すき家のカレー

 すき家って美味しくないと思ってた。牛丼なら吉野家なか卯の方が好きだ。すき家の牛丼は、僕には味付けが濃すぎる。タクシーに乗った時に必ず流れる、b→dashの動画広告並みの濃さである。そもそも、b→dashとはどういう意味を込めた名前なのか。スーパーマリオBダッシュ並みのスピードで、タクシー乗ったら0.3秒で動画を消す僕には、良く分からないが、とにかく味付けが濃ければ濃いほど良いというものでは牛丼は無いと、僕は信じている。

 この前、会議にデスクワークが続いて、23時までご飯が食べられなかった時、僕はカレーを華麗に食べたかった。だが、夜遅くまでやっている本格的なカレー屋というのは実は余り多くない。夜遅い店には、「飲み要素」か「シメ要素」が必要なのだが、ナンを肴にチビチビと吟醸酒を飲むとか、大分他で出来上がった後にバナナの葉にタミルナードゥ・ミールスでシメる、みたいなダイバーシティに、まだ日本の飲食文化は至っていない。なお、酒に合わない外食カテゴリーは基本個食要素が強くなるが、考えてみると、みんなでワイワイとカレーを食べるという事は、確かにランチ以外には想像しにくいものである。

 そんな訳で、23時からカレーを食べられる所が、西麻布のオーセンティックなバー、ウォッカトニック以外には思いつかなかったし、西麻布でオーセンティックな気分にならない日でもあったので、僕は目の前にあったすき家に余り期待しないで入ったのだが、これが、なんと、カレー美味しかったのである。食べた牛あいがけカレーは、スパイスが効いた中辛のサラサラ系で、本格派だった。欧風カレーは辛口サラサラ系が好きな僕にはストライク。そして並盛690円。なんだかんだと1,200円位になってしまうCoCo壱のバリューとは何か、はたと考え込んでしまった。

 すき家が690円でこのレベルを全国1,900店でデリバリーしてくれるなら、それより高い専業カレー屋のバリューは何なのか。僕たちはカレーでなく、専業カレー屋という記号を食べているのか。ところで、記号性に乏しい日乃屋カレーは全面的に負けていないか。そんな思いでカレーを不味くしながら、僕は薄くて味のしないすき家のお茶を喉に流し込んだ。

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牛あいがけカレーだ。

うどんを考える。

 福岡に行ってきた。アズマエビスから見ると、福岡の麺類と言えば豚骨ラーメンなのだが、福岡人曰く地元民はラーメンよりうどんを良く食べるとの事。アズマエビスから見ると、うどんと言えば讃岐、あるいは大阪なのだが、なるほど知らぬ事も多いらしい。福岡のうどんの代表メニューはごぼ天うどん。人中有呂布、馬中有赤兔。愛媛にじゃこ天うどん有れば、福岡にごぼ天うどん有り。福岡のうどん情報を聞いて、因幡うどんという老舗に出かけた。福岡うどんは出汁が濃く、そしてコシが驚くほど無い。箸でつまめばブツブツと切れる、人呼んで腰抜けうどん。コシが強く、噛み応えのある讃岐うどんとは対極にある麺だ。食べているとうどんはつゆに溶けていくが、ごぼう天もフワフワとつゆに溶けていく。そして最後は麺と天かすが混然一体となったつゆをごくごくと飲む。讃岐のうどんは喉ごしで食べるものだが、福岡のうどんは飲むものである様だ。
 なお、讃岐うどんにファンドの匂いはしないが、福岡うどんについては、資さんうどんという北九州のソウルフードとも言えるうどんチェーンは、地元の地銀系ファンドが事業承継し、その後ファンド to ファンドで売却されているというファンドくさいうどんである。せっかくファンドくさいので、日本各地のうどんを麺とつゆの2軸で分類してみよう。

