2007-07-08 私事化メモ(意味なく長いスルーせよ)
えーと、いまかなりちょっとテンテコマイ気味なんですが、じゃあ本当にテンテコマイかといえばそうでもなくって、やろうと思えばできることがやる気がないからできていないだけじゃないかと思ったり。
なんでもかんでも自己管理(セルフマネジメント)が求められる昨今の風潮に対して、一般論としては疑念を持ったりこれでいいのかと思う一方、自分自身の日常にひきつければ、結局「やることをやらないオノレのダメさ」を実感せざるをえない。
私は昔から精神論の類に生理的な無条件の反発を覚える中二病的傾向があって、「やればできる」「夢はかなう」「気合いと根性」みたいな文言が大嫌いであった。
いまでもマクロ的な世界認識(w)としては体内にそういう部分が色濃く残って(しまって)いる。
しかし年を重ねるにつれ思うのは、結局最後は(ミクロな局面では)「気合いと根性」こそすべてなのであり、それがあるなしで(積み重ねでみると)人生変わっちゃうという(あまりにも単純で、なんだよ今ごろそんなこと気づいたのかよと鼻で笑われそうな、わざわざこんなとこに書くなよボケ、的な)事実である。
たとえば世界チャンピオンになるには「気合いと根性」だけでは厳しいだろうが、野球でいう「この一球に対する球際の強さ」だとか、サッカーでいう「ロスタイム、あと一歩足が出るかどうか」みたいなのは、要するに「気合いと根性」の領域だからなー。
うまいこと言えないんですが、日々いろんな人に会っていろんな話を聞いていると、「みんな「とにかく生きてく」のに必死なんだなー」という素朴な実感、共感のようなものを覚える。
昔は「とにかく生きてくのに必死な人」というものにもうちょっとネガティブなイメージを持っていたような気がするのだが、いま自分が「とにかく生きてくのに必死な人」になってみると、ずいぶん浅はかだったなと。
肝心なのは、「とにかく生きてくのに必死な人」が生きてくために最低限必要なことだけを考えているかといえばそうでもなく、私などから見て実に立派な生活上の識見というか、あるいは生活に密着したあるべき人生への態度みたいなものを持っているケースがほとんどであること。
衣食足りて礼節を知る、というが、衣食ギリギリでも礼節がある人って、そうじゃない人よりよっぽどたくさんいるよなー。
すごいよねえ。
こういうの、まさに生活保守主義化、オッサン化以外の何者でもない感想なんだけど。
まあええわ、どうぞ批判してくれ!!!
と、今まさに「やるべきこと」をほったらかして「いらんこと」=日記してるのが最大の矛盾ではあるwww
読み返すと本当にツマランことかいてるなあwww これは酷いwww
しかし「松本人志の放送室」の1時間はダラダラすると自分に決めたのであるw
というわけであんまり長々とはしない方向で1点自分メモで。
マイミクさんの日記で「私事化」の話が出ていて、これが自分的にビビッと来た?(考えようによっては上で書いたグダグダにもつながるテーマ)。
というのも、私事化自体は何も目新しい概念ではないが、先日ある仕事を通じて「教育の私事化」について考えさせられたタイミングだったから。
教育はどこまで私事か(逆に言えばどこまで「公」のことがらか)というのも実に苔むした議論ではある。
ものすごく卑近な例で言うと、たとえば日本の大学の学費は世界一高くて、それはつまり国なり自治体なりが高等教育に振り向ける予算の比率が低いからだ、という話がある。
たしかに少なくない人がこうした文教政策の流れを批判しているが、なんだかんだで日本人は(相対的に)「教育は私事」であり、「応分の負担をした人が応分の教育サービスを受けるのが当然、仕方ない」という論理に流されつつあるように見える(いわゆる「欧米先進国」との比較で見ても)。
同じような傾向がもっと露骨にあらわれてしまっている(ように見える)のが、広義の「福祉」の世界だろう。
いわゆる自己責任論というのも、論理的にいって生活領域全般の「私事化」とまっすぐにつながる話だろう。
上記したマイミクさんの日記によれば、早い時期に日本の近代化と私事化の関係に注目したのが丸山真男だとか。
あるいは私の青春時代の流行だった(とかいうとまた怒られそうだが)フェミニズムなんかの裏テーマにもこういう問題意識はあったように思う。
言わずもがなの話を延々してきた。
先日ネットの世界でプチ話題となった内田樹センセイの「若者はなぜうまく働けないのか?」というエントリーがある。
http://blog.tatsuru.com/2007/06/30_1039.php
私はこれを一読して、率直に言ってひじょうに大きな違和感、もっといえば反発を覚え、(ふだんメッタにそんなことはしない)はてブにもコメントしてしまった。
(どうでもいいけど、このエントリーへのはてブの盛り上がり方は異常?
