を見せるが、何といっても本作で語るべきは、宮城まり子の存在感であろう。

 彼女一人のはかない人生を通して、戦後日本の繁栄の裏に潜む、空しさ、醜さ、哀しさが強烈に伝わって来る。

http://alltag.hatenablog.jp/entry/2014/08/aa-koenaki-tomo-movie-review

■あゝ声なき友

 原作は有馬頼義の小説『遺書配達人』で、原作を読んだ渥美清が映画化の企画を出し自らが主演している作品である。

 終戦まで病気で入院していた西山(渥美清)は、その後、南方に送られ全滅した部隊でただ一人の生き残りとなる。部隊の戦友たちは南方に送られる前、検閲を通さない遺書を西山に託す。その遺書を抱いて西山は日本に帰る。

 なんとか生計を立てながら、戦友たちの遺書を届ける旅に出る西山。遺族を訪ねて全国を巡るなか、戦争で人生を狂わせれた人たちの生活を目の当たりにして戦争を深い傷跡を思い知る。映画の終盤、全滅したと思われた部隊は実は……。と言ったストーリーである。

 全国各地をロケした風景が美しいのは美点。そして遺族を訪ねるごとに人間模様があり、オムニバス形式でいろいろは俳優の芝居を楽しめるのもよい。主演の渥美清は、寅さんのイメージが強いが本作では社会派監督・今井正がシリアスな渥美清をどのように料理しているのかにも注目したい。

 この時代に撮られた戦争を描いた映画には、キャストやスタッフが戦争を経験しているからこそ出せる雰囲気がある。戦後70年。戦争経験者は減り、こうした映画はもはや撮れないだろう。このことは戦後日本に平和が続いていることの証でもあるから喜ぶべきことなのだろうが、映画ファンとしては複雑な心境である。

新宿ゴールデン街ウィキペディア参照)

 新宿ゴールデン街の起源は、太平洋戦争終結後の混乱期にできたヤミ市を端緒とする。当時の東京都淀橋区・四谷区(いずれも現在の新宿区)周辺では闇市が軒を連ねており、新宿駅の東側には関東尾津組による「新宿マーケット」が広がっていた。その後、新宿マーケットは屋台を中心とした飲み屋街に変貌し、「竜宮マート」と呼ばれるようになった。しかし、1949年にGHQ(連合国軍総司令部)が闇市撤廃を指示するに至り、東京都庁と警視庁は各店舗に対して翌年までの移転を命じた。それにともない、ヤミ市の各店舗は、代替地として新宿区三光町(現在の歌舞伎町1丁目と新宿5丁目の一部)の一帯に移転することになった。この一帯が、のちに新宿ゴールデン街と呼ばれるようになる。

https://www.homes.co.jp/cont/press/buy/buy_00603/

■闇市の面影を残す街〜終戦直後に誕生し数年で消えた東京の闇市の今

 闇市とは戦時中、戦後のモノ不足に対処するために行われた統制経済下で公的には禁止されていた流通経路を経た品が並んでいた市場のこと。戦時中にも闇市場、闇取引などという言葉はあり、流通そのものはあったが、リアルにモノの売買が行われる場として闇市が登場したのは戦後になってからだという。

 その嚆矢となったのは終戦からわずか5日後に開かれた新宿マーケット。ついで池袋、渋谷、新橋、神田、上野など、都心近くの主要駅周辺に続々と開かれ、やがて郊外の駅前、道路沿いにも出現する。当時の街中、特に駅周辺などには建物疎開(空襲で火災が発生した際に周辺への延焼を防ぐために建物を取り壊して防火帯を設ける措置)や空襲で焼失した跡地など、露店を出すための空地は豊富にあり、そうした場所が不法に占拠され、闇市となった。

 2009年以降闇市研究に関する学際的な研究を行ない、「盛り場はヤミ市から生まれた」(青弓社)などの著作もあるグループの調査結果によると、1940年時点で人口が約5万人以上だった100都市のうち、実に99都市にはヤミ市が存在したとも。同グループの日本設計・中島和也氏の研究によると中には寺社境内に開かれたものもあり、現在も岩手県盛岡市の桜山神社、福岡県八女市の土橋八幡宮境内などに商店街として残されているそうだ。

■わずか数年で誕生、消失したものの、面影は各地に

 終戦直後から全国で同時多発的に発生した闇市が拡大のピークを迎えたのは翌年、1946年始め。だが、その隆盛は長くは続かなかった。ストップをかけたのはGHQ(連合国軍総司令部)である。

 闇市の多くはテキヤ*7と呼ばれる露天商の団体*8が仕切っていたが、こうした組織の封建性が民主化を目指す日本にふさわしくないこと、物資の横流しによって正規の流通が阻害されること、安全面や衛生面からの問題などの理由から規制は強化され、同年8月には八・一粛清などとも呼ばれる大掛かりな全国一斉摘発も行われている。さらにその後の紆余曲折を経て、都内では1951年12月末までに新聞、宝くじ、靴磨きを除くすべての露店が撤去された。闇市は誕生からわずか数年で消えていたのである。

 しかし、露店が無くなったからと言って闇市的なモノがすべて消失したわけではない。青空の下からは消えたものの、恒常的な商店街、飲食店街などとなって都会のあちこちに残されており、そのうちの少なからぬものは今ある商店街の基礎ともなっている。闇市は現在の商店街の揺籃的な意味を持っていたとも言えるわけだ。

 たとえば、昭和期には年末の買い出しの定番スポットとして栄え、現在では観光名所のひとつともなっている上野のアメ横。ここでは最初、上野駅の南側から御徒町駅の間にあった建物疎開地に露店が出現、高架のガード下などにも拡大した。その後、1946年に誕生した、現在のアメ横センタービルの前前身となる近藤産業マーケット、1952年に露店撤去令で建設された上野百貨店中央通りを挟んで上野公園際の建物。2012年にUENO3153に建替えられた)などのビルに移転、現在の姿となった。

 ちなみに最近のアメ横センタービルの地下はエスニック食材の宝庫となっており、アジアの露天市場の雑踏を思わせる。かつて日本にも同じような風景があったと思うと、歴史の不思議さを感じさせてくれる。

■闇市の移転先がビル?

 アメ横センタービルに限らず、闇市がビルに移転した例は意外に多い。たとえば新橋駅西側の、街頭インタビューでおなじみのSL広場の脇にあるニュー新橋ビルや東側にある新橋駅前ビル1号館、2号館はかつて闇市があった後に作られた建物である。もちろん、闇市からそのままこれらのビルへという移転ではなく、その間にテキヤ主導によるマーケット建設、移転があり、その後、1960年代に行政による駅前再開発でビル建設、移転という経緯である。

 面白いのはこれらのビルの地下街は闇市、その後のマーケット時代同様の区画、混沌さをそのまま残していること。ビル内に路地があり、数人入れば満員御礼という店が並んでいるのである。ただし、これらのビルは建設からすでに50年近く経っており、すでに西側のニュー新橋ビルを含む一帯では再開発準備組合も発足している。当時の雰囲気を楽しめる日々はいつまでだろうか。

 自分たちでビルを建ててしまった例もある。荻窪駅北口、青梅街道沿いにあるショッピングビルタウンセブンである。ここにはかつて闇市由来の新興マーケットがあり、そこからビル建設への経緯は同ホームページにも記載されている。感動するのは、1987年にあった店舗のうちの何軒かは今も盛業で、かつ他のショッピングビルなどにも数多く出店している有名店も含まれていること。戦後を生き抜いてきた人達の強さが伺える。ちなみに荻窪駅北口側には今も往時の雰囲気を伝える商店街が残されており、その一画が荻窪ラーメン発祥の地でもある。

■ブームの横丁の8割は闇市由来?

 だが、闇市と言われて多くの人が想起するのはビルではなく、横丁だろう。前述のグループの研究者の一人、井上商会の井上健一郎氏によると「横丁の8割は闇市起源」とか。2011年頃から、トイレの整備など衛生面の対策に加え、治安の改善が行われたことから、横丁ブームが起こり、それは今も続いているという。ただし、首都圏のうちでも、特に都心の横丁では飲食店以外は家賃が高く、なかなか成り立ちにくいとも。

 確かに現在都心部の横丁に集まっている店の多くは飲食店。例外はアメ横新宿駅西口にある思い出横丁や多少都心からは離れる、吉祥寺駅北口前にあるハモニカ横丁くらい。ハモニカ横丁には衣料品や生鮮食料品などの物販店があり、これらの店舗が現状やっていけているのは店舗が自己所有であるため。家賃が不要であることから、やっていけているのだろう。また、ハモニカ横丁の場合には駅前の3000平米に及ぶ土地を地元の寺社が所有しており、そのためか、今のところ、開発計画は聞こえてこない。

 防災的な観点からすると、細い路地に小規模で古い建物が集中する横丁はある意味、邪魔な存在。行政サイドとしては開発したいと思っているケースが多いようだが、なかなか進まないのが現状で、その辺りも闇市由来ならでは。土地所有、賃貸の権利関係が複雑で、整理が面倒なのである。

 分かりやすいのが過去にボヤ騒ぎなどもあり、何度も開発計画が浮上しては消えを繰り返している、前述の思い出横丁。ここは終戦直後に生まれたラッキー・マーケットの一部で、当初は小田急百貨店まで続いていた。その当時からすると現在の面積は3分の1程度だろうか。店舗は時代に応じて変化してきているが、路地や店舗の位置、店舗の小ささ、密集度などは戦後から代わることなく、約80店が営業。最近は外国人観光客の姿も多い。同様に三軒茶屋国道246号世田谷通りに挟まれた通称三角地帯でも、開発の噂はあるらしいが、とりあえず、今も路地裏の風情は顕在である。

■これからの日本は闇市を生み出せるか?