うどんつゆ
出汁ベース 醤油ベース
麺のコシ ある 讃岐うどん 水沢うどん
ない 福岡うどん 伊勢うどん

日本のうどん文化、MECEに分類できる位広がりがある。ただし、伊勢うどんだけは余り美味しくない。

あなたを便意から救うたった一つの方法

王都は指し示す

お腹の弱い半生だった。
子供の頃はそんな事感じた事なかったが、いつしかトイレが近くなった。だが、僕にも男の矜持がある。超人的な精神力により、事故に至ったのは一度もない。ほぼ事故というのが2回だけ。1度はジャカルタの都心で炭酸飲料が僕の腸を圧迫した結果、僕は路線バスのドアから射出されて、広い広い道路の中央分離帯の植え込みの陰に駆け込んだ。もう1度はブルキナファソからマリへの砂漠の旅路。運転手にフランス語でクソクソ叫んだ挙句に僕は、サハラ砂漠に滋養を供給することになった。
一方、日常を過ごす日本で事故の経験は無いが、余りにギリギリでのうっちゃりを続けた結果、腹痛は醒める事が分かっている悪夢の様になってきた。あと1分以内に決壊という所で、必ず開かずの扉が重々しく開くか、あるいはトイレそのものがビルの地下から、または通りすがりのカフェから、はたまたデパートのもう一つの上の階から出現し、僕はモンスターボールを投げる事が出来た。悪夢は醒めるのだ。最後にはモンスターボールを投げられる事が分かっているのに、なぜ僕はこんなにも脂汗を流して焦らないといけないのか。そんなメタなゲームの主人公の様な気分で、僕は都会を走り続けた。孤独なロードランナーだ。
だが、今はその悩みもかなり減った。もう、ロンリーロードランナーになる機会は余りない。なぜ減ったのか。僕は1年半前に王都バンコクと王の離宮ホアヒンを訪れ、そこで暴れる胃腸を治める秘法を学んだのだ。バンコクに行く前あたり、僕のお腹は史上最低だった。どれ位最低かと言うと、バンコクへの出発前に入念にトイレに行ったにも関わらず、乗ったトイレの無い京成スカイアクセス特急で我慢しきれずに途中下車する程度の最低さだった。僕はその頃、この最低さを改善させる為、ありとあらゆるお腹に良いとされる方法を試していた。あらゆる種類のヨーグルト、乳酸菌飲料、医師から処方された整腸剤、はたまた赤子用に買ったバイオガイアのロイテリ菌をひっそり飲んでみたり。炭酸飲料も冷たい飲み物も辛い食べ物も絶っていた。だが、僕のお腹は当時悪化するばかりだった。そして南国の食べ物、飲み物は細菌に満ちており、別の意味でお腹を下しやすい。僕は、南国に行く時、いつもマラリア予防でドキシサイクリンという抗生物質を使っていて、今回もこれを飲んだ。これを飲むと、お腹を下した時の薬をあらかじめ飲んでいる状態なので、経験的にマラリアに加えて細菌性の下痢も避けられる事を僕は知っていた。

コロンブスの勇気

なんとかバンコクに着いた後の、僕の懸念はバンコクからホアヒンまでの4時間のバスだった。このルートは何度か行っているが、ドライブインが途中に一つだけしかない。成田までの1時間が耐えられないのに、4時間を半分に割った2時間が耐えられるのか。僕は恐怖におびえながらバスに乗り込んだが、しかして、これが、特に何もなく耐えられたのだった。その後のホアヒンライフも快適だった。ホアヒンではトイレを遠く感じた。遥か遠く、黄金の新大陸にあるかの様だ。ホアヒンではトイレに至るのにコロンブスの勇気が必要だ。僕はサンタマリア号に揺られながら、何が自分の身体に起こったのだろう、何が日本と異なるのだろうと考えてみて、一つの仮説に行きついた。抗生物質である。
一般的にお腹については良いと悪いで捉えられている。

  • 一般論


きょうび、このフレームワークに則って、悪いお腹を直して良くする為に、善玉菌を増やしましょう、腸内フローラは全てを変えるんやーと、ありとあらゆる乳酸菌飲料や整腸剤が推奨されている。だが、このフレームワークは間違っていないだろうか。