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.tatsuru.com/2007/06/30_1039.php)
あらためて読み返してみても、やっぱり「なんだかなあ」という思いがぬぐえない。
ただ一点だけ、ここからいろんな夾雑物を取り除いて、「私事化」の話としてとらえなおしたら、何か見えてはこないだろうか?
よく言われる、政治的な左(リベラル)−右(保守)と経済的なネオリベ−反ネオリベのねじれも、私事化の視点で見直してみたら?
つながるようなつながらないような話。
キャリア教育でいろいろ調べものをしていて検索していたら(そんなことやっている暇があったら、早く現場で取材しないといかんのだが……自分ができることは論理の組み立てじゃなくそっちなんだから……すみません)、こんなのが出てきた。ここから入って
http://www.jil.go.jp/event/ro_forum/resume/041117/
出てくる長須正明さんという方の講演資料↓。
http://www.jil.go.jp/event/ro_forum/resume/041117/nagasu2.pdf
長須さんはこの中で、今日の教育改革の流れを「画一化から個性へ、暗記から思考へ、知識から体験へ、受動から創造へ、他律から自律へ、競争から共同へ、分化から統合へ、指導から支援へ」とまとめ、「これらの方向を示す文言を我々は誰も頭から否定できないだろう」とした上で、あえて一定の批判(?)を加えている。
学ぶ意欲にあふれた児童・生徒,指示待ち人間ではない自立した個人,自ら問題を発見し・解決策を探り・行動できる人間を最初から想定した発想や施策は世の中の大部分を占める「普通の人」(取り立てて優れたところがあるわけではないが,それなりに職務を遂行する人)をバカにした現実離れしたものである。こうしたごく一部の人間を理想型とした「あり方」はあくまで強者の立場に立つものであり,大多数を占める私たち「一般の」「普通の」人間が追求すべきあり方でも,実現可能なあり方でもない。現実的なモデルとは何か?それは何のことはない「与えられた場」で「与えられたこと」を「それなりに」遂行する,私たちの日常の姿である。
キャリア教育に関しては、こうした「大きくは否定はできない、しかしその運営運用においていろんな問題をはらんでいる」概念がいっぱいあって、何しろ私もまだ大混迷しているのだが。
時間があるときにじっくり考えてみたいと思ったので貼ってみました。
(長須さんの議論自体、暴論、強引なまとめかなと思う部分もあるのですが……よくわからん。しかし同レジュメ後半に出てくる、「地域高校の実情 ある地域の高校教諭のメモから」なども興味深い)
皆様にもいろいろご教示いただけたら幸いです。
(異論反論歓迎……ただし私自身は現状では論じる実力がないので……逃げ腰ですみません)
「松本人志の放送室」も終わったので日記もオシマイ。
書きなぐりで失礼しました。あーストレス解消になった。 今は後悔していないw
追記
↑これだけ読むと、私事化って「受益者負担主義」的な「要するにお金の話」に読めちゃいそうですが、そういうことではないのです。
もーーー長くなっちゃうので今は書きませんけど。
重ね重ねすいません。