 最後に、ここまでに何回か紹介している闇市研究グループが開いた調査報告会で出た質問をご紹介したい。その質問は「日本に今後終戦に匹敵するような厄難が起きたとして*9、私たちはもう一度闇市を作ることができるだろうか*10?」というもの。

 厄難が起きることは想像したくないし、闇市を手放しで礼賛するつもりはないが、戦後の、生きていこう、とにかく食わねばという逞しさ、勢いを今の私たちは持っているかという質問と考えると、答えは微妙だ。

 もし、終戦直後のようにあちこちに空き地があり、そこで煮炊きをして食事を提供、生活費を稼ごうと考えたとしても、同時に保健所の許可を取らねば、空き地で火を使う許可はどこにもらうのだろうと考え、実行には至らない。今はそういう人が少なくないのではなかろうか。終戦時に生まれたような秩序、法律、空間の空白がもう一度、生まれるとしたら、その時、私達の時代は何を生み出せるか。答えは人それぞれに違うかもしれないが、一考してみても良い質問だろうと思う。また、それは同時になぜ、闇市が人を惹きつけるのかという質問であるのかもしれない。

(*)

 参考にした「盛り場はヤミ市から生まれた・増補版」(青弓社)によると、当初は犯罪でもある闇行為という意で闇市という表記が一般的だったが、1946年以降生活に欠かせないものとしてヤミ市という用法が定着したとされている。だが、ここでは一般に分かりやすいよう、闇市という表記に統一した

https://toyokeizai.net/articles/-/218688

東洋経済オンライン『秋葉原、「オフィス街」へ急変貌する街の強み』

(前略)

 今や電気街の代名詞的存在となった秋葉原だが、戦前には神田や上野といった周辺の繁華街に挟まれ、電気街としての存在感は高くなかった。

 だが太平洋戦争で秋葉原を含む一帯が焼け野原となり、戦後払い下げ品を中心とする闇市が形成されていったこと、付近にあった電機工業専門学校(現・東京電機大学)の学生の間でラジオの開発がはやり電子部品が売れたこと、さらに当時の秋葉原は国鉄や都電の路線が集まりアクセスがよかったことなど、さまざまな要因から電子部品業者が秋葉原に集まってきた。

(後略)

ということで秋葉原電気街の前身もヤミ市だったわけです。

■渋谷事件(ウィキペディア参照)

 1946年(昭和21年)7月19日午後9時、東京都渋谷区渋谷の渋谷警察署前で起った抗争事件である。警視庁渋谷警察署、暴力団の落合一家、武田組および愚連隊の万年東一*11一派の連合部隊と、武装した在日台湾人グループとの間に発生した。

 七尾和晃*12『闇市の帝王:王長徳と封印された「戦後」』(2011年、草思社文庫)によると、この事件については、渋谷警察署を襲撃した在日台湾人を、渋谷警察署、落合一家、武田組、万年一派が迎え撃ったとする説と、渋谷駅に帰宅中の在日台湾人を、渋谷警察署、落合一家、武田組、万年一派が突然一方的に襲い掛かったとする2説がある。

■事件発生まで:背景

 渋谷区宇田川町のヤミ市の一画に、華僑総本部が作られた。華僑総本部は、ヤミ市に何軒かの飲食店を持った。一方、東京新橋のヤミ市「新生マーケット」を拠点とする暴力団・関東松田組(組長は松田義一)は、在日外国人をヤミ市から締め出そうとして激しく対立していた。

 1945年6月16日、在日台湾人の武装集団が関東松田組事務所や建設現場に殴りこみ、1人が死亡、1人が重傷を負った。警察とMPが介入した。

 7月16日、関東松田組組員が日本刀などを持って、渋谷宇田川町の在日台湾人経営の喫茶店に殴りこみ、在日台湾人50人と乱闘となった。8人が重軽傷を負った。関東尾津組・尾津喜之助組長が、斡旋に乗り出したが、不調に終わった。

■1946年7月19日

 7月19日午前10時ごろ、渋谷警察署長・土田精は、渋谷署の刑事2人を、暴力団・落合一家の高橋岩太郎総長の事務所に遣わした。刑事は、高橋に「在日台湾人が300人以上の人数を集めて、拳銃で武装し渋谷警察署を襲う」との情報が入ったことを告げ、渋谷警察署への助太刀を依頼した。高橋は、渋谷警察署への助太刀を了解した。土田は、飯島連合会系の暴力団・武田組の武田一郎組長や愚連隊の首領・万年東一の応援も取り付けた。

 同日午後9時、何者かの発砲により芳賀弁蔵巡査部長が胸部を撃たれた。この事件で警察側の死者は、芳賀1人、在日台湾人の死者は、全部で7人だった。

 しかし「渋谷事件」のようなことが過去にあるのに今や産経などは「台湾は親日」ですからねえ。

 まあ、「渋谷事件を起こすようなごろつきが台湾人」とか差別発言をかまされても困りますが。

https://mainichi.jp/articles/20171031/org/00m/040/016000c

毎日新聞『著者インタビュー 稲葉佳子 青池憲司 『台湾人の歌舞伎町』』

 大きな映画館が集まり、夜になると飲食店や風俗店のネオンが輝く新宿・歌舞伎町。シンボル的な存在だった〈新宿コマ劇場〉は2008年に閉館したが、いまでも多くの人が行きかう。本書は、この歌舞伎町の形成に、台湾の人たちが深く関わっていたことを丹念に検証するドキュメンタリーだ。

 「戦時中の空襲で焼け野原となったこの地域を芸能施設の集まる興行街にしようと考えたのが、町会長だった鈴木喜兵衛(きへえ)です。歌舞伎劇場の建設も予定していたので『歌舞伎町』という町名になったのですが、実現しなかった。その中で唯一建設された〈地球座〉(現・ヒューマックスパビリオン新宿アネックス)という映画館のオーナーが、林以文*13(りんいぶん)という台湾人の青年実業家でした」(稲葉さん)

 このほか、キャバレー・飲食店の入る〈風林会館〉、名曲喫茶の〈スカラ座〉(15年閉店)など、歌舞伎町には台湾人がはじめた店が多くある。

 台湾つながりでここで紹介しておきます。

■浜松事件(ウィキペディア参照)

 1948年(昭和23年)4月に静岡県浜松市で発生した抗争事件。ヤミ市利権をめぐり、地元暴力団・関東霊岸島桝屋一家分家と在日朝鮮人組織が抗争したとされる。

 浜松警察はMPの出動を要請し、400人のMPが浜松に派遣されたことで沈静化した。

 ヤミ市でのヤクザと在日外国人集団の抗争として比較的有名とされる渋谷事件(在日台湾人)と浜松事件(在日朝鮮人)をウィキペディアの記載を引用する形で紹介しておきました。など

 まあ「事実として間違いないだろう」つう部分を、ウィキペ「浜松事件」から引っ張ってきましたが、2018年5月14日時点で「浜松事件」(ウィキペディア参照)には

 この事件により、増長していた朝鮮人の評判は地に落ち、逆に組側は浜松市民有志*14から50万円の見舞金が送られた。

なんて記述がありますからねえ。

 「お前どんだけ在日嫌いでヤクザ好きなんだよ」と書いた奴を問い詰めたくなります。

 ちなみに、この初田論文では、新宿西口マーケットを差配した安田組組長・安田朝信の自伝『都会の風雲:安田朝信自伝』(1964年、東京書房)が紹介されています。

 なお、ヤミ市に在日が進出していった理由の一つとしては「在日にとって差別のため一般の就職が難しい(日立就職差別事件などはその一例です)」「むしろヤミ市への進出の方がしやすい」という面もあったでしょう(もちろんそうした差別はその後、運動によってかなり解消していきますが、そうした差別が最悪の形で表面化した一例がたとえば「朝鮮学校無償化除外」「小池都知事による韓国学校への土地貸与方針(前任・桝添知事の決定)撤回」でしょう)。

