新刊紹介:「歴史評論」3月号

・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。まあ正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『三一運動100年』
【前振り】
 なお、今年は「三・一運動100年」ですがウィキペディア「1919年」によれば他にも

・「コミンテルン第三インターナショナル)創設100年」
・「五・四運動100年」
・「中国国民党創設100年」
・「ベルサイユ条約調印100年」

などでもあります。

【参考:三・一運動について】

東京新聞:韓国3・1独立運動から100年 女性運動家 評価の動き:国際(TOKYO Web)
 日本の植民地時代の朝鮮半島で起きた「三・一独立運動」や独立を目指す人々が中国・上海で組織した「大韓民国臨時政府」創立から百年を迎えた韓国で、女性独立運動家らへの注目が高まっている。失われた祖国を取り戻そうと男性と同じように闘ったが、正当な評価を受けてこなかった女性たちに、光が当たり始めた。 (ソウル・境田未緒)
 韓国で独立運動家といえば、小学生でも名前が言えるのが柳寛順(ユグァンスン)。一九一六年、韓国の名門大・梨花(イファ)女子大の前身である梨花学堂に入学し、一九年の三・一独立運動当時、故郷の天安(チョナン)でデモ行進を主導して逮捕された。デモで両親が亡くなり、自身も十七歳の若さで獄死した悲劇性やカリスマ性で「韓国のジャンヌ・ダルク」とも称される。
 三・一独立運動から百年を迎えたことし、柳を主題にした映画二本も公開された。だが、長年、女性独立運動家の研究を続けてきた韓国の詩人、李潤玉(イユノク)さん(59)は「昔も今も、女性独立運動家は柳寛順しかいない」と指摘。他の女性運動家の注目度はまだ低いとみる。
 韓国外国語大で日本語を教えていた李さんが女性独立運動家に関心を持ったのは九七年、学生交流のため韓国の学生を連れて日本を訪れたときだった。東京・神田の在日本東京朝鮮YMCA会館(現在の在日本韓国YMCA)で、一九年二月八日、日本からの独立を宣言した留学生らの中に金瑪利亜(キムマリア)、黄愛施徳(ファンエシドク)という二人の女性がいたことを知った。
 女性に長らく光が当たらなかったのは、書類や写真などの記録が少なく証明が難しい面もあるが、李さんは「女性独立運動家への関心がなかったから」と指摘する。国内の空気が変わったのは四年前。臨時政府による暗殺団の活躍を描いた映画の主人公が女性だったため、関心が寄せられるようになった。その後、「#MeToo」運動の高まりなどもあり、政権交代を機に女性の受章者が増えた。百周年の「目玉」を探していたマスコミの関心を集めた面もある。
 三月二十七日にソウルで始まった女性独立運動家の展示会では、陳善美(チンソンミ)・女性家族相が「照明が当てられてこなかった多くの女性独立運動家を発掘している」と強調。李さんも「単なるブームで終わらせないでほしい」と訴える。

赤旗三・一独立運動から100年/日本のメディアはどう伝えてきたか/問われる植民地支配への態度
 朝鮮を植民地下においた1910年の韓国併合条約は、日本が軍事的強圧のもとに押しつけた不当・不法な条約です。これにより民族の尊厳を踏みにじられ、土地・財産を奪われ、くらしと命の危険にまでさらされた朝鮮・韓国の民衆が植民地化に抗議し、独立と解放を求める思いを爆発させたものでした。
 この当然の行動を日本のメディアはどう伝えたか。歴史学者の姜東鎮氏(元筑波大学教授)は指摘しています。
「ほとんどの有力紙がこの事件を大きくとりあげているものの、朝鮮独立に支持ないし同調を示した新聞は皆無であった」。
 しかも、日本政府が朝鮮総督府、軍隊に命じ民衆の鎮圧に乗り出すと、これと一体となって「暴徒」「不逞(ふてい)鮮人」「暴動」と行動を敵視し、朝鮮人への恐怖、偏見をあおる報道に終始しました。こうした意図的な報道の行きついた先の一つが、1923年9月の関東大震災での朝鮮人虐殺の悲劇でした。
 権力とメディアが一体となって作り上げられた民族迫害の野蛮な風潮に対し、朝鮮への同情を口にする知識人はいても、三・一運動に示された朝鮮独立要求の正当性を正面から論じる政党・メディアは当時ありませんでした。それは、1922年、植民地の完全独立を正面からかかげる日本共産党が誕生し、1928年に「赤旗(せっき)」が創刊されたことで初めて実現しました。
赤旗」は創刊以来、「朝鮮独立闘争への連帯」を訴え、とくに三・一運動を記念する「三・一闘争」とともに、韓国・朝鮮人民が「国恥記念日」と呼ぶ韓国併合を強行した日を記念する「八・二九闘争」を重要な任務として毎年のように呼びかけてきました。なかでも1931年3月1日付掲載の「三・一記念日」と題する論評は、関東大震災で多数の朝鮮人が虐殺された歴史についてふれ、日本の労働者階級にとって「最も恥づべき頁として記憶しなければならぬ」「我々日本のプロレタリアートはこの時の恥を雪(そそ)がねばならぬ」と朝鮮人民との連帯を表明し、今日につながる重要な行動提起となっています。
 「朝鮮植民地化は適法だった、併合条約は合法的に結ばれた、韓国併合は正当だった。」(日本政府)
 日本政府は戦後も植民地支配を正当化し、いまだにその清算に背を向け続けています。日韓条約締結後50年以上もたつのに問題が噴出するのも、ここに根本問題があります。
 植民地支配への批判的視点を欠いたままという点では、日本のメディアもまた同罪です。戦前は国家権力と一体となって朝鮮人蔑視・抑圧の片棒を担ぎ、戦後はその反省もなく、植民地支配の清算に背を向ける日本政府に同調する報道を展開してきました。
 ことが韓国・朝鮮半島がらみになると、テレビも新聞各紙も歩調を合わせたように、居丈高に、口を極めて批判キャンペーンを展開する。その端的な表れが昨年の韓国最高裁判所による徴用工判決をめぐる事態でした。
 徴用工―戦時強制動員問題は、日本の侵略戦争・植民地支配と結びついた重大な人権問題であり、日本政府も当該企業もこれらの被害者への明確な謝罪や反省を表明していません。
 問題解決に向け被害者の尊厳と名誉の回復という立場から日韓双方が冷静に話し合うことが求められているときに、日本のメディアは安倍政権の対韓強硬姿勢に同調し、解決の糸口を探るのではなく対決をあおるような報道に終始したのです。連日の異様な韓国批判キャンペーンはどこに行きつくことになるのか、痛恨の歴史が教えているところです。
 「朝鮮半島支配への謝罪と賠償という『過去の清算』」がなぜ必要か。歴史学者の姜萬吉氏*1高麗大学名誉教授)はかつて本紙インタビューで次のように強調しました。「『植民地支配は合法的であった』と強弁するなら、三十五年間の民族解放運動は不法なものだったことになります。ある一つの民族の解放運動を『反逆行為』だとしておいて、その民族と仲良くなれるはずがありません」(「赤旗」00年8月21日付)
 三・一運動は、日本の植民地支配に抵抗し独立をめざした朝鮮民族の誇りあるたたかい最大の象徴です。それから100年、いまだに未清算のままでいいのか。いまこそ歴史に誠実に向き合い未来への教訓とする立場にたてるかどうか、メディアも問われています。(近藤正男)

赤旗3・1独立運動とは?
〈問い〉
 戦前の朝鮮半島で起こった三・一独立運動とは、どんな運動だったのですか。(兵庫・一読者)
〈答え〉
 三・一独立運動とは、一九一九年三月一日のソウルでのデモ行進をきっかけに、朝鮮半島全体に広がった、日本の植民地支配からの独立を求める大衆的な示威運動です。
 三月一日、ソウルのパゴダ公園(塔洞公園)で集会が開かれ、朝鮮の独立と朝鮮人民が自由民であることを宣言した「朝鮮独立宣言書」が読み上げられました。この「独立宣言書」には日本の留学生の運動も影響を与えています。そして「独立万歳」の叫びとともにデモの隊列がソウル市内に繰り出しました。当時ソウルには、かつて韓国皇帝だった高宗の葬式に参加する人々が集まっており、これらの人々も合流して行進は数十万人にふくれあがりました。その後五月まで各地で大規模なデモ行進などが展開され、参加者は百万人とも二百万人ともいわれます。
 日本の天皇制政府は、憲兵や警察、軍隊を動員して発砲など武力で弾圧し、武装した民間人も刀剣などでデモ行進に襲いかかり、多くの人々が虐殺されました。村人らを教会におしこめて、銃撃したうえ放火し殺害した「堤岩里事件」などはその一例です。故郷で集会を組織し十六歳で獄死した、ソウルの梨花学堂(現在の梨花女子大学)の女子学生、柳寛順など多くの犠牲者が語りつがれました。
 日本は一八七六年、武力による威嚇で朝鮮に不平等条約をおしつけると、王妃の閔妃虐殺など内政干渉をし、朝鮮が一八九七年に国号を大韓としてからも、「保護条約」おしつけで外交権などを奪い、一九一〇年にはソウルを軍隊で包囲し、併合条約調印を迫って韓国を併合して、朝鮮総督府を置きました。三・一独立運動を弾圧した後も、一九四五年まで植民地支配を続けました。
 現在、パゴダ公園には、三・一運動を描いたレリーフが置かれています。
(博)

赤旗槙村浩と3・1独立万歳運動とは?
〈問い〉
 戦前、槙村浩という詩人が朝鮮の独立運動に連帯した詩を書いたと聞きました。どんな人だったのですか? (岡山・一読者)
〈答え〉
 槙村浩(本名・吉田豊道、1912~38)は高知県生まれで、英才教育で知られた土佐中学、リベラルな校風をもった岡山市の関西中学などに学び、31年、19歳で日本プロレタリア作家同盟高知支部の結成に参加、おもに高知県で活動しました。
 文学活動とともに日本共産青年同盟に加盟、高知市にあった歩兵44連隊で反戦ビラをまくなどの活動をしながら、「生ける銃架」(31年)、「出征」「間島(かんとう)パルチザンの歌」(32年)など、国際連帯のかおり高い、今日でも高く評価されている反戦詩を次々に発表します。しかし、逮捕され、獄中で病気となり26歳で精神病院で死去しました。
 当時、日本は、朝鮮、台湾などの植民地にたいし、過酷な搾取と抑圧をおこなうとともに、人民の抵抗にたいしては残虐な血の弾圧を加えていました。たとえば、朝鮮人民が、1919年3月1日から「独立万歳」をさけんで朝鮮全土で独立運動をおこしたとき、天皇制の軍隊は、容赦なく銃火をあびせ、8千人近い人を殺し、多くの人びとを投獄しました。
 日本共産党は22年、党創立と同時に「シベリアからの撤兵、朝鮮人民の独立闘争支持」の旗を掲げ、各地で勇敢にたたかいました。30年ごろから、青年学生の反戦運動も急速にもりあがり、共産青年同盟は先頭にたちました。今野大力*2、今村恒夫、槙村浩などの詩人もそのなかにありました。槙村は32年4月ころ、日本共産党に入党。同年3月1日の「満州国建国宣言」に抗議し「間島パルチザンの歌」を詠んだのです。その一節。
「おお3月1日! 民族の血潮が胸をうつおれたちのどのひとりが 無限の憎悪を一瞬にたたきつけたおれたちのどのひとりが 1919年3月1日を忘れようぞ! その日 「大韓独立万才!」の声は全土をゆるがし 踏み躙(にじ)られた日章旗に代えて 母国の旗は家々の戸ごとに翻った」
 (喜)

