HDD

アメリカに収奪される日本

アメリカに収奪される日本
プラザ合意から郵政民営化への展開
2009.9.28

<目次>

第1章 プラザ合意に秘められた意図

第2章 アメリカが仕掛けた大東亜経済戦争

第3章 日本の再従属化が進んだ旧長銀の買収
第4章 作戦を立案・策定した国際組織

第5章 アメリカによる郵政民営化

第6章 売国と利権の構造

第7章 日本再建のためになすべき経済改革



 私は拙稿「現代の眺望と人類の課題」で、現代社会の集団構造として、所有者(the owners)、経営者(the managers)、労働者(the workers)、困窮者(the distressed)の集団について述べ、続いて現代の国際社会を動かす四つの組織として、王立国際問題研究所(RIIA)、外交問題評議会(CFR)、ビルダーバーグ・クラブ(BC)、三極委員会(TC)について書いた。

所有者・経営者の集団は、これらの組織を通じて、西欧諸国やアメリカの外交政策、さらには日本やアジアの外交政策にも影響を及ぼしている。

わが国にとって重要なアメリカとの関係は、こうした視点に立つ時に、初めて大きな枠組みが見えてくる。本稿は、その枠組みを経済的な面から浮かび上がらせるものである。

第1章 プラザ合意に秘められた意図

●食い物にされる日本

 1952年(昭和27年)独立回復後の日本は、アメリカに押しつけられた憲法を改正し、自主国防を充実させ、石油・食糧を含む総合的な安全保障体制を構築することが、国家第一の課題だった。しかし、わが国の指導層は、この第一の課題に懸命に取り組むことなく、経済復興・経済成長の道を歩んだ。
 1960年代には、日本は高度経済成長を続け、アメリカに次ぐ世界第2の経済大国となった。1969年(昭和44年)アメリカの未来学者で軍事理論家のハーマン・カーンが、「超大国日本の挑戦」を出版して、日本の高い成長率からすると、「2000年頃に日本の国民一人当りの所得がアメリカと並んで世界一のレベルに達する」「21世紀は日本の世紀」と予想した。そして、79年(54年)社会学者で日本研究者のエズラ・ヴォーゲルが書いた「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(TBSブリタニカ)がベストセラーになった。ヴォーゲルは、戦後日本経済の成功の秘訣を解き明かし、当時停滞していたアメリカ復活の教訓として、日本から学ぶことの重要性を説いた。日本人の中には、カーンやヴォーゲルの言うように、日本はこのまま繁栄の頂点へと上り得ると考えた者もいた。
 しかし、経済の成長だけでは、国家の繁栄を維持・拡大することは出来ない。それは、資本と国家を総合的にとらえ、文明の観点から近現代史を見る者には、基礎的な認識の一つである。わが国は敗戦後、憲法を放置し、国防をアメリカに依存し、石油と食糧という命の糧を握られた状態を続けてきた。独立主権国家として、大きな欠陥を持ったままである。何より国民が、自国のこうした状態を直視し、自らの手で根本的な改革を成し遂げようという意志に薄い。長い伝統に基づく自己本来の精神を取り戻し、国民が一致団結することなくして、この大改革はなしえない。そのことに思い至って日本精神に目覚めることなく得たものは、虚構の栄華にすぎない。
 戦後世界で最高の経済的実力者は、ロックフェラー家の総帥デイヴィッド・ロックフェラーである。デイヴィッド・ロックフェラーは、世界経済だけでなく、国際政治にも大きな影響力を振るってきた。デイヴィッド・ロックフェラーは、戦後、アメリカ合衆国の政府に多くの人材を送る外交問題評議会(CFR)を率いて、対日政策にその意思を反映させてきた。さらに、1973年(昭和48年)には、日米欧三極委員会(TC)を設立し、日本を米欧の支配下に取り込み、その経済力を利用する戦略を立てていたと思われる。

これに比し、1970〜80年代の日本の指導層は、国家第一の課題を忘れ、皮相的で短期的な政策に終始した。対米外交は、戦後日本の歴代政権が取ってきたアメリカへの従属外交を継続した。日本の外交は、高度経済成長で獲得した経済力を国益のために積極的に生かすのではなく、アメリカに富を貢ぐという関係を結び直した。そして日本は、アメリカに金融的にも隷属する立場へと身を落とした。



● 仕掛けられたバブルとその崩壊


 1985年(昭和60年)9月、レーガン政権のもとで、プラザ合意が結ばれた。プラザ合意とは、アメリカが日欧にドル防衛を求めたものだが、軍拡競争でソ連を破ろうというアメリカの世界戦略に、日本は経済面で協力する約束をした。これにより、日本がアメリカの財政赤字を支え、アメリカは日本を利用して繁栄を続ける構造が作られた。

 プラザ合意は、国際経済研究所(IIE、現ピーターソン国際経済研究所)の所長フレッド・バーグステインが下書きを書き、レーガン政権の財務長官ジェームズ・ベイカーが主導して進めた。ベイカーはCFRの会員。ブッシュ父の側近であり、その政権では国務長官となった。

 プラザ合意は、ドル安円高に誘導するものであり、急激な円高が起こった。プラザ合意と同じ年、旧大蔵省は国債の60年償還を決めた。通常、翌年には返済しなければならない借金を、60年かけて返すという破天荒なルールである。この時点で、将来の財政破綻が、はらまれた。

 日本は経常収支の黒字是正を目的とした内需拡大策により、積極的な金融緩和措置を取った。86年(61年)には公定歩合引き下げが相次ぎ、大量の資金が市場に溢れ出した。政府は低金利政策を89年(平成元年)5月まで、2年3ヵ月もの長期間にわたり継続した。この間、銀行や金融機関は、だぶついた資金を投資する先を求めた。余剰資金は土地と株に向かった。地価の上昇と株価の高騰は、天井知らずと見えるほどだった。89年(元年)の年末には、ダウ平均3万8915円という史上最高値を記録した。

 しかし、こうした傾向がバブルとなるのは、近現代の資本主義経済が繰り返してきたパターンだった。過去のイギリスやアメリカの教訓に、わが国は学ばなかった。欲望が欲望を呼び、国民は虚構の繁栄にのぼせあがっていた。

 年が明けた90年(2年)2月以降、株価の急落が相次いだ。それがバブルの崩壊の始まりとなった。崩壊を決定的にしたのは、同年3月、大蔵省銀行局長の通達で、不動産融資に対する総量規制を行ったことである。この通達は、不動産価格の高騰を沈静化させることを目的としたものだったが、急激な景気後退をもたらした。銀行局長は土田正顕だった。大蔵大臣の橋本龍太郎、さらに元蔵相で次に首相となる宮沢喜一に強く迫られて打ち出した政策だったという。

 アメリカは、日本に円高を容認させ、公定歩合の引き下げや内需の拡大を求めた。これは、バブルが発生するように仕掛け、破裂に導く作戦だったのだろう。多額の不良債権を抱えた金融機関は経営難に陥った。中小企業への貸し渋りが蔓延し、倒産が続出した。1970年代〜80年代前半には、アメリカの繁栄に迫り、アメリカを抜くとさえ予想された日本経済は、バブルの崩壊で大打撃を受けた。

 振り返って見ると、プラザ合意の翌年である1986年(昭和61年)、バブル経済の中で、前川レポートが発表された。前川レポートは、前川春雄日銀総裁を会長とする「国際協調のための経済構造調整研究会」による報告書である。この研究会は、日米経済摩擦によるアメリカの圧力に対応するため、中曽根首相が設置した私的諮問機関だった。報告書は、内需拡大、市場開放、金融自由化等を打ち出し、その後の日本の経済政策の基本方針になった。
 またバブルの絶頂に近づいていた89年(平成元年)7月、ブッシュ父大統領の提案により日米構造協議が始まった。わが国は、海部内閣だった。日米構造協議は、アメリカのイニシアティブ(主導権)による日本の構造改革の場となった。アメリカは、わが国に対して、スーパーコンピューターの入札参加、大規模店舗法の見直し、商用通信衛星の購入や農産物の自由化等、市場開放を迫る内容となっていた。合衆国政府が日本国政府アメリカ企業の日本進出を認めさせ、日本国政府が米資の参入を手引きするための協議だったのである。
 日米構造協議が開始されたわずか数ヵ月後、バブルがはじけた。それが、1989年(元年)12月である。レーガン政権の対ソ軍拡とプラザ合意、ブッシュ父政権の日米構造協議によって、アメリカは、二大ライバルであるソ連と日本を一挙に叩き潰すチャンスを得た。経済危機に陥ったソ連は、1991年(平成3年)12月に崩壊した。一方の日本は、長期不況、不良債権処理、失業率の上昇に苦しんだ。そうした日本に対し、アメリカは容赦なくさらなる攻撃を開始した。

(ページの頭へ)


