2012-05-03 遺伝と気質

※子どもが描いたこいのぼり。ミロのような色使いだと思うのは私だけだろうか。
先週、初の家庭訪問があった。どうだったのか気になってはいたのだがその日も遅く帰ったので家内に翌日様子を聞いてみたところ、
「基本、受け身です」
と先生に言われたと言っていた(実際は他にもいろいろ聞いたが、これが一番ショックだった)。
まだクラスを受け持って1ヶ月でうちの子の何が分かるというのだ!人という字は互いに支えあってヒトとなるのです加藤は腐ったミカンじゃないんです!……と声を大にして言いたいところであるが、「やっぱりそうか」というのが正直な感想だった。これでも親だから子どもの気質は先生よりもよく知っている。そして子どものそういうところは僕とよく似ていると思う。
実際、僕と子どもは外見も気質もよく似ている。
外見に関しては…まあ謝るしかない(実際よく謝っている)。僕は母親似だが、子どもは母の小さい頃にもよく似ているそうだ。子どもの手足が長いのも目が一重なのも、似ている理由は「遺伝」だ。
しかし気質に関しては環境と日々の習慣で後から作られたものだ。産まれた瞬間には性格なんてものは無い(と僕は思っている)。そしてその責任の大半は僕ら親にある。そこは混同してはならないと思っている。
誕生から今まで子どもが大きくなる過程を見てきていろいろ気づかされることは多かったが、中でも一番大きかったのは「きっと自分もこの子のように育てられたんだろうな」と思ったことだった。そうでないと「気質が似ている」ということは説明ができないからだ(推測だからなんとでも言えるのだ)。*1
僕は普段子どもと接する時間が少なく「育児」をしているとはとても言えない父親なのだが、たまに接する際にはとにかく子どもを笑わせることばかり考えている。
なのでいつもふざけちらかしてばかりいる。
YouTube観てる子どもに「お風呂に入りなさい」と言ったら「はいはい」と適当な返事をしたので「“はい”は100回でいい!」と言ってやったらむきになって「はいはいはい…(以下略)」と100回言い返してきたので、終わった後に「な。“はい”は1回でいいだろう」と言ったら「はい」と言っていた。
最近子どもが足し算を勉強し始めてて、試しに両手の人差し指で「1足す1」の問題を出したら「2」と答えた。次に両手で「1足す(影絵の)キツネ」を問うたら「わかんないよ」と笑っていた。プログラムには詳しくないが、型エラーってこういうことではないかと思った。
僕の持論だが、子どもを笑わせるには「予定調和を崩す」のが一番だ*2。「笑いとは生の転倒である」という言葉を何かで読んだが、そんな感じである。
たとえば子どもが幼稚園で手遊び歌を教わってくると、替え歌を作る(歌は予定調和の最たるものだ)。
♪八兵衛さんと、九兵衛さんが、けんかした♪
という歌は
♪八兵衛さんと、九兵衛さんと、
から
十兵衛さんと、十一兵衛さんと、十二兵衛さんと、十三兵衛さんと、(中略)〜五十兵衛さんが、けんかした♪
まで引っ張る(これでもそこそこ笑う)。
上記で引用した「1足すキツネ」も同じである。子どもの「次はこうなるよね」という予測を裏切るのだ。
そんなことばかりしていたのだが、これも子どもの「気質」に影響を与えていたのかもしれない。先日こんなやり取りがあった。
普段子どもにパパと呼ばれているが、そろそろ「お父さん」と呼ばせたいと思ってちょっと練習をしてみた。子どもに背を向けて、「お父さんと呼んだら振り向くから、呼んでみて」と言ったところ、最初はちゃんと「お父さん」と言っていたが、そのうち、「おとう……ふ!」「おとう………と!」などのトラップを仕掛けてくるようになった。
感心しつつ、こういうところはやっぱり僕の子どもだなあとしみじみ思った。
2012-03-29
去年の今日
「去年の今日は誕生日だった」
というつぶやきをしてみたが、誰からもリアクションが無かった。こんなツンデレな言い方をしたので当然なのだが。
Facebookでは多くの人にメッセージをいただいた。ありがとうございました。
去年の誕生日は、本当に忘れていた。当日に母からおめでとうというメールが来て「そういやそうだった」と気がついたんだった。
子供の頃は、この年度末のどんづまりの誕生日が嫌いだった。春休みだったので、学校で友だちにおめでとうと言われることが無かったからだ。友だちを招いて誕生日パーティというのにも憧れた。
小5か6の時に一度やった。人を呼べるような家ではなかったが、忙しかった母がそれでも色々と準備をしてくれた。