赤旗朝鮮で起きた「三・一独立運動」とは?
〈問い〉
 戦前、朝鮮で起きた「三・一独立運動」とは、どんなことですか?(長野・一読者)
〈答え〉
 日本の朝鮮植民地化は1875年の開国要求から1910年の韓国併合にいたるまで、すべての過程が、武力による脅かしと行使によってすすめられました。土地、鉱業、漁業などを問答無用に略奪する侵略に、朝鮮では「義兵闘争」と呼ばれる抵抗闘争が不断に展開されました。日本は軍隊でこれを鎮圧し、06~11年の間だけで「約1万8千名の義兵を殺害」(朴慶植*3著『朝鮮三・一独立運動*4』)しています。
 こうした朝鮮民衆の抵抗の頂点にあるのが、19年3月1日に始まった「三・一独立運動」です。南・北朝鮮では今日でもこの日を記念日としています。
 第1次世界大戦後、民族運動や革命運動が世界的な高まりを示すなかで、19年2月8日、在日留学生が東京で独立宣言書を発表。ひそかに印刷された独立宣言書が日本の警察の目をくぐって宗教者や学生たちによって全国に運ばれました。
 3月1日、運動は、ソウル、平壌、開城などの主要都市で始められました。ソウルではパゴダ公園に集まった学生たちが正午の鐘を合図に、太極旗(大韓帝国時代の国旗で現在の韓国国旗)をふり、「独立万歳」を叫んで行進、たちまち数万の群衆デモとなりました。3月中旬には、朝鮮全土が反日運動のるつぼとなりました。なかでも前年に終了した土地調査事業によって日本人地主や親日的な地主が支配するようになった農村部で激しくたたかわれました。
 天皇制の軍隊は、これに容しゃなく銃火をあびせ、堤岩里事件(19年4月15日、運動参加者を礼拝堂内に閉じ込めて射殺、建物もろとも焼き払い、29人を虐殺した)などをふくめ、8千人近い人を殺し、たくさんの人びとを投獄しました。
 この運動の影響は大きく、同年のインドの非暴力運動(4月)や中国の五・四運動(5月)の先がけとなりました。日本では、独立運動はくわしくは知らされず、朝鮮人に共感を寄せたのは、白樺派柳宗悦*5ら少数者にとどまりました。日本共産党は、この3年後に創立されますが、結党直後から「日本と朝鮮の労働者は団結せよ」のスローガンをかかげ、日本の政党ではただ一つ、朝鮮人民の解放闘争を支持しました。(喜)

中央日報『日本の堤岩里虐殺隠ぺいを立証する朝鮮軍司令官の日記発見』
 1919年3.1独立運動後の4月15日、日本憲兵が京畿道華城(キョンギド・ファソン)堤岩里(ジェアムリ)住民28人を集団虐殺した事件を軍首脳部が徹底的に操作・隠ぺいした事実が、当時韓半島に駐屯した日本軍最高指揮官である朝鮮軍司令官の日記で確認された。
 当時司令官だった宇都宮太郎*6大将(1861-1922)は堤岩里虐殺直後の18日付の日記で、「幹部との会議で(住民が)抵抗したため殺りくしたものとし、(日本軍の)虐殺・放火などは認めないことに決め、夜12時に散会した」と記録したと、朝日新聞が28日報じた。
 宇都宮は日記に「堤岩里で日本軍が約30人余の住民を教会に閉じ込めて虐殺・放火した」とし「事実を事実として処分すれば簡単だが、虐殺・放火を自認することになり、帝国(日本)の立場は甚しく不利益になる」と記した。
 19日付の日記には、虐殺事件に関与した日本軍中尉に対し「鎮圧方法に適当でない点があり、30日間の重謹慎を命ずることに決心した」と書かれている。
 滋賀県立大の姜徳相(カン・ドクサン)名誉教授(朝鮮近・現代史)は「3.1独立運動当時の代表的な流血鎮圧である堤岩里事件の隠ぺい過程と民族運動家に対する日本の懐柔工作記録が明らかになったのは初めて」とし「従来の研究で確認されていない部分を埋める近代史の1級史料だ」と評価した。 宇都宮の日記は孫が保管していたもので、来月以降に岩波書店から刊行される予定だ。

大学倶楽部・龍谷大:日韓の歴史を考える会 尹東柱しのび 「三・一運動」講演 16日 - 毎日新聞
 日本が支配していた朝鮮半島の言葉で詩をつづったとして1943年に逮捕され、45年2月に福岡刑務所で獄死した詩人の尹東柱*7ユン・ドンジュ)の命日である2月16日、京都市内では日韓の歴史を考える会が相次いで開かれる。
 尹の27歳での獄死は朝鮮独立運動への弾圧とも無縁ではなかった。午後1時半から龍谷深草キャンパス(京都市伏見区)の和顔館では、「三・一朝鮮独立運動」から100年となるのを前にした記念講演とシンポジウムがある。龍谷大社会科学研究所付属安重根東洋平和研究センターの主催で参加費1000円(学生無料)。

赤旗主張/朝鮮半島との外交/過去の反省と人権を土台に
 南北、米朝の昨年の首脳会談により始まった朝鮮半島をめぐる平和の流れの中で、それを後押しするためにも、日本と韓国の関係改善が急務です。日本軍「慰安婦」、元徴用工の問題などでの対立を打開するには、両国の努力が必要です。日本側には、相手への一方的非難ではなく、過去の歴史に向き合い、国際的な人権規範もふまえた冷静な外交が求められます。
 韓国の裁判所で日本企業への賠償命令が相次ぐ徴用工問題は、日本の過去の侵略戦争・植民地支配と結びついた重大な人権問題です。「悲惨な条件での企業のための大規模な労働者徴用は、強制労働条約違反」(国際労働機関〈ILO〉勧告)であり、被害者には救済を求める正当な権利があります。
 安倍晋三政権は1965年の日韓請求権協定で「解決済み」と繰り返しますが、日本の最高裁も政府も韓国と同様、個人請求権は消えていないと認めています。救済の道は協議できるはずです。日本政府の有識者懇談会では経済人とみられる委員からこんな指摘もありました。
 「われわれは戦争中相当ひどいことをしてきたが、その原罪について果たして真摯(しんし)に申し訳なかったと反省してきたか。ドイツは国家賠償を行っていないが、巨額の個人補償を犠牲者に対して行ってきた」「ここのところを常に意識しておかないと、われわれはなぜ国際社会から心底許されていないのかという問題には答えることはできない」(2015年4月)
 日本軍「慰安婦」問題でも世界は厳しい目を向けています。安倍首相が15年12月の日韓両政府の合意後も「性奴隷といった事実はない」などと「慰安婦」問題の核心を否定したことに、国連の女性差別撤廃委員会は「国の指導者や公職にある者が『慰安婦』問題に対する責任を過小評価し、被害者を再び傷つけるような発言はやめるよう」勧告しました。日韓合意の実施では「被害者・生存者の意向をしかるべく考慮し、被害者の真実、正義、賠償を求める権利を確保するよう」求めています。日韓合意に基づく「和解・癒やし財団」を韓国が解散したことについても、両国は誠実な話し合いで対立を解消すべきです。
 日韓・韓日議員連盟の合同総会は12月、歴史問題の解決のため「被害を訴える当事者の名誉と尊厳が回復されるよう日韓パートナーシップ宣言の趣旨に基づき相互互恵の精神で共に努力していく」と確認しました。1998年の同宣言は、日本の韓国に対する植民地支配への「痛切な反省と心からのお詫(わ)び」を両国の公式文書では初めて盛り込みました。この表明を守り生かす政治が必要です。
 今年は日本による「韓国併合」=植民地化に反対し朝鮮半島全土で人々が立ち上がった「三・一独立運動」から100年です。日本の官憲と軍隊はこれに残虐な弾圧を加えましたが、抵抗は1945年の日本の敗戦による解放まで続きました。朝鮮半島の人々との友好発展は、民族抑圧の否定や植民地支配の美化ではなく、歴史に正面から向き合い、誤りを認め、未来への教訓にする姿勢を土台にしてこそつくられます。その方向に日本政治を進める世論と運動の広がりが求められる年です。

韓国大統領が「親日清算」を強調 三・一運動記念日控え - 産経ニュース
 文氏は三・一運動を主導した代表的な女性とされる柳寛順(ユ・グァンスン)に言及。「柳寛順烈士には(国家有功者の)1等級勲章の資格があると思う」と三・一運動の象徴をたたえた。
 閣議に先立ち文氏は、記念館近くにある金九の墓を参拝。また、初代の韓国統監だった伊藤博文元首相を中国・ハルピン駅で暗殺し死刑となった安重根(アン・ジュングン)や、金九の指示を受け上海で爆弾を投げ、日本の要人2人を殺害し死刑になった尹奉吉(ユン・ボンギル)らの墓も続けて参拝した。
 文氏の発言について韓国大統領府は「三・一運動の崇高な自主独立精神や、愛国者の先人の犠牲精神を継承、発展させる意志を示すものだ」と説明している。

文大統領 ニューヨーク州議会の三・一独立運動たたえる決議採択を歓迎-Chosun online 朝鮮日報
 韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領は18日、米ニューヨーク州議会が日本による植民地時代の1919年に起きた「三・一独立運動」と三・一独立運動に積極的に参加した独立運動家の柳寛順(ユ・グァンスン)をたたえる決議案を採択したことについて、「三・一独立運動100周年、臨時政府樹立100周年になる今年、異域万里(遠くの国)から届いたうれしい便り」とツイッターに投稿し、歓迎の意を示した。
 ニューヨーク州の上院・下院は15日(現地時間)、それぞれ全体会議を開き、三・一独立運動100周年記念決議案を採択した。
 ニューヨーク州議会は決議案宣言文で「韓国は日本の支配下で抑圧と差別、暴力を受け、言語や文化、生活様式でも威嚇を受けた」とし、「1919年3月1日の植民地支配に反対した韓国人の運動は今年3月1日で100周年を迎えた」と説明した。
 また1920年に獄死した柳寛順は民主主義と自由の象徴となったとし、「われわれは柳寛順烈士と三・一独立運動の歴史的な重要性を認識している」と強調した。

