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本の窓に映った音楽の風景・・ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-10-07

「歌謡曲春夏秋冬-音楽と文楽」 (阿久 悠) を読んで - その2

  • 電話

街を歩く。ふと気がつくと、半分ぐらいの人が携帯電話を耳にあて、声高に話しながら、歩調も乱さずに歩いている。老若男女である。特に限定された世代の流行ということではなく、少女もいれば、中高年の風格ある男性もいる。

歩きながら話さなければならないような緊急の用件が、そんなに通常的にあるものだろうかと、ほくは不思議に思う。ぼくには、電話とは緊急のためのものという考えが、強く居座っている。もう少し観察してみる。一分一秒の遅れで億単位の損失を出すような金融取引をしている人が、六本木の雑踏の通行人の半分もいるとは思えない。また、死ぬか生きるかの問題を抱えている人が、そんなに多くいるとも考えられない。

第一、そのような切羽詰った顔で話しているわけではない。実に普通の顔である。普通よりももっと隙のある無防備の顔である。


>歩きながら話さなければならないような緊急の用件が、そんなに通常的にあるものだろうか

>ぼくには、電話とは緊急のためのものという考えが、強く居座っている。

携帯電話に関しては、ぼくも阿久氏と同じように感じる事があります。ここ数年、やっと携帯を使うのに慣れたせいか、昔ほど感じなくはなりましたが・・。やはり、ぼくも、「電話とは緊急のため」という感覚を持っている、電話完全普及前の世代の人間なんですよね〜・・。携帯を使うようになったとはいえ、待ち合わせ確認等、緊急な連絡に使うのが主で、他はメールで済ませています。相手の時所かまわずに携帯に電話を入れるのには少々気が引けたりしますし・・。というか、ぼく自身が、「むやみやたらに電話して来て欲しくない!」という人間だからなんでしょうね(笑)ま、端的に言えば、電話があまり好きではないんですね。阿久氏も同じなんだと思います。


さらに考える。ぼくにとっては、電話の会話は秘め事である。他人に聞かせるものでもないし、出来れば、電話を掛けている姿も見られたくない。姿を知られるのは仕方がないとして、表情や口の動きは隠したい。

・・中略・・

携帯電話で話しながら街行く人には、秘め事の感覚はまるでない。無防備である。誇示しているかと思える人すらいる。肩がぶつかりそうな雑踏で、聞く気がなくても会話の内容がわかることがある。ぼくの方が気を使って何も聞こえていないという顔をするのだが、ご当人は一向に平気で、声をひそめることもない。その内容は、当然に、わざわざ電話で、それも歩きながら話すことでもあるまいという内容である。

ぼくには、そのことの方が恥ずかしい。他人様が群れているど真中で、大声で話すこともあるまいと思う。どうやら、携帯電話というのは、人間を透明人間にしてしまうらしい。群衆の中の一人という緊張感を、見事に忘れさせてしまっているのである。


>どうやら、携帯電話というのは、人間を透明人間にしてしまうらしい。

携帯といえば、携帯音楽プレーヤーってのがあります。今や、携帯電話もその機能を備えています。携帯音楽プレーヤーってのも、観ていると、携帯電話と同じ不思議さを漂わせている感じがします。満員電車の中でシャカシャカいわせてる姿を見ると、まさに透明人間ですよね(笑)

ぼくらオヤジ、ウォークマン第一世代であったわけですが、さすがに昔は、満員電車や雑踏の中でまで聞いているヤツは少なかったですね。電池の値段が高かったりしたせいもあるでしょうが、やはり、メインの使い方は、長時間新幹線に乗る時とか、待ち合わせの喫茶店での暇つぶしとか。そんなにいつでも何処でも、のべつまくなしに音楽を聴きたいからってわけではなかったような・・??

ウォークマン第一世代の頃は、「音楽を聴く」という行為が、まだまだインドアなものでしたからね〜。「レコードの時代」ですから、部屋でひとり、秘め事のような感覚で音楽(自分の世界)を楽しんでいたところがあるような気がします。

今やもう、音楽リスニングや電話はアウトドアでも主流になってしまっていますから、群衆の中も、自分の部屋も分け隔てなんかなくなってしまったんでしょうね〜・・



ぼくの青春時代は、電話が無いことが普通の暮らしであった。一家に一台電話を持つようになるのは、昭和四十年代も半ばになってからで、当時は、業務用として必要不可欠か、よほどの金持でないと、電話は無かった。学生で電話のある部屋に住んでいるなどというのは、聞いたことがない。

・・中略・・

ぼくは、つくづく電話が普及しきっていない時代に青春を送れてよかったと思っている。電話が無いことによって、ほくらは本当の自由を手に入れることが出来た。電話が無いために、親の心配や親の拘束から完全に解放されたのである。

だから、今の若者たちが、一人暮らしを始める時、何を措いてもまず電話というのがわからない。電話で繋がっている限りは、多くの人の支配と干渉が残されていることであり、たとえ、別の家で生活したとしても、心の拘束から逃れることは出来ないからである。いわば、発信機を付けられた渡り鳥である。

若者よ、自由を欲するなら、まず電話を手放せ。親との繋がりを支配と干渉でなく、愛情と祈りにするためには、簡単に連絡が取れないということがいちぼんであると、云いたいくらいである。

