bogus-simotukareの日記

2018-11-21

新刊紹介:「歴史評論」12月号(その1)

| 12:36 |

・詳しくは歴史科学協議会ホームページhttp://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。

特集『「思想の世界史」を構想する』

 各論文と「思想の世界史」とどう関係するのか今ひとつよくわかりません。

 小生の気持ちは、「思想の世界史」という特集テーマでなぜ「他の論文ではなく」これらの論文が選択されたのがわからない、たとえば

【清水論文】

「なぜ幕末知識人の対外認識を取り上げる上で他の誰でもなく古賀精里が選ばれたのか」

そもそもなぜ、他のテーマ(例えば、東条英機陸軍大臣・元首相ら昭和期陸軍の対米認識など)ではなく幕末知識人の対外認識が今回、取り上げられたのか」

【根占論文】

「なぜ、他の文化人ではなく、イタリアスペインヒューマニストが取り上げられているのか」

などと言い換えてもいいでしょう。


■歴史のなかのギュルハーネ勅令(佐々木紳*1

(内容紹介)

 まずはウィキペディア「ギュルハネ勅令」を紹介しておきます。

■ギュルハネ勅令(ウィキペディア参照)

 スルタン(皇帝)・アブデュルメジト1世治下のオスマン・トルコ帝国で、1839年に外相ムスタファ・レシト・パシャによって起草され、アブデュルメジト1世によって発布された勅令。タンジマート(恩恵改革)の基本方針を示し、その端緒となった。タンジマート勅令ともよばれる。

■概要

 ムハンマド・アリーオスマン・トルコからのエジプト独立を果たした第二次エジプトトルコ戦争において、エジプト艦隊が首都イスタンブルにせまるなか、オスマン・トルコの立場を好転させるべくヨーロッパを訪問していた開明派官僚ムスタファ・レシト・パシャ(当時、外務大臣)は、新しいスルタンとしてアブデュルメジト1世が即位するという知らせを聞いて急遽トルコに立ち戻り、西洋列強、とくにイギリスフランスにおけるリベラルな世論の支持を獲得することを企図して、改革方針をスルタンの「宸筆」というかたちで起草した。そして、1839年11月3日、ムスタファ・レシト・パシャはこれを帝国内の文官・武官、ウラマーイスラム法学者)、民間人代表、および外国からの使節の前で読み上げた。読み上げた場所がトプカプ宮殿の庭園(ギュルハネ)だったので、「ギュルハネ勅令」と呼ばれている。

 エジプト問題をめぐる列強の干渉を背景としていたため、帝国内キリスト教徒の人権擁護に重点が置かれた。それまでオスマン帝国の人々は、ムスリムズィンミー(非ムスリム)という二分法に基づきムスリム優位下の不平等の下で共存していたが、オスマン帝国の君主たるスルタンによる平等の扱いに浴すべき対象は、イスラムの民(ムスリム)と他の諸宗教の民(非ムスリム)であることを宣言した。

 スルタンの「御意志」が前面に出ているため、必ずしも立憲思想にもとづくものとはいえないが、ムスリム・非ムスリムにかかわらず、全ての帝国臣民には法の下の平等があたえられること、また、帝国は全臣民の生命・名誉・財産を保障することなどが繰り返し述べられているところにフランス人権宣言の影響をがあるとされる。また、裁判の公開やスルタン自身も「法」に違背しないことを宣言するなど、スルタンの権力のうえに「法の力」が存在することを認めている点などでも画期的な意味をもっていた。

■タンジマート(ウィキペディア参照)

 1839年のギュルハネ勅令発布から1876年のオスマン・トルコ帝国憲法(ミドハト憲法)制定にいたるまでの、オスマン帝国がおこなった諸改革の総体。

 ということでギュルハネ勅令については「フランス革命(西洋人権思想)」の影響が指摘されます。

 筆者は「それは事実だろう」としつつも

1)ギュルハネ勅令にはイスラム思想の影響もあると見られること

2)少なくとも当時のオスマントルコはギュルハネ勅令をイスラム思想が淵源であり、イスラム思想と矛盾しないとしていたこと

を指摘します。つまり「西欧の影響ばかりに着目するのは一面的だ」というわけです。


■G・ボテーロと国際政治経済学の誕生(石黒盛久*2

(内容紹介)

 イタリア思想家G・ボテーロ(1544〜1617)の著書『都市盛衰原因論』(商業出版物としての邦訳はないようです)について『国際政治経済学』的な観点が見られるとしている。


■近世日本の清聖諭受容と民衆教化(殷暁星)

(内容紹介)

 清朝の聖諭(皇帝が出した民衆教化のための勅諭)がどのように近世日本(江戸期日本)において受容されたかが説明されている。

 具体例として、江戸幕府の代官を務めた早川正紀の「久世条教」や福井藩の橋本左内が取り上げられている。

 なお、著者はこうした「江戸時代における聖諭の普及」は「聖諭同様、民衆に皇帝(明治天皇)が教えを垂れる」という構造が共通する「教育勅語軍人勅諭」にも影響したとみているが、それについては今後の研究課題としている。

 それはともかく筆者・殷暁星氏の論文テーマから明らかに脱線しますが『清朝の聖諭=教育勅語の一ルーツ』である以上、筆者も指摘するように別に勅語は日本オリジナル思想ではありません。

 産経らウヨが褒め称える勅語が『清朝の聖諭』が一ルーツであることについてはネット上でも

http://d.hatena.ne.jp/Raccoon1980/20170310/1489128403

■カワイ韓愈ドロップ

@kawai_kanyu

 教育勅語から父母兄弟お友達目上の人を大切にだけ抜き出して天皇系削除すると、経学の徳目基礎みたいなもんしか残りませんから、基本所謂儒教と同じですが、エッセンスが大切だ、って言ってる大臣その他、そんな出来の悪い日本的聖諭より、聖諭廣訓*3とか聖諭十六條*4とか六諭*5とか暗記させたらどうですか?

 そうだそうだ、本場のをつかえ!

 明治政府のモデルは大明・大清なのは周知のことだと思うんですが(つか、それしか知らんだろ、19世紀の日本人)。

 しかし、そのまま受け入れるのでは浅はかなので、少し入れ替えてるんですよね。

 というわけで、元ネタの元ネタである明朝太祖洪武帝の「六諭」から、清朝聖祖康熙帝の「聖諭十六條」、明治の「教育勅語」まで、並べてみましょう。(いや、これだけじゃなくて、ほかにもめんどくさい道徳守ろう宣言はあると思うんですが有名なので)

(中略)

 いや、こういうの誰か絶対ちゃんとした研究してる人がいると思うんですけど、ちゃらっと並べてみると面白いかな、と思っただけです。

つう指摘があります。

 まあ、それいったら元号だって中国ルーツだし、明治、大正、昭和というのもすべて中国古典が出典ですよね。

 女帝反対と叫ぶ産経ですがあれにしてもおそらく根拠は「儒教思想」でしょう(儒教では女帝は認められていない)。明治新政府は当初、「太政官制」を採用してますが、あれだってルーツは中国でしょう。

 「中国を非難するウヨが『日本の伝統』と褒め称えるもの(教育勅語、元号など)がほとんど例外なく中国ルーツ」のわけで滑稽な話ではあります。まあ日本にとって長い間中国は遣隋使、遣唐使などを送り、その文化を輸入する『仰ぎ見る政治、経済、文化大国(もちろん日本が格下、目下の立場)』ですからある意味当然ですが。日本での中国に対する蔑視なんて日清戦争での勝利以降のことでしょう。あえて言えば最近の中国の政治的、経済的復権は「当然のことが起こった」「日清戦争以降の経済的停滞が例外だった」といってもいいかもしれません。