中央日報『韓国政府、三・一運動100周年迎えて柳寛順烈士に叙勲格上げ検討』
 韓国政府が三・一運動100周年を迎えて柳寛順(ユ・グァンスン)烈士の独立有功者の叙勲等級を上方修正する方向で検討していると政府当局者が28日、伝えた。
 柳烈士が受章した建国勲章「独立章」は5等級中3等級で、これを1等級か2等級に修正するべきだという主張がこれまで提起されてきた。
  文在寅*8ムン・ジェイン)大統領と李洛淵*9(イ・ナギョン)首相も今月21日のランチミーティング三・一運動100周年行事に関連して柳烈士の叙勲格上げの必要性について意見を交わしたという。
  柳烈士は三・一運動の象徴的人物だが、独立有功者叙勲がその功績と象徴性に釣り合っていないという指摘が続いた。柳寛順烈士記念事業会は昨年5月、青瓦台(チョンワデ、大統領府)国民請願ホームページに「柳寛順烈士の叙勲3等級の上位等級引き上げ」というタイトルの国民請願を投稿したことがある。
  国家報勲処の独立有功者褒賞現況によると、金九*10(キム・グ)、安昌浩*11(アン・チャンホ)、安重根*12(アン・ジュングン)ら30人が大韓民国章(1等級)であり、申采浩(シン・チェホ)ら93人は大統領章(2等級)に分類されているが、柳烈士は彼らよりも低い段階の独立章(3等級)に含まれている。しかし、同じ功労で叙勲を再審査して引き上げるのは現行法では容易ではないという指摘もあり、実際に柳烈士の叙勲修正が実現するかどうかは確実ではない。
これに関連して、報勲処関係者は「勲章功勲の制度的安定性を期す次元で、現在の叙勲法上、同一功績によって再審を通じて引き上げるのは不可能だ」とし「現在の叙勲を引き上げる方式ではなく、別の功績で建国勲章をもう一度授ける方案は実行可能だ」と述べた。あわせて「一部からは柳寛順烈士の叙勲格上げを要求する声があるのは事実だが、まだ確定したものはない」とし「叙勲を管轄する行政安全部や女性や学生人権を向上させた業績を女性家族部などで評価して功績を再び作成する可能性はある」と付け加えた。

■中央日報『柳寛順烈士、三一節100周年迎えて勲章叙勲』
 韓国政府が三・一運動100周年を迎えて柳寛順(ユ・グァンスン)烈士に別途の独立有功者勲章を追叙すると発表した。これは1962年に柳烈士の独立運動功績を認めて追叙した建国勲章「独立章(3等級)」とは別個のものだ。
 25日、政府関係者によると、26日午前に開かれる国務会議で柳烈士に対して勲章を追叙する案件が上程される。
 柳烈士が過去に受けた独立章の叙勲等級は5等級のうち3等級で、その功績に比べて叙勲が低評価であるため叙勲等級を引き上げるとともに再照明するべきだという世論が繰り返し提起されてきた。
 国家報勲処によると、現在の叙勲法上、建国勲章は功績によって1~5等級に分かれている。金九(キム・グ)、島山(トサン)・安昌浩(アン・チャンホ)、安重根(アン・ジュングン)ら30人が大韓民国章(1等級)で、申采浩(シン・チェホ)など93人は大統領章(2等級)に分類されているが、柳烈士は彼らより低い段階の独立章(3等級)に含まれている。
 これまで国家報勲処は柳烈士の叙勲等級引き上げについて「叙勲法(第4条)に同じ功績に対して重複褒賞はできないように規定されているため勲格再審査のためには法改正が必要だ」という立場だったが「追加叙勲」には賛成意見を出したと分かった。
 韓国政府は、柳烈士が三・一運動後に国の建国と国家イメージの向上、国民愛国心鼓吹などに大きく寄与したとみて別途勲章を追叙する方案を推進することになった。
 これに先立ち、夢陽(モンヤン)・呂運亨(ヨ・ウニョン)先生の場合も2005年独立運動の功績で「大統領章」(2等級)に叙勲されたが、2008年に解放後の建国準備活動に対してその功績が認められて「大韓民国章」(1等級)に叙勲されたことがある。

映画『抗拒』、三・一運動から1年の女性独立活動家の物語:時事ドットコム
三・一運動から1年、知られざる独立烈士・柳寛順(ユ・グァンスン)の話を扱った作品として注目されている『抗拒:柳寛順物語』がスペシャル・スチールカットを公開した。
・柳寛順の姿は17歳という幼い年齢にもかかわらず、日帝に最後まで屈しなかった彼女の気概を感じさせ、見る人に胸が詰まる感動を贈る。
『抗拒:柳寛順物語』は27日に公開予定だ。

赤旗志位委員長のインタビュー放映/韓国KBSテレビ 西大門刑務所の特集番組/“植民地支配とのたたかいに敬意”
 志位氏は、インタビューのなかで、同刑務所を訪問した理由について問われ、「日本帝国主義による苛烈(かれつ)な植民地支配に抗してたたかった朝鮮の愛国者の方々に心からの哀悼とともに敬意を表するためです」と述べました。また、「日本人にとってつらく、目を背けたくなるような誤った歴史であっても、それをきちんと知ることがたいへん大事です」と語りました。
 西大門刑務所は、三・一独立運動に参加し、「韓国のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる柳寛順が、19歳*13の若さで獄死した場所としても有名。

赤旗戦後70年 北東アジアの平和/――歴史をふまえ未来を展望する/建国大学での志位委員長の講演
 1919年の「三・一運動」とよばれた大独立闘争は、200万人あまりが参加し、朝鮮独立の意思を全世界に力強く訴えた、世界史的意義をもつたたかいとなりました。
 私が、紹介したいのは、当時の日本で、この朝鮮人民のたたかいに連帯したたたかいが存在していたということです。
 私は、9年前の初めての訪韓で、西大門刑務所歴史館を訪問したさいに、一つの歴史的文書のコピーをお渡ししました。今日もここに持ってまいりましたが、1931年3月1日付と、1932年3月2日付の日本共産党中央機関紙「赤旗」(せっき)です。「赤旗」は今日も続いておりまして「しんぶん赤旗」として大きく発展しています。
 ここには、「三・一運動」を記念して、朝鮮独立闘争への連帯を烈々と訴える論説が掲載されています。1923年の関東大震災のさいに多くの在日朝鮮人が虐殺された歴史を「恥づべき頁」だ、「この恥を雪(そそ)がなければならない」といって連帯を呼びかけています。次のようなスローガンが掲げられています。
 「朝鮮独立運動三・一記念日万才!」「日本、朝鮮、台湾、中国の労働者農民の団結!」「朝鮮農民に朝鮮の土地を返せ!」「打倒日本帝国主義!」「朝鮮、台湾、中国の植民地及び半植民地民族の完全なる解放!」。
 1922年に創立された日本共産党は、戦前、侵略戦争と植民地支配に命がけで反対し、日本帝国主義によって抑圧された諸民族との国際連帯を掲げてたたかった唯一の政党です。そのために多くの私たちの先輩たちは、弾圧され、命を落としました。私は、このたたかいは、21世紀の未来にむけての日韓両国・両国民の友好にとっても、歴史的意義をもつものであると、確信するものです。

赤旗朝鮮の女性独立運動家・柳寛順とは?
〈問い〉
 志位和夫委員長が演説などで紹介している朝鮮の女性独立運動家・柳寛順(ユ・グァンスン)とはどんな人ですか?(京都・一読者)
〈答え〉
 日本は19世紀後半から朝鮮半島への影響力を拡大し、1910年の韓国併合条約で完全に併合、太平洋戦争で敗北する1945年まで強大な軍事力を背景に植民地支配を続けました。この間、数多くの朝鮮の人たちが日本からの独立を求める運動に立ち上がりました。当時、学生だった柳寛順もその一人です。19年の「3・1運動」の街頭デモに参加して逮捕された彼女は20年10月、17歳の若さでこの世を去りました。
 衰弱した体で獄中でも「独立万歳」運動を続けるなど、節を曲げることなく生涯を祖国独立にささげた彼女の生きざまは、韓国・朝鮮の人たちの心を今もとらえています。
 柳寛順は、1902年12月、忠清南道(韓国中部)天安郡(現・天安市)で、キリスト教を信仰する両親のもとで生まれました。16年、米国人宣教師の紹介で、神学校として設立された梨花学堂(現在の梨花女子大の前身)普通科2年に編入。18年には、梨花女子高等普通学校に進学しました。このころの彼女の身長は169センチメートルで、当時の女性としてはかなり大柄だったようです。
 翌19年3月1日、ソウル、平壌などの主要都市で、いっせいに「独立万歳」を叫ぶ「3・1運動」が始まると、彼女は友人らとともにこの運動に参加します。当時、日本の軍隊は、デモ隊に容しゃなく銃火を浴びせるなど徹底的に弾圧しました。
 彼女の学校も総督府によって休校にさせられると、故郷に帰郷。旧暦の3月1日にあたる4月1日に万歳デモを実行する準備にとりかかります。
 4月1日、並川市場には数千人の群集が集まりました。デモを阻止しようとした憲兵隊が発砲し数十人が負傷、柳寛順自身も負傷して逮捕されました。彼女の両親は射殺され、自宅も放火されました。
 裁判で懲役刑が宣告された彼女は、悪名高い西大門監獄所に収監されました。獄中でも「独立万歳」を叫んで仲間を励ましたといいます。
 韓国政府は62年、彼女の功績をたたえ建国勲章を授賞。「3・1運動」の起点となったソウル市内のタプコル公園には、デモの先頭で太極旗を掲げる彼女のレリーフが刻まれています。故郷の天安には、柳寛順烈士記念館が設けられています。(圭)

 享年17歳と言う悲劇的な死でどうしても注目される柳寛順です。「若い女性の悲劇」というのは「フランスのジャンヌ・ダルク(享年19歳)」「我が国の横田めぐみ(拉致時13歳)」などどうしても注目されます。
【前振り終わり】


■日本における三・一運動研究の動向(林雄介)
(内容紹介)
 日本における三・一運動研究の草分けとして、『日韓併合小史』 (1966年、岩波新書)、『日本統治下の朝鮮』(1971年、岩波新書) などの著書がある 山辺健太郎(1905~1977年)がまず挙げられています。
 ただ筆者は山辺マルキストであったことからどうしても「それなりの意義はあるが階級性に欠ける三・一運動」→「三・一運動を克服して生まれてきた階級的運動(典型的には労組や左翼政党ですが)」といった「三・一に消極的評価」をする傾向があったとしています(まあそうした傾向も冷戦の終結でかなり力を失ったことは事実でしょうし、山辺の生きた時代を考えればそのことで彼を批判することには慎重になるべきでしょう)。
 そして「金日成パルチザン闘争していたこともあって」、『やっぱ平和主義ってぬるいよね』的傾向も山辺にあったとのことです。
 山辺に近い認識*14としては最近では、

平壌で討論会/3.1人民蜂起100周年に際し | 朝鮮新報
・3.1人民蜂起100周年に際して社会科学部門の討論会が2月28日、平壌の人民文化宮殿で行われた。
・3.1人民蜂起は日帝の植民地支配に多大なる打撃を与えたに留まらず、朝鮮人民にとっては民族的覚醒を促し、闘争を通じて単純なデモ行動や分散的で非組織的な闘いでは民族的独立を成し遂げることはできないという貴重な教訓を得たと指摘。