(そういえばパーティをしてた時に家には誰もいなかった。あれも母が妹たちを連れて外出してくれてたんだろう。今頃気がついた)
あと、別の年には家族で誕生日パーティをした。僕は風邪をひいていて、パーティの後寝る前に、食べた料理を吐いてしまった。いいからもう寝なさいと言われた後、僕の粗相を片付けている母が視界の隅にいて、胸が痛んだ。
去年の今日から、ずいぶん環境は変化した。まだとても落ち着いたとはいえない状態だ。
今年はどんな年になるだろう。
2012-03-28
サインの意義
前に、知り合いがある作家のサイン会に行ってきたと言っていた。
郊外の大きなショッピングモールで開催され、100名ぐらいが来ていたとのことだった。割と有名な作家である。
それを聞き、そういえば僕にはサインが欲しいと思うような人は誰かいたっけか?と考えてみた。
考えてみたのだが、特に思い当たらなかった。
作家やミュージシャン、俳優、声優、お笑い芸人、スポーツ選手、政治家、経営者など、好きな人はいる。
ではその人のサインが欲しいかと言われると、「そうでもないかなあ」と思う。
それほどその人たちのことを好きではないということだろうか。いや、ファンである事の度合いとはそれは次元が違う問題だろう。
じゃあなぜ人はサインを欲しがるのだろう?という疑問が湧いた。
くだらない疑問だということは承知の上である。
サインの意義とはなんだろうか。
1.その人と遭った記念
2.その人から自分へのオリジナルなプレゼント
3.その人のサイン自体の価値
といったところか。
1は要するにスタンプラリーのスタンプと同じである。普段それほど好きでない人に偶然街で出会ってサインをもらう心理はこれだろう。
2についてだが、今回サインについて考えてみるまではサインの意義は1と3しかないだろうと思っていたのであるが、2という見方があるのが発見だった。
確かに、自分宛のサインは「世界に一つしかない」オリジナルな品である。ファンであれば、これを喜ぶのはわかる。
3はちょっと特殊かもしれない。例えば書道家や画家のサインであれば、一筆啓上ではないが、それで一つの作品である。そのサインには「ファンだから」という主観的な価値だけではなく、客観的な価値が出るといえる。
(とは言え、普通のファンは価値があるとかないとかそんな打算でサインを求めるのではないと思うが)
この心理もわかる。というより、これが僕が一番納得がいく理由だ。
価値うんぬんは置いておくとして、ある書道家が好きで、その人の筆致で色紙を書いてもらいたいというのならば理解できる。
だが、例えばあるミュージシャンの音楽が好きであるからといって、その人の書いた字が欲しいと思う心理はよくわからない。
そこでだ。
2の「オリジナル性」という要素と3の「作品性」という要素をミックスしてみてはどうだろうか。
例えば、ミュージシャンのサイン会は「ワンフレーズ会」になる。
ファン:感激です!いつも聴いています!
ミュージシャン:いつも応援してくれてありがとう。君、名前は?
ファン:本郷です。
ミュージシャン:本郷君ね、了解。じゃあいくよ。
ファン:はいっ。ガチャ(録音スイッチ)
ミュージシャン:♪本郷君〜。♪これからも応援よろしくベイベー♪
ファン:ありがとうございました。
このように、「色紙に字を書く」のではなくその人の活動ならではの作品にするのだ。
プロ野球選手なら「フルスイング会」になる(バッターの場合)。
バッター:いつも応援してくれてありがとう。君、名前は?…本郷君か。カメラの準備はいい?よしじゃあ、振るよ。
本郷君っ!(スイング)
他には、と考えてみた。
プロレスラーなら「ラリアット会」とかになるかな…と考えたところで、そういやプロレスラーではもうやっている人がいたことに気がついた。
アントニオ猪木はもう何年も前から、ファンの求めに応じてビンタをくらわしているのだ。
そうだ。あれこそが僕が考えていた理想のサインそのものではないか。
あれなら確かに僕も欲しい。
2012-03-11 今日の日記
今日の日記
9時半に起きた。昨夜は仕事から帰って子どもと風呂に入った後に寝かしつけていたら一緒に寝てしまっていた。最近土曜はこのパターンが多い。キッシュの残りとコーヒーで朝食。テレビでは特番をやっている。
子どもと、最近お義母さんに教わったという編み物を見せてもらうなどして遊ぶ。