第2章 アメリカが仕掛けた大東亜経済戦争

アメリカによる対日経済戦争

 1993年(平成5年)、大統領に就任したビル・クリントンは、日本を「敵国」と名指しで表現した。バブルの崩壊後、深刻な不況にあえぐ日本に対し、ここぞとばかりに「経済戦争」を開始したのである。クリントン政権は、我が国に激しく経済的・外交的攻撃をかけてきた。対日経済戦争は、グローバル・スタンダードという名の下に、アメリカ主軸の世界を築くための戦略に基づくものだった。
 93年、宮沢喜一首相とクリントン大統領の首脳会談が行われ、日米包括経済協議が開始された。宮沢喜一ビル・クリントンは、ともにTCのメンバーだった。この首脳会談は、TCの日本への影響を象徴していると私は思う。
 宮沢・クリントン会談の翌年、94年(6年)10月から、アメリカによる「年次改革要望書」が毎年わが国に対して提出されるようになった。この文書が日米経済関係における決定的文書であることを発見したのは、関岡英之氏である。
 関岡氏の「拒否できない日本――アメリカの日本改造が進んでいる」(文春新書)は、衝撃的な事実を明らかにした。ここ10年以上の間、日本で「改革」と称して実行されてきた政策は、ほとんどアメリカの国益のためのものであったというのである。関岡氏は、これを「アメリカによる日本改造」と呼んでいる。この改造の「指針書」となっているのが、「年次改革要望書」だという。
 94年以来、毎年10月アメリカは日本に要望書を提出してくる。これを読めば、日本の構造改革アメリカの指示によるものであり、「米国政府の、米国政府による、米国政府のための大改造」であることが理解できる。
 例えば、半世紀ぶりの商法の大改正は、アメリカ企業が乗っ取りをしやすいものとなっている。会計基準は、アングロ・サクソン諸国のルールを国際統一基準にする動きが進んでいる。時価主義会計の導入は、多くの日本の企業を破綻に追い込む。株価が安く、不良債権をかかえているからである。公正取引委員会の規制強化のため、アメリカは委員の人数まで要望し、郵政民営化に先だって所轄庁を総務省から内閣府に移させまでした。司法制度の改革も、アメリカ企業が日本の政府や企業を相手に訴訟しやすくするためのものとなっている。他にも、枚挙に暇がない。関岡氏が明らかにした日米関係の構造を知らずして、今日の日本は語れない。

●わが国の「第二の敗戦」

 アメリカによる「年次改革要望書」が提出されるようになってから、「アメリカによる日本改造」が強力に進められた。日米経済戦争が始って5年後の98年(10年)10月、決定的な段階に至った。アメリカの強い圧力によって、外国為替法が改正され、金融ビッグバンが起こった。金融の自由化により、外資が直接日本の銀行を買収できるようになり、日本市場への外資の進出が相次いだ。これによって、わが国は、日米経済戦争に、ほとんどなすすべなく大敗した。この事態は、「マネー敗戦」(吉川元忠)と呼ばれる。「第二の敗戦」ともいう。大東亜戦争の敗北に匹敵する出来事ということである。
 98年(10年)10月、「第二の敗戦」の結果、北海道拓殖銀行の倒産、山一証券の廃業等が続いた。山一をほぼそっくり買い取ったのは、メリルリンチだった。当時デイヴィッド・ロックフェラーが大株主だった大手証券会社である。このほかシティ・トラベラーズ(現シティ・グループ)、J・P・モルガン(現J・P・モルガン・チェイス)、GEキャピタル等、世界屈指の金融会社が続々と日本上陸を果たし、わが国の銀行、証券会社などを掌中に収めた。
 半世紀前、大東亜戦争に敗れ、焦土と化した日本に、占領軍が進駐して各所を接収した。今度は、経済的に「焼け跡」と化した日本に、アメリカ資本が乗り込み、日本人が戦後営々と築き上げてきた資産を奪い取った。かつては軍事占領。今度は金融による日本の再占領である。
 しかも、ただ奪うだけではない。アメリカは、日本の富を吸い上げ続ける構造を構築した。日本にドルを支えさせ、アメリカの借金を国債の形で背負わせる仕組みである。日本は金融的に属国化した。その結果、かつて世界最大の債権国だったわが国は、一転して先進国中、最大の負債を抱える赤字大国となった。今日も日本は、金融的従属構造から抜け出せていない。負債は増大する一方で、わが国は国家破産寸前の状態にある。
 アメリカに対する「マネー敗戦」と金融的属国化は、日本のアメリカへの再従属化だったといえる。この日本の再従米化は、双方の政府に影響を与える民間組織があればこそ、強力に推進された。CFRとTCが介在して大きな推進力を発揮し、ビルダーバーグ・クラブも深く関わった。アメリカへの再従属化は、同時に米欧資本による日本支配の過程でもあった。



●米欧が日本・アジアに侵攻した大東亜経済戦争

 私は、1997年(平成9年)のアジア通貨危機と翌98年(10年)の日本の「マネー敗戦」は、別々の出来事ではないと理解している。これらは、どのように関係しているのか。
 アジア通貨危機及び日本の「マネー敗戦」とは、西洋文明が日本を中心としたアジア諸文明の台頭を抑え、西洋文明の優位を維持し、支配を永続化することを目指して、計画的に仕掛けた対日・対アジアの経済戦争だった、と考えられる。私は、これらを一連の出来事ととらえるために、大東亜経済戦争と呼んでみたい。戦争といっても軍事戦争ではなく、一つの比喩である。経済競争には宣戦布告も講和もないから、開始・終了があるわけではない。恒常的に継続されているわけだが、戦争という比喩によって見えてくるものがある。

 大東亜経済戦争の一局面であるアジア通貨危機については、先に詳しく書いたので、ここでは要点にとどめる。1960年代に日本は、高度経済成長を成し遂げた。非西洋文明ではじめて、西洋文明諸国を抜くほどの存在となった。続いて1970年代には、韓国、台湾、香港、シンガポールが急速に発展した。新興工業経済地域(NIES)、四小龍と呼ばれた。1973年(昭和58年)の第4次中東戦争とそれに伴う石油危機によって、石油価格が高騰し、スタグフレーションが長期化した。国際市場での企業間の価格競争が激化し、国際競争に打ち勝つための安価な労働力の獲得と新たなビジネス機会を狙って、先進国から周辺の途上国への資本、技術の流出が急速に進んだ。アジアでは、日本やアメリカが資本の投下と技術の移転を進めた。それがNIESの発展の推進力になった。
 1980年代に入ると、NIESの後を追って、タイ、マレーシア、インド等も工業化政策を進めて経済開発に成功した。そうしたなか、85年(昭和60年)、プラザ合意が締結され、日本は急速な円高が進んだ。輸出よりも対外投資が有利となったため、大量の資金が海外に投資された。とりわけ東アジア各国に多く投資された。それによってこの地域の経済成長はさらに加速した。
 80年代後半から90年代には、東南アジア諸国連合ASEAN)を中心とした東アジア諸国が目覚しい経済発展を見せた。その現象を「東アジアの奇跡」と呼ぶ。東アジアは「世界の成長センター」と称されるほどになった。
 1991年(平成3年)、ソ連の崩壊で米ソ冷戦が終結した。冷戦の終結は、アジアが成長するために一層好環境を与えた。冷戦期には反共同盟的な連合体となっていたASEANが、本来の目的である地域経済協力を本格的に推進するようになった。95年(平成7年)には、ベトナムASEANに加盟し、急速な経済成長を示した。また1990年代に入ると共産中国が経済特区を設けるなど経済自由化を進めた。中国は安い賃金と豊富な労働力で生産拠点として台頭し、「世界の工場」となった。
 こうして急速な経済成長を続けるアジアに対し、米欧は、黙ってその成長を許してはいなかった。そこに起こったのが、1997年(9年)のアジア通貨危機である。
 95年(平成7年)、アメリカのクリントン大統領は、それまでのドル安円高政策から、経常収支赤字を減らすため「強いドル」政策に転じた。ドルが高めに推移するようになると、連動して東アジア各国の通貨の価値が上昇した。それらの国々の輸出は伸び悩んだ。ヘッジファンドは、東アジア諸国の経済状況とその国の通貨の評価に開きが出て、通貨が過大評価されていると見た。空売りを仕掛け、安くなったところで買い戻せば、差益が出る。ここで狙われたのが、タイの通貨バーツだった。
 97年(平成9年)7月、ヘッジファンドは、バーツに空売りを仕掛け、タイ政府が買い支える事を出来なくした。それによって、バーツは暴落した。タイ経済は壊滅的な打撃を受けた。通貨暴落の波は、マレーシアやインドネシア、韓国にまで波及する経済危機に発展した。各国は経済の建て直しのために、IMFに援助を求めた。IMFの管理下で、強力な経済改革が進められるとともに、外資がどっと参入し、その国の企業・資産を安く買い占めた。東アジア諸国では、通貨危機IMFの管理のため、「世界の成長センター」といわれるほどの経済成長にブレーキがかかることになった。これがアジア通貨危機である。

●円を使って、日本を叩く

 アジア通貨危機は、東アジア各国に多大な投資をしてきた日本も、大きな損害を受けた。バブルの崩壊後の苦境のなか、東アジアに活路を見出していた日本は、再び勢いを削がれた。
 日本は当時から超低金利政策を取っていた。米欧のヘッジファンドは、日本の金融機関から大量の円を借り入れてドルを調達し、アジアの新興市場で投機を繰り返した。それによって、巨額の利益を得た。これを「円キャリー・トレード」という。日本の銀行もヘッジファンドに投資していたから、一緒に利益には預かった。
 しかし、やがて日本自体が攻撃対象となっていることが分かる。ヘッジファンドの代表的存在であるジョージ・ソロスは、日本経済の弱点は、系列による企業間の株の持ち合いにあると見ていた。この点を突けば、日本経済を弱体化させられると。ソロスの見方は、米欧企業に周知されていた。
 ソロスはユダヤ人であり、ロスチャイルド家に育成された投資家といわれる。彼の背後にはロンドン・ロスチャイルド銀行やイギリス王室、西欧諸国の中央銀行・大手銀行等が存在する。それらは莫大な資金をソロスに委託し、東アジア及び日本への攻撃に参加していた。