3.1独立運動に際して/平壌で報告会と討論会 | 朝鮮新報
・3.1人民蜂起100周年を記念して、「3.1人民蜂起100周年記念平壌市報告会」が1日、平壌の人民文化宮殿で行われた。
最高人民会議常任委員会の金永大副委員長が報告を行った。
・「3.1人民蜂起は人民大衆が民族の自主権と国の独立を求める闘争で勝利するためには、卓越したリーダー*15と革命的党*16の領導の下、自らの力量を固め、正しい戦略戦術に沿って組織的な闘争を展開するべきであり、武装には武装で立ち向かわなければならない*17という教訓を残した」と指摘。民族の自主独立を願う朝鮮人民の願いが金日成主席によって実現されたと強調した。

があげられるでしょう。まあ、北朝鮮においても、もはやこうした主張は「お約束(一応の建前)」にすぎないのではないかと思いますが。韓国側としては一寸受け入れがたい物言いでしょうし、北朝鮮としても韓国との友好関係はある程度考えざるを得ないでしょう。
 国内でこう言ったからと言って、韓国相手にまで平然とこれを公言するとも思えない。そこは、たぶん「まあ、アレは国内向け発言ですから、深く考えないでほしい」「そんなことより南北交流を深化させていきましょう」的な態度(プーチンの「島のことは脇に置いて日露経済交流しましょう、できたら日露平和条約を結びましょう(暗に『いい加減、日本は島の返還なんか諦めろよ』といってる)」的な態度)でごまかすでしょう。
 「話が少し脱線しましたが」、いずれにせよ「民族独立運動において階級性をそこまで重視すべきなのか」、「本当に三・一運動に階級性はないのか」、「三・一運動を克服したと言うより、三・一運動弾圧により民族資本成長の可能性が弱まったからこそ階級性が強まったのではないか」など「山辺を批判し克服すること」で日本における三・一運動研究は発展してきたそうですが、その具体的な「ポスト山辺の研究」については小生の無能のため紹介は省略します。


三・一運動と国際的背景(長田彰文*18
(内容紹介)
 内容自体は教科書や通史などにも記載される「概ね通説的な見解」です。
 国際的背景とは何かといえば、「十四か条の平和原則(米国大統領ウィルソン*19)」や「平和に関する布告(ソ連最高指導者レーニン)」によって民族自決のムードが強まり、東欧やフィンランドがロシアやオーストリアから独立したわけです。
 で世界各地で「5・4運動(中国)」「ガンジー国民会議派の運動(インド)」などが盛り上がり、それは朝鮮半島にも波及した。
 その結果日本はいわゆる武断政治から文化政治へと「統治方法をより緩やかな物にせざるを得なかった」という話です。
 ただしその文化政治においてさえ「朝鮮総督は軍人(海軍軍人の斎藤実*20)」でした。
 なお、「話が少し脱線しますが」斎藤に対しては、「姜宇奎という朝鮮人民族活動家によるテロ事件」が起きています。確かに三・一運動について言えば「総督府の弾圧」が起こるまでは概ね平和的だったのですが、

安重根伊藤博文・前韓国統監暗殺(1909年)
■姜宇奎*21斎藤実・韓国総監暗殺未遂(1919年)
■いわゆる桜田門事件(1932年)
 李奉昌による昭和天皇暗殺未遂事件。1923年に起こった難波大助による虎ノ門事件(裕仁摂政暗殺未遂)の際には第二次山本*22内閣が総辞職しているため、犬養*23首相から辞表が昭和天皇に提出されたが慰留された*24ため、総辞職することはなかった。昭和7年(1932年)に李に死刑執行。
 昭和37年(1962年)、李は韓国政府(朴正煕政権)から建国勲章大統領章(2等級)を追叙*25された。平成4年(1992年)には没後60年を記念する百ウォン切手が韓国政府(盧泰愚政権)によって発行された。独立記念館で顕彰されている他、孝昌公園に像と墓が建てられている。この公園は、平成11年(1999年)4月16日に訪韓した小沢一郎*26議員(当時自由党党首)が表敬訪問*27し、李が祀られたいわゆる独立三義士*28墓に参拝した。
■いわゆる上海天長節爆弾事件(1932年)
 尹奉吉による爆弾テロ事件。このテロにより、上海居留民団行政委員会会長の医師河端貞次が即死、上海派遣軍司令官・白川義則*29陸軍大将、第9師団長植田謙吉*30陸軍中将、第3艦隊司令長官野村吉三郎*31海軍中将、在上海公使重光葵*32、在上海総領事村井倉松*33、上海日本人居留民団書記長の友野盛が、それぞれ重傷を負った(後に白川が傷がもとで死亡)。1932年に尹に死刑執行。韓国政府(朴チョンヒ政権)は、1962年に尹に建国勲章大韓民国章(1等級)を贈り、独立運動の義士として顕彰し、独立記念館に祀っている。
 なお、金学俊ほか『評伝尹奉吉』(彩流社)が2010年に刊行されている。
■白貞基による有吉明*34・駐中国公使暗殺未遂事件(1936年)
 暗殺を計画するが密告者が出たため、実行する前に摘発。白は無期懲役の判決を受け、熊本刑務所で服役中の1936年に病死。なお、社団法人国民文化研究所編『韓国独立運動家 鴎波白貞基』(明石書店)が2014年に刊行されている。

など一方で「朝鮮民族運動」にはテロ(日本政府要人暗殺)の歴史もあることには注意しておく必要があるでしょう(事件内容についてはウィキペディアを参照)。別に「それを非難したいわけではなく」単なる事実の指摘ですが。しかしググって知りましたが我々日本人の大多数はこの中では「安重根」はさすがに「別格」なので知っていますが他は全然知りませんよね。一方韓国では彼らは英雄視されてるわけで何というかギャップを感じますね。そうしたギャップは「日本人が韓国植民地支配についてきちんとした認識を持ってない→韓国側の安倍批判を不当にも反日呼ばわり」などという意味で日韓友好において決していいことではないでしょう。
 「話を元に戻しますが」、朝鮮総督は初代の寺内正毅*35(陸軍)から最後の阿部信行*36(陸軍)までずっと軍人でした(統監時代の初代統監・伊藤博文*37、二代目統監・曾禰荒助*38は非軍人ですが)。
 この点は「文官総督の時代(1919~1936年)」の時代がある程度の期間続いた台湾総督との違いかと思います(台湾総督も「1895~1919年」「1936~1945年」は軍人総督ですが)。
 なお、直接的な三・一運動のきっかけは「李氏朝鮮最後の皇帝・高宗の死」です。

【参考:国際的背景】

赤旗2014 とくほう・特報/日本の侵略戦争/■第4回■ 「韓国併合」と植民地支配 (下)/湧き起こった「独立万歳」
 韓国の民衆の独立運動は、日本による「併合」後も、地殻変動のエネルギーが蓄えられるように消すことはできませんでした。
■全半島に三・一運動
 その頂点に位置するのが、1919年3月1日にソウルで始まり、全半島にひろがった「三・一独立運動」です。1917年のロシア革命の成功、その指導者レーニンアメリカ大統領ウイルソン民族自決の理念を主張したこともこの三・一(サミル)独立運動や中国での抗日の五・四運動に影響しました。
 19年1月、日本の侵略にさまざまな抵抗を試みた前皇帝・高宗(コジョン)の死を一つのきっかけとして、朝鮮民族あげての独立運動が一挙に湧き起こりました。民族宗教ともいうべき天道教キリスト教、仏教の指導者が「独立宣言」を起草。ソウル市街の中心部にあるタプコル公園で、学生代表がその宣言文を朗読、読み終えると「独立万歳」(トンニップ・マンセー)の声が高々と上がり、太極旗を持った人びとが隊列を組んで街中に出て行ったといいます。
 同公園の石碑に刻まれた宣言文は次のように始まります。
 「われわれはここにわが朝鮮国が独立国であること、および朝鮮人が自主の民であることを宣言する。これをもって世界万邦に告げ、人類平等の大義を明らかにし、子孫万代に教え、民族自存の正当なる権利を永遠に有せしむるものである」
 在日韓人歴史資料館館長で歴史家の姜徳相*39(カン・ドクサン)氏はいいます。
三・一運動憲兵政治の支配のもとで、いわば入れ物の水がいっぱいになってあふれでるようにして起きたもの。同時に、第1次世界大戦末期のロシア革命や中国革命の進行、ウイルソン民族自決権の宣言にも影響をうけています。被抑圧民族の解放という世界史の歩調と足並みをそろえる方向に展開したのです」
■非暴力・女性の活躍
 三・一独立運動は非暴力の運動でした。当初、この動きを察知できなかった総督府はうろたえましたが、にわかに軍隊を出動させ、武器を持っていない行進者に銃剣を向け発砲しました。なかでも凄惨を極めた事件の一つに堤岩里(チェアムニ)事件があります。ソウルの南にあたる水原(スウォン)地方の運動を鎮圧するために派遣された日本軍は独立運動に参加した人びとを「訓示する」といってキリスト教会に集め、建物に火を放ちいっせい射撃で皆殺しにしました。29人が犠牲になりました。
 三・一独立運動では女性がめざましく活躍しました。その一人、柳寛順(ユ・グァンスン)は“朝鮮のジャンヌ・ダルク”といわれます。当時、梨花学堂(現梨花女子大学校)に在学中の16歳の少女でしたが、休校にされると郷里の天安(チョナン)にもどって市場で人びとと独立行進をしてその先頭に立ちました。憲兵の発砲で両親は死亡、彼女は首謀者として逮捕され懲役刑に。しかし「日本人にわれわれを裁く権利はない」と法廷・獄中闘争をやめず、度重なる拷問がもとで、西大門(ソデムン)刑務所で18歳の生涯を閉じました。
 タプコル公園では各地の独立運動の群像が10枚のレリーフになり、その姿を伝えています。
 三・一運動後のたたかいは、朝鮮と国境を接する「満州」間島での独立運動、中国・上海での臨時政府などに引き継がれます。
■「戦時動員」「皇民化
 民族あげての三・一独立運動などによって、日本の植民地支配は一歩後退を余儀なくされ、従来の「憲兵警察政治」(武断統治)を、親日派の育成を含む「文化政治」に改めることになります。
 しかし、1931年の「満州事変」、37年の日中全面戦争が起きるとその文化政治も続けられなくなり、「戦時動員体制」、野蛮なファシズム体制へと転換します。この体制は、日本への米輸出を増大させ韓国の人びとを疲弊に追いやった「産米増産計画」などの物資面にとどまらず、労働力・兵士の確保に及びました。労働力不足になった日本の炭鉱、鉱山、軍事施設などに多数の朝鮮人労働者を強制的に動員したこともその一環です。その数は百万人以上といわれます。
 ソウルの「朝鮮神宮」をはじめ各地に2000以上の神社をつくり天皇崇拝の参拝を要求するなど「皇民化政策」をすすめました。その具体化として日本語の「国語常用」、「創氏改名」、「色衣奨励」(韓国の伝統的な白い衣装から色の着いた衣装に替える)をすすめました。
 1936年に関東軍司令官から朝鮮総督になった陸軍大将・南次郎*40(のちにA級戦犯)は、朝鮮での徴兵制実施、昭和天皇行幸を目標にかかげ、小学校での朝鮮語の廃止など「内鮮一体化」の名で民族抹殺政策を推進しました。
 姜徳相氏は「日中全面戦争の開始以降はとくに、『校門は営門(兵営の門)につうじる』として小学校での日本語教育を徹底して、長ずれば日本の兵士になれるようにした。私も中学生で日本の必勝を疑わなかったし陸軍幼年学校を希望していた。少国民教育は恐ろしい効果を持っていました」といいます。
 韓国・朝鮮では徴兵制によって44年から終戦まで、40万人の青年が日本の軍人・軍属としてアジア・太平洋戦争に動員され、そのうち2万人が犠牲になりました。(樋口雄一*41『戦時下朝鮮の民衆と徴兵』総和社
 また、日本軍の統制と監督下で「慰安所」がつくられ多くの朝鮮人女性が本人の意思に反して軍「慰安婦」となることを強制されました。日本政府が慰安婦制度の真実を正面から認め、「河野談話」が表明した痛切な反省と心からのおわびにふさわしい行動をとることが求められています。
 1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し連合国に降伏した日、韓国にとっては植民地支配から解放され、民族の独立を回復する「光復」の日を迎えました。ソウルの街は歓喜に沸き、「万歳」(マンセー)、「万歳」の声が響きわたりました。
 (山沢猛)