 その点では「ヤミ市への在日の進出」は良く指摘される「パチンコや焼き肉店、鉄くず拾い」への在日進出に似た面があるかと思います。まあ、このあたりのこと(戦後ヤミ市、パチンコや焼き肉店、鉄くず拾いなどにおける在日)は小生も「何かいい本があったら勉強したい」とは思いますが、例えば浜松事件なんか「ネットでググる限りでは」在日差別記事やヤクザ美化記事ばっかヒットするんで、胸くそが悪くなります。イヤー、小生もこんなことを書いて「在日問題にセンシティブな人間」「非常に真面目な人間」などと誤解されるのはいやなので「そんなご立派な人間ではないこと」を一応お断りしておきます。

 例えばヤミ市関係ではそんなことより橋本健二氏が触れる居酒屋とか肩のこらない話題の方が興味があります。まあこの機会に「その種の居酒屋(一番有名なのが新宿ゴールデン街や吉祥寺ハモニカ横丁でしょうか、新橋のガード下もそうなのかな?)」にたまには行ってみようかなあと少し思っています。まあ、「少し」ですが。その種の居酒屋ってチェーン店居酒屋と違ってなかなか入りづらい気もしますので。小生はっきり言って小心者ですのでねえ。

■日立就職差別事件(ウィキペディア参照)

 1970年に発生した、日立ソフトウェアに応募した在日韓国人二世の採用内定取り消しをめぐる事件である。1974年に、日立ソフトウェアを訴えた原告側の勝訴判決が出された。

 日立事件でググると結構ヒットするのかなあと思ったんですがググり方が悪いのか思った程ヒットしないですね。

http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20070204/1170630939

■橋本健二の居酒屋考現学

[酒の本]松平誠*15『ヤミ市 幻のガイドブック』(1995年、ちくま新書

 著者は都市の祭の研究で知られるが、この本は豊島区郷土資料館と江戸東京博物館から、ヤミ市についての提示の企画を依頼されたことを契機に始めた研究を、一般向けにまとめたものである。これがなぜ「酒の本」か。ヤミ市のかなりの部分が飲食店だったから、当然、当時の酒事情やヤミ市の居酒屋のことがかなり詳しく書かれている。そして何より圧巻なのは、ヤミ市の居酒屋・焼鳥屋・おでん屋のようすが見事に再現された、江戸東京博物館展示の「新宿ヤミ市模型」の写真とその解説である。ある店では、海軍の戦闘服を着た男たちが茶碗を叩いて合唱している。別の店では、物書きの先生が出版社の社員と新米作家を相手に講釈している。またある店では、ヤミ商売で儲けて酒盛りをしている男のポケットから、スリが財布を抜き取ろうとしている。見ていると、ヤミ市の居酒屋にタイムスリップしたような感覚を覚える。

 東京の駅前飲食店街のかなりの部分は、ヤミ市を前身としている。そのことをちょっと頭に入れて飲めば、感慨もわいてこよう。今度この本を持って、ガード下へ行ってみようと思う。残念なことに現在品切れだが、古本はかなり出回っている。

http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20070222

■橋本健二の居酒屋考現学『池袋のヤミ市』

 敗戦直後、池袋には大規模なヤミ市が形成された。現在、池袋東口には大きな広場があるが、ここがヤミ市だった場所。名前を「池袋連鎖市場」といい、店舗数は約二八〇軒、そのうち五五%が飲食店で、さらにその八割が飲み屋だったという。そのヤミ市のようすが、池袋駅から歩いて五分ほど、豊島区勤労福祉会館七階の豊島区立郷土資料館に縮尺二〇分の一の模型で再現されている。再現されているのはヤミ市の南側で、飲み屋よりも雑貨屋や食料品店の多かった場所。現在の、みずほ銀行と駅の間あたりである。意外にTシャツにズボン姿が多いが、復員兵や米兵の姿も見える。赤いドレスを着た女は娼婦だろうか。人々に動きがあり、マーケットの活気がうかがえる。

 一九四九年、豊島区は駅前を不法占拠していた店舗の撤去を通告、立ち退きになった店舗は、ひかり町通、美久仁小路、栄町通り、人世横丁へと移転していった。こうして池袋の飲み屋街が生まれるわけである。

http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20070228

■橋本健二の居酒屋考現学『ゴールデン街

 敗戦のわずか五日後の一九四五年八月二〇日、関東尾津組親分の尾津喜之助は「光は新宿より」をキャッチフレーズに新宿マーケットを開いた。場所は新宿東口、三越と駅の間の大通り沿いである。これに先立って八月一八日には、商品を買い取る旨の広告が都内の主要紙に掲載され、都内・近県の中小企業主たちが敗戦で納入先を失った製品を持って尾津組の事務所に押し寄せてきていた。その間にも焼け跡の瓦礫が急ピッチで片付けられ、よしず張りの店が作られていた。これが、新宿ヤミ市の始まりである。はじめは各種の雑貨が中心だったが、駅前の一帯はほどなく「竜宮マート」と呼ばれる飲み屋街になる。しかし一九四九年八月、GHQは翌年三月までに露店を整理するよう指示した。これを受けて東京都・警視庁・消防庁は露店の整理に乗り出し、反対運動を押し切って撤去・移転を進める。こうして竜宮マートの飲み屋が移転して形成されたのが、現在のゴールデン街である。

 ヤミ市起源の飲み屋街には、斜陽化して再開発の対象になるところが少なくないが、ここは依然として元気だ。世代交代も進み、若い人が経営する店も多くなった。それぞれの店が、音楽、演劇、映画、出版、文学、政治など独特のカラーを持ち、その筋の人々を引き寄せていることも多い。この独自の文化が、長続きの理由だろう。

http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20070509

■橋本健二の居酒屋考現学『新宿の闇市』

 ゴールデン街のところでも書いたが、敗戦直後、新宿には大規模な闇市が形成された。新宿東口には尾津組の「竜宮マート」、南口よりの方には「和田組マーケット」、西口は安田組の「民衆市場」。店の数は、許可を受けたものだけで約六五〇、実際には三〇〇〇以上に上ったとの説もある。

 両国の江戸東京博物館には、東口の和田マーケットの飲食店街を復元した模型が展示されている。飲み屋が七軒、焼鳥屋、おでん屋、汁粉屋がそれぞれ一軒。聞き取り調査や写真などから、建物はもちろんのこと、人物も服装や髪型、仕草まで精巧に作られている。じっと眺めていると、闇市にタイムスリップした気分になってくる。模型の製作にあたっては徹底した調査が行われており、その調査の概要は、博物館の売店でも売られている報告書『ヤミ市模型の調査と展示』で知ることができる。調査団長は松平誠。松平は池袋のヤミ市についても同じような調査を行っており、その成果は豊島区郷土資料館のヤミ市模型として展示されているほか、『ヤミ市 東京池袋』*16(ドメス出版)にまとめられている。

http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20071019

■橋本健二の居酒屋考現学『アメ横「大統領」』

 上野は新宿、新橋、池袋と並んで最大のヤミ市街の一つだったが、その中心をなすアメ横は、他のヤミ市とはやや起源と経緯が異なる。他のヤミ市の多くが、新宿の尾津組・和田組、新橋の松田組などのように「組」支配の色彩が強く、「組」と中国・朝鮮人との対立が絶えなかったのに対し、アメ横は東京都が国鉄のガード下を、下谷引揚者更正会という引揚者団体に貸し出したことから始まる。最初は芋を原料にした飴を売り出して流行ったことから「アメ屋横町」と呼ばれたが、後には密輸品や米軍の横流し物資を大量に扱ったことから「アメリカ横町」という意味をも帯びることになった。「組」による不法占拠ではなく、正当に借り受けた場所だから、他の場所でヤミ市の撤去が進むようになってからも発展を続け、今でも都内有数の商店街となっている。このあたりの経緯については、長田昭の『アメ横の戦後史*17』に詳しい。ちなみにヤミ市起源の飲食店にモツ焼き屋が多いのは、食料統制の厳しかった当時にあって、モツは統制品ではなかったからである。

http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20071022/1193007315

■橋本健二の居酒屋考現学『早稲田「加賀屋」でヤミ市座談会』

 今日は古典酒場の座談会で、早稲田の「加賀屋」へ。ここへ来るのは前回に続いて二回目。「加賀屋」はチェーンとはいえ個人経営の色彩が強く、店によってかなりの違いがある。この店はビールはサッポロ、(ボーガス注:焼酎やウイスキーを割る)炭酸はニホンシトロン、焼酎はキンミヤと(ボーガス注:大衆酒場の)王道を行き、しかも美味しいオリジナル料理も多いという、優れものの「加賀屋」である。トイレには、写真のようなキンミヤ焼酎の能書きまである。