参考

【早川代官と聖諭】

■早川正紀(はやかわ・まさとし、1739〜1808年:ウィキペディア参照)

 なお名前については「まさのり」「まさつな」と読む説もある。

 笠間藩主・井上河内守の家臣・和田市右衛門直舎の次男として、江戸に生まれる。

 その後、徳川御三卿*6の一つである田安徳川家の家臣早川伊兵衛正◆覆泙気里屐砲陵椹劼箸覆辰燭、1766年(明和3年)、幕臣の早川宗家に跡継ぎが無いため、幕府に許されて宗家を継いだ。

 1769年(明和6年)勘定奉行所勘定役に出世し、1781年(天明元年)まで在職。その間、主に関東諸国の河川工事に功労が多く、1775年(安永4年)には幕府から報奨を賜っている。

 1781年(天明元年)に初めて代官に任命され、出羽国尾花沢(山形県尾花沢市)、美作国久世(岡山県真庭市)、備中国笠岡(岡山県笠岡市)、武蔵国久喜(埼玉県久喜市)の代官を歴任し数々の善政を施した。

 美作国久世、備中国笠岡の代官在任中は、管内農村を親しく巡回して経済的精神的に荒廃した状況の復興のため倹約の奨励、赤子間引き禁止を説き、「久世条教」を出版して庶民の教育に努めた。また、吉岡銅山の再興、弁柄生産の保護、虎斑竹の保存など地域産業の振興にも努めた。 武蔵国久喜に転任する際には、領民から代官への留任願が4回も起こったほど名代官として広く民衆に慕われたと言う。

 1808年(文化5年)江戸で病没し、本所霊山寺に葬られた。

■久世条教(くせじょうきょう:ウィキペディア参照)

 江戸時代の代官・早川正紀が書いた農民に対する説諭書(農民の心得)で全7箇条。

 「勧農桑(のうそうをすすむ)」「敦孝弟(こうていをあつくす)」「息争訟(そうしょうをやむ)」「尚節倹(せっけんをたっとぶ)」「完賦税(ふぜいをまっとうす)」「禁洗子(せんしをきんず)」「厚風俗(ふうぞくをあつくす)」の7箇条からなる。このうち第5・6条を除く5箇条は、清の康熙帝が康熙9年(1670年・寛文10年)に通達した「康熙聖諭」16箇条を模範としている。

http://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/rekishi_dayori/rekishi41.html

久喜市歴史だより『第41回:遷善館(せんぜんかん)』

・遷善館は江戸時代後期、久喜の主だった人々の強い要請を受けて、代官早川八郎左衛門正紀(はやかわ・はちろうざえもん・まさとし)が幕府の許可を得て、享和3年(1803)に設立した郷学(ごうがく)(武士のための藩校と一般庶民のための寺子屋の中間に位置する官民一体となった教育機関)です。早川八郎左衛門正紀は、享和元年、久喜に赴任してきて善政を行った名代官です。

・遷善館の教育は、広く一般庶民を対象とする教諭日(きょうゆび)と町村の役人層の子弟を対象とする経書(けいしょ)(儒教の経典で、四書・五経など中国古代の知識・人格に優れた人物の教えを記した書物)の講釈日(こうしゃくび)からなっていました。

・今でも、久喜小学校、本町小学校、久喜中学校、久喜北陽高等学校の校歌の歌詞の中には、「遷善館」の文字が見られます。

http://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/rekishi_dayori/rekishi53.html

久喜市歴史だより『第53回:江戸時代の名代官早川八郎左衛門正紀(はやかわ・はちろうざえもん・まさとし)』

 久喜市に「名代官」と称えられた代官がいたのをご存じでしょうか。

 江戸時代、久喜には米津(よねきつ)氏が治める久喜藩がありましたが、(ボーガス注:米津(よねきつ)氏は)寛政10年(1798)に出羽国村山郡長瀞(ながとろ)(現・山形県東根市)に領地替えとなります(ボーガス注:長瀞藩)。その結果、久喜藩の領地は幕府領となり、享和元年(1801)には、当地の代官として早川正紀が着任しました。

 早川は、通称を八郎左衛門といい、元文4年(1739)に笠間藩主・井上河内守の家臣・和田市右衛門の次男として生まれ、のちに徳川御三卿の一つ田安徳川家の家臣・早川正のぶの養子となります。その後、明和3年(1766)、28歳の時に早川宗家の早川正與(まさとも)の跡を継ぎ、幕臣となりました。

 天明元年(1781)、43歳の時に初めて代官に任じられ、出羽国尾花沢(現山形県尾花沢市)5万石を治めました。天明7年(1787)には、美作国久世(現岡山県真庭市)に転任し、備中国笠岡(現岡山県笠岡市)も兼ねて7万石を治め、郷学(ごうがく)「典学館(てんがくかん)」・「敬業館(けいぎょうかん)」を設立するなど、民衆教化に務めました。寛政9年(1797)には、多くの功績が認められ、幕府から褒賞を授かっています。

 享和元年、63歳の時に武蔵国久喜10万石に転任となります。久喜では、享和3年(1803)に郷学「遷善館(せんぜんかん)」を設立するほか、利根川や荒川などの治水事業にも手腕を発揮しました。

 「名代官」と称えられた早川は、文化5年(1808)、病のため70歳で亡くなっています。現在(平成28年3月現在)、郷土資料館では、早川が晩年に記した「六教解(ろっきょうのげ)」(明の洪武帝*7が民衆教化のために発布した教訓「六諭(りくゆ)」の解説書)を常設展示室で紹介しています。

http://limestone.blue.coocan.jp/outdoor/iroiro/kuse/kuse1.htm

■代官早川八郎左衛門

 天明12年(1787)、久世代官となった正紀は庶民の生活を具(つぶさ)に巡検し、赤子間引きの禁止、倹約の奨励、庶民教育の振興、さらに吉岡銅山の再興、ベンガラ生産の保護、虎斑竹(トラフダケ)の保存に力を入れました。

 そのため領民より大変慕われ、転任に際しては4度の留任願いが出されたという程でした。正紀は転任先の久喜でも善政を行い、領民から慕われています。

https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2018/05/page/2/

■子育てと教育の名代官

 (ボーガス注:岡山県)真庭市久世に市指定史跡「久世陣屋跡」があり、指定地内に「贈正五位早川君像」が建立されている。銘板は(ボーガス注:岡山県出身の)犬養毅*8の書である。

 「早川君」とは、早川八郎左衛門正紀(まさとし)という幕府代官である。昭和3年の昭和天皇の即位礼に伴い、正五位を贈位された。代官像は昭和7年に完成した。

 久世陣屋の置かれた享保十二年から文化十四年までに、22代の代官が赴任してきた。そのうち最も長く務め、最も有名な代官が、第二十代の早川八郎左衛門であった。

 早川代官が羽州尾花沢から作州久世に転入したのは、天明七年(1787)のことである。14年間代官の職にあり、この間、備中笠岡代官と倉敷代官も兼務した。享和元年(1801)に武州久喜に転出した。