【参考:尹奉吉について】
【河崎真澄の視線】85年前のテロリストたたえる韓国 中韓共闘の反日活動にもきしみ(1/4ページ) - 産経ニュース

 尹奉吉は1932(昭和7)年4月29日に虹口公園で行われた天皇誕生日天長節)式典に侵入、爆弾を投擲(とうてき)して上海派遣軍司令官として出席した白川義則陸軍大将ら要人2人を殺害した「上海天長節爆弾事件」のテロ実行犯だ。後に外相となった重光葵が右足を失う重傷を負うなど、多数の死傷者を出した。
 この男は韓国で、伊藤博文元首相*42を09年10月に暗殺した安重根(アン・ジュングン)にも次ぐ“英雄”とされる。今年は尹奉吉の事件から85周年を迎える。
 尹奉吉に爆殺テロを命じた人物として記念館では、日本による朝鮮半島統治に反発して亡命、当時の上海フランス租界に「大韓民国臨時政府」を設置したメンバーの1人である金九(キムグ)(1876~1949年)までたたえている。
 ヒットマンとなる尹奉吉を事件当日の朝食に招き、お互いの懐中時計を交換して、弁当箱と水筒に仕込んだ爆弾を手渡した。明らかに組織的なテロであったことを物語る。

 民族活動家を「テロリスト」「ヒットマン」の一言で片付け、「この男」呼ばわりとは産経らしいくだらなさです。一方で「ウイグルでのテロ」なんかは「中国にも非がある」と言うのだからまあ産経もデタラメです。


【参考:いわゆる文化政治について】

■朝鮮産米増殖計画(ウィキペディア参照)
 1920年代に当時日本領であった朝鮮半島で行われた朝鮮総督府主導の土地・農事改良事業。
 明治以後、日本は急激な人口増加と生活向上に伴って米の需要が高まったが、当時の日本国内の生産力はその需要に対応しきれず、20世紀に入った頃には日本は恒常的な米の輸入国になっていった。当時の日本では工業生産性を維持するために賃金の抑制を図る必要があったが、そのためには賃金の動向に大きな影響を与える主食である米の価格(米価)を抑制していくことが重要であった。米価の抑制のためには大量の米を日本本土に輸入する必要があったが、安定的な輸入は困難で、日本の国際収支の悪化要因にもなっていた。第一次世界大戦中にはその問題は深刻化して、1918年の米騒動へと発展した。一方、朝鮮半島では三・一運動以来の独立運動を鎮静化のために生活水準の向上が課題となった。
 1920年朝鮮総督府は30年計画で耕種改善と80万町歩相当の土地改良を行うことを目標とし、まず最初の15年で2億4千万円の経費を投じて43万町歩分の土地改良を行おうとした。これによって900万石分の米の増産が図られ、うち700万石分を日本本土へ移出することで日本国内の米価が下がり、更に朝鮮半島住民の生活も向上して独立運動が沈静化するという目論見であった。
 だが、戦後恐慌の影響もあって最初の数年で計画通りの実施が困難となり、実際に行われた土地改良は9万町歩に過ぎなかった。1926年に「産米増殖更新計画」として改訂して再出発した。だが、世界恐慌の影響による資金不足で事業遂行が困難となり、更に朝鮮米の大量移入は日本本土の農村恐慌を悪化させるとした世論の批判も登場するようになった。このため、1934年に事実上の計画打ち切りとなった。
 この間、土地改良や水利改善によって生産性の向上はあったものの、その反面大地主への土地集積や融資の返済に苦しむ中小農民の苦悩の深刻化、更には日本本土への米の移出増大を達成するために却って朝鮮半島における1人あたりの米消費量が減少するなど、朝鮮総督府の目論見には程遠いものであった。


■「独立万歳」の政治文化と民衆(趙景達*43
(内容紹介)
 「独立万歳」というスローガンが民族のスローガンとして初めて広まったのが、三・一運動であり、「独立万歳」というわかりやすくインパクトの強いスローガンが利用されたが故に「三・一運動」はあれほど大規模な運動になったという話です。


三・一運動における「キリスト教徒」と「教会」(松谷基和)
(内容紹介)
 三・一運動での「独立宣言書」署名者33名の内、16名がキリスト教徒であったためキリスト教の影響を云々する主張について筆者は「適切な認識ではない」と見なしています。
 理由は以下の通りです。
1)33名の内16名はキリスト教徒だが、一方で「15名」は天道教信者だった。
2)天道教三・一運動への関わりは前・教主「孫秉煕(ソン・ビョンヒ)」が参加するなど、「天道教組織」としての運動だったが、キリスト教徒の場合、一信者にすぎなかった。彼らはキリスト教会組織を三・一運動に組織として積極的に関わらせることが出来なかった。沖縄において「デニー知事支持」の創価学会員がいても、創価学会組織としてはデニー支持ではないのと同じようなものといえようか?
3)つまり彼らの運動は「彼ら信徒の個人的運動」にすぎず教会を代表する物ではなかった、彼らはむしろ教会を「三・一運動に組織的に関与させようと動いた」が「三・一運動に組織として関与することに消極的な人間が教会幹部層に多く」彼らの試みは失敗した
4)また彼らの運動において「キリスト教的理念からの独立論」は主張されていない。彼らにとって「独立論は正しい主張だから教会が支持して当然だ」以上の認識はなかったと見られる
5)三・一運動後の生き方もこうした「彼らキリスト者が教会を代表する存在でなかったこと」を示している。
 三・一運動後も独立運動に関与した者の中には「教会の非政治性」に失望し、教会を離れた者もいたからである(すべてが離れたわけではないが)。


李光洙のハングル創作と三・一運動波田野節子*44
 李については晩年「変節し」、親日派となったことで否定的に評価されることがあるが
1)いわゆる「二・八独立宣言」の起草者の一人
2)近現代韓国における、文学運動の草分けの一人として一定の評価をすべきだという話です。
 もちろんそれはそうした功績を理由に、「新しい歴史教科書をつくる会理事」という「極右歴史修正主義者」三浦小太郎の駄文
書評 李光洙(イ・グァンス)――韓国近代文学の祖と「親日」の烙印 波田野節子著 (中公新書) | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
のように「彼の変節を容認し、美化する」ということとは話が違います。ましてや彼の存在を理由に「朝鮮植民地統治美化」など論外です。「彼の晩年の変節を批判すること」と「彼の若き日の功績を評価すること」とは別に矛盾しないわけです。
 なお、李のような悩み(支配層と対決していくのか、支配層と妥協し、体制内改革を目指すのか)は「日本の植民地に限らず」「植民地に生きる人間すべて」が感じる者とは言えるでしょう。
 チベットは植民地とは言えないでしょうが「故プンツォク・ワンギャル」が感じた悩み(ダライラマ一派と政治的に決別*45して中国政府高官として活動)も李と同様のものではあったでしょう。

【参考:二・八独立宣言について】

東京新聞:日韓併合「朝鮮人すべての自由意思でなく」 100年前の東京「二・八宣言」供述調書見つかる:社会(TOKYO Web)
 百年前の東京で、日本の植民地だった朝鮮の独立を求めた「二・八独立宣言」を発表し、出版法違反の罪で禁錮刑を受けた朝鮮人留学生らの供述調書が、専門図書館に所蔵されていることが分かった。宣言は翌月に朝鮮半島で起きた三・一独立運動に影響を与えたとされ、研究者らは「植民地支配に抵抗する若者の肉声を伝える貴重なものだ」と評価している。(小佐野慧太)
 所蔵されていたのは「出版法違反事件」と題した約五百五十ページ。事件が起きた一九一九(大正八)年二月八日などの留学生九人の供述調書や起訴内容、東京地裁の公判記録からなる。弁護人が保存していた写しとみられる。
 二・八独立宣言を起草したのは、早稲田大留学生で作家の李光洙(イグァンス)。調書では他に、崔八ヨン(チェパルヨン)、金度演*46(キムドヨン)、金チョル寿(キムチョルス)、白寛洙(ペクグァンス)の四人も原案を考えたとされる。
 リーダーの崔は調書で、日本が朝鮮の植民地化を完成させた一九一〇年の日韓併合について、「(朝)鮮人総(すべ)ての自由意思でなくして日本より圧迫を受けた結果不止得(やむをえず)併合されたるものとしか認められんのです」と述べ、「(私たちは)決して日本人であることを自覚はしません」と主張している(原文は濁音のない旧仮名遣い)。
 そのほか、「(宣言は)全く正義を唱えたるもの」(金度演)、「法律に触れたとしても遣らねばならぬ事であります」(白寛洙)などの供述もあった。
 供述調書などは、東京弁護士会第二東京弁護士会合同図書館(千代田区)が一九〇〇~五〇年代の刑事裁判記録七十九件(八百九十六冊)の一冊として所蔵していた。「出版法違反事件」という題名などは公表されていたが、内容は研究者にも知られていなかった。二〇一一年に早大図書館の協力で、マイクロフィルム化された。
 資料を分析している早大大学史資料センターの宮本正明*47嘱託(日朝・日韓関係史)は「当時の記録は少なく、事件を細かく復元できないうらみがあった。この資料は留学生たちの思いにまで迫れる存在意義の大きいものだ」と話す。
 在日本韓国YMCA2・8独立宣言記念資料室(東京・神田)の田附(たづけ)和久室長は「留学生らの戦後の回顧録には多くの記憶違いもある。そうした混乱を正してくれるのではないか。独立運動の歴史を見直す動きが高まる韓国側にとっても重要な資料となるだろう」としている。
<二・八独立宣言・出版法違反事件> 
 第1次世界大戦後の1918年、「民族自決」の思想が広がり、東京の朝鮮人留学生の中でも祖国独立の機運が盛り上がった。留学生らは19年2月8日、朝鮮半島を植民地統治していた日本政府や各国大使館、言論機関に独立宣言を送った後、東京・神田の東京朝鮮基督(キリスト)教青年会(YMCA)の会館で集会を開いた。留学生らは同日摘発され、政治体制を破壊する内容の文書を配布したとして出版法違反の罪で、宣言に署名した11人のうち9人が禁錮9月~7月半の刑を受けた。宣言書は朝鮮半島にも渡り、翌月に半島全土に広がった植民地時代最大の抵抗運動、三・一独立運動につながった。