 今日のお題は「ヤミ市横丁の居酒屋」。最近の私の専門分野だから、いろいろと話をさせていただいた。戦後のヤミ市を起源とする飲食店街はもちろんだが、ゴールデン街や人世横丁のように移転先の飲食店街の方が、むしろヤミ市時代の雰囲気を色濃く残している場合があり、同じように「ヤミ市横丁」と呼ばれるべきである。当時の化石または遺跡と呼びたい、もっともデープな店は有楽町・丸三横丁の「銀楽」だろう。今日新しく参加されたワイタベさんによると、店を切り盛りしていた老婆は、九〇歳と称しているとのこと。亡くなったら店は閉めるそうで、この貴重な遺跡もあと数年の命である。関心のある人は、ちょっと覚悟を決めてからどうぞ。他の皆さんは、二次会で中野方面へ。私は別件で、池袋に向かった。

http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20080109

■橋本健二の居酒屋考現学『金沢のヤミ市』

 戦災を免れた古都・金沢でも、終戦直後にはヤミ市が簇生した。当時を知る人の話と、金沢市立図書館で調べた結果を総合すると、ヤミ市があったのは、つぎの4ヶ所である。(1)金沢駅前。再開発で、現在はホテル日航金沢になっている。ただし、駅前周辺を総合的に発展させるというよりは、30階建てのホテルを建てただけに終わっていて、周囲には取り残されたような商店や飲食店が点在している。このほか、駅周辺には何カ所かヤミ市があったらしい。かつては駅ビルの地下に「ステーションデパート」というヤミ市起源と思われる零細商店の集まる場所があった。(2)尾山神社前。ここには、いまでもヤミ市の雰囲気を色濃く残す「尾山飲食店街」があるが、最近は空き家が目立ってきた。(3)香林坊の裏手にある鞍月用水の上。当時の写真を見ると、用水に蓋をする形で商店が並んでいる。再開発で撤去された。(4)片町の裏手。現在でも、木倉町の一部と新天地の飲食店街として残っている。

http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20090506

■橋本健二の居酒屋考現学『烏森神社付近』

 新橋は、東京でも最大級のヤミ市があった場所である。ヤミ市といっても、物資を売る店よりは飲食店が中心で、文字通り最大のヤミ市盛り場だった。ヤミ市起源の居酒屋・商店街は、一九六〇年代まで残った。その多くは、新橋駅前ビルとニュー新橋ビルに移転したが、今でも周辺には、ヤミ市の雰囲気が残る。それがいちばん濃厚なのは、烏森神社周辺だろう。露店時代の地割りのまま建て替えられたのではないかと思われる小さな店や、ミニ雑居ビルが密集している。

http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20090522

■橋本健二の居酒屋考現学『「絶品!大人のB級グルメ 」』

 なぜか最近、ガード下や横丁酒場を扱った本や雑誌の出版が多い。その多くは、ヤミ市起源だ。時代はヤミ市を求めているのかもしれない。

 これはCIRCUSという雑誌の増刊号で、タイトル通りカレー、とんかつ、ラーメンオムライス、丼などの注目店を扱ったものなのだが、終わりの方に十数ページを使って「裏路地酒場、横丁入門」という特集がある。取り上げられているのは、思い出横丁ハモニカ横丁、西荻窪の柳小路、赤羽OK横丁、大井町の東小路、品川港南口の裏路地。いずれも劣らぬディープなヤミ市飲み屋街である。しかもこの記事は「闇市」を前面に出している。「戦後の闇市の面影を残す裏路地酒場で、今宵はくいっと酒を飲もう」という具合である。一九六〇年代と七〇年代の新宿西口付近の写真まであり、ファンにはこたえられない。六〇〇円と安いのもいい。

http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20090602

■橋本健二の居酒屋考現学『新橋ヤミ市と「女王蜂と大学の竜」(石井輝男監督・一九六〇年)』

 明治初期、新橋は文明開化の窓口として栄えた。東京駅ができてからは、やや目立たなくなるが、それでも銀座の延長上の盛り場として、多くの人々を集めた。

 戦争が、新橋を大きく変えた。銀座はコンクリート造りの耐火建築が多く、松屋や松坂屋、和光など主だった建物は焼け残り、再建も早かった。ところが新橋は、鉄道のガードを除いてほぼすべての建造物が焼失し、そこに都内でも最大級のヤミ市が形成されたのである。鉄道で集められた食料、米軍から流れてきた物資が売りさばかれた。横の飲み屋では、男たちがカストリを飲みながらモツ焼を食べていた。戦争で仕事も身寄りも失った多くの人々が、ここで生計を立てた。今日の新橋飲食店街は、ここから始まった。

 当時の新橋の姿を知りたいなら、映画をみるといい。「鐘の鳴る丘」(佐々木啓祐監督・一九四八年)は、戦災孤児問題を取り上げたラジオドラマの映画化で、ヤミ市が林立していた頃の駅前の光景が、リアルに記録されている。

 「女王蜂と大学の竜」は、松田組をモデルに、ヤミ市の利権をめぐるヤクザの女親分と在日中国人の抗争を描いたもの。ストーリーのかなりの部分は史実に沿っている。写真は、新橋ヤミ市での乱闘のシーンである。

 ちなみに

https://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948/e/e83a74637e82ca64cafc847cba047a6f

■大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」『女王蜂と大学の竜』

 1960年、新東宝で公開された石井輝男監督作品、主演は吉田輝男と三原葉子、嵐寛寿郎である。

 昭和20年の敗戦直後、盛り場では「三国人」が戦勝国だとし跳梁跋扈していて、日本人露天商を圧迫していたというタイトルから始まる。

 その後のヤクザ映画でもいくつか作られた、韓国・朝鮮人の所謂「三国人」と日本人ヤクザの対決もののはしりであろう。

 東京下町の関東桜組の事務所に、三国人連盟が殴り込んで来て、「マーケットの権利を半分寄こせ!」と言う。

だそうです。なるほど石原の例の三国人発言のバックにはこういうのがあるわけです。

https://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948/e/e83a74637e82ca64cafc847cba047a6f

 そこに二階から現れるのが、着物姿の親分の娘三原葉子、さらに飛び込んできて助ける若者は、ラバウルの特攻帰りの吉田輝男。

 大学の竜と言っても特に学生というわけではなく、ただの渾名であるらしい。

 三原は、組長嵐寛寿郎の一人娘であり、その他子分には天知茂などもいるが、ここでは端役。

 その頃の天知さんってまだまだ売れてなかったんだなあと興味深い。むしろ俺的には「三原葉子」「吉田輝男」の方がさっぱり解りません。

http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20100528

■橋本健二の居酒屋考現学『青森「新鮮市場」』

 青森には、ヤミ市から生まれた市場が二つある。駅前にあった市場団地は、海産物店を中心に一五〇店もがひしめく「青森の台所」だったが、一〇年ほど前に再開発で撤去され、「アウガ」というビルの地階に収容されてた。これが「新鮮市場」である。駅前通りに直結する階段を下り、ドアを開けると新鮮な魚の匂いに全身を包まれる。ほぼ正方形のフロアは、東西南北に路地が走り、売り場に木枠をかぶせただけの小さな店が建ち並ぶ。その数、およそ八〇店。地元で獲れる魚介類は何でも揃い、値段も安い。天井を見ずに歩いていると、ここがビルの中だということを忘れる。

 その南側に、古川市場がある。こちらは古い木造の売り場がそのまま残り、魚や野菜、総菜などを売る市民向けの市場だ。地方都市の駅前は、とかく再開発して大きなビルを建て、きれいにしてしまう例が多い。青森はヤミ市時代の匂いを残す市場がほぼ原型のまま残る、数少ない例のひとつだろう。

http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20100726

■橋本健二の居酒屋考現学『ハモ横化する三軒茶屋

 向かったのは、三軒茶屋である。ここへ来るのは一年半ぶりくらいだが、目を見張る変化があった。若者が経営する新しい店が増えているのである。ワインバーやホルモン焼きの店など、外装もインテリアも、このあたりとしては斬新で、通行人も若者が増えたようだ。ヤミ市起源の飲食店街に新しい店が増え、若者客で賑わうようになった先例としては、吉祥寺のハモニカ横丁があるが、これに近い変化といえる。

http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20110131

■橋本健二の居酒屋考現学『ガード下の魔窟』

 神田は、上野、新橋、新宿などと並んで、最大規模のヤミ市があった場所である。現在の飲食店街の大部分が、その範囲にある。その片鱗は、ガード下にみることができる。神田駅のガードは、山手線、京浜東北線、中央線など線路が多いため、線状ではなく面として広がっている。道路になっている場所はまだ分かりやすいが、道路ではなく単に飲食店街の並ぶ通路が何本かあり、果たしてこれが現代の日本なのかと思うほど、ヤミ市時代の雰囲気が色濃く残る。いろんな場所で飲んできた私でも、ちょっと入りづらい店もいくつかある。

http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20140722

■橋本健二の居酒屋考現学『三軒茶屋夕景』

 三軒茶屋の変貌が著しい。かつては寂れかけていた、ヤミ市に起源をもつ商店街・通称「三角地帯」だが、新規の店がたくさんできて、賑わっている。若者も多い。吉祥寺のハモニカ横丁に続く、ヤミ市飲食店街の復興である。こんな例が、さらにあちこちにできてくれば、東京はもっと魅力的な町になる。外国人観光客を引き寄せることもできるはずである。