愛情と祈りといえば、男と女の恋愛関係でもそうである。ぼくらは、逢って、語って、別れてから、その次にまた逢うまでの時間は、完全な祈りであった。心変わりの心配も、祈るしかない。それが恋愛であろう。二十四時間電話を掛けつづけ、完全に相手の行動を把握しようとする心に、恋愛はたぶん芽ばえない。それは、すれ違いの不幸を防ぐ便利性で埋め合わせの出来ることではない。すれ違いもあって恋愛で、これの生じようのない進んだ環境の方が、人間の心にとっては、よほど不幸だと云うことが出来るかもしれない。


>ぼくは、つくづく電話が普及しきっていない時代に青春を送れてよかったと思っている。

ぼくの学生時代も、電話はアパートにピンク電話が一台。当然呼び出し。であるからして、実家から掛かってくる事はまずありませんでした。どんなに悪い事をしていようが、勉強もせずバンドばかりやって遊んでいようが、たしかに親の心配や拘束からは完全に開放されていました(笑)


>若者よ、自由を欲するなら、まず電話を手放せ。

といっても・・現実的にはもう無理でしょうね・・。ここまで過剰コミュニケーションが当たり前の時代になってしまうと・・。ただ、阿久氏のこの思いにも一理あるんですよね〜・・。若者が読んだとしても、「ふむふむ・・」って部分はあると思いますがね〜・・、無理だとはわかっていても・・。

現代の人間って、便利さの衣装をまとった「過剰なモノたち」に、逆に拘束され支配されているのかもしれませんね・・


この本に著されている、阿久氏の思いを、「ただの時代遅れのオヤジのボヤキ」と片付けてしまうのは簡単ですが、捨て去るには惜しい数々のボヤキがそこかしこに散見され、いろんな事を考えさせられてしまいました・・

「言葉」というものを追っていく事で、改めて「昭和」と「平成」の違いを痛感した次第であります!

2008-09-30

「歌謡曲春夏秋冬-音楽と文楽」 (阿久 悠) を読んで - その1

4309409121歌謡曲春夏秋冬―音楽と文楽
阿久 悠
河出書房新社 2008-07-04

阿久悠氏は、我々オヤジ世代に、圧倒的な数の思い出曲を提供してくれた、戦後昭和を代表する偉大な作詞家。

この本は、2000年に書かれたものなのですが、最近文庫化されたようですね。


さて、この本の内容は

  • まえがき

ここには、歌謡曲に使われた言葉について書かれています。主題、素材のこともあります。大体が普通名詞です。普通名詞は日常の最も手軽なコミュニケーションの道具で、いちいち考えてみないものです。それが、時代という背景を変化させるだけで、これほどの違いを持って響くのかと、わかって貰えるだけでも幸甚です。

・・中略・・

さて、言葉が少なくなり、その上、一つ一つが痩せて来ました。短縮や変換で表示される言葉は、本来の景色を持っていません。少しばかり残念な現実です。短縮して伝達される言葉を、一度元の大きさに戻して息づかせることが必要でしょう。そうしないと、言葉は最小の伝達の道具で終わってしまいます。歌もそうで、言葉に衝撃を受けることがなくなり、音楽の快感のみで完結しています。

・・後略・・

という感じです。

では、早速、読みながら感じた事を書いてみたいと思います。


まず「まえがき」のこの言葉。


>言葉が少なくなり、その上、一つ一つが痩せて来ました

適切な表現ですね・・。

確かに、昭和の時代に比べると、「平成の言葉」はいろんな意味で痩せてきて、身長も体重も減少してきた感はあります。様々な言葉が他の言葉(表現)に置き換わってしまったり、短縮形で表されるようになったりして、昭和まではその時代ごとに保たれていたであろう、言葉の持つ景色がぼやけてしまったように思います。

平成生まれであるウチの子供たちは、平成しか知らないわけですから、そんなこた〜知ったこっちゃないでしょうが(苦笑)、やはり、オヤジは少々寂しかったりします・・。こういう事を感じるのはやはり、ぼくが昭和生まれだったり、昭和の景色で育ったからなのでしょうね。


>言葉は最小の伝達の道具で終わってしまいます。歌もそうで、言葉に衝撃を受けることがなくなり、音楽の快感のみで完結しています

言葉がただのコミュニケーション道具になってしまうと、歌詞もコミュニケーション的なものになってしまいます。最近の歌詞が自分の事ばかり唄っていたり、ポジティブなメッセージばかり唄いたがるのを少々不思議に思っていたのですが、言葉に景色がなくなり伝達道具に変化してきているからなもかもしれませんね〜・・。言葉が、景色や雰囲気を伝えるためではなく、伝達の意味が強い道具であれば、そりゃ〜ウンチクのひとつもガツンと語らなきゃ意味がないですからね。

ぼくらはガキの頃、唄の歌詞でポワ〜ンと物語的な風景を想い浮かべてました。親はもちろん、祖母の世代もある程度は同じだったと思います。つまり、言葉の持つ景色感覚を異世代間でも共有できていたんでしょうね・・。言葉の景色感覚の強さからというよりは、昭和という時代の持つたおやかさのようなものが、みんなをそういう景色に導いていたのではないでしょうか。


そして、平成の今、確かに歌詞に衝撃を受けるという事がなくなってきました。現代の歌詞には、衝撃や感動というものより、「共感」を求められているように思います。ですから、曲が始まった途端、ある程度内容が読めてしまうような、予定調和的ポジティブソングが多いのかもしれません。歌詞が予定調和的になれば、サウンドの刺激が過剰化してくるのは当然でしょうし、また、はなから歌詞を重要視していない、サウンド志向の歌曲もたくさんありますしね。