善悪二元論でなく、中庸が良く、極端は両方悪い。フレームワークはこうじゃないのか。サンキュー、孔子。君が中庸という概念を編み出したので僕はこの思考に至っている。乳酸菌飲料とか整腸剤とかはお腹を良くするとは言われるものの、よく考えるとその作用は便秘を下痢方向に持っていくものだ。世の中には堅くて悩んでいる人の方が、柔らかくて悩んでいる人より圧倒的に多いのかもしれない。堅いものを柔らかく。そこんとこ、僕のお腹はずっと下痢状態だったので、下痢のものをより柔らかくしたら悪化するに決まっている。下痢の人には下痢止めが必要だ。抗生物質は細菌を増やさないか殺す作用があり、いずれにせよ細菌は減っていく。これは悪い細菌(赤痢菌とか)に対しても作用するが、腸内細菌に対しても作用し、一般に抗生物質は副作用として便秘がある。そう、僕の柔らかい方向に振れ切った腸内フローラに対し、抗生物質が腸内の善玉菌を殺しまくった事で、丁度良い方向に戻る作用があったのではないか。善玉菌も多くすれば悪をなす。僕は、そんな腸内フローラを抱えていたのかもしれない。そして、どうやらお腹を柔らかくする善玉菌がほっておくと勝手に増える腸内環境っぽい。住み処が恐ろしく善良なせいなのか、善玉菌は増えるばかり。それが、僕をロンリーロードランナーさせていたのさ。

コンキスタドール

という訳で、定期的に風邪の時に貰って余ったフロモックスやタリビットを飲んで、いたいけなインディオを制圧するコンキスタドールの様に、腸内フローラを虐殺して中庸を保っている。本来の使い方ではないので推奨はしない。そこんとこだけよろしく。題名は最近バズってたブログエントリを参考にさせて頂いた。

D7200の延長線では日本のカメラメーカーはダメになるだろう。

D7200デビュー

噂通りニコンD7200が今日発表になった。デジタル一眼レフというジャンルは、大きなイノベーションが産まれない分野になって数年が経ち、前のモデルからの漸進的な進化に止まるスペックだ。ニコンで言えば、2007年のD3/D300発表、並びに2008年の世界初の動画機であるD90発表以来、大きな機能進化はしていない。レンズ資産というネットワーク外部性を覆す様な大きなイノベーションが起きないからこそ、携帯端末やテレビと違って、昔ながらに日本メーカーが力を持っているのだが、残念ながらユーザーにとってのワクワク感はもう余りない。


スマホイノベーション

さて、このデジタルスチル撮影の分野で、既存メーカーが持つネットワーク外部性を覆すかどうかは分からないが、それなりに大きなイノベーションと言えば、LYTRO ILLUMが実現したボケ表現の撮影後コントロールであろう。iPhoneも、iPhone6sかiPhone7辺りで同じような機能を積んできそうだ。ただ、LYTRO ILLUMは面白い商品だが、並みのデジタル一眼レフより重くてデカいのと、スマホやPCとの統合度において既存メーカーと変わらない為、メインストリームにはなりそうにない。例えて言えば、ニコキャノのデジタル一眼レフを、解像度で圧倒していたシグマSD1的なユニークなポジションは得るだろうが、メインストリームにはDP1/2の様な小さく安価にリパッケージした商品でも今一歩な為、LYTRO ILLUMもそこに至るとは思えない。一方でiPhone等のスマホは軽くて小さく、一般種のホモ・サピエンスであれば、一眼レフより遥かに持ち歩きやすい。そして撮影から共有までの統合度が高くて便利である。そのスマホの攻勢の前に、画質面で差が小さくなった普及価格帯のコンパクトデジカメは死に絶えつつある。そして、スマホの速い機能進化によって、今は何とか命脈を保つデジタル一眼レフやミラーレス一眼が、コンパクト機と同じように餌食になるのか考えるために、まずはスマホに対しての優位性を整理してみよう。それはこんな感じだろうか。