 橋本氏*18のブログ記事を読むだけで「終戦直後の日本はそこら中ヤミ市だったこと」「ヤミ市が大衆酒場で賑わってたこと」がうかがえます。

https://dot.asahi.com/webdoku/2015121100005.html

■アエラドットコム『バクダン、カストリ、密造ウイスキー......ワイルドすぎる戦後の酒文化』

 書籍『居酒屋の戦後史』において、「人々がどんな酒を飲むか、どんなとき、どんな場所で酒を飲むか。そして人々が集まる居酒屋の姿。これらは時代によって変わり、その時代の社会のあり方を、色濃く反映する」と語るのは、著者の橋本健二さん。

(中略)

 戦後70年、酒文化はいかなる歴史を歩んできたのでしょうか。戦中から戦後間もない時期には、多くの人にとって貴重品だったお酒。食料さえままならぬ時代、ヤミ市には安価な芋や麦などの糖質を発酵させて造ったカストリ、燃料用アルコールを水で薄めたバクダンと呼ばれる密造酒を出す飲み屋が無数に立ち並んでいたそう。

 バクダンにはメチルアルコール入りのものがあり、死者や失明者が続出したのに対し、カストリは鼻につく匂いはあるものの、中毒の心配がないため、新聞社や出版社が集まっていた有楽町界隈には、酒好きの多い作家や記者、編集者などの集まるカストリの屋台が林立していたそうです。

 そして織田作之助や石川淳、山田風太郎をはじめとする文学者たちは、こうしたヤミ市の飲み屋街を題材とする作品を残していますが、坂口安吾もそのひとり。自らもカストリを愛飲していたといいます。

https://www.sankei.com/world/news/161228/wor1612280061-n1.html

■産経『ロシアの酒代わり、入浴剤で大量70人超死亡 プーチン政権も対策へ』

 ロシア東シベリアイルクーツクで、酒代わりに飲まれていた入浴剤で大勢が中毒になり、28日までに70人以上が死亡した。低所得者層で値段の安い化粧品などが「代用酒」として飲まれてきたロシアでも一度にこれほどの死者が出る事態は異例。プーチン政権も本格的な対策に乗り出した。

 入浴剤には飲用禁止の表示はあったが、75〜90%のアルコールを含んでおり、事実上代用酒として流通していたとみられる。大勢の死者が出たのは、販売された入浴剤が偽物で、有毒のメチルアルコールが使われていたことが原因とみられる。捜査当局は製造元や販売店を捜索、10人以上を拘束した。

 ロシアではソ連時代からアルコールの過剰摂取が深刻な社会問題プーチン政権発足後もアルコール度数の高いウオッカなどへの課税強化や、夜間の酒類販売規制といった措置を取ってきた。しかしロシアのシンクタンクは2千万人以上が密造酒や化粧品など法規制の枠外のアルコールを飲んでいると推計する。

 酒好きの小生とはいえさすがに「メチルアルコール(メチール)」なんて無謀なもんを飲む気にはなりませんね。最悪死にますから。

 「ヤミ市→酒場→メチール→ロシア」と大分脱線しましたが、しかしロシアもずいぶんとワイルドでアナーキーですね。戦争直後の日本みたいで怖くなります。

http://bunshun.jp/articles/-/337

週刊文春・著者紹介

『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く*19』(藤木TDC*20著)

 「昔のドラマでは、ヤミ市って怖い場所としか描かれていなかったんですが、最近朝ドラの『とと姉ちゃん』でも、主人公たちがヤミ市で、自分たちの雑誌を売って商売しようと頑張っていましたでしょ。ヤミ市への見方がだいぶ変わってきたんだなぁ、と思いますね」

と語るのは、先日『ヤミ市跡を歩く』を刊行した藤木TDCさん。映画やAVなどのライターの仕事の傍ら、横丁や辺鄙(へんぴ)なところなど味のある飲食街を飲み歩いて取材してきた。ヤミ市を発祥とする街の取材も、すでに20年近くになる。

「お金のなかった学生時代、新宿でオールナイトの映画を見たあと、西口の“思い出横丁”にあった“太閤”で鯨(げい)カツを食べるというのが、私とヤミ市跡との最初のつながりでした。」

(中略)

 戦後70年、東京の街は大きく変わった。庶民の生活の必要から焼け跡に生まれたヤミ市も、経済成長が進むなかで次々と再開発に消えていった。

石原都知事のころまでは、ヤミ市発祥の飲食街は東京の恥部としてどんどん取り壊されていきました。でもいま生き残ったところには、外国人観光客が押し寄せてきています。“恵比寿横丁”や吉祥寺の“ハモニカ横丁”のように、若い人たちが店を開いてレトロなアミューズメントとして楽しまれる空間にもなっている。

 ヤミ市名残の飲食街は火に弱く何度も火災で焼失して、そのたびに近代的なビルなどに建て替えられていったのですが、最近は以前のヤミ市的な飲食店にまた建てなおすケースも出てきた。いまやヤミ市跡は立派な観光資源なんです」

http://www.sankei.com/life/news/160821/lif1608210020-n1.html

■産経【書評】『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』藤木TDC著 足と資料で描くリアルな姿

(前略)

 本書のテーマである「ヤミ市」は、戦時中に統制された公定価格ではなく、非合法で取引される商品を販売する場所を指す。戦後の焼け跡に、それらを扱うマーケットが生まれた。その後、東京都は露店の撤去を進め、経済が好転するにしたがい、ヤミ市は解体していく。

 しかし、現在でも、新橋駅前のビルには、ヤミ市で営業していた小型飲食店が軒を連ねているし、大井町の東小路は「ただの直線飲食店街ではなく盲腸のような横道、袋小路をかかえた、複雑構造の横丁であり、共同便所、共同洗い場などマーケット時代の路地設計を今に残している」。

 こういった横丁は、フラットな空間に慣れた若者たちをも惹(ひ)きつけ、新宿ゴールデン街や吉祥寺「ハモニカ横丁」では、若い世代の集まる店が増えている。そこには、直接体験していなくても「懐かしい」という感覚がある。

https://mainichi.jp/articles/20180307/dde/012/040/003000c

毎日新聞『文筆家・フリート横田さん*21横町の店に戦後の匂い』

 若いころから街歩きが好きで、東京の、戦後のヤミ市を源流とする横町や、古い飲み屋街の路地にたたずむ大衆酒場、ガード下の立ち飲み屋なんかを飲み歩いていました。

 がらりと扉を開ければ、すぐ目の前にカウンターがあるような、猫の額みたいな狭い店。お年を召したママさんがいて、常連のおやじさんが黙ってチューハイなんかを飲んでいる。きらびやかに見える東京ですが、こんな店がひしめく飲み屋街が、探せばまだ残っているんです。

https://toyokeizai.net/articles/-/191221

東洋経済オンライン『「有楽町高架下センター商店会」で見た景色』フリート横田

 有楽町駅を出てすぐ、在来線と新幹線が走る高架橋の下にある「有楽町高架下センター商店会(以下、高架下)」。

(中略)

 そのなかにあった「玉菊」は、昭和26年に高架下に店を聞き、現在はすぐ脇のアーチに仮店舗を構えて営業を続けている。店主の清宮(きよみや)宏造さんは、大正11年のお生まれながら今日もカクシャクとして店頭に立つ。清宮さんは終戦後、昭和21年中国大陸から復員し、ヤミ米などを千葉や埼玉からヤミ市へと運ぶ「カツギヤ」をやって糊口をしのいだ。資金を貯めると、「ヤミ市にあった喫茶店を4万円で買ったんだよ。店は2坪もなかったな」。

 ヤミ市があったのは、有楽町駅から外堀川(現・東京高速道路)にかけたあたり。ここには都の交通局があったが、戦後焼け跡となりヤミ市ができた。当時は「350軒も店があった」そうだ(500軒とする資料もある)。ところが疎開していた交通局が同地に戻ることになった。そこで昭和23年、駅寄りの土地にヤミ市の人々を集めて生まれたのが、バラック飲み屋街「すし屋横丁(以下、すし横)」である(すし屋だけでなくホルモン屋、バー、食堂、喫茶店、滋養強壮にマムシの生き血を飲ませるヘビ屋などもあったという)。