そのような「平成の唄たち」は、平成という時代のニーズで生まれてきたものでもありますから、我々オヤジ世代がどうこう言うつもりはありません。しかし、最近、ぼくの同世代の仲間では「最近の唄、つまんない」という言葉が男女を問わずよく聞かれます。「歌謡曲」が一番輝いていた60年代半ば〜70年代に10代を過ごした世代だからなのかもしれません。歌謡曲→ニュー・ミュージックまではついていけても、ニュー・ミュージック→J-POPにはついていけなかったんでしょうね〜? 阿久 悠さんの唄を聞いて育ったせいですかね〜?(苦笑) やはり、「唄」を聞いて自分なりに景色を感じたい世代なんでしょうね・・



テクノラティプロフィール

2008-09-29

「身体の言い分(ぶん)」 を 読んで、音楽の事を考えてみる - その3

4620317314身体(からだ)の言い分
内田 樹
毎日新聞社 2005-07

前回からの続き・・


  • 帰るべきところは現実

池上

もともと、わたしたちが毎日経験している現実を、これはこの現象、それはあの現象、なんて簡単に分けることはできないんです。

・・中略・・

とにかく、現実を「あえて」分けて考えたら、そこから何が読み取れるかという試みが、理論というものだと思っているんです。

内田

そうなんですよね。でも、その「あえて」というところがあまりわかっていない。帰るべきところというのは、現実なんですよ。現実は、説明がつかないんです、簡単には。

だけどね、みんな逆に考えている。現実は単純で、理論は難しいと思っている。でも、そんなことはありえないですよ。

池上 ありえないですね。

内田

現実は複雑で、理論はそれを単純化したものだから。現実を見ていれば、ある意味理論なんかいくらでもつくることができる。現実から取り込めるものはほとんど無限なんですから。そういうふうに考えないで、「普遍的な理論」「統一原理」みたいなものを信じて、それでは説明できない現実にぶつかると、「あ、これは使えない」と言ってあっさり捨てて、次に乗り換えるって人、多いですよね。

池上 たしかに何かを言う時は、モデルでしか言えない。だけど、あるモデルを決めた時に、その条件下でこういうことが言えるんじやない、という話ですから、そのモデルを共有しないと言っていることが伝わらないんですよね、本当は。なのに、あるモデルの下のルールを、真理のようだと思ってしまってね。そういうことは学校では教えてくれないし。

内田 そうですね。

池上 それは真理じゃないですよね。

>現実を「あえて」分けて考えたら、そこから何が読み取れるかという試みが、理論

>現実は複雑で、理論はそれを単純化したもの

素晴らしい説明ですよね!

みんな、「理論」というものはこういう事だと、薄々は気づいてはいるんですが、ついつい「理論」という言葉のカッコ良さに負けて、いつのまにか崇拝してしまっているというのが現実ではないでしょうか?

音楽における「理論」も、完全後付け。まさに、過去に起こったある音楽現象を「あえて」分けて考えたら、そこから何が読み取れるかという試みだと思います。


>みんな逆に考えている。現実は単純で、理論は難しいと思っている。

これも、思いがちなことですよね〜。

逆に思ってしまう場合が多いから、難しいと思われるほうの「理論」に脳が傾いてしまい、様々な理論書なんかに触手を伸ばしてしまう人が多いわけです。

現実の超複雑さをしっかり把握した上で、理論的説明を自分なりに解釈していく事が大切なんだと思います!

実際は、音楽理論より、自分の納得いく演奏ができるかどうかのほうがよっぽど難しいわけですから。


>「普遍的な理論」「統一原理」みたいなものを信じて、それでは説明できない現実にぶつかると、「あ、これは使えない」と言ってあっさり捨てて、次に乗り換えるって人、多いですよね。

>あるモデルの下のルールを、真理のようだと思ってしまって

いや〜、コレは耳の痛い人が多いでしょう〜(笑)あれやこれや、次から次へと教則本を買い漁る人って結構多いですからね〜。

ぼくは、もともと音楽理論信奉者ではありませんから、音楽においてはそういう事はありませんでした。20代の頃「バークリーギターメソッド」とジャズ理論書みたいなやつを一冊買ったんですが、バークリーのほうは全然面白くなかったので、ドレミのポジション練習をしただけ。理論書の方は、コードの部分以外自分には必要なさそうだったんで、コードだけやって終わりでした(笑)元々、勉強嫌いでしたから(笑)


しかし、30代の頃、一度、マーケティングと自己啓発本に嵌ったことがありまして、次から次に買いまくった経験があります。ある本を読んで「そうだ!コレか!」なんて納得してたと思ったら、次の本で見つけた新しい理論にさっさと乗り換えたり・・ で、数年の間読みまくって、結局わかった事は、「なんだ・・こういう本の理論って全てが後付けじゃん・・」という事。「よくよく考えてみれば、未来のマーケットや人生なんてわかるわけないじゃん・・」という事でした〜(苦笑)