赤旗2・8独立宣言の意義語る/100周年記念 東京で国際シンポ
 「2・8独立宣言100周年記念国際シンポジウム」が9日、東京都内で開かれ、韓国・漢城大学の尹慶老(ユン・ギョンノ)元総長らが講演し、宣言の意義や背景などを語りました。
 同宣言は朝鮮半島が日本の植民地下だった1919年2月8日、東京・神田の在日本韓国YMCAで朝鮮人留学生らが、朝鮮の独立、民族自決を表明したもので、その後、朝鮮半島全土に広がった「三・一独立運動」の先駆けとなりました。
 尹氏は同宣言が、朝鮮の独立を保全するとした約束を破り保護国とした一連の日本の行為を「人類の大恥辱」と非難したと指摘。参政権を奪い、言論を封殺するなどした日本の植民地統治に暗黙の了解を与えた米英にも「旧悪をあがなう義務がある」と強調した点に触れ、「100年たった今日の歴史性と現在性からみても示唆するところが少なくない」と述べました。
 また同宣言が、「東洋平和」を提示している点に注目。「民族主義を宣言しながら、それを乗り越え、アジアと世界の人々がともに幸福を追求する人類共栄と平和のビジョンを提案した」と高く評価しました。
 九州大学の小野容照*48准教授は、当時、中国人留学生との交流から辛亥革命の経験を学んだことなどが、同宣言の作成に少なからずつながっていると分析。「東アジア史として考えるとき、同宣言や、朝鮮人留学生の活動は多くの示唆を与えてくれる」と語りました。
 15日には大阪でもシンポジウムが開催されます。

【参考:李光洙について】

中央日報『二・八独立宣言と「親日知識人」李光洙の娘』
 今年で二・八独立宣言が100周年を迎える。当時、日本政府が刊行した「朝鮮人概況」などの資料を見ると、100年前に朝鮮人留学生がどれほど日本政府の執拗な監視を受けてきたか知ることができる。留学生は東京に来るまで平均10回の検問を受け、東京に到着すれば留学生監督部に申告をするなど難しい手順を踏まなければならなかった。日本政府は留学生を「甲」号と「乙」号に等級分けして管理をした。1920年に外務省が管理した監視対象人物212人のうち学生は151人にもなった。最近の言葉で言えば、朝鮮人留学生は国家転覆勢力ほどの危険人物だったことになる。
 二・八独立宣言に関する資料はほとんど残っていない。手で手に伝えられてきた彼らの団体写真は、宣言文が作成された翌年の1920年冬、卒業を記念して撮った写真だという。それさえも独立宣言書に名前を入れた11人が全員揃っているわけでもなく、2人は当時の顔写真さえも確保されていない。
 日本で行われた独立運動に対する研究は、その特性上限界があるとはいうが、独立運動史に占める歴史的意味を考える時、絶対的に研究の量や深さが不足しているのは事実だ。これにはこれまで韓国政府が二・八独立宣言に対して無関心だったことが大きい。
 今年三・一運動100周年を迎えて政府がさまざまな記念事業を行いながら、幸い二・八独立宣言も改めて再照明される雰囲気だ。在日本韓国YMCAで開かれる100周年記念行事には報勲処長も初めて出席するという。YMCAと国家報勲処、三・一運動および大韓民国臨時政府記念事業推進委員会が共同で主催する行事だ。
 それとあわせてYMCAが苦悶に陥った事案が一つある。二・八独立宣言の子孫が一部出席することになっているが、このうち李光洙(イ・グァンス)の娘も出席する意向を明らかにしてきたという。李光洙は二・八独立宣言から外すことはできない人物だ。独立宣言日当時は前もって上海に逃げて身を守ったため現場にはいなかったが、後で三・一独立宣言文の母胎となる二・八独立宣言文を直接作成した。
 だが、よく知られているように、李光洙は1940年代に率先して親日行為を繰り広げた人物だ。民族問題研究所が編纂した親日人名辞典には李光洙に割愛された分量が最も多い。ある者は最も悪質な形の親日知識人だったと評価するとも言う。そのため政府が主催する行事に彼の娘が出席してもいいのかという論争が後に従う。
  彼の人生の前半部と後半部のうち、どちらがもっと評価されるべきかはそれぞれの判断が異なる場合もある。また、個人が参加することに対してこれを遮断する方法がない。ただし、不必要な論争によって二・八独立宣言の意味が色あせてしまうことに対しては事前に防ぐ知恵が必要のようだ。

日本を責めなかった3.1独立宣言 - 徐正敏|WEBRONZA - 朝日新聞社の言論サイト
 1919年2月8日、在東京朝鮮留学生によってなされた独立宣言は、いわゆる3.1独立運動の先駆けとなりベースとなった出来事である。
 2.8独立宣言書の草案者は李光洙(イ・グヮンス)として知られている。
 彼は後日、いわゆる親日派の代表格として歴史的な批判を受けることになるのだが、韓国近代文学の先駆者として、1919年当時には2.8独立宣言書に関わり、またその後、中国での独立運動に参加するなど輝かしい業績をもっていたことも事実である。
 李光洙はかつて日本に留学して明治学院で勉強し、一旦は帰国して五山学校で教師となるが、再び東京に留学し、早稲田大学で学んだ。彼がキリスト教をはじめとする西欧の先進思想にはじめて接したのは、彼の明治学院留学時代だった。明治学院は宣教師が設立したキリスト教教育機関としては、日本で初の学校である。

書評『李光洙(イ・グァンス) 韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』波田野節子著 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)
 朝鮮近代文学研究者である著者が、李光洙と香山光郎という二つの名前を持つ作家の波瀾万丈な一生を追う。新時代を生きる男女の恋愛を描いた韓国初の長編小説『無情』を書き、近代文学の祖となった李光洙は、日本に「菊池寛の如し」と紹介され、小林秀雄久米正雄佐藤春夫坂口安吾など著名な文学者たちとも交流する。しかし、後には日帝時代の下で日本に協力した「親日」作家というレッテルを貼られることとなり、未だに記念館さえできていない。
 1905年に東京に降り立った李光洙は、西洋建築がずらりと並ぶ様子に驚く。藁葺きの家ばかりの朝鮮との「文明」の落差に気付くのだ。明治学院早稲田大学への留学経験から彼の心の中では徐々に、民族啓蒙への決意が膨らんでいく。彼が「親日」と言われる根拠となった論説では、日本と朝鮮を一体化する「内鮮一体」が唱えられているが、それは朝鮮に日本と同等の教育機会を与え、日本人に朝鮮人を同胞として愛してほしいという願いであった。厳しい時代の中を生きる知識人としての苦悩と情熱が読み取れる。

三枝寿勝の 「韓国文学を味わう」 第 IV 章
 今回は、近代の文学史の中で活躍した李光洙(イ・グヮンス/1892~1950 )と彼の作品を取り上げ、近代文学史における彼の業績とその位置づけ、文筆活動と政治・思想とのかかわりなどを見ていきたいと思います。
(中略)
 彼の一番の業績と言われる作品は、1917年に朝鮮総督府機関誌『毎日申報』に連載した「無情」ですが、これは日本留学中に書かれているわけです。総督府の機関誌に「無情」を発表したことは、自分たちの民族を裏切ったことにもなり得るという問題を含んでいました。しかし「無情」は人気を集め、続いて小説「開拓者」を連載(1917~18)、その後彼の初期の有名な小説を次々と発表しています。
(中略)
 1918年に第1次世界大戦の終結を北京で迎えたあと、再び東京に来ます。彼はソウルでの三・一独立運動の下準備にも加わったようですが、東京に戻ってから、1919年2月に〈朝鮮青年独立団宣言〉という独立宣言書を起草して上海に亡命しました。1919年3月1日の独立運動のあと、上海にできた臨時政府の中心人物で内務総長となったのはアメリカからかけつけた安昌浩(アン・チャンホ/1878~1938) 注(7) で、李光洙はこの人の下で独立運動の機関誌『独立新聞』 注(8) の編集に携わることになります。
 ここまでは華々しい生涯です。しかしこのあと、許英肅の仲介で1921年突然ソウルへ帰ります。背景は非常に複雑ですが、他の運動家は投獄されていたにもかかわらず彼は不起訴釈放となったため、総督府と何か取引をしたのではないかという憶測を生みます。実際彼が総督府と関係があったのは確かで、その証拠はいくつか残っています。しかし、だからと言って彼が民族を売って日本に寝返ったということは言えないと思います。
(中略)
 1940年代は創氏改名が施行され、朝鮮人の日本人化が進められていった時期です。李光洙は結局率先してこれに応じて、1940年に“香山光郎”と創氏改名をし、日本の戦争政策に合うような活動をしていきます。例えば、日本の政策に合う小説を書き、全国を回って若者を戦争に駆り出す講演会に応じます。民族運動家から日本の軍国主義に協力する人間となるわけです。この流れは私にとってはある程度一貫性を以てとらえることができるように見えますが、表面的に見ると、李光洙という人間をどう解釈したら良いかが非常に謎になります。内面的に、彼はいったい何を考えていたのかが見えにくかったということもあります。実際には、1944年から日本が戦争に負けるまで、ソウルの東方の思陵という田舎にこもってしまいましたから、彼自身やはり日本の政策に協力するという生活に耐えられないところがあったのだと思います。
 そして彼は解放後も執筆活動を続けますが、日本に協力した人間ということで、1949年、前年に成立した〈反民族行為処罰法〉により逮捕されます。結局は無事釈放されましたが、1950年の朝鮮戦争勃発直後に北に拉致されたあと、米軍に追われて後退する軍隊と共に行進の途中で凍傷にかかり江界道人民病院で死亡したということで、平壌にある墓には命日が1950年10月25日となっているそうです。
 表面的に簡単に一生を追ってみてもいろいろな問題を含んでいる人物で、凄まじい一人生だと思います。彼の人生のさまざまな出来事は、すべて朝鮮の近代史にかかわっているのです。東学の乱、日韓合併、臨時政府の樹立までは民族運動の一端を担っていた人間が、中国との全面的な戦争となったあとの同友会事件で捕まってから今度は日本に協力するというすごい展開をして、解放後は民族反逆者とされ、朝鮮戦争では北に連行される、と全部関係があるわけです。
(中略)
■古典文学と同様な「無情」の読まれ方
 では、ここでこの作品の最後の場面を少し抜粋してみます。義援金募金をしたあと旅館に帰って来て、なぜ同胞がこんなに悲惨になっているのだろうかと4人で話しているところです。それは教育がないからだ、科学がないからだということになり、李亨植が3人の女性を前にして演説のように語りかける場面です。