 久世時代の事績として特筆すべきは、『久世条教』を著し農民の教化に努めたことだ。この啓蒙書は次のような七箇条から成る。

「勧農桑(のうそうをすすむ)」

「敦孝弟(こうていをあつくす)」

「息争訟(そうしょうをやむ)」

「尚節倹(せっけんをたっとぶ)」

「完賦税(ふぜいをまっとうす)」

「禁洗子(せんしをきんず)」

「厚風俗(ふうぞくをあつくす)」

 このうち「禁洗子」では、次のように記されている。

天と地と人とを合せて三才といふ。天は父、地は母、人は子也。人は天地の子なる故、その子たる人の為に、日月星の三光日夜行道怠るなく、地は天にしたがひて、陰陽寒暑の往来少しもたがはずして、五穀草木禽獣その外ありとあらゆるものを成育し給ふ事、みな人の為に無窮に勤給ふなり。此故に天地は人の父母といふ。父母は我ための天地なれば、我子をあはれむは天の道也。罪なき人を殺す事は天の悪(にく)み給ふがゆゑ、天にかはりて上様より賞罰を行給ふ也。然るを此美作の人はむかしより習はしとて、間引と唱へ我子を殺す事いかなる心ぞや。天地の道に背たる仕業なり。

(天地は父母、その間にいる人は子である。日や月は絶えることなく動き、昼夜や季節は規則正しく巡ってくる。だから、五穀や動植物は育つことができる。人間とて例外ではない。だから、父母が子育てに力を入れるのは天の道にかなうことなのだ。罪なき人が殺されることを天は許さないから、天の代わりに上様*9が罰してくださる。ところが、ここ美作の人は昔からの習わしだとして「間引き」つまり我が子を殺すことがある。いったいどのような心をしているのか。天の道に背くことである。)

 早川代官は子育ては自然の理であると説き、「間引き」を固く禁じたのである。しかし、子どもが生まれることで困窮する家族がいることも現実だ。代官は次のように説得した。

■三子を産よし御聞に達すれば、貧富御糺の上貧なるものなれば、時刻を不移鳥目(ちょうもく)五十貫文被下事外の儀にはあらず。いかなる貧ものにても、二子までは母の乳房二ツにて養育すべけれども、三ツ子に至りては一人だけの乳房不足する故、其一人の養育手当として被下儀にて、上には赤子一人といへども如斯大切に被為遊ほどの儀なるを、親の身として子を殺す事言語道断の悪事也。

(三つ子が生まれたなら、調査のうえ貧困家庭であれば、すぐに銭50貫支給する。いかに貧しい者でも、二子までは母の乳房二つでそれぞれ養育できるが、三つ子では一人の乳房が不足するので、その一人分の養育手当を支給するものである。おかみは赤子一人といえどもこれほどまでに大切になさっているのだから、親の身として子を殺すなど言語道断の悪行である。)

 このように民衆を正しい道へ導く徳の高い代官だったから、文化五年(1808)に早川代官が江戸で亡くなったと聞いた久世の人々は大いに悲しみ、三回忌に当たる文化七年(1810)に遺愛碑を建立した。碑文の一部を引用しよう。

■莅政之初聞邦俗生子多不育下令禁之除其陋習

(行政を始めるにあたり、この地方では、子を産んでもその多くを育てない習俗があると聞いた。そこで、これを禁じ、その悪習をやめさせた。)

 「典学館」という学校をつくり、親には人の道を、農民には勤勉を説いた。関東に転任することとなり久世を去る日には、領民は境を越えてまで見送ったという。

 久世の遺愛碑と同様な顕彰碑が、岡山県笠岡市と埼玉県八潮市にも建てられているという。

 久世では、特産の新高梨を「代官梨」という名でブランド化した。代官の人徳は未来の人の心を動かし、味蕾(みらい)をも刺激している。

http://cms.top-page.jp/p/maniwa/maniwabrand/1/12/

■久世代官梨

 江戸時代に地域振興に尽くした名代官の早川公。この地域の偉人にちなんだ名称で特産梨のブランド化に取り組んできました。

 久世特産梨生産組合では独自の基準を設けて、収穫された梨の中でも「外観が良いもの」「700グラム以上のもの」「糖度が13度以上のもの」の全てをクリアするものを、『代官梨』として自信をもって世に送り出しています。選別された梨をひとつひとつ丁寧に箱詰めして出荷します。

 食卓に良いものを届けるために最後まで手間を惜しみません。


【近世沖縄&近世日本と聖諭】

■六諭衍義(ウィキペディア参照)

・明末清初ごろに成立した六諭の解説書。

・康熙22年(1683年)、琉球の程順則が清の福州に留学した際に日本人として初めて接し、のち康熙45年(1706年)に渡清した際、自費出版して琉球に持ち帰った。その後、享保4年(1719年)3月に薩摩藩主・島津吉貴から将軍・徳川吉宗に献上された。吉宗は室鳩巣に和解本(日本語訳)、荻生徂徠に訓訳本の作成をそれぞれ命じ、徂徠の訓訳本は享保6年(1721年)、鳩巣の和解本『六諭衍義大意』は翌享保7年(1722年)、それぞれ官版として上梓された。江戸町奉行大岡忠相は、吉宗の命を受け、江戸の著名な手習師匠を奉行所に招集して『六諭衍義大意』を与え、寺子屋での手習本として使用させた。

■参考文献

・酒井忠夫*10『増補 中国善書の研究 下(酒井忠夫著作集2巻)』 国書刊行会、2000年。

東恩納寛惇*11『六諭衍義伝』・琉球新報社編 『東恩納寛惇全集』8巻収録、第一書房1980年

・深谷克己*12東アジア法文明圏の中の日本史岩波書店、2012年

https://ryukyushimpo.jp/okinawa-dic/prentry-43332.html

琉球新報『六諭衍義』 (りくゆえんぎ)

 明の太祖洪武帝の発布した「六諭」を庶民に教えるための解説書。著者は范コウ。明末清初に成立。日本には1719年に琉球の程順則が刊行したものが薩摩の手を経て幕府に献上され、後に庶民教育に大きな影響を与えた。

https://blog.goo.ne.jp/forever-green/e/51f38b8125f2c5ee7b60c734d5fb2f4a

■名護親方の六諭衍義(りくゆえんぎ)

 江戸時代、全国の藩校や寺子屋で道徳の教科書として使用された「六諭衍義」。

 この原点は、1708年、程順則(てい・じゅんそく)が中国に渡り巨額の私財を投じて印刷し、琉球に持ち帰ったもの。

 教育熱心だった程順則は、琉球で初めての学校「明倫堂」を建てた。

 琉球国王とともに江戸に上った際は、「六諭衍義」も持参し、島津氏を経て、将軍徳川吉宗にも「六諭衍義」を届けた。

 吉宗は、優れた教育書である「六諭衍義」の和訳を命じ、「六諭衍義大意」は全国各地に広まった。

 「六諭衍義大意」は冒頭「この本は琉球の程順則という人が」で始まるので、当時の日本で名の知られた琉球人といえば程順則ただ一人だったといわれている。

 「六諭衍義」が琉球に伝来し、今年はちょうど300年。

 名護市博物館で、企画展「名護親方・程順則」展が開催されていました(5月30日〜6月8日)。

 この石碑は、300年を記念して作られたもので、明日テープカットされるらしい。

 六諭とは、有名な以下の文。

・孝順父母(父母に孝行しなさい)

・尊敬長上(年上の人を尊敬しなさい)

・和睦郷里(郷里の自然や人を愛し仲良くしなさい)

・教訓子孫(子孫を教育しなさい)