  1. 絞りによるボケ表現
  2. 撮影機会を逃さないオートフォーカスの速さ、正確性
  3. スピードライトによるポートレート撮影の自由度
  4. レンズによる表現の多様性、特にズーム
  5. 常用高感度の高さによる暗い環境への対応度
  6. 所有による自己満足

将来のiPhoneは、上の1.についてはLYTRO ILLUMとは別の、デュアルレンズ方式によってキャッチアップすると予想されている。そして2.のオートフォーカスについても、原理的にスマホと同じNIKON1 V3のオートフォーカスが、デジタル一眼レフと遜色なく動くのを見ると、実用範囲でのオートフォーカスの速さや正確性については、像面位相差AF技術の発達によって、スマホレベルでも3〜5年のスパンでは今のデジタル一眼レフのレベルにキャッチアップしてくるだろう。3.のスピードライトについてもスマホ用でBluetooth連動の商品が出つつあり、これも時間の問題だ。一方で、スマホはそのサイズの小ささゆえに、大きいセンサーを積めないから、センサーサイズが物理的限界となる4.や5.については、キャッチアップしにくだろう。幾らデジタルズームを積んでると言っても、10倍にズームすると100万画素を切るようでは、フル画面で200万画素以上の超高解像度なディスプレイを持つ現代のスマホ画面では粗が目立つ。イメージセンサーは物理的な特性上、画素と高感度がトレードオフにならざるを得ず、液晶画面の高精細化の方がセンサーの高画素化よりスピードが速いのが現状だし、この状況は将来も変わらないだろう。

近未来のデジタル一眼レフの在り方

こう整理すると、近未来のデジタル一眼レフやミラーレス一眼のスマホに対する優位性は、常用高感度の高さを保ちつつ多画素であるという、要は大きなイメージセンサーを積んでいることと、レンズによる表現の多様性の2つだけということになる。上記の様なIT技術の発展に伴うスマホの進化が、デジタル一眼レフ/ミラーレス一眼に将来どう影響するかを良く考えて、差別性の大きな要素として最後まで残るであろうセンサーサイズに拘って設計されたのが、ソニーのフルサイズのミラーレス一眼だと思われる。そして、余りその将来的な変化を良く考えておらず、現在あるデジタル一眼レフに対して、軽くて手軽で持ち歩ける商品という安直な考えで設計されたのが、NIKON1シリーズだと思えてならない。
また、将来のデジタル一眼レフやミラーレス一眼は、大きなセンサーサイズによる高画素・高感度と、多様なレンズを持つシステムを引き続き保つだけではなく、可能な限りスマホの利便性に近付いたり、取り込んだりしないと競争力は保てないだろう。後者についてはフルサイズのイメージセンサーを持つカメラをなるべく軽く、小さくするというソニーのミラーレス一眼のアプローチもあるし、スマホSNSとの統合度を上げる方向もあるだろう。マッキンゼーの東京支社長から東大の特任教授をやられている横山さんの社会システム論の受け売りではあるが、カメラメーカーがカメラという既存の縦割り産業分野に属する会社であるという事業定義から、イメージの撮影・表現による欲求充足システムを提供する会社という事業定義に転化すれば、横断的に取り込むサービスがより増えてくる筈である。
たとえば、2012年にInstagramFacebookが買収したが、あれをニコンが買収して商品との統合度を上げていたら、全く違う地平が見えなかっただろうか。スマホの最大の武器は、前述の通り、軽く小さいことと、撮影してから表現、共有するまでの統合度が高いことである。そのスマホの統合度と同じくらいの出来栄えを、買収によってカメラとスマホを連動させて実現し、そのイメージの質がスマホのそれより遥かに高ければ、Instagramを使うような、人とは一味違った写真を共有したいユーザー層には支持されたのではないだろうか。今のカメラのスマホ連携は殆どカメラ目線で出来ている。一旦撮影はカメラとして行い、そこから転送、共有という分業化されたプロセスである。一方の各社SNSは、スマホアプリの中から撮影も加工も可能であり、何かを共有したい時の利便性は圧倒的に高く、敢えてカメラで一旦撮ってというプロセスをしなくなりがちだ。そこが改善されて、スマホSNSアプリでカメラボタンを押したら、連動してデジタル一眼レフの撮影機能もオンになり、リアルタイムにスマホから操作できる位の操作性を実現できれば、重いデジタル一眼レフを持ち歩いてでも、一味違う写真を撮りたいと思う人が増えるだろう。カメラは日本メーカーの製品が全世界で使われている分野だから、取り込むwebサービスもグローバルベースのもので無ければ意味がないが、それだけカメラメーカーにとっての機会も大きい筈だ。卑近な収益機会を挙げるなら、youtubeが動画に流れてる曲を自動判別してその曲を売る様に、おっと思った写真の機材をEXIFから判定して表示して売ることも出来るだろう。そして、自社製のSNSを成功させるより、この手のwebサービスはマネタイズが難しいから、ユーザーベースは広がりつつあるが収益は出ていないSNSを買収する方が遥かに簡単だ。
ここまで読んで、そんな風に進化しても自分は使わないと思った既存のデジタル一眼レフユーザーの人も多いだろう。一方、巨大な時価総額を誇るグローバルベースのSNSのサービス開発者の視点から考えたら、注目される写真や動画の量が競争力の大きな源泉になっている以上、自社に共有されるイメージの質によって差別性を得るべく、日本のカメラメーカーを買収して自社サービスとの統合度を上げ、例えば"Facebook一眼"を作っていく、という発想は自然なものに思えないだろうか。その近未来は、日本のカメラメーカーが今のままD7200の延長線の様なモノづくりをし、徐々に進化するスマホに食われて収益をすり減らしていたら、間違いなく到来するだろう。