 アジア諸国が経済的危機にあった時、わが国は救援に乗り出そうとした。「ミスター円」こと榊原英資氏は、当時大蔵省(現・財務省)の財務官だった。榊原氏は円を基金としたアジア通貨基金(AMF:Asia Money Fund)を構想した。しかし、アメリカの反対と政治工作によって、断念せざるを得なくなったという。東アジア諸国IMFに救援を求めた。IMFは厳しい再建政策を突きつけ、米欧資本の進出を先導した。
 米欧連合による攻撃は、さらに日本に向けられた。既に1993年(平成5年)、クリントン大統領は、日本に対して「経済戦争」を開始し、アメリカは攻勢を続けていた。アジア通貨危機は、進行する日米経済戦争の過程で起こり、またそれをきっかけに日本への攻撃が増強された。それゆえ、私は、アジアの通貨を狙う投機は、躍進するアジアの中心である日本への攻撃の一環だったと思う。
 優れた製品で米欧市場を席巻し、東アジア諸国に進出して、米欧への脅威を増している日本を、足元のアジアから叩き、そのうえで、日本本土への総攻撃を行うという作戦があったのだろうと私は推測する。そして、本土への総攻撃とは、金融自由化の実現であり、その後の外資による日本企業の買占めである。こうしてわが国は98年(10年)10月「マネー敗戦」を喫したものと思う。

●大東亜経済戦争の被害を越えて、日本とアジアは成長する

 文明論的に言えば、西洋文明が、日本を中心としたアジア諸文明の台頭を抑え、西洋文明の優位を維持することを目論み、計画的に仕掛けたのが、対日経済戦争であり、対アジア通貨戦争と言えよう。
 私は、1997〜98年(平成9〜10年)のアジア通貨危機及び日本の「マネー敗戦」を一連の出来事とし、大東亜経済戦争と呼ぶのがよいと思う。20世紀の半ばから後半にかけて、東アジアでは三つの主要な戦争が起こった。それらを私は、一連のものとし、シナ事変・大東亜戦争を第1次東アジア戦争、朝鮮戦争を第2次東アジア戦争、ベトナム戦争を第3次東アジア戦争とする見方を提唱している。このとらえ方で言えば、アジア通貨危機と日本の「マネー敗戦」は、第4次東アジア戦争に比せられる。
 先の三次の戦争は、軍事力を行使した戦争だが、1997〜98年(平成9〜10年)の第4次東アジア戦争=大東亜経済戦争は、経済力による戦争である。戦争というのは、もちろん比喩である。しかし、経済戦争で、軍事戦争に匹敵するほどの資産の破壊や略取が行われた。それを強調するために戦争に例えるのである。

 これらの四次にわたる東アジア戦争は、人類の文明の中心が、西洋文明から日本およびアジアの文明へと移動する過程で、西洋文明が時の流れに抵抗し、流れを押し戻そうという試みだった。しかし、時の流れには、人為では変えられない勢いがある。西洋文明諸国の抵抗を越えて、文明転換の流れは進みつつある。1990年代末には、アジアに対する優位を再構築し、支配を永続化するかと見えた米欧諸国だが、その本体が自ら破裂した。それが2008年(平成20年)の世界経済危機であると私は見ている。
 21世紀の現在、中国・インドは、新たな経済大国になると予想されている。アジアは、まさに世界の経済的中心地域となり、人口、生産力、発展可能性等で北米や欧州等、他の地域を抜いている。そして、アジアが経済的に発展するとともに、アジア諸文明の精神文化の再評価も進んでいる。日本は、ここ十数年、下り坂になってはいるが、日本が持つ潜在的な成長力は計り知れない。新しい技術が続々と開発され、実用化されつつある。メタンハイドレートや水資源等の活用は、日本の現状を大きく変える可能性を持つ。
 文明の転換期において、旧来の勢力は新興の勢力を抑えようとする。しかし、日本及びアジアは、米欧に叩かれ、叩かれしながらも、発展を続けていくだろう。
(ページの頭へ)


第3章 日本の再従属化が進んだ旧長銀の買収

●旧長銀の買収は、外資乗り込みの皮切り

 先に文明論的な観点から、長期的な展望を書いたが、現在の日本は、アメリカに再従属化した状態にある。再従米化の過程について、続けて書きたい。
 日本の再従米化の過程で、最も深刻な出来事だったのは、1998年から2000年(平成10〜12年)にかけての旧長銀の買収と、2001年から03年(13〜15年)にかけての郵政民営化である。この2点をよく押さえておかないと、日本人は、2008年(20年)の世界経済危機への対処を誤ると思う。また日本の再建を進める上でも、これら2点の理解は重要である。
 1998年(平成10年)10月、日本は日米経済戦争で「第ニの敗戦」を喫した。その同じ月に経営破たんしたのが、日本長期信用銀行だった。「マネー敗戦」後の日本占領の象徴的な出来事が、外資による旧長銀の買収である。
 長銀は、1952年(昭和27年)、設備資金等長期資金の安定供給を目的として設立された民間銀行である。わが国の産業の復興・発展に長年貢献した大手銀行だった。ところが、バブル崩壊後に多額の不良債権を抱え込み、経営危機に陥った。
 長銀の破綻は、欧米資本が日本市場に猛烈に乗り込む皮切りとなった。わが国は急遽金融再生法を制定し、長銀は一時国有化されて、株式上場も廃止された。旧長銀を救済するために、わが国政府は8兆円もの公的資金を投入した。その後、売却が行われた。日本側からは、中央三井信託銀行他のグループが手を挙げた。しかし、競争入札の結果、外資への売却が決定した。相手は、アメリカの投資会社リップルウッド・ホールディングを中心とする投資組合ニューLTCBパートナーズという。

●叩き売りによる「史上最高のリターン」

 リップルウッドは、1995年(平成7年)にアメリカで設立された新興投資ファンドである。99年(11年)、旧長銀の買収に名乗りを上げた時点では、わが国では無名の会社だった。いわゆる「ハゲタカ・ファンド」である。
 また、ニューLTCBパートナーズには、ロックフェラー一族やロスチャイルド一族等が相乗りで出資していた。米欧の所有者集団が手を結んで、日本市場を狙っていたのである。
 2000年(12年)3月、リップルウッドの投資組合は、旧長銀の経営権を取得した。買収金額は、わずか10億円だった。長銀救済のために8兆円の公的資金が投入された。公的資金とは国民が納めた税金である。巨額の税金を投じて救済した、資産20兆円の旧長銀がわずか10億円で、外資に叩き売られたのである。
 旧長銀は、同年6月に社名を新生銀行に改称された。そして、2004年(16年)2月には、株式上場を果たした。10億円で買収したリップルウッドの投資組合は、その後の増資で1200億円を投資したとはいえ、新生銀行の株式上場の際、保有株式の35パーセントを売却して、約2400億円を手にした。これだけで約1200億円の純利益を得た。さらに残り65パーセントの保有株で、7200億円もの含み益を得た。
 わずか10億円の元手でこれほど巨額の利益を得た例はかつてなく、投資業界では「史上最高のリターンを上げた」と言われている。
 その一方、わが国は巨大な損失をこうむった。これが、「マネー戦争」、私の言う大東亜経済戦争に敗れた結果なのである。これは日本市場への外資の乗り込みの皮切りに過ぎなかった。そこで、旧長銀売却問題を詳しく見ていきたい。



●通常取引では考えられない特典つきの叩き売り

 旧長銀問題については、浜田和幸著「ハゲタカが嗤った日」(集英社インターナショナル)に詳しい。以下は本書に多くを負っている。
 旧長銀は、外資に超破格値で叩き売られただけではない。保有する不良債権は、3年間、無条件で保護するという瑕疵担保契約まで結んでいた。瑕疵担保条項によってリップルウッド側は日本政府に不良債権を押し付けることができる。外資は、絶対に損をしない売買をした。逆にわが国は、絶対に損はさせませんから、どうぞ買ってくださいと、相手に差し出したわけである。
 それだけではない。リップルウッドは、オランダに設立した投資組合ニューLTCBパートナーズ(以下、パートナーズ)を通じて旧長銀を買収した。パートナーズは、登記地がオランダであるため、日本では一切、上場益に対して課税されない。そのため、新生銀行の上場によって得られた株式売却益に対して、日本は一円も課税することが出来なかったのである。
 どうしてオランダ籍の投資組合が、日本の銀行の買収に登場するのか。後に詳しく触れるが、オランダはビルダーバーグ・クラブ発祥の地であり、旧長銀の買収には、ビルダーバーガーが動いていたのである。
 新生銀行の株の保有比率も、おかしな決め方だった。パートナーズは1200億円を出資したが、これは全体の資本勘定の20%にすぎなかった。残りの80%は、日本政府が負担した。そうであれば、持ち株比率は、日本政府が80%、パートナーズが20%となるはずではないか。実際は、日本政府が33%、パートナーズが67%という比率になった。日本側が多くの金を出して、どうぞもらってくださいと差し出したようなものである。

 こうして旧長銀は、超破格の安値、瑕疵担保契約、非課税、株式3分の2保有という異常な条件で、旧長銀は売却された。叩き売りの上に、これでもかこれでもかのおまけつきである。それを皮切りに、「日本市場のバーゲン・セール」(浜田和幸氏)に、欧米の投資ファンドが相次いで参入した。掘り出し物の買い捲りである。