  • 念ずれば為る

内田

哲学者の木田元さんが書いたことですごく印象的な話があるんです。木田さんが学生時代にハイデガーの「存在と時間」を読んだ。でも、全然わからない。全然わからないけど、毎日読む。毎日三、四時間読む。そうして何日か読んでいると、次にハイデガーが何を言うかわかるようになってくる。ここが話のかんどころなんですけど、ある日「わかった」というのではないんです。ハイデガーがわかった、というのではなくて、次のフレーズがどういうふうに終わるかがわかった。それまで何を言っていたかが理解できたというんじやないんです。次に何を言うかがわかる。そういうものなんですよ、人間の理解というものはね。人間の理解能力って、時間的に今読みつつある文章よりも先を読んでしまうということがあるんです。軽くフライングして、先に行っている。そして、フライングして読んだとおりの文章が釆ると、「あ、こうなると思ってた!」というふうになるんです。

人の話を聴いていて「わかる」というのは、話を聴き終えて、なるほど言っていることがもっともだと納得する、というのではないですよね。本当は。そうじゃなくて、「あ、この人はこの話をこういうふうに結ぶな」ってわかって、そのとおりのことが起きた時にはじめて「ああ、なるほどそうですよね。ごもっとも」となる。どんなに理路整然とした話でも、どんなに辻褄が合っていても、次のフレーズが読めない場合は、「腑に落ちない」んです。「腑に落ちる」という時は、やっぱり「腑」が待っているんですよ。場所を空けて。その待っているところにすとんと落ちるから、「なるほど」となるわけで。

>ハイデガーがわかった、というのではなくて、次のフレーズがどういうふうに終わるかがわかった。

>次に何を言うかがわかる。そういうものなんですよ、人間の理解というものは

>フライングして読んだとおりの文章が釆ると、「あ、こうなると思ってた!」というふうになる

>どんなに理路整然とした話でも、どんなに辻褄が合っていても、次のフレーズが読めない場合は、「腑に落ちない」

この部分を読んでいたら、「音楽がわかる」という事もそうだな〜と思いました。

ある音楽を聴いて、最初、全くわからない場合がありますよね。「何だコレ?音痴音楽みたいじゃん」とかね(笑)

ガキの頃、先輩が「スゲ〜良いぞ!」なんて言って貸してくれたレコードが全然わからなかったりすると、なんか悔しくて、カセットに録音して何回も何回も聴いたりしませんでしたか?すると、だんだんわかってきたりするんですよね。まさに、「こう来たらこう来る」みたいな感じが。それがわかってくると、なんか快感が生まれてきて、結局そのレコードが好きになってしまったりするわけで。


昔のロックバンドって、バンドごとに個性的な様式美がありましたから、その様式の起承転結みたいなものがわかってくると快感でしたよね。

ロックだけでなく、ブルース、ソウルなんかの黒人音楽にも様式美がありましたし、特にジャズには割と明確な様式美がありましたね。ところが、ガキの頃のぼくは、ジャズだけは全く理解できませんでした。モダンジャズなんて、まさに「音痴」にしか聞こえませんでしたからね〜(笑)

ところが、時は過ぎて、20代後半の頃には、聴きやすいレベルのものなら、な〜んとなくは聞けるようにはなっていました。が、まだ、わかるまでには至ってませんでした・・。ジャズの一番の楽しみどころである「アドリブ」を楽しむ事ができなかったのです。フライングして、先読みし、「あ、こうなると思ってた!」とか「そうか、この手もあったか、やられた!」とはいかなかったわけです。しかし、この時点の快感の一歩手前状態が妙に悔しくて、結局30代になると、毎晩ジャズばかり聴くようになって・・

そんな事を続けていたら、だんだんわかってきたんですよ、アドリブの様式美が!繰り返し繰り返し聴いているうちに、バップのフレージングの起承転結が少しずつ身体に蓄積されたんでしょうね。で、も〜う、フライングできるようになると、聴いてて楽しいもんだから、以後ず〜っとのめり込みまくり!現在でも、自宅で聴く音楽はジャズがメインです。



  • 解釈するのは頭じやない

内田

自分の目の前でしゃべっている人が、正直者か詐欺師かって必ずわかりますよね。わかるのは、結局、相手のメッセージを受信する時に「コンテンツ」を聴いているわけじやない、ということです。何を聴いているのかというと、メッセージの「送り方」を聴いている。正直な人がまっすぐに語っている言葉は直接深く入ってくる。それは言葉の内容が理解できるできないとは別の次元の出来事なんですね。わからないけど、わかっちゃう。頭を使っているわけではないんです。もっとトータルな関わりですよね。

>相手のメッセージを受信する時に「コンテンツ」を聴いているわけじやない

>メッセージの「送り方」を聴いている

この言葉は、音楽をつくっている人間にとってはガツ〜ンときます・・ ちょい、ヘコみますね・・(笑)

音楽のリスナーは、音楽のコンテンツではなく、音楽の送り方を聴いているわけなんですよね〜・・


ちなみに、「コンテンツ」という単語を調べてみますと、

<IT用語辞典>

内容、中身という意味の英単語。

メディアが記録・伝送し、人間が観賞するひとまとまりの情報、すなわち、映像や画像、音楽、文章、あるいはそれらの組み合わせを意味することが多い。


<Microsoft HP>

インターネットなどの情報サービスの内容のことです。


<あるサイトでは>

コンピューターの「ソフト」と混同することを避けるために使用され始めた。

映画、アニメ、TV番組など。DVDなどのタイトルとして発売するために必要な「中身」を指す。

もちろんこの「中身」に魅力があるかどうかがヒットの鍵である


なんて書いてあったりもします。


ネット時代になった最近では、音楽の事も「コンテンツ」と呼ぶようになりましたが、以前は確かに「ソフト」と呼んでましたね。なんか、「ハード」に対する「ソフト」という言葉のほうが、まだ人間味があったような気がします・・。 「コンテンツ」すなわち、「情報」だと言われると、なんか無味乾燥な感じがしてちょっとイヤな感じが漂いますね〜・・