蛇足として

ここからは完全に蛇足だが、論旨とは別に手持ちのD7000が古くなってきたので、D7200は買う。DXについては、D50→D80D90→D7000→D7200だから5代目だ。FXはF100→D700→D800と3代目。あとはニコンさん、どこぞのSNSの買収を検討する前に、取り敢えずDXのプライムズームをリニューアルしてくれませんかね。DXのフラッグシップレンズであろう17-55mm f/2.8Gは、今の高解像度センサーに全く対応できず、画像がゆるゆるな上に、さすがにVR無しは時代遅れだ。今のDXの純正標準ズームで一番解像度が出るのが、高倍率の18-140mm f/3.5-5.6Gというのは、レンズシステムとして終わってると思われる。おそらくは、今年後半との噂のD300S後継機と一緒にリニューアルされるんだろうが、それまではニコンDXフォーマットでプライムズームと呼べるのはシグマの18-35mm f/1.8位である。ついでにシグマも、このレンズの続きで35-150mm f/2.8-4なんていう他に全く競合のいない焦点域の、ポートレートに最適な中望遠ズームを出して頂きたい。そしたら、18-35mm、35-150mm、150mm-600mmでシグマの大三元完成ということで、セットで役満320,000円で売るのはどうだろうか。なお、この前35mm F1.4 DG HSMをシグマレンズとして久しぶりに購入したが、写りには感心したし、オートフォーカスも全く問題なかったので、純正がもう決まった焦点域しか出してこない膠着状態を是非打破して貰いたいと思っている次第である。こちらからはこれ以上特にコメントありません。