・各安生理(自分のやるべきことを成し遂げなさい)

・毋作非為(悪いことをするなかれ)

 六諭衍義とは、例話を挿入するなど六諭の意味を判りやすく解説したもの。

http://www.qab.co.jp/iroha/rikuyuengi

琉球朝日放送『六諭衍義とは』

 『六諭衍義』は16世紀後半に中国浙江省会稽(かいけい)の范こう(はんこう)という人が書いたもので、人が人として身につけなければならない6つの教え(六諭)が記された書物です。

「孝順父母、尊敬長上、和睦郷里、教訓子孫、各安生理、毋作非為」の6つの教え(六諭)を解説するとともに、エピソードや律令(法律)の条文、関連する詩などを交えて説き、「六諭」をわかりやすく人々に伝えるために書かれています。

 この『六諭衍義』を琉球に紹介したのが名護親方(中国名・程順則)です。

 若い頃、中国に渡った際、師事していた先生の家で『六諭衍義』と出会い、4度目の中国訪問の時、自費で印刷して琉球に持ち帰りました。

 それが江戸時代、薩摩藩の島津氏を通じて江戸の徳川吉宗将軍に献上され、和訳された後、寺子屋の教科書として使われ始め、明治時代中期まで修身の教科書として使われ、その教えが広まりました。

・孝順父母(父母に孝行し、いいつけを守りなさい)

・尊敬長上(年上の人を尊敬しなさい)

・和睦郷里(郷里と和睦しなさい)

・教訓子孫(子弟を教え導きなさい)

・各安生理(自分の運命に従いなさい)

・毋作非為(悪いことをしてはいけない)

http://www2.pref.okinawa.jp/oki/Gikairep1.nsf/f2d4b51dfefc430f492567220015ee7a/9adde621fda22a7849256b1b0000b628?OpenDocument

■平成13年第4回 沖縄県議会(定例会)

・安里進(自民党

 次に、教育行政についてお伺いします。

 1番、特に最近いじめ不登校学級崩壊、薬物使用による中学生の死亡事故、中学生、高校生の援助交際、大阪の池田小学校で8名の先生、生徒が殺傷されるという事件、また8月12日、県内浦添で発生したカセットコンロ用のボンベからLPガスを吸って中毒死した事件等々、教育界の危機が深刻な問題となっているが、県教育委員会はこのような現状をどう認識しているか、その対策はどうなっているか、お伺いいたします。

 2番、青少年による援助交際、薬物による事件・事故の状況はどうなっているか、またその対策はどうなのか、県警本部長にお伺いいたします。

 3番、全国的に治安教育が悪化している。生徒同士によるいじめ、自殺問題、自己のうっぷん晴らしのため治安を阻害し、社会世相を無視する暴走族等の行為に対し教育委員会や県警はどう対応しようとしているか、学校の安全管理についてお伺いいたします。

 4番、兵庫県の中学校教諭がツーショットダイヤルで知り合った中学生の少女を高速道路に転落させ死亡させた全く信じられない事件は、これは対岸の火事として片づけられない問題であります。このような不良教師を出さない対策はどうなっているか。

 以上の教育の危機的状況を踏まえて次の5番、名護聖人・程順則の聖諭「六諭衍義」副読本の普及・啓蒙についてお伺いしたいと思います。

 今、少年の心の荒廃が叫ばれる中で、戦後教育のあり方を反省し、21世紀の教育の方向性を見きわめるとき、子供たちの心の教育は避けて通れない重要な課題であります。

 六諭は、確かに封建社会の秩序を整え、それを維持するための教諭であるが、現行の道徳教育の基本であり、人間としての心づくりをしていくための不可欠の不易な価値を持つものと考えるのであります。

 この「六諭衍義」は1708年、程順則が中国から琉球に持ち帰り、琉球で広く読まれるようになりました。これが薩摩に渡り、さらに江戸に上ったとき徳川吉宗に献じたので、吉宗は荻生徂徠に和点を命じ、さらに室鳩巣に和訳をさせ、非常な勢いで各藩に広まって以来200年、日本各地の寺子屋で道徳教育としてだけでなく語学の教本として子弟の教育に用いられました。この六諭というのは、人が人として守るべき6つの教えであります。

 では、この「六諭衍義」を紹介いたします。

 父母に孝順なれ、長上を尊敬せよ、郷里は和睦せよ、子孫を教訓せよ、おのおの生理に安んぜよ、非為をなすなかれ、この6つであります。親孝行しなさい、目上の人を尊敬しなさい、仲よくしなさい、子や孫を教え導きなさい、自分の仕事に励みなさい、悪いことをしてはいけません、この6条の教諭であります。

 今、新潟県の長岡の米百俵*13が大変話題になっているが、人材育成は大変重要であることは言うまでもありません。この偉大な先人の教えを学校教育の基盤として教育活動のあり方を追求し、日々の「六諭のこころ」の実践によって家庭、地域の教育の根幹として生き続けることになり、子供たちの心身の健全な発達を促し、「未来を拓くたくましい子」という教育目標が達成されるのではないかと考えます。

 名護市立名護小学校は、県教育委員会名護市教育委員会から「心の教育」の研究指定を受け3年目を迎えて、この「六諭のこころ」を学校経営の根幹に据え、全職員一丸となって教育活動を展開しているところであります。

 そこで、この実践例を時事通信発行の「内外教育」という月刊誌7月号に「私の学校経営」という中で、「「六諭」による心の教育の推進」と題して名護小学校の安田校長が投稿したら大変な反響を呼んでいるようです。これであります(資料を掲示)。ちなみに、青森県の校長会や佐賀県高等学校、それから那覇市立教育研究所等々が研修に行きたいとの申し込みが多く来ているようであります。

 また、名護市教育委員会ではこの名護親方の「六諭衍義」について三、四年生向きの社会科の中にこういう副読本を出しております。これであります(資料を掲示)。

 私は、歴史は繰り返されるのでこのような偉大な先人の残したことは今こそ世に広めるべきであると思いますが、どうですか、教育長。

 この「六諭衍義」の副読本を発刊し沖縄県下、いや全国にこの教本を広めたらと思うがどうか。

 「六諭衍義」を学校教育に普及させたいって、「天皇陛下万歳」がないだけ「教育勅語よりはまし」とはいえ、内容的には教育勅語とほとんど同じですからねえ(呆&苦笑)。まあ、こういうことからも勅語が日本オリジナル思想でも何でもないことがわかるわけです。六諭のルーツは明の洪武帝ですから。

https://shuri31.ti-da.net/e2508370.html

琉球新報『名護親方の教えは「不変」、六諭衍義300年で記念式典』(2008年6月3日)

 程順則が琉球に持ち帰って2日で300年となることを記念して、名護市の名護博物館で記念式典と祝賀会が開かれた。式典で島袋吉和*14名護市長は「家族愛や友人への思いやりを説いた六諭の教えは不変だ。その姿勢を再認識し、心豊かで明るい社会を目指したい」とあいさつ。程順則から数えて15代目の名護弘一さん(福岡県在住)も出席し「人々が自力で生きていくために必要だった教養を広めるのに役立ったのではないか」と述べた。記念碑除幕のほか、東江小学校の児童が読み上げた六諭の教えを参加者全員が復唱した。