●本当に資産を売る売国的行動

 旧長銀の売却の際、日本側からは、中央三井信託銀行他のグループが手を挙げていた。外資への売却が決まったのは、競争入札の結果ではあるが、当時の旧長銀は、わが国の国有銀行である。外資から国益を守るという意志が政治家にあれば、自国の投資家に売却しただろう。わずか10億円の売却だったのだから、日本人投資家に買えないわけがない。
 それゆえ、旧長銀の一時国有化に始まる一連の展開は、外資に売り渡すための手順だったのだろうと私は考える。旧長銀の買収は、リップルウッドとその背後にいるロックフェラー、ロスチャイルド等、米欧の所有者集団によって、あらかじめ入念にシナリオが練られ、必ず勝負に勝てるやり方を日本政府に押し付けたものだったのだろう。そして、当然、日本側にこのシナリオに沿って、相手の条件を飲み、外資による買収を推進した人間がいたと考えられる。
 売国とは、一般に、私利のために、自国の内情や秘密を敵に通牒することをいう。国民を裏切り、国益を損なう行為である。国を「売る」と言うのは、情報を提供することを売買にたとえたものである。しかし、わが国には、本当に国を「売る」人間がいる。ここで国を売るとは、国民の資産を外国人に売り渡すことである。当然、それによって、売国をなした者たちは、私的な利益を得たに違いない。
 現代の日本には、国利民益を損なうことで、私腹を満たす者がいる。国を売る政治家・財界人を一掃しなければ、日本の富は奪われ続け、日本は衰亡する。国民が一致団結しなければ、国家は内部から崩壊する。日本人は精神的に団結することが必要である。旧長銀の買収と後に述べる郵政民営化は、この課題を鮮明に浮かび上がらせるものである。

●旧長銀の買収に暗躍したハゲタカ・ファンド

 旧長銀の買収には、CFR・TC・BCのような国際組織、ロックフェラー、ロスチャイルドのような財閥の関わりが浮かび上がってくる。米欧の所有者集団が連合を組んで、日本に攻勢をかけのが、旧長銀の買収だったと思う。そこで、旧長銀の買収に暗躍した人物と組織の動きを見ていきたい。

 長銀買収の中心となったのは、リップルウッド・ホールディングスの最高経営責任者(CEO)ティモシー・C・コリンズである。
 コリンズは、当時まだ40代半ばという若さだった。イェール大学出身のコリンズは、投資ビジネスの世界に入り、プライベート・エクイティ・ファンド(PEF)の運用を学んだ。PEFとは未公開株式を取得し、株式公開や第三者に売却することで利益を得ることを目的とした基金である。1995年(平成7年)、コリンズは、創業社長として新興投資ファンドであるリップルウッドを設立した。
 旧長銀の買収によって、コリンズは、欧米のメディアでは「マッカーサー将軍以来のインパクトを日本にもたらした男」と言われている。マッカーサーは、大東亜戦争で、日本を破り占領した。大東亜経済戦争で、日本はアメリカとの金融の戦いに敗れ、「第二の敗戦」を喫し、第二の占領を受けた。第ニの占領で象徴的な出来事が、旧長銀の買収である。この買収の成功によって、コリンズは「マッカーサー将軍以来のインパクトを日本にもたらした男」と言われているわけである。
 買収された旧長銀は、新生銀行に改称された。コリンズは、新生銀行のスタートの際、取締役の一人となった。リップルウッドは、05年(17年)に日本向けファンドのみ対象とするRHJインターナショナルに社名を変え、コリンズがCEOとなった。その後、コリンズは07年(19年)2月、新生銀行の取締役を辞任した。
 銀行にしても、他の会社にしても、その企業を買収して経営することが目的ではなく、儲けるだけ儲けたら、自分は去る。狙った獲物を食い漁り、漁り終わったら、次の獲物に向かう。これが、コリンズらの機関投資家の行動パターンである。「ハゲタカ・ファンド」と呼ばれる所以である。

ゴールドマン・サックスと買収者たちの関係

 それにしても、リップルウッドは、わが国では、ほとんど無名の新興投資ファンドだった。そうした会社が、どうして旧長銀の買収で指名されることになったのか。
 わが国の金融再生委員会は、長銀の経営再建のアドバイザーとして、ゴールドマン・サックスを指名した。アドバイザー契約は、1999年(平成11年)2月に結ばれた。GSは、長銀の譲渡先としてリップルウッドを推薦してきた。
 リップルウッドには、GSの共同経営者だったクリストファー・フラワーズがいた。フラワーズは最年少でGSの共同経営者となった逸材である。そのフラワーズが、GSからリップルウッドに移って共同経営者となったのが、98年(平成10年)11月。そのわずか3ヵ月後に、GSが日本国政府とアドバイザー契約を結んでいる。
 リップルウッドは、ニューLTCBパートナーズを通して旧長銀を買収した。パートナーズには、99年(11年)5月に、GSからユージン・アトキンソンが経営者として移っていた。しかも、アトキンソンは、同時にリップルウッドの共同経営者ともなっている。GS出身でクリントン政権の財務長官、現在はシティ・グループの共同最高経営者であるロバート・ルービンも、リップルウッド社外取締役だった。
 それゆえ、日本政府アドバイザーとしてのGS、買収にあたるリップルウッド、実際に購入するパートナーズ。これら三者が、GS人脈でがっちりつながっていた。日本政府はこうした相手と交渉していたのである。売り手の手の内が買い手に筒抜けだから、相手の思うようにやられたわけである。
 日本政府は、10億円という破格の安値で長銀を売却した。その際、GSに成功報酬として7億円を支払った。国に入る収入は、残り3億円からとなる。政府はGSにアドバイザー料も払っていたから、実際に入る金額は、もっと少ない。ほとんどただで、旧長銀外資に接収させたと言っても過言ではない。
 長銀買収の推進者ゴールドマン・サックスとは、どういう会社か。GSは、もともとロスチャイルド系のユダヤ金融資本である。そこにロックフェラー財閥が融合し、ロスチャイルド=ロックフェラー連合の投資銀行となった。また、ニューLTCBパートナーズは、ロックフェラー財閥、ロスチャイルド財閥等が相乗りで出資した投資組合である。それゆえ、GSが、旧長銀の売却を主導して、ロックフェラー、ロスチャイルド等、米欧の所有者集団を儲けさせる一大プロジェクトを推進したものと考えられる。



新生銀行の役員の顔ぶれ

 2000年(平成12年)3月、旧長銀がニューLTCBパートナーズに買収されると、新たな役員が選出され、6月には社名が新生銀行に改められた。
 新生銀行の取締役12人の中に、リップルウッドのティモシー・コリンズとクリストファー・フラワーズが入った。そして最も注目すべきことは、デイヴィッド・ロックフェラーがそこに名を連ねていることである。
 会長兼社長に就いたのは、八城政基である。八城は、ロックフェラー系の企業であり、世界最大の石油会社であるエクソン(現エクソン・モービル)で会長秘書を務めた後、シティ・バンクの在日代表をしていた。八城は、シティ・グループの大株主であるデイヴィッド・ロックフェラーの命を受けて、新生銀行のトップに就任したものだろう。
 新生銀行の役員には、シニア・アドバイザー(上席顧問)として、ポール・ヴォルカーとバーノン・ジョーダンの二人が就いた。ヴォルカーは、デイヴィッドが頭取をしていたチェイス・マンハッタン銀行(現J・P・モルガン・チェイス)の副社長から、FRB議長になった。デイヴィッドとのつながりが強い。オバマ政権では経済回復諮問委員会委員長となっている。ジョーダンは、旧長銀買収の影で最も重要な動きをした人物である。「ワシントンきってのロビイスト」と言われるとともに、ロスチャイルド財閥に通じ、ビルダーバーグ・クラブの常任理事をしている。後に詳しく触れたい。
 こうした新生銀行の役員の顔ぶれからも、旧長銀の買収は、ロックフェラー財閥とロスチャイルド財閥等の米欧所有者集団が連合を組んで行った本格的な日本侵攻作戦だったことが分かる。
 なお、デイヴィッド・ロックフェラーとバーノン・ジョーダンは、2005年(平成17年)6月に新生銀行の役員を退任した。一定の成果を上げたので、自分たちは役職を離れたということだろう。
 続いて、この日本侵攻作戦に参加したロックフェラー、ロスチャイルド、ビルダーバーグ・クラブ等の動きについて見ていきたい。

デイヴィッド・ロックフェラーの日本来訪

 デイヴィッド・ロックフェラーは、新生銀行が誕生すると、自ら取締役の一人として経営に加わったことを先に書いた。この事実は、デイヴィッドが旧長銀の買収の背後にいたこと、また旧長銀買収を非常に重要視していたことを示している。彼ほどの巨人がどうして日本の一銀行に目をつけ、自ら取締役の一人になるのか。私は、日本市場進出における最大の獲物、郵政の民営化を目指した動きだったのだろうと思う。
 旧長銀の買収で活躍したティモシー・コリンズは、デイヴィッド・ロックフェラーの子飼いであり、リップルウッドの本社は、ニューヨークのワン・ロックフェラー・プラザにあった。コリンズは、デイヴィッドが設立した三極委員会(TC)のメンバーに選ばれている。
 新生銀行を巡るデイヴィッドの動きについて、詳しく書いているのが、金融ジャーナリスト、ジリアン・テットの「セイビング・ザ・サン」(日本経済新聞社)である。新生銀行スタート後、コリンズは2002年(平成14年)2月に来日した。本書によると、来日の「最も重要な目的は、金融庁新生銀行の対立が収拾がつかなくなるのを止めることだった」。そこで、コリンズは「フラワーズとともに、柳沢金融担当大臣に面談を申し入れた。うまく和解が成立するように、デイヴィッド・ロックフェラーにも同行してもらうことにした。」という。そして、2月27日、ロックフェラー、フラワーズ、コリンズは、柳沢に会いに行った。
 副島隆彦著「重税国家日本の奈落」(祥伝社)によると、この日、「デイヴィッド・ロックフェラー小泉首相首相官邸に表敬訪問している。時間はわずかに30分強といったところだ。その後、緊急の臨時閣議が1時間近くも開かれている」。同日夜、小泉首相は、読売新聞グループ会長の渡辺恒雄らが集まる「山里会」の会合に参加し、その日何が起きたのかを伝えたという。
 コリンズとフラワーズが「自分たちの主張を通すために親分のロックフェラーを同行させ、柳沢大臣に圧力をかけたことはこれで明白である」と副島は言う。これは、大親分のデイヴィッドが子分二人を従えて、自ら日本の首相や大臣に圧力をかけに来たと見た方が自然だろう。
 柳沢はこの半年後に更迭された。副島は言う。「柳沢及び金融庁と小泉・竹中内閣府の対立」の「裏側にはデイヴィッド・ロックフェラー自身の強硬な対日要求があった」と。柳沢の彼に次に金融大臣に任命されたのは、竹中平蔵である。この人事の背景には、アメリカからの強い圧力があった。小泉首相は柳沢の首を切って、竹中に替えることで、アメリカの意向、なかんずくデイヴィッド・ロックフェラーの要望に応えたものと考えられる。