育成より選抜で箱根を勝った青山学院

特定人種しか勝てないマラソン

 今年の年末年始はずっと日本におりまして、年が明けて初詣も終わると、やはり見るものは箱根駅伝になるわけです。そして生暖かく見守るには、駅伝そのものというより、若者の美しい和と、その裏腹にあるチームスポーツの連帯責任の辛さに耐えられなくなったおじさま達からSNSに出てくる、「マラソン金メダルに駅伝は有害」「もはや箱根駅伝はスポーツではない」などの妄言の方が楽しめます。駅伝を廃して、賞金マラソンでも増やしたらマラソンで金メダル取れるんですかね。マラソンでなく100m競争だったら、誰も日本人が金メダル取れるとは思っていないのに、世界記録の10傑殆どをケニア人が占め、100m競争より遥かにトッププレイヤーの国籍多様性に乏しいマラソンでなぜ日本人が勝てると思うのか、真剣に問い正したい所です。マラソンはもはや、特定の人種しか勝てないスポーツ。なのにマラソンを包含する長距離競走が日本でそれなりに盛んで、それで食える人がそこそこ存在できるのは、駅伝人気あってのことでしょう。考えるならば、この駅伝ビジネスモデルを輸出し、EKIDENをもっとメジャーにして五輪種目にするにはどうしたら良いか、ということの方が遥かに有益かつ戦略的でしょう。ケニア人以外がマラソンに勝てる可能性より、日本人以外がEKIDENに盛り上がる可能性の方がずっと高いと思うわたし、会社員で不惑手前になりました。
そして箱根駅伝がスポーツでないと言ってる人は、一人で箱根駅伝以上の運動強度の「スポーツ」やってなさい。

育成より選抜で勝った駅伝

さて、その箱根駅伝、1区で華々しく出遅れ、2区の出岐くんのごぼう抜きを演出するのが楽しみだった青山学院が、彼が抜けたのに初勝利を挙げまして、その理由を解説する記事にこんなのがありました。

ここ数年、選手層の厚さには定評があった。しかし、優勝を狙った前回は5位。そこで、選手たちが目覚めた。敗因を「勝負へのこだわりが足りない」と分析し、今季のテーマを「最強へ向けての徹底」に据えた。やったことは単純だ。テレビを見ていた時間をストレッチに割き、好きなお菓子を食べることを我慢した。継続的な体幹レーニングを取り入れ、選手の希望で疲労回復のための水風呂を新たに寮の風呂場に設置して、故障も減った。どれも他大学では当たり前でも、個々の能力に頼り、ある程度の結果が出ていたため軽視していた。「ささいなことだけど、陸上のためにこれだけやったという自負が生まれた」と、9区を走った藤川主将(4年)。

出典:「いい意味でチャラい」青学大、復路も圧倒/読売新聞

 多少は、チャラい青学生が努力見せるのかっこ悪い的に盛った話だと思います。でも、これにある程度真実があるとすれば、「テレビを見ていた時間をストレッチに」「菓子を食べることを我慢」「継続的な体幹レーニング」「疲労回復のための水風呂」で箱根に勝てる。青山学院の遥か後ろで怒鳴りまくっていた駒澤大学東洋大学の監督の鬼指導は一体なんだったのでしょう。何というか、ものすごく単純化すると、有能な選手集めれば、後はやる気出させて故障減らせば勝てるという事なんでしょうか。いわば選手の育成より選抜が重要。プロ野球ならファームよりスカウトが重要。トップレベルのスポーツってそういうものなのかもしれませんね。そして、自分が受けた学校教育について、選抜機能と教育機能、どちらが大きかったのか、そう考えると微妙な気がしてくる今日この頃です。一方、選手をスカウトする上で青学よりもブランド力が強いであろう早稲田大学は、ここんとこぴりっとせずに監督が交代というコントラスト。早稲田は、どちら方向を向いて再建するんでしょうね。青学に倣って形振り構わずスカウトに走るのか、そこは自然体で育成を根幹に据えるのか。スカウトに監督自身が乗り出すのであれば、その分育成の時間は減ることになります。監督がやりたい事は普通は育成でしょうから、スカウトに本腰を入れるってのは言うほど簡単な決断ではございません。勝利至上主義で無ければ、その決断は出来ないのかもしれません。
 そして、4年生の選手が少ない青学は、来年の大学駅伝三冠は結構堅そうな所ですが、ここから数年の黄金期を抜けた後どれ位強くいられるか、特にレギュラーになりにくくなった強豪校にのし上がっても、監督のスカウト能力はずっと発揮されるのか、そこも別のチャレンジとして注目して参りたいと思います。