「その後、3度にわけて立ち退きをさせられて。第1回目が『すし横』でな。 銀行の応接室での抽選で123軒 (106軒とする資料もある)が当選して、そこにうちも入れたのよ」。

 清宮さんは幸運にも横丁内に移りすし屋に転業することができたが、落選組や2回目、3回目の人々はその後、田町、赤羽、鶯谷などに流れ、散り散りになったという。

 その「すし横」も、建設予定の東海道新幹線の用地にかかったこともあり、昭和42年に取り壊される。立ち退き交渉が長引き、先に新幹線が開通してしまうという、あべこべな事態になったのだが、最終的に、同じ頃に横丁前に竣工した東京交通会館地下街や、新橋駅前ビル地下街、そしてこの「有楽町高架下商店会」に移っていった。

(中略)

■メニューがなく、勝手になにか出してくれる

 多くの店がセンター内から姿を消してしまったなか、今も営業を続けている店がある。それが「ミルクワンタン 鳥藤」だ。この店も「すし横」からの移転組である。

「新聞社のお客さんが多かったわね」。

 女将の藤波須磨子さんが言うように、かつて有楽町駅周辺には、朝日、読売、毎日の新聞3社の社屋があった。店内には記者が手作りした「すし横」の見取り図や、カメラマンが撮った当時の写真も飾られている。

 この店、メニューがない。座ってビールかなにか飲み物をお願いすれば、あとは和え物や焼き物、煮物などなど女将さんが勝手に出してくれる。最後のシメがミルクワンタンなのだ。ホルモン(後に鶏肉に変更)や野菜を牛乳で煮込んだこの料理は、戦後、人々に滋養をつけさせようと女将さんの祖父が考案した。1杯やったあとにこれをすすれば、なんともあったかい気持ちで帰路につける。

 工事のためにだいぶ寂しくなった高架下センターだが、こうして“ヤミ市酒場”以来の料理にもありつけるし、 おやじさんや女将さんたちにも会える。薄暗い高架下の暗がりには、戦後の盛り場の熱がまだ、残っている気がしてならない。

https://www.joetsutj.com/articles/16657628

■上越市の井上健一郎さん 「横丁」の歴史と魅力まとめた著書発刊

 終戦直後に生まれた闇市を起源とする「横丁」の調査、研究を続けてきた新潟県上越市東雲町2の会社役員、井上健一郎さん(31)が、これまでの成果をまとめた著書「吉祥寺『ハモニカ横丁』物語」(図書刊行会刊)を出版した。同横丁の成り立ちから現在までの変遷を中心に、横丁の持つ魅力を明らかにしている。

 井上さんは法政大工学部に通う学生時代、吉祥寺のハモニカ横丁に恐る恐る足を踏み入れたのがきっかけ。

(中略)

「横丁では、見ず知らずの人とすぐに打ち解けて、会話が始まる。のれんをくぐると自分を締め付けている属性から解放され、社会的地位も関係なく、一人の人間としての自分を確認できる」と、夢中になって通いつめた。

 都市計画のゼミでは、闇市があった街を調べた。ハモニカ横丁を主に実地調査を行い卒業論文にまとめた。この論文が反響を呼び、社会学者早稲田大教授の橋本健二さんらと出会いがあり、2009年に会員8人で構成する「ヤミ市研究会」が生まれるに至る。各自の研究成果をまとめた著書が「盛り場はヤミ市から生まれた」(2013年・青弓社)だった。

 大学を卒業後は新潟市での会社勤務を経て、故郷の上越市に戻って4年目。現在でも週末のライフワークとして、東京や全国の横丁巡りに飛び回る。ホームページ「ヤミ市横丁研究所」(http://yamiichiyokocho.cho-chin.com/)も立ち上げた。町づくりのシンポジウムなどに招かれることも多いという。

https://kobe.keizai.biz/headline/2857/

■神戸経済新聞『老朽化立ち退き問題で揺れる神戸のモトコー 闇市復活で活性化』

 神戸の「元町高架商店街三番街(通称=モトコー3番街)」(神戸市中央区元町高架通)が4月28日より、フリーマーケット「闇市(831)」を開催する。

 2016年1月以降、JR西日本による耐震補強・防火・防犯などが理由で同商店街の店主らに退去要請があり、空き物件から工事を進める計画が出されている「元町高架通商店街(通称=モトコー)」。「すでに工事が始まっていると思っていた」という客もいるというが、数年先まで契約が残っている店舗もあり、営業している店も少なくない。

 「このままでは、店はあっても商売にならへん」と商店主たちが集まり話し合いを重ねた結果、ようやく一致したテーマが「闇市復活」。同商店街は戦後の闇市をルーツとする説が最も多い商店街でもあることから、商売の起源でもある「闇市」で復活を目指そうと同イベントの開催を決めた。

http://yamiichiyokocho.cho-chin.com/hamonica.html

 “住みたい街 No.1”。

 吉祥寺という街を紹介するときに、最も多く用いられる言葉ではないだろうか。

 新宿から中央線で15分。区部に隣接するこの街は、老若男女に親しまれ、平日でもお祭り騒ぎのような賑わいだ。

 20代女性を主要読者とした情報誌「Hanako」は、定期的に吉祥寺特集を組んでいるが、この吉祥寺特集号の売り上げが最も多く、抜群の売上を記録している。

 1980年代、吉祥寺駅周辺の都市開発により、伊勢丹、東急、近鉄、丸井、西友などの百貨店が次々と建った。

 街全体が近代化する中で、1人後れを取ったハモニカ横丁は吉祥寺の“お荷物”と見なされることもあり、商店街関係者は肩身の狭い思いをしていたこともあったと聞く。

 しかし、1990年代後半より、「ハモニカキッチン」というモダンで斬新な飲食店のオープンが起点となり、それまで横丁を利用することが少なかった20代を中心とした若者が利用するようになり、流れが変わった。

 近年、情報誌で吉祥寺特集が組まれたものを見ると、ハモニカ横丁のコーナーが多く設けられ、注目を集めいていることが分かる。

 テレビ、新聞、雑誌で取り上げられるだけでなく、独特の風情を感じさせることから、映画やドラマの舞台になることも多い。

 かつて“お荷物”だったハモニカ横丁は、今では吉祥寺を代表するランドマークとなり、吉祥寺に不可欠な存在となった。

http://yamiichiyokocho.cho-chin.com/rekishi.html

ハモニカ横丁の歴史

 戦前は、関東大震災で家を失った人たちの移住先として発展した吉祥寺。

 そのころから吉祥寺駅周辺には商店街が形成されていて、建物も多く建っていたのですが、戦時中になると更地になってしまいした。

 なぜかというと、1番大きな理由としては、商店がが爆撃されたときの出火が鉄道への延焼がないように、駅周辺の建物をすべて取り払う必要があったようです。

 それだけ、戦時中鉄道はとても重要なインフラでした。

 ハモニカ横丁の一帯でも、建物の基礎を残したものの、やはり建物すべて取り払われました。

 いざ戦争が始まってみると、駅周辺は爆撃されなくて、駅前にはきれいな更地が残りました。

(中略)

 戦時中から深刻な食糧不足に陥っていました。当時の政府は、お米をはじめとした貴重な食料は、

「統制品」として、自由な売買を禁じて、配給によって政府から与えられた分しか食べてはいけないことになっていました。

 でも、その与えられる量というのが、信じられないほど少なく、成人が1日に必要なカロリーのうち3分の1程度。

 そのため、国の言うこと聞いていると確実に栄養失調になるので、生き延びるには配給とは別ルートで食糧を確保する必要がありました。

 実際、政府の言う通りにそれだけを食べて生活をしていた、国に忠誠心の強すぎる公務員は栄養失調で死んでしまいました。

 そこで、人々の救世主となったのが、戦後の「ヤミ市」です。

 主にテキヤが食糧の豊富な地方都市から独自のルートで食糧を調達し、東京をはじめとした食糧の乏しい都会へ運び、主要駅の駅前で、それらを売ったのです。このヤミ市がなければ、多くの死者を出していたことは想像に難くありません。

 ヤミ市時代からの吉祥寺を知る、吉祥寺駅前商店街連合会(ハモニカ横丁)の水野秀吉会長は、当時のヤミ市について、「生命の原点」とおっしゃいます。

 決して「ヤミ」というような悪いイメージを抱かせるような言葉で表現されるべき場所ではなく、当時の人々が生きる上で必要不可欠であったそうです。

 吉祥寺駅は、中央線と井の頭線という2つの鉄道網を有していたこともあり、人と物がたくさん集まり、大きなヤミ市が形成されました。

 少し話を戻すと、吉祥寺駅前は建物疎開によって、駅前がきれいな更地になっていたので、店を並べて商売するには格好の場所ということもありました。

 吉祥寺のヤミ市には、米軍の横流し品を売る店や、本来売買を禁止されている米などの統制品を売る店が並びました。

 規模としては、新宿や池袋には遠く及びませんが、中野よりはずっと吉祥寺のヤミ市の方が賑わっており、ここに来ればなんでも揃うというほどのヤミ市でした。

 吉祥寺のヤミ市は、やはり現在のハモニカ横丁の一帯のみならず、今の駅前広場の方にも広がっていた。

 だから、どこもかしこも「ハモニカ横丁」だったわけです。

 ところが、街全体が近代化される中で、駅前広場のためにヤミ市起源の商店街が整理されるなどして、ヤミ市が“トリミング”されることにより、現在のハモニカ横丁という街区に整形されました。