しかし、実際のところ、現在のポピュラー音楽はコンテンツ化しているとも言えます。ヒットに繋がる、中身や構造、情報の部分のほうが重要視され、「どう、何が伝わるか」、要するに、音楽の本来の特質である、「感動」や「波動」の部分は、制作時点ではあまり重要視されていない気がします・・。アーティストが悪いのではなく、制作サイドの問題だと思うのですがね〜。

頭で理解するのではなく、心に深く入り込んでくる「送り方のしっかりした音楽」でなければ、結果、音楽=CDは単なる商品(消耗品)になってしまいますよね。現在の音楽の消費行動は、アーティスト自体を好きになる事より、楽曲の「コンテンツ部分」だけに興味を持つ事のほうが多くなってきています。結果として、楽曲を次々と漁り、飽きたものは捨てられるという事に・・


音楽業界の衰退の原因はこんなところにもあるのかもしれないな〜なんて思ったりもしますが・・

2008-09-26

「身体の言い分(ぶん)」 を 読んで、音楽の事を考えてみる - その2

4620317314身体(からだ)の言い分
内田 樹
毎日新聞社 2005-07

前回の続きです。

  • 語る力を養え

内田

今の子たちの話って、話題が少ないんですよ。それぞれある種のジャンルについては詳しいんだけれど、別のことについては全然知らないし、興味もない。自分の知らない話題について適切な質問をして、その質疑応答で盛り上がる、というのはかなり高度なコミュニケーションなんですけれど、それができないですねえ。教養がほんとにないんです。文学についても美術についても音楽についても。

ぼくらの世代は教養主義最後の世代ですけれど、自分の好き嫌いよりもむしろどれくらい基礎的な教養があるかを優先するところがありましたから。ロック音楽みたいな趣味的なものにしても、どうせだれかの受け売りなんですけれど、えらそうに「あれはダメだよ、あんなのはロックじゃない」とかね、「あんな通俗的なものはダメだ」とか、「あれこそが真のロックである」とかね。単なる好き嫌いじゃなくて、「これはよい、これは悪い。なぜならば…」という「理屈」を言わなければならなかったんですよ。

で、理屈をこねるためには、やはり全体のマッピングというか、これがいい作品で、この辺がまあ許容範囲で、この辺は許せない、というような一望俯瞰的な記述をしないといけないし、その限りでは相手を説得するロジックや修辞法を駆使することも必要だったんですね。この、「何とならば」というのは、まあ「へ理屈」なんですけど、

・・中略・・

音楽みたいな領域に「好き嫌い」以外の「良い悪い」を持ち込むのは本来は邪道なんでしょうけれど、邪道とは言いながら、「なぜこの音楽はよいのか」を相手に必死に説得しようとする姿勢そのものは、悪くなかったんじゃないかなと思いますね。


>それぞれある種のジャンルについては詳しいんだけれど、別のことについては全然知らない

>自分の知らない話題について適切な質問をして、その質疑応答で盛り上がる、というのはかなり高度なコミュニケーションなんですけれど、それができない

仕事柄、若いミュージシャンと初めて会って話す事が良くあるんですが、確かにある種のジャンルには詳しくても、他は・・というケースは多いですね。

「これ知ってんなら、コレも?」と、こっちは思うわけなんですが、見事に知らなかったりします。

で、知らない事で会話はとぎれてしまうんです(笑)

>知らない話題について適切な質問をして、その質疑応答で盛り上がる

なんて事は記憶にありませんね〜・・。先輩や友達に、なんやかんやと質問して、くだらない話をする学生時代ではなかったんでしょうね・・

質問する事自体、ダサい事になってきているのかも?ですから、しらない話題に突入したら「早くこんな話題終われ〜!」って思ってるのかもしれませんね(苦笑)


>ロック音楽みたいな趣味的なものにしても、どうせだれかの受け売りなんですけれど、えらそうに「あれはダメだよ、あんなのはロックじゃない」とか

ぼくらの世代にも、こういう体質はある程度残っていました。中高生の頃でも、教室で「パープルよりツェッペリンが・・」とか「ビートルズストーンズじゃ・・」とか、へ理屈こねて、盛り上がって論争してましたね〜。「ギターが歪んでなきゃロックじゃねぇ!」とかね(爆)


>「なぜこの音楽はよいのか」を相手に必死に説得

そう、決してケンカなんかではなかったんですよね。青春時代の楽しい思い出です・・

池上

今は、好きなものは好きとか言ってね、語るのは恰好悪い、と若い人は思っているみたいですね。争うのが怖いのかもしれないですけどね。わたしは、お互いに、自分の気持ちを通そうとする姿勢は必要だと思うんだけど。

内田

やっぱり好みについて理論的に語ってみるというのは大事ですよ。

・・中略・・

今の子たちは「私はこれが好き」で終わりでしょ。だから論争にならないんです。「好き嫌い」は論争にならない。でも、「良い悪い」を言い出すとこれが論争になるんですよ。で、論争になると「あいつに『なんだ、あれも聴いてないのかよ』と言われたんでクヤシイ」というふうに好きでもないものを必死になって聴いたりする。教養としてね。で、教養として必死に聴いているうちに「ああ、けっこうよいものだなあ」となったりしますでしょ。