 「さうです。教育で實行で彼等を教へてやるのです、導いてやるのです。併し、それを誰がするのです?」
  彼はかういつて吃と唇を結んだ。と一種の冷気が3人の背筋を走つた。
 「それを誰がするのです?」
  彼は再びそれを繰り返して、3人を均等に見まはした。彼女等はこれまでにない名状し難い感動に打たれてしまつた。そして、またもや冷気のやうなものが、彼女等の身肉を掠め去つた。
 「それを誰がするのです?」
  彼は三たびそれを繰り返した。
 「私達がしますわ!」
  三人の答へは期せずして一致した。彼等は眼の前に一瞬間炬火のやうな光がひらめいたのを等しく認めた。そして急に大地震が襲って来て、地球全體がめりめりと震動するやうにも感じられるのだった。彼は暫く考へ込んでゐたが「さうです、全くその通りです、私達がせずに誰がしませう、私達が勉強に行く意義はつまりそこにあるのです、私達の旅費も學費も誰が出してくれると思ひます? 朝鮮そのものが出してくれるのですよ、あちらへ行って實力を養ひ、知識を求め文明の確信を掴んで来いと……、さうして新しい文明の上に、力強い生活の基礎を築いてくれと……、かういふ意味で出してくれるのだと私は思ひます」

と、このような調子です。訳文は昔『朝鮮思想通信』に載ったものです。われわれがこれから留学するお金は、朝鮮のわれわれの同胞がわれわれに出してくれたお金である。だからわれわれが朝鮮の人たちを教育事業に導き、携わらなければいけない、ということを言うわけです。この場面が「無情」で大変有名なところです。感動的であることは事実ですが、この作品が新聞に連載された時から人気を呼び、1918年に初めて本になってからも版を重ね (資料22)、当時としては大ベストセラーになった理由は何だったのかというと、必ずしもこうした民族の将来のことが情熱的に語られていることだけではなかったようです。
 その理由は、実は、登場人物の中で一番不幸な英采の存在にあったということらしいのです。つまり、これが『春香伝』や古典文学の伝統なのです。英采の悲しい運命の物語として見ると「無情」は意外と古めかしい古典と通じているのです。日本の植民地時代の1939年に映画化されますが、中身は“英采物語”という感じになっています。ですから、朝鮮人にとっての「無情」はかわいそうな英采がどうなるかという話で引きつけられたということで、やはり先日話したような古典小説などと同じ気持ちで読んでいたということが言えるわけです。
(中略)
 彼が「無情」以後に書いた文章はすべて同じような内容に沿っています。つまりどの小説も、恋愛小説のように見えても歴史小説に見えても、全部彼自身のその時々の個人的な問題と、民族はどうするのかということをいつも重ね合わせて読めるようになっていると思います。例を挙げると、登場人物の年齢が執筆している時の作者の年齢と全く同じになっていたり、それから歴史上の事物を登場させる場合も、本当は歴史的には違っていたりするのですが、それは作者にとって一番重要なものだったから使われていると分かります。もちろんそう読まない人もいますが、私は、彼がいつも自分と民族という2つを重なり合わせていると思います。
 例えば1942年の「元暁大師」は、朝鮮ではとても有名な新羅の僧の伝記で、これは非常に民族的な精神を持ったものだと言われているのですが、戦時中の1942年に総督府の機関誌である『毎日新報』(申報より改題)に連載したものですから、民族的な精神を主張し得る作品であるわけはないのです。ところが現在の韓国の人は、みんなこれを民族的な精神を強く表現した作品として読んでいるのが普通です。おそらく李光洙が完全に読み切れていないのではないかと思います。その当時、李光洙がいくら民族的なものを書こうとしても許されるはずがないのですから、「元暁大師」は逆に丁寧に読めばどこかで日本の支配者に許される書き方をしてあるわけで、その複雑さがなかなか読み取れないのだと思います。しかもこの時は、彼が日本に協力する行動をしていたといわれている時期です。
 それでも、この「元暁大師」が民族精神を表現した感動的な作品であることも確かなのです。つまり、政治的にどうであるかということと、作者がどれだけ深く悩んだかということはそれぞれ別個に現れてくるわけで、李光洙はその点でも大きな人間だと思います。確かに彼が民族のために親日的行動をしたというと反発を感じると思いますが、彼個人としてその思いがいろいろあって、日本に順応したのも「自分の同胞たちを救うために、自分が犠牲になれば他の人は助かる」と実際にそう思っていたふしがあるのです。それは政治的に見ればとんでもない考えで、空想的でしかないのですが、彼自身は「自分が犠牲になって、みんなから嫌われよう」と思っていたようです。その点では考えが甘かったと言えるかもしれませんが、李光洙自身としては真剣な思いをしていたわけです。
 現在の韓国では、そういう政治的に間違ったところも含めて、当時の事柄をわりと客観的に見るようになっています。彼の生涯を扱ったテレビドラマも作られましたが、いろいろと考えて作られています。韓国の若い人たち李光洙に対する評価も、そのうちに変わってくるのではないかと思います。
 結局、李光洙の業績として何が残るかとということが問題になるわけですが、これは軽々しく言えないところがあります。文学の業績としては、やはり「無情」は朝鮮の近代文学の出発点となっています。彼のあとに出てくる近代文学李光洙を基準として書いています。李光洙は攻撃の的になることが多かったのですが、みんな李光洙を軸にしながら文学作品を書いていきました。つまり、李光洙のような作品を書かない人間も含めてということです。ですから文学に残した業績は大きいと思います。李光洙の作品そのものはそう簡単に読み切れない内容をたくさん持っており、前回3回までに話したような背景についてある程度分からないと、作品が非常につまらないものになります。日本の文学の基準からいうと、李光洙の作品は大衆作家の大衆文学であって、文学的な水準としては低いものだったと言えるかもしれません。ところが、朝鮮の文学作品として見る時には多くの問題を含んでいると考えられます。ただ、彼の作品にはまだまだいろいろと政治的なものがあり、完全な解読と言える研究があまりされていないのではないかという気がします。
 もちろん政治的なことはいろいろありますが、李光洙を慕う人は多く、北でも最後まで“先生”と尊敬されたことも確かです (資料23)。彼が民族反逆者と言われている時でも、独立運動家の伝記を書いてくれということで安昌浩についての本を書いたりしていますから、解放後も彼を支持する人はたくさんいたということです。意外かもしれませんが、独立運動家として有名な金九(キム・グ/1876~1949)の自伝『白凡逸志』(1947)は実は李光洙の筆になるものです。本人の書いたかなり古めかしい原文を一部省略しながら李光洙が現代語に書き直したものが、これまで韓国で国民の必読書とされてきたのです。もちろん大部分の読者は李光洙の手が加わっているとは知らなかったのです。こうして50年も読まれてきた本も、ようやく近年になって原本に基づいた『白凡逸志』が出版されることになりました。


■歴史のひろば『「幽霊」の位相をかき乱すために:和田春樹*49『「平和国家」の誕生』と権赫泰『平和なき「平和主義」*50』を手がかりに』(高榮蘭)
(内容紹介)
 「日本における平和主義」を取り上げた、和田春樹『「平和国家」の誕生』(2015年、岩波書店)には在日問題、朝鮮植民地支配問題への言及が少なく、一定の限界がある。和田本での「在日問題、朝鮮植民地支配問題」はまるで「幽霊のような扱い」である。
 こうした欠落、欠陥を埋める本として、同じく 「日本における平和主義」を取り上げた、権赫泰『平和なき「平和主義」』(2016年、法政大学出版局)が紹介されるという流れです。なお、こうした和田本、権本への評価については「俺がこれらの本を読んでいないので」特にコメントしません。
 なお、筆者も和田氏が慰安婦問題や北朝鮮拉致問題などについてリベラル派の立場から発言し、『これだけは知っておきたい 日本と朝鮮の一〇〇年史』(2010年、平凡社新書)、『北朝鮮現代史』(2012年、岩波新書)、『慰安婦問題の解決のために:アジア女性基金の経験から』(2015年、平凡社新書)、『アジア女性基金慰安婦問題』(2016年、明石書店)、『米朝戦争をふせぐ:平和国家日本の責任』(2017年、青灯社)、 『安倍首相は拉致問題を解決できない』(2018年、青灯社)などの著書を刊行していることはもちろんそれなりに評価しています。

【参考:和田春樹氏について】

Chosun Online | 朝鮮日報
 韓日関係が悪化し続けている中、日本の知識人226人が6日、三・一運動(1919年3月1日)の精神に基づいて両国が和解し、北東アジアの平和のため協力することを勧告する声明を発表した。和田春樹東京大学名誉教授=写真=をはじめとする日本の知識人たちは、日本の国会で発表した声明で、「今年は三・一独立宣言が発表されてから100周年になる記念碑的な年」「(韓国人たちは)日本に併合され、10年間の苦痛を味わいながらも、日本のためにも朝鮮が独立しなければならないと説得しようとした」と述べた。
 和田教授をはじめ、田中宏*51一橋大学名誉教授、内田雅敏*52弁護士、小田川*53・在韓被爆者問題市民会議代表らはこの声明で、「(今は)朝鮮民族の偉大な説得の声に耳を傾け、北東アジアの平和のため、植民地支配に対する反省と謝罪をもとに日韓、日朝間の相互理解と協力の道を進むべきだ」との見解を明らかにした。7日、今回の声明を主導した和田名誉教授に会い、声明を出すことになった背景と韓日関係の行方についてインタビューした。
■インタビュアー
 今回の声明を出したきっかけは?
■和田
「安倍首相が先日の国会施政方針演説で韓国について一言も言及しなかったことに衝撃を受けた。最も重要な隣国との関係がこのようなことになってはならないと考えて声明の準備に取りかかった」
■インタビュアー
 日本には最近、韓国の三・一運動100周年記念について懸念しているムードがあるのでは?
■和田
「日本のテレビでそのように放送しているのを見た。日本人が三・一運動の精神をきちんと知れば変わるだろう。100年前は日本人たちが三・一運動についてきちんと知るのは難しかった。しかし、今はそうではない。日本人たちは今、これに答えなければならない」
■インタビュアー
 強制徴用問題はどのように解決すべき?
■和田
「日本は慰安婦問題を解決するため、日本国民の税金で100億ウォンを韓国に渡した。同様に強制労働被害者に対して措置を取らなければならない。日本の企業が協力すべきだ」


■歴史の眼「政府の公文書管理を考える:「アーキビスト*54の職務基準書」を手がかりとして」(坂口貴弘*55
(内容紹介)
 森友問題での公文書改ざんを契機に国立公文書から出された「アーキビストの職務基準書」について論じられています。
 基本的にはこの職務基準書を評価した上で、これをたたき台にあるべき公文書管理について考えていこうという話です。
 もちろんあの公文書改ざんについて言えば「どう見ても安倍首相の指示」であり、「トップの不正をどうただすか」という話であって、「公文書管理のあるべき姿」というのは「もちろん論じる意義がある」とはいえ、森友問題の本質とは話がずれてはいます。