今日は何をするか特に決めていなかったが、天気が良かったので11時過ぎに車で出た。今日は久しぶりにSEIKOのダイバーズをしてみたが日付が11で止まっていたので、一ヶ月この時計をしていなかったということに気がつく。まず近所のショッピングセンターに立寄り牛乳パックや段ボールを回収ボックスに出してきた。次に、先週お義父さんが退院したのでプランターで採れた人参(食べられるしろものではないが、子どもが育てたので観賞用に)を持って家内の実家に慰問に行く。姪と甥も来ていた。着くなり甥にiPhoneを取り上げられた。お義父さんは少しやつれていたが、病院で会ったときよりやはり気楽そうだった。手持ち無沙汰なので、従兄弟3人がゲームをしているのを眺めていた。一番年長の姪は来年6年生だ。早いものである。長居をするつもりはなかったので早々に辞した。帰りしなにお義母さんに来月の子どもの入学式に出られるかと言われたので、ちょっと相談してみますと答えておいた。敢えてその話を振ってきたようだ。
定期が火曜で切れるのでついでに更新のためバスセンターに立ち寄った。高速バス通勤のため千葉にいたころ(悪名高い東葉高速鉄道)よりもひと月の交通費は高い。実際に出て行く額が多いこともそうだが、再就職したばかりでまだ身分的には不安定なこともあり家内には交通費はどうなるのか、大丈夫なのかとしきりに言われる。
子どもとグリーンパークに行こうと話していたが、風が強くて寒いのと最近のガソリン高騰のため遠出は控えたいという家内の意向で近場の公園に行くことになった。その前に公園の近くのマックで昼食。正午なので混雑していたが、なんとか座れた。子どもはハッピーセット(今はドラえもんシリーズ)、家内は新製品のビバリーヒルズバーガーとアイスコーヒー、僕はレタス&ペッパーバーガーとホットコーヒーにした。レタス&ペッパーバーガーは最近ネットで笑われていたが、別におかしなところはなかった。マックでコーヒーのお代わりができることを最近知った。
公園に行くが、テニス場と室内プールと隣接しているがどちらも何かの大会が催されているようで、いつもより車の数が多かった。しかし今日はやはり寒いのか遊んでいる子どもの数はいつもより少ない。おかげで好きなロープスライダーを並ばずに何度もできて満足そうだった。子どもを持ち上げて遊ぶのもだいぶ難しくなってきた。幼稚園では3番目に大きいそうだ。
寒いので家内が音を上げ、スーパーで買い物をしてから帰って工作をしようということになった。ちょうど14時頃で、ラジオでは特番をしていた。スーパーで来週分の食材を買う。レジで並んでいる時に14時46分を迎えた。帰りは僕が運転した。
帰って子どもと工作をする(結局僕が全部作ってしまった)。家内は疲れたとのことで少し横になった。子どもとおやつを食べた後、僕は特番を見ながら料理を始めた。しばらく下ごしらえをしていたら家内が起きて、買い忘れたものがあったとまた買い物に出た。料理をする僕の傍らで子どもはしきりとママ遅いねと言ってきた(さっき出たばかりだと言ってもしきりと言ってきた)。家内が帰ってくると子どもは遅かったねと言い家内も苦笑していた。僕は引き続き料理、家内と子どもはwiiで遊び始めた。wiiは東京を離れる時に友だちが餞別でくれたものだ。こちらに来てすぐの頃は箱から出すことさえ家内は嫌がったが、結局今では折れたようだ。
夕食後に、家内が古いノートパソコンを処分したいと言うので、フォーマットのやり方を調べる。面倒なので風呂に沈めようかと少し考えたがやめた。パソコンはどうせ使わないから持ってこなければ良かったのだが、引っ越しの時処分する余裕がなかった。部屋にはまだそういった荷物がいくつかある(こっちに来てから東京の知り合いに子供服を数箱送ったりした)が、家内は家庭訪問までになんとかしたいと言っている。
家内と子どもは風呂に入り、僕は引き続き特番を見ながらパソコンのフォーマットに取り組んだ。二人が出ると入れ替わりに風呂に入った(平日は子どもと風呂に入れないので本当は今日も入るつもりだったのだが)。この家の風呂には追い炊き機能がないので早く入る必要があった。不動産屋の説明ではここは輸入住宅らしいが、木造なので寒い。しかし実家から車で5分という立地で、しかもこの辺りには賃貸住宅が少ないので選択の余地はあまりなかった(大体ここを借りるときもさんざん苦労したのだ)。
風呂から出ると、子どもが図書館で借りた本を読んでいた。ドラえもんのマンガだと思って借りたら教材(俳句や和歌の)だったという本である。図書館は車で15分ぐらいのところにあるのを最近見つけた(分室なので本は非常にすくないが)。