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/42556

沖縄タイムス『「六諭衍義」名護に贈る 沖展会員・大城さん』2014年9月16日

 沖展会員の大城碧濤(へきとう)さん(75)が7月29日、名護市役所に稲嶺進市長を訪ね、程順則(名護親方)が中国から琉球に持ち帰った「聖諭(六諭衍義(りくゆえんぎ))」を記した書を寄贈した。

 書は大城さんが4月に市で開催した書作展で展示された作品。縦35センチ、横135センチの紙に、六諭の教えである「孝順父母」(父母に孝行しなさい)「尊敬長上」(年上の人を敬いなさい)「和睦郷里」(郷里の人と仲良くしなさい)「教訓子孫」(子供たちをよく導きなさい)「各安生理」(自分の仕事を喜びとしなさい)「毋作非為」(悪いことをしてはいけない)と書かれている。

 稲嶺市長は「(六諭の)教えがしっかり行き届いたら、世の中から怖い事件が起きることはないはず。多くの子どもたちが目に付くところに置きたい」と感謝した。

 大城さんは「名護での作品展が決まり、名護と関わりが深い六諭を書いた。市民に贈りたい」と話した。

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/44134

沖縄タイムス名護市公認キャラ「名護親方」誕生』2014年9月16日

 名護市は9日、公認キャラクターに「名護親方(なぐうぇーかた)」が決まったと発表した。今後、国内外へ名護の魅力をPRしてイメージアップを図り、地域活性化につなげるための「特命大使」の役割を担う。

 審査員評価では「名護親方である程順則をモチーフにすることで、六諭衍義(りくゆえんぎ)を活用しながら、他の地域にはない名護の魅力を発信できる」としている。「名護親方」は今後、市内外の公式行事やイベントなどでPRする予定。

 9日の定例会見で発表した稲嶺進市長は「程順則は、名護では学問、道徳の神様のような存在。精神的に大きな支えで、親しまれている。今後、PRの場所で活用していきたい」と話した。

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/68762

沖縄タイムス『沖縄の偉人・程順則の母の骨壺戻る 名護博物館に寄贈』2016年10月28日

 沖縄県石垣市伊原間のサビチ洞内に保存されていた程順則(ていじゅんそく=名護親方)の実母と義母の厨子甕(ずしがめ)(骨壺)が28日、名護博物館(比嘉久館長)に寄贈された。贈呈式で、所有者の伊原間観光開発(社長・保田伸幸石垣ケーブルテレビ社長)の嘉数博仁常務が「大切に守り、伝えてください」と稲嶺進*15名護市長に目録を手渡した。

 稲嶺市長は「感無量。名護市民は程順則を敬愛し、彼が広めた六諭衍義(りくゆえんぎ)は子どもたちの道徳教育にも使われている。大切にしたい」と喜んだ。

 「彼が広めた六諭衍義(りくゆえんぎ)は子どもたちの道徳教育にも使われている。」とさらりと言われると「何だかなあ」感が。まあ、野党共闘候補として共産、社民、沖縄社会大衆党も支援した稲嶺氏ですがスタンス的には翁長氏*16(故人)、デニー氏のような保守なんでしょうか?

http://cms.nahaken-okn.ed.jp/uenoy-jh/index.php?key=jo21itubg-15

那覇市立上山中学校『2017/05/30:日曜授業参観に多くの保護者が来校』

 5月28日(日)朝からあいにくの雨の中、多くの保護者が来校、授業を参観していただきました。中には、孫の様子を嬉しそうに参観するおじいちゃんおばあちゃんの姿もありました。2校時には学年一斉道徳がありました。本校では「六諭衍義」を道徳教育の中心として全教育活動ら取り入れ「六諭の心」を育む教育を実践しています。授業参観の時には、一斉道徳の時間に、六諭衍義を著した地域の先人「程順則」を教材化し、学年毎に発達段階に即した授業展開を行っています。この一斉道徳は、平成22年度から道徳の年間指導計画に位置づけられ継続的に実施されているものです。

http://www.y-mainichi.co.jp/news/25868/

八重山毎日新聞『日本の道徳教育は名護親方の「六諭衍義」』2014年09月23日

 日本の道徳教育は名護親方の「六諭衍義」(りくゆえんぎ)が基礎にあるという

▼名護親方といえば、尚敬王代(1713〜1752年)に具志頭親方・蔡温とともに活躍した沖縄の偉人。那覇市久米に沖縄で初めて国学(大学)を建て、教育の必要性を説いた

▼中国・明朝、清朝の教育原理の書「六諭衍義」をテキストとして採用、道徳、語学に活用していた。これは尚敬王の即位謝恩使の江戸上りの際、8代将軍・徳川吉宗に献呈された

▼将軍吉宗はこれを貴重な書だと認め、2人の学者に命じて和訳と解説書を作らせたという。以降、六諭衍義は江戸、明治、大正、昭和の戦前まで我が国の教育原理の基本になったといわれる

▼この六つの教えは「孝順父母」「尊敬長上」「和睦郷里」「教訓師弟」「各安生理」「毋作非為」。例えば毋作非為は、善い行いを為せと説く。また名護親方のいろは教訓歌は、「黄金言葉」(くがにくとぅば)として県民に広く伝えられている

▼時は流れ、教育原理も大きく変わった。現在では万人に受け入れられないものもある。押しつけられる道徳であってはいけないが、成人式のニュースで毎年のように取り上げられる一部の荒れた沖縄の若者の光景を見たとき、名護親方ならどう思うのだろうか。

「黄金言葉」(くがにくとぅば)とは聞きなじみのない言葉ですが沖縄方言で

http://okinawa-dialectology.com/post-222/

・沖縄で昔から伝えられてきた教えや教訓のことをいいます。学校で習うようなことわざとは少し違い、子どものしつけのためだったり、人間関係や地域社会といった体験などから、沖縄で生まれた教えの言葉です。あまり日常で使う言葉ではないかもしれませんが、どれも的を得ていて納得してしまうものばかりです。読み方が独特で聴き取れそうにないところが沖縄の言葉らしく思います。

 この黄金言葉もたくさんあって全部は紹介しきれないので、今回はほんの少しだけ紹介しますね。

■家習れー外習れー(やーなれー ふかなれー)

「家での躾や態度が、外でも自然に出てくる」という意味で、外に出た時に恥をかかないためにも家でのしつけは大切だということを言っています。外でどんなに猫を被ってもボロが出ることもあるから、日頃からの態度や行いに気をつけましょうということですね。

■命どぅ宝(ぬちどぅたから)

「生命は何よりも大切なもの」「命こそが尊い一番大事な宝」「命を粗末にするな」といった意味があります。戦争でたくさんの人が亡くなりなにもかも失ったつらい体験をしたからこそ、平和への願いや命の大切さがこめられている言葉です。現在では交通安全週間などのキャッチフレーズにも使われています。

■行逢りば 兄弟(いちゃりば ちょおでぇ)

「一度出会えば兄弟のようなもの」という意味です。横のつながりを大切にする沖縄の人々の思いやりの深さや温かさといったものを表しています。人と人との出会いだったりつながりだったりの大切さを教えています。

■慶良間ー見しが、睫毛ー見らん(きらまーみぃしが、まちげーみぃらん)

 遠くはよく見えるけど、近くが見えていないことの例えです。人のことはよく見えても自分のことをあまりわかっていなかったり、遠くばかり見ていると近くのことを見逃してしまうことを言っています。遠くも大事だけど近くを見ることも大事だということですね。