そういうふうに、論争に動機づけられた学習も決して無駄ではないわけで。やっぱり、学習は大事ですよ、子どもにとっては。だって最初に聴いて「好き」になった音楽だって、ラジオでDJがほめていたとか、友達が夢中だったとか、外的な情報がそれなりにあって、それで聴き始めて「ああ、いいな」と思ったわけで。そういう点では、「なんだ、これも聴いてないのかよ」と言われて、口惜しくて聴いた音楽だって、不自然な始まり方という点では別に変わらない。

「好き嫌い」の水準で語るべき問題を「良い悪い」の論争に繰り上げるというのは、まあ、無駄な言葉のやりとりをしているわけですけれど、それでも新しいものを学習していく、自分の素朴な「好き嫌い」という枠を超えて、別のものにとりあえず接触してみるという効用はあったわけですよ。今の子たちは、その「自分が好きじゃないもの」に接触してみるという機会が偶然しかない。

>今は、好きなものは好きとか言ってね。語るのは恰好悪い、と若い人は思っているみたいですね。争うのが怖いのかも

若いアーティストの卵なんかに「どういうヤツとか好きなの?」とかって聞く事が結構あるんですが、「ええ、まあ・・いろいろ好きですよ・・」「割と何でも・・」という返答が100%です。

「目指してるとか、めちゃ尊敬してるアーティストとかって?」と聞くと、「コレといって・・」という答えがほとんど。

なんか、「コレッ!」って言ってしまって、ぼくに「え〜、マジで〜?」とバカにされたらヤだなって思ってる感じ・・ まるで、「争い」や「気まずい空気」を事前に避けるテクニックを身に付けてしまっているみたい。

語るのは恰好悪いと感じている事もあるかもしれませんが、イジメを回避するテクニックとして、目立つ言動を避けてきた結果ともいえますね・・

ただ、聞いてる側からすると、「こういう答えじゃ、音楽に熱いヤツじゃなさそうだな・・」と感じて、ゲンナリしてしまうんですよね〜・・

お若い方々〜!若者どうしの会話なら、コレで良いんでしょうが、相手がオヤジの時は気を付けたほうが良いと思いますよ〜!(笑)場を読みながら、主張すべきところはしっかりと!


>「あいつに『なんだ、あれも聴いてないのかよ』と言われたんでクヤシイ」というふうに好きでもないものを必死になって聴いたりする。

>必死に聴いているうちに「ああ、けっこうよいものだなあ」となったり

知らないモノを友達が「良いぞ!」なんて必死に説明してると、「じゃあレコード貸せよ!」って話になるんですよね。「おまえ、そんなもん聴いてんなら、こっちを聴け!」と強制的に押し付ける先輩もいましたしね(笑)

で、そんな事を繰り返してるうちに、自然と好きなジャンル・アーティストがどんどん広がって・・ いつのまにか、全体のマッピングのようなものが見えてくるようになりましたね〜。友人や先輩に感謝です!


>新しいものを学習していく、自分の素朴な「好き嫌い」という枠を超えて、別のものにとりあえず接触してみる

コレはひとりでのオタク的活動のなかでは、なかなかできる事じゃないですよね。やはり、いろんなタイプの友人や先輩、交際相手等、幅広い他者からのインスパイアが必要です。


>今の子たちは、その「自分が好きじゃないもの」に接触してみるという機会が偶然しかない。

豊かな時代に育っていますから、何事においても「渇望」とか「好奇心」とかは全くといっていいほどないですね。ウチの子供なんか見ていてもそう思います。

自分から貪欲に何かを漁って行く事はしませんから、意外なモノとの新鮮な出会いが、偶然だけになっているんでしょうね。

出会いが偶然だけになってしまうと、メディアの情報が力を持ってきます。特にTV、これからはネットも。しかし、メディアの情報は企業の思惑が入ってますから、あまり純粋な出会いとは言えませんね・・(苦笑)

音楽において、好きじゃないものに接触する機会が減少しているからでしょうか・・ 定番大物アーティストばかりが売れて、裾野のダークホース的で良い味を持つアーティストは全く売れないという状態が、ここ数年当たり前になっています。景気低迷や、ケータイ通信費等に押され、余分なものに手を出せなくなってきているという状況も、それを後押ししている感じもしますし・・

リスナーの多くが、今より幅広い音楽に触手を伸ばすという状況に変わっていかない限り、音楽業界が大不況から抜け出すことはちょっと無理でしょうね〜。メーカーは、メディアの使い方を根本から考えなおし、先を見据えて大改革していかねばならない時期に来ていると思います。ますます小子化していく若者の偶然を待っていてもしょうがないわけですからね〜。

今後は、J-POPの新作の宣伝だけに注力せず、あらゆるジャンルの過去の名作も含め、ポピュラー音楽全体の素晴らしさを布教していくような活動が必要になってくるのではないでしょうか?