子どもが寝たのでノンアルコール飲料を飲みながら(最近酒を飲むと家内が嫌な顔をする)ブログに取りかかった。
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見ての通り、どうということはない一日だ。
本当は書くほどのことは何もない日だ。自分でもよく分かっている。
つまらない休日を過ごしているなと思う人もいるだろう。別に否定する気にもならない。
しかし、なんでもない一日一日は実はかけがえのない日々だったということを思い知らされたのが去年の今日だった。
それを忘れないようにしたいとは思う。しかしそうは言っても3日経てば、一週間、一ヶ月たてば日常の慌ただしさにまぎれてしまうのだろう。それは生きているから仕方がないことだ。
だから、今日ぐらいは何でもない一日を過ごせたことを感謝する日にしたい。そう思った。
2012-03-08 目下の小ネタ
目下の小ネタ
まったくブログのネタが無いミニブログに小ネタがいくつかたまったので試しにまとめてみる(そもそもこのブログ自体が小ネタみたいなもんだが)。
webコンテンツによく登場する素材集モデルのクロニクルをブログに書きたいと前から思っていた。価格と使い勝手の良さで長らく君臨してきた「素材辞典」幕府に「日本人っぽいアジア系モデル」を多数揃えた黒船(シャッターストック)が開国を迫るという背景を下敷きに、幕府の中でも長らく続いた「ヒゲと眼鏡とサスペンダーのあの人」「笑顔のテレオペのあの人」の時代から「未来のリーダー編のあの人」へと覇権の変遷を追う。さらに最近は「サラリーマンと言えばオレでしょ」の人やポンパレの温泉バナーで一躍スターダムに踊りでたあの人からも目が離せない。転載しながらやったら問題になるだろうから、文章でしか書けないのが残念だ。この企画はぜひタモリ倶楽部(もしくはカノッサの屈辱)で実現してほしい。*1
(そういえば前に仕事で素材集の女性のカットを使ったら客先がその女性をいたく気に入って他の企画にも出演してほしいから紹介してほしいと言われて困惑したことがあったっけ)
雑誌の広告に載っていた女性に一目ぼれしたら、実はそれは素材集の写真だったっていうデジタル社会ならではの悲恋を思いついた。
まさにこれだ。
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学生の頃これを読んだ影響で、「方法論は感性を超える」と思っていた時期があった。それが正しいのか間違っているのかは未だによくわからない。が、これだけ「人間性」というものがあらゆる分野の専門領域の前で解析の対象になりその成果として産み出される商品に囲まれて生きていると、両者は限りなくイコールに近づいていくのかもしれないと思えて来る。方法論を編み出さずにはいられないのが人間というものなのかもしれない。最近流行りの言葉で言えばライフハックもそうだ。「人間賛歌は「ライフハック」の賛歌ッ!!」なのだ。
■言葉の体温
芸スポまとめblog : 【音楽】「歌詞が支持されている曲」 1位GReeeeN「キセキ」、2位ORANGE RANGE「花」、3位ケツメイシ「さくら」 - ライブドアブログ
"ものすごく残念な話なんだけど、今のリスナーっていわゆる文学的な比喩を含んだ歌詞とかを理解できないんだって。
好みじゃないとか流行じゃないとかでなくて、本当に意味が理解できないらしい。
例えば「汽車を待つ君の横で僕は、時計を気にしてる・・・」
なんてのが、初春の別れの日の情景を切り取ったものだということが読み取れないわけ。
「去年よりずっときれいになった」なんて言われても、それが別れとどう繋がるのすら理解できない。
だから「二人は今日でお別れだね、まだ好きなんだけどしょうがないよね、いままでありがと、でも好きだよ」とか
なんの捻りもないというか、捻りを入れない歌詞にせざるを得ないらしい。"
僕は宇多田ヒカルの「光」という曲がすごく好きで、中でも“テレビ消して私のことだけを見ていてよ”という部分が特に好きだ。
「テレビ消して私のことだけを見ていてよ」ってこれほど血の通った歌詞をまだ他に見たことがない。
この曲は視点が突然女目線になったり男目線になったりするので、曲の中で語られている物語を理解するのが難しい。しかし極端なことを言うと“テレビ消して私のことだけを見ていてよ”という一節だけでだいたい二人の今いる関係性は想像することができる。そこがすごいといつも思う。*2
こんな感じでよろしかったでしょうか?