 終戦直後ハモニカ横丁は、今以上に幅の狭い店が立ち並んでいました。今では敷地の統合を繰り返した店舗が多いため、それなりに広い店舗も多くなりました。

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO11075300W6A221C1000000?channel=DF130120166059

■戦後の混乱期支えたヤミ市の哀歓 横浜・野毛で再現、女優・五大路子さん、音楽劇で演じる(和佐徹哉)

 戦後の混乱からの復興を支えたヤミ市が横浜にあった。

 横浜をテーマにした演劇を発信している横浜夢座はヤミ市からの物資で復興してきた横浜の飲食街「野毛」地区を音楽劇にして来年1月22日から公演する。女優の五大路子さん(64)が主役を演じる女性は夫が南方で戦死、娘を抱えヤミ市で食料品を売るという設定。テーマは「生きてやる。この街で」。ヤミ市での商売で対立する市民やヤクザ、警察、帰還兵などが対立しながら、生きるためにやむなく手を取らざるを得なかった戦後の哀歓を描く。

(中略)

 「野毛は敗戦によって栄えた街なんですよ」。

 地区で中華料理店「萬里」を経営する福田豊さん(75)は、飲食街の生い立ちについて振り返る。今回の劇でも様々な街の歴史について助言したという。

 敗戦後、東京に近く大きな港を持つ横浜は、司令官のマッカーサーホテルニューグランドを定宿とするなど進駐軍の拠点となった。横浜の中心部の関内、伊勢佐木町といった中心部はほとんど進駐軍の宿舎などとして接収された。しかし近接する野毛は免れ、ヤミで放出された食料品などを日本人相手に売る露天商が集中した。福田さんは「統制経済下で一番元気だったのが進駐軍。そのおこぼれにあずかったのが野毛だった」と振り返る。

(中略)

 しかし、大規模な商店街の伊勢佐木町や、ビジネス街の関内地区が返還されると、ヤミ市に支えられていた野毛の物販はたちまちすたれ、飲食店だけが残った。朝鮮戦争特需を受け、輸出の拠点となった横浜港や京浜工業地帯が再興すると、その日の労働を終えた港湾労働者や工場の従業員らは野毛に集い、疲れを癒やす歓楽街となった。「安い酒やストリップ、場外馬券売り場などが労働者の欲求を満たしたのでしょう」

 ストリップなどの風俗店や場外馬券売り場などが周囲の風紀を乱すという声もあるが、野毛地区振興事業協同組合の専務理事も務める福田さんは「庶民の欲求に応える街でいいじゃないですか」と意に介さない。都心のあちこちで再開発が進む一方、うらぶれたスナックや小料理店がつぶれ、どこでも同じようなチェーンの居酒屋ばかりとなった。福田さんが「後悔しても反省しない」と評する野毛の人たちは店がつぶれても夫婦や兄弟の小所帯で再起し、600軒を超す小さな飲食店が生き物のように街を支え続けている。

 造船所があった桜木町駅の反対側は高層ビルが立ち並ぶ一大ビジネス街になり、高度経済成長を支えた工場労働者は少なくなった。しかし、「失われた20年」で職を奪われた若者が定住したり、怪しげなスナックの代わりにスペインバルなどが開業したりするなどして女性客らを迎え入れ、街は巧みに姿を変えながら生き残っている。

 「『本物の場末』なんて今や野毛ぐらいじゃないの」という福田さん。野毛に集うのはサラリーマンを中心に「懲りない、めげない、あきらめない」人という。泥酔しても仕事に失敗して落ち込んでもネオンにつられて通い続ける人たちを受け入れる繁華街の心意気は終戦直後から変わらない。そのスタートとなるヤミ市の熱気を演じる音楽劇に共感して、振興組合でも140人の飲食店経営者らを観劇に招待する。福田さんは「野毛は『しがなく生きていく人』の原点を提供する街。庶民の欲求に『いいじゃないか』という応えてきた気持ちを劇で伝えてもらいたい」と期待している。

■野毛町(ウィキペディア参照)

 神奈川県横浜市中区にある地名。約500店もの飲食店と動物園や大道芸で知られる。

■概要

 江戸時代末期に東海道と横浜港を結ぶ横浜道(よこはまみち)がひらかれ、野毛山の中腹に切り通しで道が作られたことで同地区は交通の要所となった。その後明治時代の陸蒸気の開通により桜木町駅の開業、三菱重工業横浜造船所の開設などで繁華街として栄えてきた。

 第二次世界大戦終結直後に伊勢佐木町や港湾施設など横浜市の中心部の大半は進駐軍に接収されていた。この時代に野毛は日本人街の中心として機能し、日本が物資不足にあえぐ中で「野毛に来ればなんでも揃う」と言われるほどのにぎわいで、復員の兵士やかつての工員などが職と食を求めて集まりごった返していたという。当時は闇市と屋台が並ぶ地域で、まだ埋立て途中の桜川に沿って貴重な動物性たんぱく質源だったクジラカツを販売する「くじら横丁」などは終戦当時を象徴する場所として語られることが少なくない。美空ひばりが本格デビューを果たした場所とされる横浜国際劇場もかつて野毛に存在していた。

 最寄りの桜木町駅が東急東横線については2004年に廃止された後、野毛飲食店街では売り上げの減少や廃業に追い込まれる店が相次いだ。しかし賃料が下がった空き店に若い飲食店主が進出するようになり、一時は3割以上減った野毛飲食業協同組合の加盟店数も回復。中高年男性が多かった客層も若い男女や家族連れを含めて広がった。

 横浜国際劇場の閉館後、跡地にはウインズ横浜(場外馬券売場)が建てられ、週末に馬券を求める人たちで賑わうようになった。また「野毛大道芸」が毎年4月に開かれ、町の名物ともなっている。 同地区は現在でも中低層の店舗(飲食・料理店など)が大半を占めているが、上層部に共同住宅を設ける高層ビル化も進んでいる。

 まあ何というかヤミ市について「渋谷事件」「仁義なき戦い*22」「石原発言の三国人*23」的なブラックなイメージと、「新宿ゴールデン街」「吉祥寺ハモニカ横丁」的な「飲み屋街的イメージ(明るいとまではいえないが、それほどブラックではない)」、あるいは「上野アメ横的な(いい意味での)猥雑なイメージ」が共存してるのは面白いと思います。いや「石原の例の発言」なんかもろに差別だし「面白い」とか言ったらまずいか?

 ちなみに「下戸ですが」、小生には「酒飲みに対するある種の憧れ*24」があるので、こういう居酒屋話はわりと好きですし、古谷三敏BARレモン・ハート』は「単行本までは買っていません」が連載誌である『漫画アクション』や『ワンコインコミック版のレモン・ハート』は割と良く買っています。

 そうそう「ヤミ市の話から、かなり脱線していますが」石原の三国人発言関係記事もこの際紹介しておきましょう。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-09-02/2016090203_02_0.html

■赤旗『関東大震災時の朝鮮人虐殺・亀戸事件、軍・警察、扇動された自警団が実行、戒厳令下での国家犯罪―「緊急事態条項」の危険示す』

(前略)

 「犠牲者数を厳密に確定するのが難しいのは、遺体が隠されたり、調査を妨害されたためです。本来政府がやるべきことを、地域で証言を集め事実がわかりました。虐殺への軍隊の関わりは戒厳司令部の内部資料にもあります。政府は責任を認めて調査すべきです」。

 こう語るのは専修大学の田中正敬教授。関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会事務局長も務めます。

(中略)

 田中氏が問題にするのは、石原慎太郎東京都知事が自衛隊式典で外国人に対する治安出動を求めた発言(2000年4月、陸自練馬駐屯地)です。

 この中で「不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している」「もし大きな災害が起こったときには騒じょう(=社会秩序の混乱)事件すら想定される。そういうときに皆さんに出動していただき治安の維持を遂行してほしい」と述べました。