2008-09-25

「身体の言い分(ぶん)」 を 読んで、音楽の事を考えてみる - その1

4620317314身体(からだ)の言い分
内田 樹
毎日新聞社 2005-07

内田 樹氏の著作との出会いは、ほんの4〜5年前だが、様々なお題目を、彼特有のわかりやすい語り口で論破していく様はまことに痛快。

お気に入りライターの一人である。

世代的には団塊の世代の御方なのだが、団塊世代以降の、自分なんかの世代と考え方は似ているような感じがする。

全〇闘的反戦フォーク人種というよりは、ロック野郎っぽいし、武道家でもありますから、か〜なり、体育会的な匂いがする、好きですね〜(笑)


この本は整体・施術師、池上氏との対談をまとめたもの。この池上氏がこれまた痛快な御方。楽しく読ませていただきました!

さて、では、本文を引用しながら、いろいろと考えてみます・・



  • 正しい学び方

池上

今わたしは人の体の治療を仕事にしていますが、自分のやっていることを人にお話しする機会も多いんです。そこでわたしはある出来事に対する姿勢とか、考え方を伝えたいと思っているんですけれど、聴きに来る方々は治療家さんや治療家をめざしている方が多いこともあって、まあ当然なのかもしれませんが、みなさん具体的なことを教わりたがるんです。

たとえばこんな腰痛、こんな肩こりの場合はどうすればよいかという治療の方法を、みなさん知りたいわけです。けれども、あらゆる出来事は一つとして同じではないですから、すべてが異なることに対して何か決まった一つの方法があるわけではないでしょう。だから、ただやり方を教わるだけではだめですよ。自分で考えなければならないんですよと言うんですが、なかなか伝わらないんです。

>ある出来事に対する姿勢とか、考え方を伝えたい

>みなさん具体的なことを教わりたがるんです。

自分は、音楽にかかわる仕事をしてきましたもので、様々な現場や、会合の場なんかでも、こういう経験をする事が良くあります。職人的な仕事や、技術職・専門職を長くやってこられた方なんかも、こういう経験、多いのではないでしょうか?


>出来事は一つとして同じではない

>すべてが異なることに対して何か決まった一つの方法があるわけではない

>ただやり方を教わるだけではだめ。自分で考えなければならない

>なかなか伝わらない

全くその通りですよね〜・・。

自分も同じような事をよくお話するんですが、やはり、伝わりにくいんですね・・コレが・・。

例えば、「ギター演奏」というものには、「マニュアル」のような、単一真理とか原理のようなモノは本来はありえないわけです。

巷に溢れているマニュアル本は、「演奏」という超複雑な「現実」の一部を切り取って、単純化したものに過ぎないわけですよね。

また、何々云々の機材を使えば、「このプレイ・この音」が出せるわけではないというのが現実なのです。

作詞・作曲・編曲などの創作にかかわる事や、録音のテクニックなんかも同じ事ですね。

だから、「教わった」で終わらないで、「自分で考えなければ」いけなくなってしまうわけで。

面倒ですが、現実に対処していくためには、これはもう、仕方のない事ですね〜・・


幸いにも、我々オヤジ世代はガキの頃から、マニュアルなんてものがありませんでしたし、貧乏でしたし、情報過疎が当たり前でしたから、何でも自分で考えるよりほかありませんでした。模索する癖が、身体に染み付いてしまっているわけです。

逆に、共通一次が定着したあたりから以降の世代の方々は、様々なものがマニュアル化された世界で育ってしまってますから、いきなり「マニュアル無し」とか言われると、しんどいっすよね〜・・


  • コミュニケーションにいちばん大切なこと

内田

今の子どもたちの話を聴いていて、いちばん感じるのは、語彙の貧困というよりも「ヴォイス」の貧困ということなんです。一つしかないんです、語り口が。親に向かってしゃべる言葉と友達に向かってしゃべる言葉と先生に向かってしゃべる言葉との間に区別がない。

・・中略・・

池上 正しい敬語がどうこう、という以前の話ですか。

内田

敬語を使えないところか、話し方を一種類しか知らないんです。同じコンテンツを違うモードで伝えるというのはコミュニケーションの技術の中ではすごく大事なことなんです。それができないと、ほんとに自分の言いたいことも伝えられないし、相手のシグナルの機微も感知できない、コミュニケーション感度の低い人になってしまう。コミュニケーション感度が低いというのは、共同的に生きていく上で致命的に不利なことなんですけれど、そのことの重要性にまだあまり気づいていないですね。

ヴォイスが一つしかない人はチューニングができない。二つヴォイスがある人は、二つの周波数帯で交信できる。同じコンテンツを、同じ文法で語るんですけれども、ヴォイスが複数あれば、それぞれのヴォイスで微妙に違うことを語ることができる。

・・中略・・

自分の中で複数の声が輻輳していくってことがあるじゃないですか。そういうことができる人は、すごく、チューニング能力が高いというふうに言えると思うんです。自分の中で複数の声を出せる人はもちろん相手によっても声を変えることができるわけですね。声も変わるし、態度も変わる。トーンも変わるし、身振りも変わる。場合によっては、言っている内容までも変わる。前に言ったのとは正反対のことを相手が変わると平気で言える。

多チャンネルの人の場合は、それが深刻な矛盾にはならないんですね。そういういろんなヴォイスの使い分けができる人の特徴は、メッセージのコンテンツを首尾一貫させることよりも、コミュニケーションの回路を成り立たせることのほうが優先順位が高い、ということですね。コミュニケーションにおいて重要なのは、首尾一貫して同じことを言い続けることじゃない。「互いの声が届く」ということです。

>同じコンテンツを違うモードで伝えるというのはコミュニケーションの技術の中ではすごく大事なこと

音楽も、一種のコミュニケーションです。そして、「同じコンテンツ」=フレーズ・音階・リズム等々を各人が違うモードで伝えるわけです。

昔に比べると音楽のダイナミズムが小さくなり、個々の作品やプレイの差異がなくなってきているのは、

アーティスト(我々オヤジの世代も含め)の語り口の貧困傾向や、内田氏の言う「ヴォイス」の貧困傾向が原因なのかもしれないな〜、なんて思ってしまいますね。


>ヴォイスが一つしかない人はチューニングができない

>コミュニケーション感度の低い人になってしまう

話す能力と、聴く能力は相互に密接に関係していると思います。ですから、話す能力の退化は聴く能力の退化にもつながるのではないでしょうか?