だそうです。

 なお、八重山毎日が嘆く『成人式のニュースで毎年のように取り上げられる一部の荒れた沖縄の若者の光景』については以下の記事を紹介しておきます。

https://news.yahoo.co.jp/byline/yonahasatoko/20170107-00066311/

■『なぜ沖縄の成人式は“ド派手”になったのか?』與那覇里子(首都大学東京大学院1年/沖縄タイムス社 デジタル部記者)

 新年を迎え、間近に迫る祝い事は成人式。筆者は2003年、地元・那覇市成人式に出席するはずだったが、前年の式典で逮捕者が出たため市主催の式典が中止になるという苦い思い出がある。結局、近くのホテルで中学の同級生だけで鏡開きをして、祝杯をあげたのだが、この事件は、いわゆる「沖縄の成人式」として全国ニュースでも話題になっていく。那覇市国際通りをカラフルな袴で威圧的に練り歩く映像を見た人は少なくないはずだ。沖縄の成人式はいつごろから、なぜ“ド派手”になっていったのか。沖縄タイムスの紙面を振り返りながら、背景を探った。

■1954年「セーラー服」〜1965年「振り袖」

 戦後、初めて成人式が紙面に登場したのは1954年1月17日。当時は「成人祭」と記されている。

 「セーラー服もあれば背広姿もあるといった調子で“はたち”の群像は正に多彩のハツラツである」

 約800人の参加者は那覇市長の話に聞き入り、成人代表は「一層努力して今日の栄光をはずかしめないことを誓います」とあいさつしている。

 当時は市主催の式典だけではなく、働きながら学校に通う定時制高校、戦争遺児の会、集団就職先などでも式典が行われていた。

終戦から20年がたった1965年。那覇市の式典の記事は「ふり袖や背広、学生服、ジャンパー姿などいろとりどりの服装で出席」と伝えている。時を同じくして、「背広」や「ネックレス」など成人式に向けたデパートの広告が掲載されるようになり、1969年には女性はほとんどが振り袖姿、男性もほぼスーツ姿になった。

■平成に入ってはかまが目立ち始める

 平成になった1989年、那覇市の隣、浦添市成人式の記事に「目立つ男性の羽織はかま姿」の見出しが躍った。それまで、はかま姿の記述はちらほら。バブル世代で、学校卒業後の生き方にも生活にも変化が生まれたのもこの時期だ。1988年に「フリーター」という言葉が登場し、進学も就職もせず型にはまらないポジティブな言葉として受け止められていた。大人社会に順応するのではなく自分らしさを求めるのがかっこいいとされた時代だった。

 3年後の1992年には、同じ浦添市で「目立ちたがり屋」の見出しで派手なはかま姿の成人が紙面に登場した。

「ただひたすら目立ちたい」という理由で、貸衣装店から勇気を出して6万円で借りたという男性は「満足。十分目立った」とコメント。

 写真の印象としては非常にかわいらしく、派手派手しい感じはない。「ただ目立ちたい」という同じ理由で、沖縄市ではなぜか闘牛を2万円でレンタルして会場に来た成人もいた。

■“ド派手“成人式は那覇の合同式が影響か

 1992年、那覇市が4カ所(首里・那覇・真和志・小禄)に分けていた式の一括開催を始めた。このころから、那覇市では成人が鏡開き用の酒だるを会場周辺に持ち込んだり、一気飲みを始めたりなど、出身中ごとにパフォーマンスを競うようになった。中学校の後輩が泊まり込みで場所取りをし、酒の購入費を後輩にカンパさせる学校もあった。紙面に問題視する論調は見当たらず、“恒例行事”として続いていったと推測される。

 鏡開きに関しては、1989年に那覇市の中学校の体育館で開かれた懇親会で市長が新成人に酒を振る舞っている記事からも、慣例化していたことが確認できる。

 ド派手成人式を新聞が初めて取り上げたのは2000年。「自分たち流成人式」の見出しで、「成人式には参加せず、会場の外で記念撮影や鏡開きをして祝う」と書いた。大型バスやリムジンをレンタルし、中学別に緑や白、ピンクのおそろいの貸衣装で式場に入る様子を紹介している。成人の日は、同窓生で盛り上がる場へと変わった。

 2001年、式典会場だった那覇市民体育館の門が壊され、式典開催の是非が議論されるようになる。この年は沖縄だけでなく、全国的にも「荒れる成人式」が問題になった。

 2002年、那覇市教育委員会が混乱を想定し、機動隊170人を動員。会場への酒の持ち込みをめぐって会場は大混乱となり、7人が逮捕された。

 結果、2003年、私が成人を迎えたこの年に那覇市が主催する成人式はなくなり、学校の自主性に任せられることになった。母校の中学校の体育館で創作ダンスや校歌斉唱したり、ギター演奏をして成人を祝った学校もあった。

 国際通りで出身中学校の旗を掲げながら練り歩いたり、歩道で鏡開きをしたり、シートベルトをせずに車を運転したりして、検挙された事案が新聞に初めて掲載された。地元から、より目立つ場所へと移動する流れが生まれ、成人式の日に国際通りを派手な服装で練り歩く行為が現在まで続いている。

■派手な成人式を迎えるために

 建設現場で働いていた男性(24)は、成人式に向けて17歳の時から、仲間15人と毎月1万円ずつを積み立てたという。街をパレードするために車を4台用意。1台は購入し、残り3台はレンタカー。先輩も借りていた貸衣装の店ではかまを借りた。

 「18歳のころから先輩の成人式の手伝いをしている。派手な成人式をするのはしきたりだと思う」と説明する。

 地元の学校周辺を出発し、会場に向かう。もちろん鏡開きもやった。

 「成人式は一つの区切り。20歳を超えて騒ぐのは恥ずかしいから、この日が最後。だから派手にやる」と振り返った。

 大人たちがまゆをひそめる行動がクローズアップされた一方、2013年には、「新成人のイメージを良くしたい」と、派手なはかま姿で、周りの成人たちがまいた紙吹雪などを掃除する若者も登場し、ただ騒ぐ成人式の形から、徐々に変わろうとしている動きもある。

■背景にあるもの

 成人式を派手にやる若者たちは、「地元意識」でつながる関係性に特徴がある。地元の定義はさまざまだが、沖縄でいう「地元」は、高校よりも中学でのつながりを指す。幼い頃から時間を共有し、同じたまり場でたむろし、自分の居場所を見つける。その過程で、アイデンティティを形成し、地元への誇りを持っていく。

 沖縄には「他島(たしま)狩り」という独特の風習があるが、これは、自分の地元に他の地域から入ってきたヤンキーを排除することを指す。逆に見ると、それほど彼らは地元に愛着を持っている。中学校単位でド派手さを競うのは、コミュニティーの強さも絡み、おそろいのはかまは、自分たちの所属している地元の“象徴“であり、その地元から外れないためのツールでもある。

 もう一つは「見る−見られる」という関係性だ。派手な成人式を報道するメディアは、彼らの行動を否定的に報道し問題提起する一方で、彼らの目立ちたい欲求もかなえる。那覇市が4カ所で成人式を開いていた時は、4つの場所で彼らの欲求をある程度満たしていたものが、合同開催になったことでそれぞれの地元の“力”を大いにアピールすることができるようになった。さらにメディアの報道が助長した。

 京都女子大学教授の成実弘至さんは、「知の教科書 カルチュラル・スタディーズ」(2001年、講談社)の中で、若者の非行や逸脱についてこう記している。

若者たちにとって社会的監視はレッテルをはられ管理されるという否定的な面からだけでなく、『見られる』『目立つ』快楽をとおして主体性を確立するという肯定的な面があることを忘れてはならない」