(ページの頭へ)



第4章 作戦を立案・策定した国際組織

●日本侵攻のシナリオをCFRが提案

 旧長銀の買収は、単なる外資に乗っ取りではない。組織的な日本侵攻作戦の第一弾だった。そこには作戦計画があり、そのシナリオに沿って侵攻がされたものと思う。その作戦計画はどこで作られたのか。私は、ここでもアメリカの外交問題評議会(CFR)の関与に注目する。
 20世紀の初頭、アメリカは、日露戦争に勝利した日本を仮想敵国とする戦争計画を立てた。オレンジ計画である。その計画が1940年代の対日軍事戦争の青写真となった。CFRは1930年代〜40年代のアメリカの対日政策を立案し、その提案がアメリカの外交や軍事に反映された。1990年代の対日経済戦争においても、CFRは、様々な政策を立案した。その提案が他のシンクタンクや投資家グループ等の提案と総合され、米欧の広範な連合体制のもと、策定・実行されたのだろうと推測する。
 2000年(平成12年)に発行されたCFRの文書に、「新たな始まりーー日米経済関係」というものがある。アメリカ通商代表部のメンバーや共和党民主党の議員、民間の研究者等がチームを組んで作成した文書であり、民主党上院議員ジョン・デヴィソン・“ジェイ”・ロックフェラー4世が共同議長の一人として参画していた。
 この文書が描いた日本経済の未来シナリオを、浜田和幸氏は、次のように要約している。「コントロールを失った日本経済の暴走を抑え、世界経済への悪影響を食い止める。日本の政治家や金融当局には、そんな大胆な力はない。唯一あるとすれば、日本の金融市場を破壊すること。その後、欧米の資金で牛耳る。これを『構造改革』として推進させる」ものだと。
 このシナリオに基づき、欧米の政治家、金融機関やメディアのトップがひそかに会合を重ねたと浜田氏は言う。CFRによるシナリオだけでなく、国際経済研究所(IIE)等のシンクタンクハーバード大学スタンフォード大学等のアジア太平洋金融作業グループ等による提案を受け、「長銀破綻からリップルウッドによる買収、そしてゴールドマン・サックスモルガン・スタンレーなど欧米の投資顧問会社のノウハウを使って、日本の金融資産をコントロールするシナリオ」が作られたのは、ビルダーバーグ会議においてだと浜田氏は言う。

●対日経済戦争の背後にビルダーバーグ・クラブが

 ビルダーバーグ・クラブ(BC)の会議には、リップルウッドによる旧長銀の買収に資金を提供したロックフェラー財閥、ロスチャイルド財閥等、米欧の大口投資家の多くが参加している。
 BCは、アメリカと西欧の支配層による排他的なクラブである。デイヴィッド・ロックフェラーは、1970年代の初めに日本を加えることを提案して断られ、日米欧三極委員会を作ったという経緯がある。BCでは、1990年代には東欧地域の安定や旧ソ連の経済復興とエネルギー資源の開発が中心課題だった。その後、アジア経済、なかでも日本市場の開放が重大な関心テーマとなった。
 旧長銀の破綻の時期には、長銀の国有化と日本市場が議論され、「特に一部の参加者の間では、外資による長銀買収は、日本の金融改革にとって願ってもないチャンスとの見方が大勢を占めたという」と浜田氏は伝えている。ここで米欧の所有者集団の大連合が組まれ、欧米白人種による対日経済戦争の侵攻計画が、策定されたのだろう。そして、米欧資本による日本占侵攻作戦の第一弾が、旧長銀の買収だったと考えられる。
 「長銀の破綻、国有化、アメリカ資本による再生、日本市場の独占。すべてが巧妙に仕組まれていた。長銀の買収は欧米資本による日本占領を意図した「先制攻撃の第一波」と位置づけられていたのである」と浜田氏は言う。私の見方では、この作戦計画は、アジア通貨危機を含む大東亜経済戦争の作戦計画の一環として立案されたものだろうと思う。

ビルダーバーグ会議にコリンズが参加


 リップルウッド・ホールディングスのティモシー・コリンズは、旧長銀の買収に乗り出した直後から、ビルダーバーグ・クラブの会議に招かれた。当時最年少の参加者だったが、常連メンバーとなった。

 コリンズをBCに仲介したのは、バーノン・ジョーダンである。ジョーダンは、BCの常任理事だった。BCの幹部が、コリンズをBCに入れたのである。
 ジョーダンは、黒人公民権運動の活動家として全米に名を馳せ、投資銀行家としても成功した人物である。本業は弁護士であり、アメリカン・エキスプレス、ダウ・ジョーンズ、IBM、レブロン、バンカーズ・トラスト等の大企業の社外取締役を30ほど務めている。

 ジョーダンは「ワシントンきってのロビイスト」とも言われる。クリントン大統領の内政担当顧問として、「数々のスキャンダルに見舞われた大統領を救った影の実力者」と浜田氏は紹介している。

 旧長銀に関し、ゴールドマン・サックスが日本政府のアドバイザーになったのは、ジョーダンの働きによるものだった。長銀の売却先としてリップルウッドを推薦したのも、GSの共同経営者だったフラワーズをリップルウッドに送ったのも、「影のフィクサー」を自認するジョーダンが「舞台裏で演出した結果に違いなかった」と浜田氏は言う。

 ジョーダンは、リップルウッド社外取締役を務め、同社を誕生以来、育てていた。コリンズやフラワーズを動かして旧長銀の買収に成功すると、新生銀行のシニア・アドバイザーに就任した。

 ポール・ヴォルカーと同列ゆえ、ジョーダンの大物振りがうかがえる。ヴォルカーもビルダーバーグ会議の常連である。ジョーダンとは親しいはずである。

 コリンズは、ジョーダンのもとでビルダーバーグ・クラブの会議に参加した。そこでデイヴィッド・ロックフェラーロスチャイルド一族、ベアトリクス女王、米欧の有力政治家や経済界と面談する。コリンズが、彼らビルダーバーガーの意思を体して、旧長銀の買収や新生銀行の経営に当たったのだろう。
 浜田氏は次のような見解を述べている。「コリンズとはビルダーバーグ会議の実働部隊として長銀買収に乗り出した男と解釈されても、あながち間違いではないのである」「ジョーダンやロスチャイルドが日本の金融市場を狙って無名のコリンズを采配しようとしたことは容易に想像がつく」と。(浜田和幸著「ハゲタカが嗤った日」集英社インターナショナル


●米欧所有者集団の連合による大東亜経済戦争


 コリンズを投資ビジネスの世界に連れ込んだ」のは、フェリックス・ロハティンである。ロハティンは、オーストリア出身のユダヤ人であり、ウォールストリートを代表する金融業者の一人である。ロスチャイルド代理人として、19世紀半ばから営業しているラザード・フレール社のトップである。
 ラザード・フレール社は、フランス人のラザール三兄弟が最初アメリカで設立。その後、パリのラザール・フレール、ロンドンのラザード・ブラザーズ、ニューヨークのラザード・フレールの3つのグループとなり、それぞれ別会社として運営されてきた。2000年(平成12年)に統合されて一つになり、本社はフランスにある。

 コリンズは、ロハティンが影響力の絶頂期にあった時期に庇護を受け、プライベート・エクイティ・ファンド(PEF)の運用を学んだ。ロハティンに才能を買われたコリンズは、ロスチャイルド財閥との関係を築く。コリンズがリップルウッドを立ち上げた時、最初に投資したのは、ロスチャイルド財閥とモルガン・スタンレー社だった。

 コリンズは、ジョーダンという大物をバックに持っていたのだが、ロハティンとジョーダンとつながっており、ジョーダンはラザード・フレール社の取締役でもあった。

 このように旧長銀の買収とそれを皮切りにした日本市場への侵攻は、ロックフェラー、ロスチャイルド、ビルダーバーグ・クラブ、CFR等が協同で行ったものだった。表で活動するコリンズを取り巻いて、ゴールドマン・サックスの人脈があり、彼らを提携させるジョーダンがおり、さらに奥には、デイヴィッド・ロックフェラーロスチャイルド一族、米欧の所有者集団が連合を組んでいた。

 20世紀半ば第2次世界大戦では、米英蘭ソ等による国家の連合体が、連合国として日本と対戦した。それがわが国の戦った大東亜戦争である。これに比し、20世紀末から21世紀初頭にかけての大東亜経済戦争では、米英蘭等の所有者による資本の連合体が、日本と対戦した。前者における連合国にあたるのが、今回はビルダーバーグ・クラブだったようである。

 大東亜経済戦争における連合は、国家間の軍事同盟とは異なる、資本間の経済同盟である。経済同盟は、軍事同盟のように、政府が主権を行使して条約を締結するものではない。民間の企業・団体・個人間の私的な契約である。しかし、軍事条約もまた契約であり、経済同盟は私的な契約とはいえ、イギリス王室やオランダ王室等が参加し、交渉は政府を相手ともする。経済同盟の契約は、軍事同盟と比較し得る国際的な影響力を持っている。爆弾の代わりに紙幣を使い、領土の代わりに株式を争う戦争が、現代の世界では行われている。

