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目下の浅知恵(もっかのあさぢえ) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-04-09 卒業

3/16は小学校の卒業式だった。

その日は有休を取り、朝から早起きしてスーツを着込み、まだ春の到来には程遠い寒空と雨の中、学校に出かけた。

自分の小学校の卒業式のことは何しろもう30年以上前のことなのでまったく覚えていない。家内は自分が卒業した母校ということもあり(校歌も一緒に歌っていた)別の感慨があるのかもしれないが、僕の目にはひたすら全てが新鮮だった。我々団塊ジュニアと比べると子供の数は半分程度で、全ての子供にスポットライトが当たるような式だった。

式次第には卒業生の一覧が記載されていた。半数の名前が読めない。読めないというか、知らない漢字ではないのだが、確信が持てない。僕が子どもの頃からあった名前の子が少ないせいである。読みとしても漢字の組み合わせとしても、僕が知っている日本人の名前のパターンには存在していないものだ。

僕は地名などで読めない漢字があるとワクワクする性質なので、楽しくてしょうがなかった。

うちの子は両親に似たのか体格がいい。

身長は小6にして168cmある。

体重は……ここでは書けない。が、そこそこある。

家内は入学前には2月末生まれの我が子のことを、他の子より遅生まれだから勉強や成長でハンデがあるのではないかと不安におもっていたようである。僕は3月末(あと数日で一学年下だった)生まれで、それでも発育(少なくとも体格面では)同級生の誰にも引けを取ったことはないので、まあ問題ないだろうと思っていたのだが、我が子の発育は両親の想像を遥かに超えていた(両親の小6の時より大きい)。

我々両親もそうだったが、幼いころから発育のいい子供には、それに関しての逸話がある。我が子の逸話の中には我々両親が経験したものもあるが、こちらも両親のものよりスケールが大きかった。

小学校入学してすぐに、三年生の知らない男の子から、「きみ、四年何組?」と訊かれた。

六年生の時体操服を着て校内を歩いていたら、一年生から「えっ、生徒だったの?」という目で見られた。

昨年、小学生にはお菓子を無料であげます、というイベントに参加した。
受付に行くと係の人が我が子をじっと見て、「ま、いっか」と言ったそうだ。


式が終わり、クラスに戻った。

ランドセルに寄せ書きを書いている子たちがいた。

色々書いたが体格に似合わずおとなしく引っ込み思案の性格なので、クラスの子たちとどんな関係を築けているのだろうかとはいつも気になっていた。

さすがにグループの中心ということはなかったが、隣の男の子(6年間一緒のクラスの子だそうだ)と楽しそうに話していた。

ああ…よかったなぁと思った。

先生からの最後の言葉が終わり、サプライズで今度は子供達から先生に花が送られた。

この子たちはほぼ中学で一緒だ。ただ一人残される先生はどんな思いで教え子たちを見送るのだろうか。

そんなことを考えた。

家に帰り、もらった卒業アルバムを見た。

式同様、おそらくどの親がみても「我が子がいい顔で写っている」と思える写真ばかりだった。

アルバムの最後は白紙になっていて、寄せ書きが書けるようになっていた。

何人かの子が我が子にもメッセージを書いてくれていた。

一番最後のメッセージが僕の目を惹いた。

かな釘流の文字でこう書かれていた。

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そうか、君はやさしい人に育ったんだね。

ここでの時間は僕には見えないが、きっといい六年間だったんだろう。

いい式だった、本当に。

2017-11-13 やさしさ

日々のあれこれにかまけてずっと書けずにいたが、8月に実家に帰省した。
いつものように親戚に挨拶に行き、友達と会い、父と末の妹の墓参りをし、上の妹や母と話した。

実家を出て、10年ぐらいたった頃からぼんやりと考えていたことがあった。
「僕はあと何日母と過ごせるのだろう」ということだ。
帰省のたびに、この時間は僕と母に残された大切な時間なのだと思うようになった。

そして、ここ数年来のことだが、母に会うたびに時間の別な(残酷な)面を感じるようになっていた。

だんだん、会話の中で僕の言葉を聞き返すことが増えてきた。動くことがゆっくりになってきた。同じことを二度三度と話すようになった。子供との遊びに付いてくることが減ってきた。
こういったこと一つ一つに気が付くたびに、母がもう70を超えているのだ、ということを改めて突き付けられる。