■学校と就労世界にも要因

 沖縄のヤンキー文化に詳しい研究者の打越正行さんは、学校と中学卒業後の就労世界における時間的見通しの違いにも派手な成人式を読み解く鍵があると説明する。

 「学校という場所は、通過儀礼や時を刻みながら思い出を積み重ねる仕掛けがたくさんある。例えば、進級、卒業式、数々の行事とその振り返りは、そこでの成長の軌跡を刻む装置として機能している」

 「一方で、学校にほとんど行かず、中卒後に建築現場などで働く若者らは、10代のころは下積み期間で能力的な成長も実感できず、給料もほぼ最低賃金のまま。つまり学校と対照的に通過儀礼などを通じて時を刻む(成長を実感できる)機会がほとんどありません。祝日も長期休暇もなく、そして旧盆などの年中行事もハレの時間として経験しておらず、あるのは1週間を淡々と積み重ねる日常です。これが15から少なくとも30歳を超えるまで続くわけです。そんな彼らが、中学卒業して5年後に後輩たちの応援もあり、国際通りなどに集って時を刻む場が成人式になっている」

 成人式のあり方が疑問視され始めた2000年前後に成人した若者が中学を卒業したのが1995年前後。高校入試で毎年、2千人前後の不合格者がいた。失敗すれば、浪人するか、中卒のまま社会に出るしかなかった。1998年ごろには受験者の二次募集が始まり、不合格者は約300人にまで減ったが、その”時”を刻むことをできなかった若者たち成人式を“ド派手“に飾るのかもしれない。

 この記事で、彼らの迷惑をかける行為を支持したり、助長しようと思ったりしているわけではない。沖縄の成人式を「荒れている」「ド派手」という言葉で片付け、レッテルを貼る“思考停止”の状態で見るのではなく、彼らの背景にあるものを知り、社会のまなざしを変えていくことが、成人を迎える彼らへの応援になると考えている。

 2003年、私が成人を迎え、地元の同級生と夜遅くまで飲んだ時、派手な服装の元ヤンキーが私にこう言った。

 「俺は日雇いで建設現場で働いている。だから今日どんなに飲んでも明日は午前5時に現場に向かって仕事をしないと食べていけない。今日は成人式に出られて、中学を卒業してやっと認められた気がした。お互い、頑張ろうな」。

 怠惰な大学生活を送っていた私にとって、頭をたたかれたような衝撃で、身が引き締る思いだった。


教育勅語批判】

■リテラ『柴山昌彦*17文科相「教育勅語」復活は安倍政権の総意! 前川元次官も証言していた「教育勅語を使えるようにしろ」の圧力』

https://lite-ra.com/2018/10/post-4293_5.html

朝日新聞・社説『教育勅語発言 柴山文科相の見識疑う』

https://www.asahi.com/articles/DA3S13709610.html

北海道新聞・社説『柴山文科相発言 教育勅語の活用は論外』

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/235093

赤旗

教育勅語ってどんなもの?

https://www.jcp.or.jp/faq_box/001/2000525_faq.html

■(ボーガス注:下村*18)文科相 「教育勅語」を美化、軍国教育の柱を「中身まっとう」

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-04-09/2014040901_04_1.html

■(ボーガス注:下村)文科相の「教育勅語」美化発言 宮本議員が追及、「愛国心」押し付け許されない

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-04-26/2014042601_03_1.html

■「教育勅語」教育は不適切、森友学園の幼稚園教育内容、宮本議員追及に(ボーガス注:松野*19)文科相 衆院予算委分科会

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2017-02-24/2017022415_01_1.html

■稲田*20防衛相の教育勅語称賛、会見で志位氏、大臣の資質問われる、本質は「天皇のため命投げ出せ」

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2017-03-10/2017031002_02_1.html

教育勅語国民主権と相いれず、参院委で吉良氏 政府の認識問う

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2017-03-10/2017031002_03_1.html

■主張『教育勅語称賛発言:取り戻したいのは戦前なのか』

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2017-03-14/2017031401_05_1.html

教育勅語称賛を追及、井上議員 稲田氏は大臣失格、参院委

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2017-03-22/2017032202_02_1.html

安倍政権の危険あらわ、「教育勅語」答弁書 小池*21書記局長が批判

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-04/2017040401_04_1.html

■「戦前の二の舞い」懸念、宮本徹氏「教育勅語」答弁書追及、衆院委

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-04/2017040402_02_1.html

■主張『教育勅語も「教材」:歴史反省しない政治は許せぬ』

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-07/2017040701_05_1.html

■歴史踏まえた議論を、吉良氏、勅語朗読容認を批判、参院文科委

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-12/2017041202_03_1.html

教育勅語の思想が問題、吉良氏 「今に通じない」

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-05-17/2017051704_03_1.html

教育勅語 安倍政権下で急転換、学校現場教材に使用可、文科省関係者が証言「下村文科相が答弁変更を指示」

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-05-31/2017053115_01_1.html

■新閣僚ら早速暴言、戦前の教育勅語「今も使える」、敵基地攻撃能力の保有を主張、それもそのはず ズラリ「靖国」派

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-10-04/2018100401_01_1.html

■主張『教育勅語復活発言:形変えても本質は変わらない』

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-10-04/2018100401_05_1.html


ヒューマニストたちの挑戦と運命:イタリアイベリア両半島における(根占献一*22

(内容紹介)

 「マルシリオ・フィチーノ*23(1433〜1499年)」「ピコ・デラ・ミランドラ*24(1463〜1494年)」「レオーネ・エブレオ*25レオーネ・アブラバネル:1465〜1523年)」「フアン・ルイス・ビベス(1492〜1540年)」などといったイタリアスペインを舞台に活動したヒューマニストルネサンス期の人文学者)が取り上げられている。

 なお、彼らヒューマニストについてはググっても「ウィキペディアの記述くらいしか見つからなかった(またそのウィキペディアの記述が正直読んでも今ひとつよくわからない)」かつ「根占論文が無能な小生にはうまく要約できない」ので、詳細な紹介は省略します。

参考

http://www.geocities.jp/bhermes001/ficinolounge01.html

フィチーノ研究の新ラウンジ:日本語で何が読めるのか?、から一部引用

B. フィチーノを扱う章があるもの(ここは、かなりな量になるのでセレクト)

・伊藤博明『神々の再生:ルネサンスの神秘思想』*26東京書籍、1996年。

3.論文

 おそらく根占献一さんが、邦語でフィチーノについて最も多く書いているのでしょう。まとめると、それだけで大きなモノグラフィになりますね。その後は、伊藤兄弟さん、そして最近では、河合さんという感じでしょうか?