ボケキャラも楽じゃないよ。

たまたま、人気ブロガーのちきりんさんが、Twitterでブロックを多用していてすごい、という話が盛り上がっているのを見た。どうやら、ブロックされるのが一つの青春の勲章化している様だ。ほんまかいなと早速検索してみると・・・。

「ちきり」まで打って、「ちきりん ブロック」が表示されてびっくりした。確かに盛り上がって結構な人が確認した模様だ。「ちきりん」という固有名詞に対して、いま一番適合しているのが「ブロック」。山と言えば川。リーチと言えば裏ドラ。そしてちきりんと言えば、今やブロックなのである。その検索ワードで表示されるのはこんな結果だ。

一日に何十というツイートがヒットし、実際一日何アカウントをブロックしているのか、その手間に脱帽である。そして直接メンションされていない人までブロックされている様子が伺え、このアウトプット品質のあくなき追究こそが、マッキンゼー式仕事術かと感心した次第である。

マッキンゼー式 世界最強の仕事術 (ソフトバンク文庫)

マッキンゼー式 世界最強の仕事術 (ソフトバンク文庫)

さて、「あけましておめでとうございます」と言えば「元旦も休めないブラック企業で働く人たちの気持ちを思いやってください!」などと狂犬に噛み付かれる楽しいツイッターランドであるが、ここまでやれば、ちきりんさんのメンション欄は清らかなツイートに満ちるのかもしれない。とはいえ、SNSの使い方は全くもって個人の自由ではあるが、一日あたり何アカウントもブロックせざるを得ない状況はきっと余り楽しくない様に想像する。少しでも楽しくする様にブロックを多用してるんだろうからね。こうなっている一つの理由は、ちきりんさん(とそのビジネスモデル)が、ツッコミキャラが飽和するネット界隈において、希少なボケキャラであるからだろう。正確に言えば「つっこみボケ」。世の中につっこんでいる様に見えて、実際は結構ボケになってて、ツイッターランドやブログ界に溢れるツッコミ役がつい刺激されてツッコんでブロックされるという構図。完璧に頭のいい人が、完璧に頭のいいツッコミをネットでしてもウケないのが世の中。ウケるにはどこかつっこみボケの要素が無いとダメ。それを人はコンテンツ力と呼ぶ。そういえば、芸人の世界で女性の「つっこみボケ」の名手と言えば心を壊したオセロ中島ですね。
余り楽しくなくても、ボケキャラがネタになることで認知が拡大して食えてる部分があるから続けざるを得ない。面倒を恐れて万人受けを考えだしたら元も子もない。そして、コンサルティングファームみたいなB to Bの商売と違って、B to Cの商売って大体において客を選べないネイチャーがあるので、別種のメンタルが必要。そして、別種のメンタルを装備する為に深山に籠って修行する手間はかけられないので、とりあえずブロック、という事なんだろうか。お面被り続けてるのも同じ理由かもね。嫌ならば見なきゃいい、あなたはあなたの人生をまず見て幸せになってと言い切ってすがすがしかった元フィギュアスケーターより、少しだけビジネスモデルが絡むので自由度は低そう。