(ページの頭へ)



第5章 アメリカによる郵政民営化

アメリカの日本侵攻としての郵政民営化

 旧長銀の売却は、巨大国際金融資本による日本市場への本格的進出第一歩に過ぎなかった。国際金融資本家にとって最大の獲物は、郵政資金だった。そこで進められたのが、郵政民営化である。
 郵政民営化は既定のことで、何をいまさらと思う人が多いだろう。実はそうではない。郵政民営化が重大な局面に入るのはこれからである。しかも、2008年(平成20年)9月より深刻化した世界経済危機の中で、郵政民営化を今後どうするかという課題は、わが国の浮沈に関わるほどの事柄として、いっそう重要度を増してきているのである。
 わが国の多くの人は、郵政民営化を単なる国内問題と理解している。しかし、その本質は大東亜経済戦争に続くアメリカの日本侵攻にあり、米欧と日本・アジアの国際関係という構図で捉えるべき問題である。これからそのことを述べたいと思う。その点から始めないと、どうして郵政民営化は見直しが必要なのか、そしてその見直しが世界経済危機に直面するわが国にとって、興亡を左右するほど重要なのかが明らかにならないからである。
 最初に郵政民営化の国内問題としての側面を述べ、次に国際問題としての側面を述べる。
 まず郵政民営化の国内問題としての側面から記す。
 2001年(平成13年)1月、行政改革の一環として中央省庁の再編が実施された。この時、郵政省の郵政行政及び郵政事業部門が再編された。同年4月、小泉純一郎が首相となった。小泉は1979年(昭和54年)の大蔵政務次官就任当時より郵政民営化を持論としており、小泉内閣郵政民営化を重要施策の一つとして掲げた。
 小泉は首相となる前、郵政民営化を主張する根拠として、?全国に宅急便が行き渡っているから郵便は民間に任せても大丈夫、?郵便貯金が民間の金融機関を圧迫している、?郵貯の巨額の金が財政投融資に回って問題を起こしている、という三点を挙げていた。しかし、1993年(平成5年)に郵貯金利は市場金利に連動し、民間の銀行に比べて有利でない水準に定められた。郵貯が民間銀行を圧迫していると単純には言えなくなったのである。また、2001年(平成13年)には、郵政が郵貯簡保で得た資金を全額自主運営することになった。郵政資金が直接財務省に預託される構造は改められ、財務省は財投債を発行し、郵政は市場でこれを購入するという形に変わった。郵政資金は、この時点で財投から切り離されたのである。こういう改革が行われたうえで、03年(15年)4月1日、独立法人である日本郵政公社が発足した。この時点で、小泉が掲げていた論拠のうち、?と?は改善が進んでいたのである。
 ところが、小泉内閣は、国民にこうした実態を知らせることなく、郵政民営化を「聖域なき構造改革」の最大課題だというイメージを振りまき、法制化を強力に推し進めた。
 2005年(17年)7月、郵政民営化関連法案は、衆議院でわずか5票差で可決された。しかし、その翌月、参議院では否決された。すると、小泉首相は民営化の賛否を国民に問うとして、衆議院を解散した。憲法の規定に外れた解散だった。
 自民党には、様々な理由で郵政民営化に反対する衆議院議員がいた。その一部は、党を離脱し、新党を結成した。党に残った反対派は、選挙で公認を得られなかった。さらに民営化に反対した議員の選挙区には、「刺客候補」が立てられた。国民の多数は、連日のマスメディアの報道によって、民営化に賛成の者は改革派、反対の者は改革反対派という単純なイメージを植えつけられ、法案がはらむ重大な問題点を知ることがなかった。

郵政民営化は根本的に見直すべき

 こうして実施された05年(17年)9月11日の衆議院議員総選挙で、与党は3分の2以上の議席を獲得した。歴史的な大勝だった。10月14日、特別国会で与党の圧倒的な多数により、郵政民営化関連法案が可決した。自民党は民営化に反対した議員に、除名や離党勧告等の厳しい処分を科した。
 そして、2007年(19)年10月1日、郵政民営化がスタートした。この日、郵政公社は解散し、「日本郵政グループ」が発足した。郵政事業は、持ち株会社日本郵政と、郵便、郵貯簡保、窓口の4事業に分社化された。当面、日本郵政の株式はすべて政府が持ち、3年ごとに民営化の進め方の点検と見直しが行われることになってはいる。しかし、郵政選挙以後の自民党は、民営化を根本的に見直す意見を封殺ないし排除する政党に変貌した。それゆえ、現状では大きな方向転換は期待できない。
 私は、05年(17年)、郵政民営化の是非が議論されていた当時から、小泉政権の民営化案に強く反対する意見を明らかにしている。当時の掲示文を私のサイトに掲載しているが、その見解は変わらない。反対の最大の理由は、巨大国際金融資本が、郵便貯金と簡易保険に預けられた約350兆円を狙っており、小泉政権が進めた郵政民営化は、その国民の資産を外資に差し出す危険性が高いことである。
 このような観点から郵政民営化法案に反対したのは、当時自民党の国会議員だった平沼赳夫小林興起小泉龍司城内実等であった。また評論家の森田実も同様だった。東谷暁関岡英之等も、これに近い見方だった。
 私は、民営化の進められた今からでも遅くはない。郵政民営化は根本的に見直すべきだと考えている。現在は政府が株式を保有しているが、今後その株式が市場で売却されることになれば、日本国民の資産は徹底的に外資に食い荒らされる。それが根本的見直しを求める理由である。

関連掲示
・マイサイトの「経済・社会」のページの拙稿
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion13.htm
03「国家破産の危機と日本再生の道」
05「郵政民営化より財政の根本的立て直しを」

●米欧外資の意思を実現した竹中平蔵

 次に郵政民営化の国際問題としての側面を述べる。この側面を述べるには、郵政民営化に重要な役割をした人物、竹中平蔵氏のことから語らねばならない。竹中氏は、小泉内閣の閣僚として、日本経済の「聖域なき構造改革」の断行を標榜し、郵政民営化を強力に推進した。竹中氏なくして、郵政民営化は実現しなかった。とりわけ外資の求める形での郵政民営化は。
 竹中氏は、1998年(平成10年)7月発足の小渕内閣で経済戦略会議の委員となり、「日本経済再生への戦略」と題した答申を発表した。続く2000年(12年)4月からの森内閣ではIT戦略会議の委員となり、情報技術政策に関する提言を行った。ちなみに長銀が破綻したのが98年(10年)10月。そして。リップルウッド・ホールディングを中心とするニューLTCBパートナーズによって新生銀行と改称されたのが、2000年(平成12年)6月。わが国が「マネー戦争」に敗れ、外資が日本市場に本格的に進出し始めた時期と、竹中氏が経済政策で頭角を現した時期とは、重なり合う。
 2001年(平成13年)4月小泉内閣が発足すると、竹中氏は民間人でありながら経済閣僚となり、経済財政政策担当大臣、金融担当大臣等を歴任した。05年(17年)10月発足の第3次小泉改造内閣では総務大臣郵政民営化担当大臣を務めた。こうして竹中氏は小泉政権の5年5ヶ月の間に、わが国の経済・金融を大きく改造した。その政策は、新自由主義に基づくものである。
 新自由主義とは、国家による経済的規制を緩和して、市場経済における競争を重視する理論であり、市場原理主義である。
 わが国の経済政策に深く関わるようになる前、竹中氏は、アメリカのピーターソン国際経済研究所(IIE)の客員研究員だった。IIEは、1981年(昭和56年)に設立され、新自由主義の経済思想を唱導してきたシンクタンクである。
 IIEの創設者にして初代会長が、ピーター・ピーターソンである。ピーターソンは、ロスチャイルド系のリーマン・ブラザーズ・クーン・ローブの会長を務めた後、ニクソン政権の商務長官となった。その後、ニューヨーク連邦準備銀行の理事長等を歴任した。ピーターソンは、デイヴィッド・ロックフェラーの友人として知られ、デイヴィッドをIIEの名誉会長に迎えている。自分はデイヴィッドが主導するCFR及びTCの会員となり、デイヴィッドのグローバリズムを推進している。
 1985年(昭和60年)、デイヴィッドがCFRの理事長を退任した際、その後任となったのが、ほかならぬピーターソンである。ピーターソンはCFRの理事長を20年以上務め、2007年(平成19年)に退任して名誉理事長となった。1985年以来、企業の買収合併を専業とするブラックストーン・グループを率いて今日に至っている。
 竹中氏が客員研究員をしていたIIEの所長は、フレッド・バーグステインである。バーグステインは、プラザ合意の筋書きを書いた人物として知られる。竹中はピーターソンやバーグステインといったデイヴィッド・ロックフェラー系の経営者の下で、新自由主義の経済政策を研究し、わが国の改造に乗り出してきたわけである。それゆえ、竹中氏の経済政策は、米欧の巨大金融資本の意思を実現しようとするものといえよう。
 米欧の巨大国際金融資本の側にすれば、竹中氏を日本政府の中枢に送り込み、日本の経済政策を主導させることによって、日本侵攻を一層拡大し、加速することができる。そして、竹中氏を通じ、日本侵攻における最大の獲物である郵政資金を市場に引き出すために、郵政民営化を推進させることができたのだろう。

