賀茂神社の石灯籠

永和4年(1378)の銘があります。
とにかくこの賀茂神社は、桐生市でも最も由緒ある神社のひとつです。境内の森は神秘的な雰囲気があり、また裏山には『句碑の道』という格好の散歩コースがあります。宮比講太々神楽や節分に行われる御篝(みかがり)神事も、とってもユニークです。拝殿の前には源義家が腰掛けた石までありますw
広沢と言う地名と賀茂神社のセットは、なんとなく京都を思い出しますね。


彦部家

彦部家は名門高階家の末裔で足利将軍家の直臣であり、戦国時代の混乱期にこの広沢の地に領地を貰って定着したらしいです。典型的な中世の武士の館として国の重要文化財に指定されていますが、現在でも子孫の方がお住まいになっています。土・日・祝日には一般公開もされています。



いつ来ても綺麗に管理されていて、こういう旧家の暮らしは羨ましいと思う反面、きちんと維持していくのは大変なんでしょうね。

ノコギリ屋根の工場跡

その昔、この蛞蝓橋地域で繊維工業が盛んだった頃には、いたるところにノコギリ屋根の工場が建っていました。が、現在では数えるほどしかありません。
最近、こうした近代化遺産を遺していこうという運動が盛んになっています。特に桐生では観光に生かそうと、積極的に再生事業を行っています。古い工場がレストランになったり、美容院に変わったりしています。
写真の工場は旧飯塚織物工場で昭和七年(1932)の建築です。いくつかあるノコギリ屋根の工場の中でも洋風の豪華なつくりになっています。以前はクラシック・カーの美術館になっていたんですが、潰れちゃったみたいです。


追加情報:美術館、まだ潰れてないみたいですw。日曜日、たま〜に開いているらしいです。

椿森の石塔群

渡良瀬川によって足尾山地から浮島のように分断されたアノ山並みのことを八王子山地と言います。その八王子山地と渡良瀬川に挟まれた回廊のような地域は古来より交通の要衝になっていて、ご存知のように現在では国道50号線が走っています。ただ、国道からひとつ裏道に入った旧桐生道は、絶好の散歩スポットです。

広沢町の住宅地の中にひっそりとあるのが椿森です。ここは源義家の部下の一人だった周東成氏という人物の子孫の墓地です。森とは言っても現在では椿の木が三本あるだけですが、市の天然記念物にも指定されています。
この椿はお姫様が急病で亡くなったことを悲しんだ周東家の奥方様が、毎日のように墓地に通ってお供えしていた椿の花がひとりでに根付いたものなんだそうです。花はとっても鮮やかな赤色です。



米沢薬師の金精様


前日の庚申塔のすぐそばにある米沢薬師。足利と桐生の境界線に位置します。日本三大米沢薬師なんてご大層な看板が出ていますが、とっても小さなお寺です。ここの薬師如来坐像平安時代末期に造られ、足利市重要文化財に指定されています。本来ならばコレがメインなんでしょうけど、この米沢薬師の境内には金精様がいらっしゃいます。ここは一応お寺ですから、神仏混交の名残でしょうか。
金精様は生殖の神様です。縁結びや子宝、それに性病の平癒なども祈られたようです。ただ時代によって淫祠邪教の烙印を押され、金精様はしばしば迫害を受けてきました。現在でも非公開扱いになっていることがよくあります。



大抵はカタチが良く似た自然石が用いられるのですが、ここの金精様は立ち木がそのまま使われています。

庚申塔のある風景


60日に一度の庚申の日、身体の中に棲む三尸虫という虫が夜中に天帝のところに自分が寄生している人間の悪口を言いに行くんだそうで、それを防ぐために庚申の日はみんなで集まって寝ずに宴会をするというのが、いわゆる庚申信仰です。起源は中国の道教で、日本では平安時代から行われていました。それが江戸時代、庶民の間で大流行。3年18回続けた記念として、たくさんの石塔が立てられました。いわゆる庚申塔です。
庚申塔にもいくつかタイプがあって、青面金剛という神様の彫刻があるものや、猿田彦が彫られているもの。同時に三猿『見ザル・言わザル・聞かザル』が彫られていたりします。ただ、時代が新しくなると写真のように『庚申』という字が彫られているだけのものが多くなりました。
開発や道路の拡張などによって庚申塔やお地蔵様は邪魔者扱いされ、ちょっとずつ姿を消していっています。神社やお寺の片隅に集められることが多いようです。この庚申塔は田んぼの真ん中にポツンとあって、ちょっとお米の形に似ている気がして、とても気に入りました。


水車のある風景

残念ながら現在、現役で働いている水車は見当たりませんでした。写真の水車もレプリカのようです。
水路の水は意外なほど澄んでいて、大きな鯉や小魚がたくさん泳いでいます。
周囲にはまだ小さな撚糸工場などが残っていて、その機械がガチャガチャと軽快なリズムを刻んでいます。その昔、それらの工場はみんな水車を動力にしていたんです。きっとガタゴトという水車の音が、あちらこちらから聞こえてきたのでしょう。
こうした風景は繊維を基幹産業にしていた足利・桐生では、とてもありふれたものでした。しかし、昭和に入って動力が電気化され、またキャスリン台風による水害で残っていた水車も破壊されてしまったんだそうです。やがて繊維産業自体が斜陽化し、水車のある風景は私たちの記憶からも消えていったのです。



もちろん、ナウでヤングな私は現役で働く水車たちのことは知りません。でも、なんとなく懐かしい感じがするのは、何故なんでしょう。