母と会うたびに、時間の経過がせつなく感じる。
誰にでも平等に流れているはずの時間が、時に残酷に思える。

勝手な言い分だとは分かっている。世界には個々の事象の営みがあるだけで、「時間」なんて人間が考えた概念に過ぎない。残酷なんて勝手な考えだ。

僕は毎朝、父と妹の写真に手を合わせ、行ってきますを言う。
仕事が終わって家に帰ると、手を合わせただいまを言い、今日の報告をする。

もう意識せずにそれができるようになった。
(うまくいかなかった日の報告では、弱音を話すこともあるが)
何かの折に胸がずきりと痛むことはまだあるが、少なくとも毎朝夕の挨拶は穏やかな気持ちでできるようになった。
これも時間の経過がもたらしたことだ。

帰省の折に母と娘で写した写真を観た。
母と娘は笑っていた。
僕は母によく似ている。そして娘は僕にそっくりだ。
まるで母の来してきた時間を再現するように、写真の中の母と娘の笑顔は瓜二つだった。

そして5年前、母の肩までしかなかった娘が、今では母の背を追い越していた。
母と僕、そして僕と娘。親子三代の歴史を描く、やさしい時間がそこには流れていた。

帰省の最終日、駅まで母が送ってくれた。母は車を運転しながら、「まあ、なんとかやってるから。年金ももらってるし、少しは仕事もしてるし。心配しなくていいから」と言った。心配かけどおしの子供だった僕が、今では母に心配はいらないと言われている。こういうところが親子だな、と思う。

篤子、また一年が過ぎた。
僕らはこんなふうに生きているよ。
迷うことも、悩むこともあるけど、毎日笑っているよ。

2016-11-12 命日に

子供時代の兄妹の写真を観ていたら、ふと思い出したことがあった。
あの子は今、どうしてるだろうなと考えた。

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その場にいた喪服の人たちの中で、地味だが色つきのワンピースを着ているその子の姿は目を惹いた。
年の頃は3〜4歳だろうか。おそらく妹の友達の子供だろう。手を引いている女性の顔に見覚えはある。しかし名前は知らない。

僕たち遺族は棺への献花を先に済ませ、参列の方々が献花をするのを観ていた。
その時僕は、先ほどの自分の言動に恥じ入っていた。
自分が献花をした後、色とりどりの花をまとった妹の姿に、思わず「奇麗だよ」とつぶやいてしまったからだ。
馬鹿か、俺は。これほど不穏当な言葉があるだろうか。そうだ。馬鹿だ、俺は。
そんなぐるぐると渦巻く自己嫌悪の中、献花の列は続いていた。

女の子の手を引いた女性が来た。
棺に花を手向けると、僕の傍らにいた妹たち(長女と次女)の肩に手をやり、泣き崩れた。
なんでこんなことになっちゃったの?と言うのが聞こえた。
妹たちと友達は抱き合って肩を震わせていた。横にいた母も娘たちの姿を正視できず、うつむいてハンカチで口元を覆っている。


いたたまれなくなり目を逸らすと、傍らにいた女の子が目に入った。
ハッとした。
彼女の目に、仄暗い式場内の灯りでもはっきり分かるほど、大粒の涙が溢れてきたのが分かったからだ。
先にも書いたが、その子はまだ3〜4歳だ。
どれだけお母さんが妹と仲が良かったとしても、妹と過ごした時間はそれほど長くはないだろう。
いや、それ以前に、まだ死の意味も残酷さもよく知らないだろう。
そんな子が、こんな涙を流している。
彼女は今、自分が今なぜ泣いているのかもよく分かっていないのだろう。
みんな泣いている。お母さんも我を忘れて泣いている。
なぜだろう、なぜみんなこんなに泣いているんだろう。