郵政民営化アメリカが強く要望

 郵政民営化の国際的側面とは何か。郵政民営化アメリカの強い要望によるものだった。
 アメリカ政府は、1995年(平成7年)の「年次改革要望書」において、早くも郵政民営化に言及した。その後、何度も日本に郵政民営化を要望し続けていた。
 「年次改革要望書」とは、1994年(平成6年)から毎年10月にアメリカがわが国に提出している文書である。
 関岡英之氏の名著「拒否できない日本――アメリカの日本改造が進んでいる」(文春新書)は、衝撃的な事実を明らかにした。ここ10年以上の間、日本で「改革」と称して実行されてきた政策は、ほとんどアメリカの国益のためのものであったというのである。関岡氏は、これを「アメリカによる日本改造」と呼んでいる。この改造の「指針書」となっているのが、「年次改革要望書」だという。これを読めば、日本の構造改革は米国政府の指示によるものであり、「米国政府の、米国政府による、米国政府のための大改造」であることが理解できると関岡氏は言う。
 例えば、半世紀ぶりの商法の大改正は、アメリカ企業が日本企業を乗っ取りやすくするものだった。会計基準は、アングロ・サクソン諸国のルールを国際統一基準にする動きが進んだ。時価主義会計の導入は、多くの日本の企業を破綻に追い込んできた。株価が安く、不良債権をかかえているからである。公正取引委員会の規制強化のため、アメリカは委員の人数まで要望し、郵政民営化に先だって所轄庁を総務省から内閣府に移させまでした。司法制度の改革も、アメリカ企業が日本の政府や企業を相手に訴訟しやすくするためのものとなっている。他にも、枚挙に暇がない。
 小泉―竹中政権の郵政民営化論は、民間で出来ることは民間へ任せる、官業が民業を圧迫してはならない、だから郵政公社を株式会社にすべしという思想に基づく。これは、新自由主義による市場原理主義、すなわち市場万能・自由競争・規制緩和の考え方である。小泉―竹中政権は、このアメリカ発の考え方をわが国に注入した。それによって、アメリカの日本への要望は、容易に実現されるようになった。
 小泉―竹中政権は、アメリカの日本改造計画に従って、構造改革を進めた。立法・行政・司法のあらゆる分野で、アメリカに都合のよいように改革が進められた。そうした「アメリカによる日本改造」の中で、アメリカが最も強力に要望したのが、郵政民営化だった。

国益のための民営化ではなかった

 国民経済には、民間の活力を生かすことが必要である。しかし、民営化がすべての分野、すべての業種でよしとするのは、安直である。特に政府が、ある事業の民営化を企画・推進する場合、政府が主体的に真に国益を追求する姿勢を持っているがどうかが重要である。
 国鉄電電公社等の民営化は成功したが、それはわが国が主体的に国益を追求していたからである。小泉―竹中政権の郵政民営化は、これらの例とは、異なっていた。アメリカの圧力で押し切られ、アメリカの保険業界等の利益に貢献するような進め方がされた。そこに根本的な問題がある。
 民営化とは、公営の事業を私企業にゆだねること、つまり私営化である。民営化の元の言葉は、英語の privatization。private(私有、私営)の事業にすることである。これを民営化と訳すことによって、官と民が対比され、官という悪から民という善に解放するというイメージがかもし出される。そのイメージを避けるために、私は、公と私、公営と私営という対比にしたほうがよいと思う。
 私営化には、私企業が行うことによる効率化、サービス向上等のメリットがある反面、私企業ゆえのデメリットもある。独占や過剰な利益の追求、外資の参入による雇用への影響等である。その両面を検討して、私営化の是非を見極めなければならない。無条件に私営化をよしとするのは、国利民益より私利私益を追求する者の姿勢である。
 郵政事業の民営化=私営化は、すべての国で成功しているのではない。サッチャー政権のもと新自由主義の政策を行ったイギリスは、郵政を私企業化したが、うまく行かず、一部元に戻した。ニュージーランドは私営化した結果、郵政を外資に買収されてしまい、国益を危うくしている。政府もマスメディアも、そういう例をほとんど国民に伝えていない。民営化=私営化で成功した代表例はドイツだが、ドイツは郵政企業を国策会社のようにし、外国企業との競争力を高め、国際宅配業界で利益を上げている。政府・マスメディアは、こういう例も伝えていない。小泉ー竹中政権時代のわが国は、他国における民営化=私営化の失敗例・成功例をともに精査し、国家として戦略を立てた上で、郵政を民営化=私営化したのではないのである。アメリカに強く求められて、実行したに過ぎない。
 以下の文章では、読み安さに配慮し、引き続き「民営化」と書くが、私営化の意味とご理解願いたい。

●郵便ではなく金融資産をめぐる攻防である

 わが国の郵政民営化の中心的な課題は、郵便事業ではなかった。郵便局は、全国に約24000あるが、そのうちの地方・僻地の局の経営の非能率性の問題や、郵政職員が公務員身分だから働かないという労働意欲の問題等が、郵政民営化の問題の本質ではない。郵便事業は、民営化されようが、公社のままだろうが、国民生活に決定的な影響をもたらすほどのものではない。
 郵便事業が中心課題でないことは、アメリカが郵便事業については要望していないことで明らかである。
 大体、日本に郵政民営化を迫ったアメリカは、郵便を株式会社になどしていない。USPS(ユナイテッド・ステーツ・ポスタル・サービス)は国営の独立行政機関であり、職員は公務員である。この公社は、信書・書状・広告郵便物・定期刊行物などを独占している。自由主義経済の権化のようなアメリカは、郵便事業を公営でやっているのである。わが国が郵政公社でやることについて、そうしたアメリカから言われる筋合いはなかった。
 なぜアメリカは、わが国に郵政民営化を強く求めたか。それは、郵便局が持つ金融資産を狙っているからである。郵便局は、郵便貯金228兆円、簡易保険117兆円、合計348兆円もの金融資産を保有している。郵政民営化問題の本質は、外資による日本の資産強奪をめぐる攻防なのである。
 郵政事業が民営化され株式会社化された時、「ゆうちょ銀行」と「かんぽ生命」の株式が、ハゲタカ・ファンドに一挙に買われ、日本国民の資産が、合法的に買占められてしまうおそれがある。そのことをめぐる攻防が、郵政民営化問題なのである。
 現在の郵政民営化計画では、2010年(平成22年)までに「ゆうちょ銀行」「かんぽ生命」の株式が上場される。来年の話である。さらに2017年(29年)までに、両社の株式は完全売却される。いま見直しをしないと大変なことになる。

アメリカの保険業界が簡保の民営化を要望

 郵便局の金融資産と書いたが、アメリカが明示的に要望してきたのは、そのうち簡易保険の民営化=私営化である。しかし、簡保を民営化すれば、次は郵貯も対象とするのは、容易に予想される。
 まず簡保の話をする。郵政民営化を直接的に要望してきたのは、アメリカの保険業界だった。「年次改革要望書」がそれを示している。簡保の117兆円の資産が、米資保険会社が目をつけた獲物なのである。
郵便局の簡易保険は、少額でできる簡易な保険である。元金を国が保証していたから、安心して加入ができる。だから、人気があり、国民の多くが利用している。簡保に預けられている保険金の総額は、わが国の国内の保険会社の保険金の合計額に、ほぼ匹敵する。日本国民が保険にかけるお金の半分は、簡保に向いているわけである。そこにアメリカの保険業界が目をつけたのである。
 バブルの崩壊後、日本生命住友生命明治安田生命など、わが国の保険会社は、不良債権と低金利の影響で厳しい経営を強いられてきた。そこへ、アフラックアメリカンホーム・ダイレクトなど、アメリカの保険会社が、ものすごい勢いで進出してきた。毎日何回となく、テレビ・コマーシャルが流れ、日本の保険と比べていかに有利かが視聴者の脳裏に刷り込まれる。自動車保険医療保険など、どんどん顧客は外資に流れる。
 しかし、簡保は郵便局がやっている。実質的に、国営の保険だった。わが国の保険市場は、それによって半分は公営、半分は私営業というような状態にあった。日本の保険市場に進出する外資にとっては、簡保があることによって、進出できる範囲が半分に限られるわけである。
 アメリカの保険業界は、日本の簡保に対して敵意を剥き出しにし、公営としての優遇措置を廃止せよと圧力をかけてきた。アメリ保険業界は、郵便事業と保険事業を切り離して完全に民営化=私営化し、全株式を市場で売却しろと要求してきた。簡保を解体することで、日本の保険市場を全面的に占領しようと図っているのである。それゆえ、郵政民営化の核心にあるのは、日米保険摩擦なのである。

アメリカの圧力で郵政民営化法案は書き換わった

 アメリカは、郵政の監督官庁を移せ、とわが国に要求した。郵政3事業は総務省管轄だが、民営化すれば、簡保は純粋な保険会社になる。だから、金融庁の管轄下に移管せよ、というのである。アメリカは、公正取引委員会内閣府に移させた。これも、アメリカ資本の進出の際に、政府機関を使って揺さぶりをかけるための布石だった。
 アメリカは、2000年(平成12年)の年次改革要望書で、所管庁を総務省から内閣府に移すよう要求した。総務省は郵政事業を管轄しているため、同じ傘下にある公正取引委員会郵政民営化において中立に動くか疑わしい、というのが理由だ。この要望の出た3年後に、公取委の所官庁が変わった。
 郵政の民営化=私営化について、わが国の政府の郵政民営化準備室とアメリカ政府・関係者との協議が、2004年(平成16年)4月以降、18回行われた。そのうちの5回は、アメリカの保険業界関係者との間の協議だった。このことは、05年(17年)8月5日の郵政民営化に関する特別委員会で大門実紀史参議院議員の質問に答えた竹中郵政民営化担当相が、明らかにしている。どうして、わが国の郵政民営化を検討するのに、アメリカの保険業界と協議しなければならないのか。アメリカの保険業界が、わが国に郵政民営化を求め、圧力をかけてきたからである。
 05年(17年)3月に発表されたアメリカ通商代表部 (USTR) の「通商交渉・政策年次報告書」には、04年(16年)9月に閣議決定した「内閣の設計図」に「アメリカが勧告していた修正点が含まれている」と述べている。アメリカの勧告でわが国の郵政民営化法案の骨格が書き換えられたことが、米国政府の公式文書に記載されているのである。
 郵政事業が分割民営化されれば、切り離された新簡保会社は、一番先に外資の餌食になるだろう。アメリカの保険会社は、新簡保会社をM&Aによって傘下におさめることができる。不良債権で含み損の多い日本の保険会社は株価が安い。株式交換による三角合併なら、手に入れるのは、苦もないことだろう。
 郵政民営化の国際的側面を延べるに当たって、まず竹中平蔵元大臣について書いたが、日本国政府の中枢に送り込まれた竹中氏は、米国政府及びアメリ保険業界を代弁する役割を忠実に果たしていたと考えられるのである。