・伊沢東一「プラトン学院のオルペウス−フィチーノの哲学と宗教」、『拓殖大学論集』、第145号、1983年。

伊藤和行*27マルシリオ・フィチーノの長命論」、『ルネサンスにおける異教的伝統の再検討』、平成6年科学研究費補助金・総合研究(A)研究成果報告書、研究代表者・伊藤博明。

伊藤和行マルシリオ・フィチーノの健康論」、『日本医史学会誌』、第41巻、第1号、1995年。

伊藤和行「混沌たる自然−ルネサンスの魔術的宇宙観−」、『理想』、第649号、1992年。

・伊藤博明「マルシリオ・フィチーノにおける愛の問題−amor celestis と amor vulgaris −」、北海道哲学会、『哲学』、第17号、1981年、22-45頁。

・伊藤博明「マルシリオ・フィチーノの魔術論」、全国若手哲学研究者ゼミナール編『哲学の探求』、第11号、1983年、44-56頁。

・伊藤博明「イタリアルネサンスにおける神秘主義フィレンツェプラトン主義の愛の理論をめぐって」、川端香男里*28編『神秘主義ヨーロッパ精神の源流』、せりか書房、1988年、135-175頁。

・大川端穂「マルシリオ・フィチーノ−その思想の概観」、小倉志祥編『近代人の原像』、弘文堂、1980年

・加藤守通「フィチーノの技術(ars)論」、『イタリア学会誌』、第39号、1988年。

・河合成雄「フィチーノの愛の理論における個人の位置づけをめぐって」、『イタリア学会誌』、第43号、1993年

・河合成雄「フィチーノの『生について』における護符の効用をめぐっての考察」、『ルネサンス研究』、第3巻、1996年。

・河合成雄「フィチーノの「意識」と「魂」」、『ルネサンス研究』、第4巻、1997年

・根占献一「フィチーノと歴史−プラトニズムとマイネッケの歴史主義」、『西洋史学』、第112号、1979年

・根占献一「マルシリオ・フィチーノにおける哲学と宗教の関連づけとその史的発展」、『イタリア学会誌』、第27号、1979年

・根占献一「フィチーノヘルメスルネサンス・ヘルメティズム研究(1)」、『早稲田大学大学院文学研究科紀要』、別冊第6集、1980年

・根占献一「フィチーノにおける占星術の問題」、『イタリア学会誌』、第31号、1983年。

・根占献一「フィチーノジョヴァンニピーコルネサンスにおける『パルメニデス』解釈の相違について」、『史観』、第108冊、1983年。

・根占献一「フィチーノ」、上智大学中世思想研究所編『ルネサンスの教育思想(上)』、東洋館出版、1985年

・根占献一「フィチーノ研究・翻訳の動向」、『理想』、第623号、1985年

・根占献一「フィチーノのフーマニタース概念−彼の三書簡の翻訳を兼ねて」、『西洋史論叢』、第8号、1986年。

・根占献一「ルネサンスの幸福論−フィチーノにおけるフォルトゥーナとフェリキタース」、『社会科学討究』、第104年、1990年

・根占献一「新たなフィチーノ像−新世代の研究者による写本研究と資料発掘」、『ルネサンスプラトン主義形成と美の理念』、平成2年科学研究費補助金・総合研究(A)研究成果報告書、研究代表者・佐藤三夫。

・根占献一「ペトラルカフィチーノにおける聖アウグスティヌスキリスト教・異教間のかなめとして」、『ルネサンスにおける異教的伝統の再検討』、平成6年科学研究費補助金・総合研究(A)研究成果報告書、研究代表者・伊藤博明。

・根占献一「マルシリオ・フィチーノ−『プラトン神学』と霊魂不滅の伝統」、根占献一ほか『イタリアルネサンスの霊魂論』、三元社、1995年。

・米澤潔弘「ルネサンスのネオプラトン主義的世界観−マルシリオ・フィチーノ研究の現在」、『上智史学』、第30号、1985年

*1:著書『オスマン憲政への道』(2014年、東京大学出版会

*2:著書『マキアヴェッリルネサンス国家』(2009年、風行社)。翻訳書にボッテーロ『国家理性論』(2015年、風行社)

*3:清の雍正帝が民衆教化のため頒布した聖諭。

*4:清の康煕帝が民衆教化のため頒布した聖諭。

*5:明の洪武帝が民衆教化のため頒布した聖諭。

*6:田安家、一橋家、清水家

*7:明朝の初代皇帝

*8:第1次大隈内閣文相、第2次山本、加藤高明内閣逓信相などを経て首相

*9:徳川将軍のこと

*10:1912〜2010年。東京教育大学名誉教授。著書『増補 中国善書の研究 上(酒井忠夫著作集1巻)』、『中国帮会史の研究:紅帮篇(酒井忠夫著作集3巻)』、『中国帮会史の研究:青帮篇(酒井忠夫著作集4巻)』、『道家・道教史の研究(酒井忠夫著作集5巻)』、『近現代中国における宗教結社の研究(酒井忠夫著作集6巻)』(以上、国書刊行会)など

*11:1882〜1963年。沖縄出身の歴史学者。死後、琉球新報によって『東恩納寛惇賞』が創設されている。

*12早稲田大学名誉教授。著書『江戸時代の身分願望:身上りと上下無し』(2006年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『田沼意次』(2010年、山川出版社日本史リブレット人)、『死者のはたらきと江戸時代:遺訓・家訓・辞世』(2013年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『南部百姓命助の生涯:幕末一揆と民衆世界』(2016年、岩波現代文庫)など

*13:幕末から明治初期にかけて活躍した長岡藩の藩士小林虎三郎による教育にまつわる故事。後に山本有三による戯曲で有名になった。この逸話は、現在の辛抱が将来利益となることを象徴する物語として引用される。河井継之助が率いた北越戦争戊辰戦争の一つ)で敗れた長岡藩は、7万4000石から2万4000石に減知され、実収にして6割を失って財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも苦慮する状態であった。このため窮状を見かねた長岡藩の支藩・三根山藩から百俵の米が贈られた。藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、藩の大参事小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用とすることを決定する。藩士たちはこの通達に驚き反発して虎三郎のもとへと押しかけ抗議するが、それに対し虎三郎は、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万俵となる」と諭し、自らの政策を押しきったという。この逸話については小泉純一郎が、小泉内閣発足直後の国会所信表明演説で引用して有名になり、2001年(平成13年)の流行語大賞にも選ばれた(ウィキペディア「米百俵」参照)。

*14名護市議を経て、2006〜2010年まで名護市

*15名護市総務部長、収入役、教育長を経て名護市長(2010〜2018年)。

*16那覇市議、沖縄県議、那覇市長を経て沖縄県知事

*17福田内閣外務大臣政務官第二次安倍内閣総務副大臣、第三次安倍内閣首相補佐官を経て、現在、第四次安倍改造内閣文科相

*18:第一次安倍内閣官房副長官、第二次安倍内閣文科相など歴任

*19:第一次安倍内閣厚労大臣政務官、福田、麻生内閣文科副大臣、第三次安倍内閣文科相など歴任

*20第二次安倍内閣行革相、自民党政調会長(第二次安倍総裁時代)、第三次安倍内閣防衛相を歴任

*21共産党政策委員長、副委員長などを経て書記局長

*22:著書『ロレンツォ・デ・メディチ』(1997年、南窓社)、『フィレンツェ共和国ヒューマニスト』、『共和国プラトン的世界』(以上、2005年、創元社)、『ルネサンス精神への旅』(2010年、創元社)、『イタリアルネサンスの霊魂論』(共著、2013年、三元社)など

*23:著書『恋の形而上学』(邦訳、1985年、国文社)、『「ピレボス」注解』(邦訳、1995年、国文社)

*24:著書『人間の尊厳について』(邦訳、1950年創元社

*25:著書『愛の対話』(邦訳、1993年平凡社

*26:後に『ルネサンスの神秘思想』(2012年、講談社学術文庫

*27:著書『ガリレオ』(2013年、中公新書)など

*28:著書『ロシア文学史』(1986年、岩波全書)、『ユートピアの幻想』(1993年講談社学術文庫)など