人は、目の前の事象に対して自分が無力だから泣く。泣くことしかできないから泣くのだ。「悲しい」は感情の呼び名であって原因ではない。

父の葬儀の時にそう考えたことを思い出した。
今のこの子は、まさにそうだった。

そのうち彼女は右の手のひらで右目をぐい、と拭った。
次に左の手のひらで左目を拭った。
その間にも右目からは涙があふれ、また彼女は右手で右目を拭う。そして次に左目を拭った。
拭った涙はどんどん彼女の顔や髪を汚していった。

それを見て僕は気が付いた。
そうか、この子はまだ、涙の拭き方も知らない歳なんだな。
僕はまたいたたまれなくなった。

君はまだわからないと思うけど、今日はお別れの日なんだよ。
君のお母さんの大切な人が、いなくなっちゃったんだ。
僕はいつしか歯をきつく食いしばっていた。
そうしないと僕も涙が流れてしまうと思ったからだ。


お母さんは「気を落とさないで」と妹たちに最後に告げ、また子供の手を引いて帰っていった。
僕は彼女の小さいワンピース姿を見送った。すぐに親子の姿は献花の列に紛れていった。
僕はまた次の参列者に目をやった。ようやく食いしばった歯の力を抜いた。

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これが今日思い出したことだ。あれから4年が経った。
あの日、涙の拭き方を知らなかったあの子は今、どうしているだろう。

成長とは、転んでも立ち上がれる力を養うことだと思う。しかし、転んだ痛さに涙が出ることもある。
だから人は、立ち上がり方と同じぐらい、涙の拭き方も覚えなければならない。自分ではどうしようもない事象に直面する時が、生きていればこれからも何度もあるのだから。

あの子は今、元気でいるだろうか。僕らは4年前より、涙の拭き方が上手になっただろうか。

2016-08-30 大丈夫だよ

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これは昔、幼稚園を不安がる子どものために家内が髪留めゴムに描いたお守りだ。

「だいじょうぶ」と書いてある。

「だいじょうぶ、こわくないよ」なのか。

「だいじょうぶ、あなたなら」なのか。

「だいじょうぶ。いざとなったら母が出るから」もあるかもしれない。

とにかく、母親の無限の愛情と信頼を感じさせる言葉である。

子供がまだ小さい頃に、走っていて転んだりとか、痛い思いをする瞬間に何度か遭遇した。そんなに無茶や無分別なことをする性格の子ではなかったので、それも数えるほどのことだが。

僕はいつも同じことをした。いずれの場合でもすかさず高く抱き上げて笑った。笑って「いたかったねー、でもだいじょうぶだよ。だいじょうぶだいじょうぶ」と言うようにしていた。

深い考えがあるわけではないが、親が笑ってたら、「あれ?ワタシ今派手に転んだけど、メッチャ痛いけど、なんなら膝から血が出てるけど、なんか父ちゃん笑ってるわ…。父ちゃんがこんなに笑ってるってことは、さっき転んだけど、まだメッチャ痛いけど、これってワタシが思ってるほど大したことじゃないってこと?そういうこと?」と子供が考えるかどうかは分からないが、とにかく、なんとなく大げさにノリで誤魔化して子供を「深刻」にさせないようにした。

もちろん親だから、子供が痛い思いをしたら可哀想だとも思うし、心配する気持ちもある。

だが、逆に親が心配すればするほど、「自分には今大変なことが起こっているのだ」と子供は考えてしまうのではないかと思い、いつもそうしてきた。

もちろん、「だいじょうぶ」と言う根拠なんて持ってない。それを「親が言っている」ということが肝要なのだと思い、そう言っているだけである。

大人になると、これは通用しなくなる。「だいじょうぶ」の根拠を考えられるようになるからだ。今、小学生になった子供に「大丈夫だよ」と言っても、昔のようには安心感は与えられないかもしれない。

でも、機会があれば僕は言うだろう。「だいじょうぶだよ」と。

人間には、そうやって傍にいて根拠もなく「大丈夫だよ」と言ってくれるような人が必要だと思うからである。

2016-07-17

最期の笑顔

突然の訃報で、急遽葬儀に参列した。

あまり縁の深い間柄の方ではなかったが、生前の話はよく聞いていた。

一言で言えば、「生き尽くした」人生だったと思う。

最期も、そんな風に思える笑顔だった。

どうか安らかに。

そしてどうか、あちらでも旅を続けてください。


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