簡保の次は郵便貯金が狙われている

 簡保への攻撃は、それにとどまるものではない。簡保の次は、郵便貯金がある。これこそ巨大国際金融資本が狙う最大の獲物である。
 郵便貯金は、全国各地にある郵便局の窓口で預けられる。少額でできる簡易で安全な貯蓄手段となっている。元利払いを国が保証していたから、金が集まった。簡易保険も同様の理由で人気があった。かくして、日本の国民の個人金融資産1400兆円のうち、約4分の1が、郵貯簡保に預けられている。郵貯228兆円、簡保117兆円、合計で345兆円である。
 郵貯の預金高は、簡保の資産の約2倍ある。その預金高は日本国内の銀行の総預金高にほぼ匹敵する。郵便・保険・窓口とともに分割されて株式会社になったことにより、ゆうちょ銀行は、世界最大のメガバンクとして誕生した。その規模は、シティ・グループの4倍である。国民の多くは銀行とともに郵貯を利用している。地方に行けば、預金は主に郵貯に預けている人が多い。郵貯は、日本国民の金融資産のうち、約半分を占めているのである。しかし、アメリカの要望に沿う形で、郵政民営化が強行されたため、国民の貴重な資産がアメリカに奪われる危険にさらされている。

 小泉―竹中政権の郵政民営化は、とにかく郵政公社を株式会社にし、郵貯簡保345兆円を市場に出すという露骨な姿勢だった。竹中は郵政民営化担当大臣当時、郵貯簡保の資金を市場に開放することが、日本経済の活性化になると説いた。安易な民営化は、国民の資産に外資が食いつけるよう、市場に引き出すものとなる。
 ゆうちょ銀行は、それ自体が、外資M&Aの格好の対象となる。韓国は、IMFの管理下に入ってから、激しい吸収・合併によって主要銀行は3行のみとなった。そのうち2行は株の7割を外資保有する。残り1行も6割近くが外資保有となっている。
 わが国では、海外から日本への投資を促進する目的で、2006年5月施行の会社法三角合併が盛り込まれた。三角合併は、外国企業が日本に設立した子会社を通して、日本企業を買収する手法である。そのまま施行する危険性を感じた政治家・経済人の動きによって、1年間凍結されたが、07年5月に解禁となった。これにより、外国企業は現金を調達せずに、自社の株式を対価として、日本企業を吸収合併することができる。そのため、三菱東京UFJ・三井住友・みずほのような大銀行ですら、外資に買収されないとは限らなくなっている。ゆうちょ銀行もまたそうした企業買収の対象となる。

アメリカ資本のための郵政民営化

 アメリカは財政赤字に苦しんでいる。その赤字解消の期待をかけたのが、日本の郵政民営化だろう。345兆円の郵貯簡保資金は米国の経常収支赤字の4年分に当たる。民営化で売り出される株式を買い占めて、民営化された持ち株会社の経営権を握れば、郵貯資金をこの赤字に振り向けることができる。従来もわが国は米国債を買うことでアメリカの帝国経済を支えてきた。アメリカはもっと多量の国債を日本に買わせようとするだろう。ゆうちょ銀行の経営権を握れば、会社の経営判断でそれができる。
 小泉首相は、ブッシュ子大統領との会見で、再三にわたって、郵政民営化を約束した。ブッシュ子も小泉に民営化を強く求めた。ブッシュ子は、アメリカの巨大国際金融資本の経営者である。その背後にいる金融資本家こそが、郵政民営化を望んでいたのである。彼らの中心には、デイヴィッド・ロックフェラーがいた。
 日本の郵政民営化は、アメリカのための郵政民営化だったと私は思う。具体的に言えば、アメリカ資本のための民営化=私営化である。
 ちなみにアメリカでは、1950年代に郵便貯金を廃止する議論が興り、66年(昭和41年)に廃止された。そのために、ニューヨークのユダヤ系を含む大銀行が、全米の各州に子会社(現地法人)を作り、郵便貯金を自分たちの資金にしてしまった。それによって、ニューヨークの金融資本が、アメリカ全土を金融で支配するようになった。郵便貯金が廃止された結果、建国以来の支配階層であったWASP(ホワイト・アングロ・サクソンプロテスタント)が衰退し始め、ユダヤ系を含む金融資本が勢力を振るう国になったのである。これと似たことが、今度は、金融属国・日本で繰り返されようとしている。

ゴールドマン・サックス代理人日本郵政の社長に

 2006年(平成18年)10月に郵政民営化の準備企画会社「日本郵政株式会社」の初代社長に、西川善文氏が就任した。本年(2009年)、後に触れる「かんぽの宿」の一括譲渡問題で、西川氏の責任が問われ、社長職の留任を認めるかどうかが、大きな政治問題となった。
 日本郵政の社長に西川氏を起用したのは、小泉内閣当時の小泉首相竹中大臣である。西川氏は日本郵政に転ずる前、三井住友銀行の頭取をしていた。さらに前は住友銀行にいた。住友銀行は1986年(昭和61年)、ゴールドマン・サックス(GS)に対して5億ドル(約700億円)を出資し、証券業務のノウハウを学んだ。三井系のさくら銀行と合併して三井住友銀行となった。西川氏は、その頭取となった。
 西川氏は、2002年(平成14年)1月に三井住友銀行の持つGSの株式をすべて売却し、3000億円の売却益を得た。この年12月、西川氏は、当時GSのCEOだったヘンリー・ポールソンに付き添って、竹中平蔵大臣を訪問した。竹中氏は同年秋、金融担当相となり、不良債権処理を加速させる「金融再生プログラム」を策定し、05年(17年)3月末までに不良債権比率を半減させるよう、金融機関に求めていた。そのため竹中氏は、大手銀行と必ずしも友好的な関係にはなかったのだが、西川氏とは親密な関係にあった。

 三井住友銀行は、資本増強のため2003年(平成15年)に優先株を5000億円規模で発行した。そのうち、1500億円をGSが引き受けた。当時、三井住友銀行は、存続の危機にあった。旧三和銀行金融庁から追い詰められて三菱東京フィナンシャル・グループに吸収合併された直後のことで、「次の標的は三井住友銀行だ」と言われた。頭取の西川氏は三井住友にとって極めて不利な増資引き受けをGSに頼まざるを得なくなったのである。ちなみに、明治時代から、三井はロスチャイルドと、三菱はロックフェラーとの関係が深い。
 もともとロスチャイルド系だった三井住友銀行は、GSと深い関係を持つようになり、やがてGSの下で動くようになった。西川氏は「ゴールドマン・サックス代理人」とも言われた。そうした西川氏が日本郵政の社長になったのである。
 先に書いたように、ゴールドマン・サックスは、旧長銀の買収において、重要な役割を果たした。日本国政府のアドバイザーとなって、旧長銀の売却を進めた。リップルウッドやニューLTCBパートナーズに配置した同社の人脈を使って、日本から大きな利益を上げた。そのGSと、日本郵政の西川社長はつながっているわけである。
 ゴールドマン・サックスは、ロスチャイルドとロックフェラーが相乗りしている金融機関である。実質的なオーナーは、デイヴィッド・ロックフェラーの甥ジョン・デヴィソン "ジェイ" ロックフェラー4世と見られる。デイヴィッドとジェイの間では、世代交代の争いが行われているようだが、ジェイは、単独ではデイヴィッドに対抗できないので、ロスチャイルドと提携している。その提携の主要な機関の一つが、ゴールドマン・サックスなのである。
 私は西川氏を日本郵政のトップにすえた人事は、小泉元首相・竹中元大臣の個人的な判断ではなく、巨大国際金融資本の意向を反映したものと推測する。そこには、郵貯簡保の資金を金融市場に引き出し、外資と買弁によって山分けしようという思惑があるに違いない。

●ロックフェラーを中心とした外資と日本の資本との戦い

 郵政の民営化=私営化を推進してきた政治家たちは、旧長銀外資にただ同然で売り渡した政治家たちと重なる。従米売国の政治家によって、日本の金融的な隷属が徹底され、日本の伝統文化が破壊され、日本がアメリカの属州のごとき存在と化していく。経済的自由化は、合理主義の思想である。しかし、その理念を追求することで、日本を売り渡すことは、日本の自滅行為である。
 郵政民営化は、日米保険摩擦であり、アメリカの保険業界が簡保を狙って要望してきたものである。アメリカの十大保険会社のうち6社は、ロックフェラー系である。ロックフェラー系保険会社の筆頭は、世界最大の保険会社AIGアメリカン・インターナショナル・グループ)である。AIGの元会長モーリン・グリーンバーグは、デイヴィッド・ロックフェラーの影響下にあるCFRの副会長をしていた。日本に郵政民営化を求めるアメリ保険業界を牛耳っているのは、ロックフェラー財閥なのである。
 私は、本稿で簡保の次は郵貯が狙われており、郵貯こそ最大の獲物だと書いてきた。ロックフェラー系を中心とするアメリカの金融機関は、日本の銀行を買収の対象としてきた。旧長銀は、見事に買