新しい音楽にいち早く反応していく世代である、若者リスナーのチューニング能力が退化し、アンテナの本数が減っているのだとしたら・・

売れるジャンルは自ずと狭まり、また、多チャンネルの様々な音楽を好きになっていくリスナーは減少していくという事になりますね〜・・

結構、当たってるかも・・


>声も変わるし、態度も変わる。トーンも変わるし、身振りも変わる。場合によっては、言っている内容までも変わる。

>コミュニケーションの回路を成り立たせることのほうが優先順位が高い

>「互いの声が届く」事が重要

「コウモリの様な・・」なんて言葉がありますが、我々の世代って、多かれ少なかれそうかもしれないですね(苦笑)

やはり、その場のコミュニケーション回路の成立を重視する傾向は強いかなって思います。

特に女性の前では・・(爆)

内田

どんな場面でも、同じ顔、同じ声で押し通すことがよいことであるという考え方のほうが、今ではコミュニケーションについては支配的なイデオロギーですよね。どんな局面でも、どんな相手でも、つねに「自分らしさ」を貫き通せ、と。親に対しても教師に対しても、目上の人間に対しても庇護しなければならない人間に対しても、同じメッセージを同じ言葉づかいで語り続けろ、と。そういうことを言う人がいるんですよね、知識人たちの中にも。

これはね、非常によくないと思うんです。ありとあらゆる場面で「自分らしさ」を貫徹するということは、「場の特殊性」というファクターをコミュニケーションに際して勘定に入れないということですからね。自分が向き合っている相手がどういうふうに自分と違う立ち位置からこの場を共有しているのか、という自他の「ずれ」を一切顧慮しないで、ひたすら「自分らしさ」なるものを押し出してゆくというのは、意図的に自分のコミュニケーション感受性を殺すことに等しいわけですよね。

>「自分らしさ」を貫き通せ

という言葉、確かにいつのまにか主流のイデオロギーになってしまってますね〜・・

まかり間違えば、「KYになれ!」という事になりますよね!(笑)


>自分が向き合っている相手がどういうふうに自分と違う立ち位置からこの場を共有しているのか

PC内で完結する打ち込み音楽ではない、生演奏主体の音楽において、「自分らしさ」を貫き通せば確実にKY化してしまい、音楽自体が崩壊してしまいますね。

個人によるPC制作が増加しているのは、上記のイデオロギーも一因か?(苦笑)

なぜなら、ありとあらゆる場面で「自分らしさ」を貫徹できますからね〜・・


>自他の「ずれ」を一切顧慮しないで、ひたすら「自分らしさ」なるものを押し出してゆくというのは、

>意図的に自分のコミュニケーション感受性を殺すことに等しいわけですよね。

若者がコミュニケーションの不成立や不足に悩んだり、怯えたりしている事は良く聞こえてきますよね。

現実に悪影響を及ぼす恐れのあるイデオロギーの蔓延が、若者のコミュニケーションを崩壊させかかっているのかもしれませんね・・

「自分らしさ」なんて、押し出さなくっても出てるものだし、隠す事もできませんよね、残念ながら・・(苦笑)

変に気にする必要なんてないのにな〜・・。良いんじゃない!何事もその場のノリって事で。

オヤジミュージシャンは年取っても、ノリだけはええで〜!(爆)


内田

佐藤学先生が「身体のダイアローグ」一大部次郎社)の中で谷川俊太郎さんと対談しているんですけど、その時に谷川さんがすごくおもしろいことを言っていました。

詩として成立する言葉と成立しない言葉がある。その違いというのは直感的にしか言えないことなんだけれど、詩にならない言葉というのは「うるさい」と谷川さんは言うんです。「わたしが、わたしが」と言い立てる詩は、どんなに切実であっても、うるさい。たった三行でも、「わたしが、わた

しが」と言いつのる詩はうるさい。

逆に、言葉が、詩人の「わたし」から離れて、自立している言葉というのは、言葉自身が静かで、響きがよいということを言ってらした。

>詩にならない言葉というのは「うるさい」

歌詞にも、な〜んかただ「うるさい」だけの言葉がありますよね・・。そういう言葉は歌詞にはならないんですね・・


>「わたしが、わたしが」と言い立てる詩は、どんなに切実であっても、うるさい。

ありますよね〜!そういう歌詞!何か偉そうに聞こえてきて、いやになってきます。


>詩人の「わたし」から離れて、自立している言葉というのは、言葉自身が静かで、響きがよい

歌詞を語っている人物像や顔が見えてこない唄のほうが妙に感動できます。心地よいです。

小田和正氏の唄なんか、まさしくそんな感じがします・・


つづく・・