■書評:李穂枝『朝鮮の対日外交戦略:日清戦争前夜1876~1893』(2016年、法政大学出版会)(評者:森万佑子)
 評者(『朝鮮外交の近代』(2017年、名古屋大学出版会)という著書がある近代朝鮮研究者)はこの著書の特徴として「戦略的な事大主義」という言葉をあげている。
 どれほど成功したかという問題はともかく李氏朝鮮は単に「中国や日本といった大国に振り回されていた」わけではなく、「日本を利用し、清朝に対抗した方が有利と思うとき」は日本と歩調を合わせる「日本・事大主義」をとり、逆の場合は「清朝・事大主義」を採用した。
 こうして朝鮮は「日清両国を牽制することで自国の国益を維持しようとする一種のバルカン外交」を目指したが、そのことは日清の対立を助長し、日清戦争を招くこととなった。
【以下は森氏の書評ではなく小生の私見です】
 この著書では「日清戦争前夜」しか取り上げていないというが、日露戦争についても同様の理解が可能なのかもしれない。
 戦略的な事大主義で朝鮮はロシアと日本に対応したがそれが日露戦争を招いたという理解です。

*1:著書『朝鮮民族解放運動の歴史』(2005年、法政大学出版局

*2:今野については 不屈の革命詩人、今野大力とは?参照

*3:1922~1998年。著書『朝鮮人強制連行の記録』(1965年、未来社)、『日本帝国主義の朝鮮支配(上)(下)』(1973年、青木書店)、『朝鮮三・一独立運動』(1976年、平凡社)、『在日朝鮮人運動史:8・15解放前』(1979年、三一書房)、『解放後在日朝鮮人運動史』(1989年、三一書房)、『在日朝鮮人・強制連行・民族問題』(1992年、三一書房)など

*4:1976年、平凡社

*5:1889~1961年。著書『手仕事の日本』(岩波文庫講談社学術文庫)、『民藝とは何か』(講談社学術文庫)など

*6:ミノファーゲン製薬社長、衆議院議員参議院議員日中友好協会会長、宇都宮軍縮研究室代表などを務めた宇都宮徳馬の父親としても知られる。

*7:著書『尹東柱詩集・空と風と星と詩』(岩波文庫

*8:盧武鉉政権大統領秘書室長、「共に民主党」代表を経て大統領

*9:全羅南道知事を経て首相

*10:韓国独立党党首、大韓民国臨時政府主席など歴任。戦後、李承晩(初代大統領)と対立し暗殺された。

*11:大韓民国臨時政府で内務大臣

*12:前韓国統監・伊藤博文(元首相)を暗殺し処刑された民族活動家

*13:17歳の誤記でしょう。

*14:あくまでも「近い認識」です。別に山辺が「金日成万歳だ」とはいっていません。まあ「当時の時代背景」を考えれば別に「山辺金日成万歳」でもそれを後世の我々が後知恵で山辺批判するのは慎重になるべきですし、正直、「現在の日本において金日成万歳なんか社会的脅威(?)になってない(むしろ逆に異常な北朝鮮叩きが危惧される)」ので現在においてそう言う点で山辺を批判してもあまり意味もないですが。「麻原全盛期」ならまだしも、今現在において公安調査庁のように「ありもしないオウム残党の脅威」とか抜かしても意味がない、むしろ「公安調査庁のオウム残党監視はおかしいんじゃないの?」と言うべきであろう事と同じ事です。

*15:金日成

*16:朝鮮労働党

*17:まあ、「武装には武装」はあくまでも「北朝鮮金日成パルチザン闘争で建国された」とか「米国の核には我が国は核で対抗せざるを得ない、米国が正式に終戦協定を結び、我が国と国交樹立でもしない限り、米国の善意を信用することなど出来ない」とかいった「政治的思惑をバックに持つ主張(これまたある種のお約束)」と見るべきでしょう。単純に北朝鮮が「武力第一主義」と見るべきではないでしょう。

*18:著書『セオドア・ルーズベルトと韓国:韓国保護国化と米国』(1992年、未来社)、『日本の朝鮮統治と国際関係:朝鮮独立運動アメリカ 1910‐1922』(2005年、平凡社)、『世界史の中の近代日韓関係』(2013年、慶應義塾大学出版会)

*19:ニューヨーク州知事、副大統領などを経て大統領。国際連盟の創設などの功績で1919年ノーベル平和賞を受賞。

*20:第1次西園寺、第2次桂、第2次西園寺、第3次桂、第1次山本内閣海軍大臣朝鮮総督、首相、内大臣など歴任。内大臣在任中に226事件で死亡。

*21:三・一運動に刺激を受け、斎藤暗殺を計画。爆弾テロ事件を起こし37名の死傷者を出すが斎藤の暗殺には失敗した。1920年に死刑執行。死後の1962年、韓国政府(朴正煕政権)により建国勲章大韓民国章が追叙された。また2011年9月2日、彼の顕彰団体・姜宇奎義士紀念作業会によってソウル駅前に高さ4.9mの銅像が建立された。

*22:第二次山県、第四次伊藤、第一次桂内閣海軍大臣などを経て首相

*23:第一次大隈内閣文相、第二次山本、加藤高明内閣逓信相などを経て首相

*24:この時に犬養の辞表が認められていれば彼も515事件で死ぬことはなかったわけで皮肉な話です。

*25:親日派扱いされる朴チョンヒ」ですらこうしたことをやってることが興味深いですね。そしてウヨ連中は「朴チョンヒは親日」というのに都合が悪いのでこういうことは無視するわけです。

*26:中曽根内閣自治相・国家公安委員長自民党幹事長(海部総裁時代)、新生党代表幹事、新進党党首、民主党幹事長などを経て現在自由党代表

*27:小沢一郎李奉昌」でググると「小沢の野郎、許さない」などと憤激するネトウヨの駄文が多数ヒットします。

*28:李奉昌尹奉吉、白貞基のこと

*29:関東軍司令官、田中義一内閣陸軍大臣など歴任

*30:第9師団長、参謀次長、朝鮮軍司令官、関東軍司令官など歴任

*31:知米派として知られ阿部信行内閣外相、駐米大使(第二次近衛内閣)なども務めている。

*32:戦前、東条、小磯内閣で外相。戦後、戦犯として禁錮7年の判決を受ける。公職追放もされていたが後に解除。鳩山一郎内閣で外相を務めた。

*33:戦前、上海総領事、シドニー総領事、タイ公使など歴任。戦後、八戸市長を務めた。

*34:上海総領事、スイス公使、ブラジル大使、中国公使、中国大使など歴任

*35:第1次桂、第1次西園寺、第2次桂内閣陸軍大臣、韓国統監、朝鮮総督、首相を歴任

*36:陸軍次官、台湾軍司令官、首相、朝鮮総督など歴任

*37:首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監など歴任。元老の一人。

*38:第3次伊藤内閣司法相、第2次山県内閣農商務相、第1次桂内閣蔵相等を歴任

*39:滋賀県立大学名誉教授。在日韓人歴史資料館初代館長。著書『関東大震災』(1975年、中公新書)、『朝鮮独立運動の群像:啓蒙運動から三・一運動へ』(1984年、青木書店)、『朝鮮人学徒出陣:もう一つのわだつみのこえ』(1997年、岩波書店)など

*40:参謀次長、朝鮮軍司令官、第二次若槻内閣陸軍大臣関東軍司令官、朝鮮総督など歴任。戦後、終身刑判決を受けるがいわゆる逆コースで仮出所。

*41:著書『戦時下朝鮮の農民生活誌:1939~1945』(1998年、社会評論社)、『戦時下朝鮮の民衆と徴兵』(2001年、総和社)、『日本の朝鮮・韓国人』(2002年、同成社)、『日本の植民地支配と朝鮮農民』(2010年、同成社)など

*42:ここはむしろ「前韓国統監」と書くべきですね。

*43:著書『異端の民衆反乱:東学と甲午農民戦争』(1998年、岩波書店)、『朝鮮民衆運動の展開:士の論理と救済思想』(2002年、岩波書店)、『植民地期朝鮮の知識人と民衆』(2008年、有志舎)、『近代朝鮮と日本』(2012年、岩波新書)、『植民地朝鮮と日本』(2013年、岩波新書

*44:著書『李光洙・『無情』の研究』(2009年、白帝社)、『韓国近代文学研究:李光洙・洪命憙・金東仁』(2013年、白帝社)、『韓国近代作家たちの日本留学』(2013年、白帝社)、『李光洙(イ・グァンス):韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』(2015年、中公新書

*45:ただし敵対ではない

*46:1894~1967年。1948年8月、韓国政府が樹立されると、初代財務部長官に就任。1949年、民主国民党に参加し、以後は野党で活動し、李承晩政権、朴チョンヒ政権を批判した。

*47:著書『近代朝鮮の境界を越えた人びと』(編著、2019年、日本経済評論社

*48:著書『朝鮮独立運動と東アジア:1910~1925』(2013年、思文閣出版)、『帝国日本と朝鮮野球:憧憬とナショナリズムの隘路』(2017年、中公叢書)

*49:東京大学名誉教授。著書『歴史としての社会主義』(1992年、岩波新書)、『金日成満州抗日戦争』(1992年、平凡社)、『歴史としての野坂参三』(1996年、平凡社)、『北朝鮮:遊撃隊国家の現在』(1998年、岩波書店)、『朝鮮戦争全史』(2002年、岩波書店)、『朝鮮有事を望むのか:不審船・拉致疑惑・有事立法を考える』(2002年、彩流社)、『同時代批評(2002年9月〜2005年1月):日朝関係と拉致問題』(2005年、彩流社)、『テロルと改革:アレクサンドル二世暗殺前後』(2005年、山川出版社)、『ある戦後精神の形成:1938〜1965』(2006年、岩波書店)、『これだけは知っておきたい日本と朝鮮の一〇〇年史』(2010年、平凡社新書)、『北朝鮮現代史』(2012年、岩波新書)、『領土問題をどう解決するか』(2012年、平凡社新書)、『「平和国家」の誕生:戦後日本の原点と変容』(2015年、岩波書店)、『慰安婦問題の解決のために』(2015年、平凡社新書)、『アジア女性基金慰安婦問題:回想と検証』(2016年、明石書店)、『米朝戦争をふせぐ:平和国家日本の責任』(2017年、 青灯社)、『レーニン:二十世紀共産主義運動の父』(2017年、山川出版社世界史リブレット人)、『ロシア革命』、『スターリン批判・1953〜56年:一人の独裁者の死が、いかに20世紀世界を揺り動かしたか』(以上、2018年、作品社)、『安倍首相は拉致問題を解決できない』(2018年、青灯社)など

*50:2016年、法政大学出版局

*51:著書『在日外国人(第三版)』(2013年、岩波新書)など

*52:著書『「戦後補償」を考える』(1994年、講談社現代新書)、『乗っ取り弁護士』(2005年、ちくま文庫)、『これが犯罪?、「ビラ配りで逮捕」を考える』(2005年、岩波ブックレット)、『靖国参拝の何が問題か』(2014年、平凡社新書)、『和解は可能か:日本政府の歴史認識を問う』(2015年、岩波ブックレット)、『戦後が若かった頃に思いを馳せよう』(2019年、三一書房)など

*53:元朝日新聞ソウル支局長。著書『38度線・非武装地帯をあるく』(2008年、高文研)など

*54:アーカイブ公文書館)の専門職員」という意味

*55:著書『アーカイブズと文書管理:米国型記録管理システムの形成と日本』(2016年、勉誠出版