 三国人とは、アジア諸国出身で日本国内に居住する人々への差別的呼称です。

 「この発言は軍隊を動員し朝鮮人虐殺を引き起こした当時と同じ思想です」と田中氏は警告します。

 こうした懸念が現在の問題であることを、安倍首相が改憲論議の「ベース」にするという自民党改憲草案が示しています。同草案では大災害時などに緊急事態を発動し首相一人に権限を集中する、国民に服従義務を課すと明記しています。「そんなことをすれば人権抑圧を含まざるをえない。国家の中の人間を救わないで何を救うのか。民主主義の考え方と全く相いれない」と田中氏は批判します。

■事件未解決 国は謝罪を

 戦後、在日韓国・朝鮮人や日本人の手により、各地で犠牲者の追悼行事が行われるようになりました。しかし、市民の努力にもかかわらず、いまだに犠牲者の名前さえほとんどわかっていません。

 田中氏は「それは政府自身が流言を広げ、軍や警察が朝鮮人を虐殺し、その責任を追及されるのを恐れて事件を隠ぺいしたからです。この事件は未解決であり、国家は自らの責任を認めて遺族に謝罪し、隠された真相を明らかにすべきです」といいます。

http://www.mindan.org/shinbun/000412/topic/topic_c.htm

■民団の談話文

 東京都の石原慎太郎知事は9日、陸上自衛隊練馬駐屯地で開かれた創隊記念式典の挨拶で、「三国人、外国人の凶悪な犯罪が繰り返されており、震災が起きたら騒擾事件が予想される。警察には限度があり、災害でなく治安の維持も遂行してもらいたい」と述べた。

 われわれ在日韓国人70万人は、このたびの石原発言の問題性を到底看過することができない。この発言は1923年に起きた関東大震災で当時の朝鮮人に対する悪意に満ちた流言飛語が意図的に流され、自警団によって罪のない多くの同胞が「外国人」という理由だけで犠牲になった悪夢を彷彿させるばかりか、「共生・共存」社会を願う多くの日本人と在日外国人の友好関係に水をさすものだからである。

 さらに、外国人を危険な存在と断定していたずらに偏見をあおり、治安維持のためには前代未聞の自衛隊出動までちらつかせる旧時代の発想法は、都知事という要職にある者の発言としては不穏当きわまりない。われわれはかかる認識については、憤りと同時に首都東京を預かる指導者として危惧を抱かざるを得ない。

 周知の通り、関東大震災の悲惨な事実の反省に立ったからこそ、1995年の阪神大震災では未曾有の混乱の中でも、日本人、外国人がともに助け合う人間として当然の行為を示したのである。

 石原都知事は国際化に向かう日本社会の現実をどのように認識しているのであろうか。さらに、「三国人」という呼称が主に在日韓国人を指す差別的な言葉として使われた経緯を見る時、このたびの妄言はソウル市との姉妹関係を損ない、98年の金大中大統領の訪日を大きな契機に、21世紀をめざして韓日パートナーシップが着実に進展している現状はおろか、将来の外交関係にまで悪影響を及ぼす恐れは大である。

 われわれ在日韓国人70万人は、韓日間の架け橋的役割をはたすべく、これまで日本の地域社会の発展に応分の貢献をしてきたし、これからもその旨尽くすものである。石原都知事はこのたびの発言によって引き起こした内外の波紋について、すみやかに都知事としての新たな見識を示すべきである。

2000年4月10日

在日本大韓民国民団中央本部

宣伝局長 蠔哲恩

http://chosonsinbo.com/jp/2014/07/0728ib-b/

■朝鮮新報『ヘイトスピーチ、憎悪、妄想が覆う社会/著者、加藤直樹さん*25に聞く』

(前略)

 危機感を抱いたのは、2000年4月、当時の石原慎太郎都知事の「三国人」発言だった。「不法入国した多くの三国人、外国人」が凶悪犯罪を繰り返しているとし、「すごく大きな災害が起きた時には大きな騒擾(そうじょう)事件すら想定される」と公言した。行政トップによる暴言を信じてしまえば、また震災が起ったときに、再び外国人に何らかの暴力や不利益が向けられる可能性がある。それでは90年前と本質的に同じことになってしまうと加藤さんは戦慄を覚えたという。

 そして、朝鮮独立のために戦った安重根を菅官房長官が「犯罪者」といい放ったこと。加藤さんは「植民地主義からの克服を強めている世界の流れからして、許される言動ではない。人種主義、排外主義は許されないというのが、世界の趨勢。全く、国際社会から孤立しているのが、日本の政治家の姿勢である」と憤る。

(後略)

*1:著書『都市の戦後:雑踏のなかの都市計画と建築』(2011年、東京大学出版会)、『盛り場はヤミ市から生まれた・増補版』(橋本健二氏との編著、2016年、青弓社)

*2:生活総合雑誌『暮しの手帖』創業者・大橋鎭子と花森安治をモデルとしたドラマ

*3アパレルメーカーファミリア創業者のひとりである坂野惇子をモデルとしたドラマ

*4極真会館を興した伝説の空手家・大山倍達を主人公としたマンガ

*5中沢啓治による、自身の被爆体験を元にした自伝的漫画

*6:2004年、『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー助演男優賞を受賞

*7:渥美清演じた「寅さん」がテキ屋な訳で、まあ「美化されてる」とはいえよくもまあテキ屋が「日本を代表する映画の主人公」になったもんです。

*8:といえば聞こえはいいですが要するにヤクザですね。

*9:まあ起きないでしょうけど。

*10:まあ追い詰められれば人間、何でもやって生き抜くだろうとは思います(つまり「できる」と思いますね)。ただし「火垂るの墓」の主人公のように餓死する人間ももちろん「終戦直後にも」一方ではいたわけですが。

*11:右翼団体・大日本一誠会初代会長。全日本女子プロレス初代会長。万年については宮崎学『万年東一(上)(下)』(2008年、角川文庫)、山平重樹『愚連隊の元祖万年東一』(1999年、幻冬舎アウトロー文庫)などの著書がある。

*12:著書『沖縄戦と民間人収容所』(2010年、原書房)、『原発官僚:漂流する亡国行政』(2011年、草思社)、『虚業:小池隆一が語る企業の闇と政治の呪縛』(2014年、七つ森書館)、『堤義明 闇の帝国』(2014年、草思社文庫)など

*13:1913〜1976年。惠通企業(現在のヒューマックス)創業者・社長。東京華僑総会会長、日本華僑連合総会(現在の日本中華連合総会)会長を歴任。中国国民党の政治家としては、台湾の在外立法委員を務めた(1973年〜1976年)(ウィキペディア「林以文」参照)

*14:有志といったところでヤクザに金を出すような輩は一般市民と言うより「お仲間も同然」でしょうが。

*15:著書『現代ニッポン祭り考』(1994年、小学館)、『入浴の解体新書:浮世風呂文化のストラクチャー』(1997年、小学館)、『駄菓子屋横丁の昭和史』(2005年、小学館)、『祭りのゆくえ:都市祝祭新論』(2008年、中央公論新社)など

*16:1985年刊行

*17:2006年、ベスト新書

*18:著書『現代日本の階級構造』(1999年、東信堂)、『階級社会 日本』(2001年、青木書店)、『階級・ジェンダー・再生産』(2003年、東信堂)、『階級社会』(2006年、講談社選書メチエ)、『新しい階級社会 新しい階級闘争』(2007年、光文社)、『貧困連鎖:拡大する格差とアンダークラスの出現』(2009年、大和書房)、『階級都市:格差が街を侵食する』(2011年、ちくま新書)、「増補新版・「格差」の戦後史:階級社会 日本の履歴書』(2013年、河出ブックス)、『居酒屋ほろ酔い考現学』(2014年、祥伝社黄金文庫)、『居酒屋の戦後史』(2015年、祥伝社新書)、『はじまりの戦後日本:激変期をさまよう人々』(2016年、河出ブックス)、『新・日本の階級社会』(2018年、講談社現代新書)など

*19:2016年、実業之日本社

*20:著書『東京裏路地“懐”食紀行』(共著、2006年、ちくま文庫)、『アダルトビデオ革命史』(2009年、幻冬舎新書)、『場末の酒場、ひとり飲み』(2010年、ちくま新書)、『昭和酒場を歩く:東京盛り場今昔探訪』(2012年、自由国民社)、『ニッポンAV最尖端:欲望が生むクールジャパン』(2015年、文春文庫)など

*21:著書『東京ノスタルジック百景:失われつつある昭和の風景を探しに』(2017年、世界文化社)、『東京ヤミ市酒場・飲んで・歩いて・聴いてきた。』(2017年、京阪神エルマガジン社

*22:「仁義なき戦い」での「初期(1940年代)の暴力団抗争理由の一つ」はもちろんヤミ市利権です。

*23:もちろん明らかに在日外国人に対する偏見と差別であることはお断りしておきます。

*24:もちろん「アル中に対する憧れ」ではないですね。

*25:著書『九月、東京の路上で:1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(2014年、ころから)、『謀叛の児:宮崎滔天の「世界革命」』(2017年、河出書房新社

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