そんな訳であけましておめでとうございます。今年こそ自分の人生を生きて、幸せになる所存です。

内定取り消しを取り消したら勝利なのか。

たぶんNTVは訴訟に負ける

内定者ってのは法的には結構守られた存在である。内定の法的効力は、一般的には将来の採用予定日を勤務の開始日として、一定の事由による解約権を留保した労働契約の成立とされている。つまり正社員に内定することは、「一定の事由」さえ無ければ、ほぼ正社員と同等に守られているのである。そして、その「一定の事由」とは、採用内定当時知ることができず、また知ることが期待できないような事実であって、これを理由として採用内定を取り消すことが解約権留保の趣旨、目的に照らして客観的に合理的と認められ社会通念上相当として是認することができるものに限られる。これじゃ曖昧な表現でさっぱり分からないが、この基準を具体的にどう適用するかを積み上げてくのが判例であって、例えば、外国籍であることを言わずに内定した人が、その隠匿を理由に取り消されたことを、裁判所が不当であると否認した判例があり、これから類推するに、銀座のホステスであることを隠して内定したとしても、それを理由に取り消すことは法的には厳しそうである。なぜなら、国籍を理由に差別することが社会通念上相当でない以上、職業を理由に差別することも社会通念上相当で無さそうで、かつ虚偽の申告をしていた訳でも無いからである。

中の人常識

この辺りのこと、大企業の人事部だったら百も承知な筈で、それであっても取り消し強行して採用しない方がマシと判断したか、あるいはまさか訴えてはこないとタカをくくっていたか、どちらかだったのだろう。前者については、NTVは過去に所属の夏目三久アナのスキャンダル写真が流出して、ネットとリアルを問わずメディア上でおもちゃになった挙句に、その後辞職した事案があった為、これに相当懲りて、女子アナにスキャンダルが発生した場合の採用責任は問われたくないという考えが働いたのかもしれない。夏目三久アナの一件で、NTVの業績に具体的ダメージがあったとは思えないのだが、中の人的には騒ぎで疲れ果てて、あれはもう嫌だと思っていることは想像に難くない。だが、そんな「中の人常識」は、「法的判断」とは異なっているということだ。ただ、法的には内定取り消しを貫くのは難しいにせよ、そんな中の人常識を持つ至る過程については同情すべき所もある。逆に、本件について、

  • キー局のおっさんは、銀座のお店に行かないのか。ダブルスタンダードだ。
  • キー局のおっさんは、銀座のお店に行ってそこで働く女性を清廉性が低いと見下しながら飲んでたのか。

みたいな批判が主に別のおっさん層から出ていたが、これには共感できない。そういうおっさんも、自分の結婚相手として銀座のホステスを一般人と同等に許容できるかと問われれば、ぐぬぬとなる人も多いと思われるし、だからこそ成り手が限られて、夜の商売は高給になっている要素がある。対象によってスタンダードが異なるのは当然のことだ。

ターニングポイント

また、後者のまさか訴えてこないとタカをくくっていた可能性が正しければ、その前提は今後の働き口を狭めるようなことはしまい、という事だろう。確かに、ここまで揉め事で有名になると、もう採用するという会社はテレビ局であるかを問わずごく少数であろうし、訴えて勝って入社したとしても、扱いにくく、まともに仕事を与えず飼い殺し、ということも十分考えられる。「中の人常識」と「法的判断」が異なることは多々あるが、法的判断に沿った実際の運用は「中の人常識」に委ねられるのだ。ここで考えるべきは、内定取り消し訴訟に法的に勝つことが本当の勝利かという事である。勝って入社しても女子アナという職種での活躍は出来ず、転職もままならない、という状況が発生する可能性は結構ある。そういった状況下で法的に勝てるから訴訟するというのは、果たして総合的に考えて合理的だったのだろうか。そこは弁護士の法的アドバイスの範疇を超えた、自分で得失を判断すべき世界だが、銀座のクラブに二度だけ連れてかれた事のあるオッサンから見ると、そちら当座の精神的納得感はあるけど、何らか和解金貰ったとしてもトータルの実利では茨の道やでと思う次第である。
あと、本件の余波として、今後キー局に限らず有名大企業が、採用の際に必ず「風適法第2条4項による接待飲食等営業(酒類を提供しつつ異性による接客サービスを提供する店)に該当する店で働いたことは一切ありません」みたいな一筆をあらかじめ取る方向に進化するかもしれない。その場合、銀座への美人女子大生の供給は一気に少なくなり、接待飲食等営業への従事者の平均年齢の劇的な上昇が観察されると共に、素人とプロの垣根が再び高くなる時代へのターニングポイントになるだろう。