2011-03-17
補足:原発訴訟の法的な意味
昨日付けの日記の補足を少し。
あの文章だけを読むと、
単純に原発を廃止すべしという意見の持ち主に、
少なくとも今はなっているように読めそうなので。
まあ、正直、原発というものにヘキヘキしてる面はないではないけど、
基本がヘタレなので「もう全部やめよう」とまで踏み切るほど、
自分の生き方に自信があるわけじゃない。
とりあえず押さえておきたいのは、
原発訴訟自体は「反原発」の立場の是非を争う訴訟ではないこと。
「原子炉設置許可処分」などに対して、
違法な行政処分として取消訴訟をを提起した、
というのが基本的な姿ということになってる。
「違法」ってのはどういうことかというと、
原子炉を設置し動かすためには、
当然国の許可が必要なわけだけれど、
その許可をすることができることと、
どういうときに許可ができるかということを決めた法律があって、
その法律に反してないかどうかというのが、
違法かどうかの問題ということになる。
その許可基準を本当に満たしているのかどうか、
といったことを問題にするものであると。
そういう法律にはたとえば1条に「目的規定」があって、
「徹底的に安全管理をさせた上で原子炉を使わせる」
みたいなことが書いてある。
その上で、どういう基準を満たさないといけないかということが、
専門家が集まった委員会なんかで決められたりするんだろう。
つまり、原発を作ることは前提になっている。
そういう法律に照らし違法だと主張することは、
たとえば、
原発のような危険なものを作る法律は憲法に違反しているから、
原子炉設置許可処分は許されない、
みたいな主張をすることとは異なる。
もちろん、原告になってる人には、それなりの割合で、
原発そのものをやめろという思想の人が含まれるだろう。
その思想を実現するために裁判制度を利用してる面は、
まあ、あるだろうと思う。
ただ、裁判自体はその思想を実現するものとは必ずしもいえない。
僕が昨日書いた「もう少し何かできなかったか」というのは、
あくまで、そういう訴訟の枠内で行えたことはなかったか、
ということ。
もっと安全性を高める結果を裁判で導けなかったか。
もっと妥当な人の体制を構築することを求められなかったか。
この時期に原発判例を読むと泣きそうになる
えらいことになった。
増え続ける死者に予断を許さない放射能被害。
つい先週まで人生最高レベルのクライシスだった
「司法試験の日程が迫っている」という事実が
むしろ安全なものにさえ感じられる。
つうかこの状態で本当に試験を予定通りするのか?
他に何もできないので勉強は続けてる。
今は行政法判例を追っかけたり。
そうすると、原発判例にぶつかる。
泣きそうになる。
もんじゅ訴訟の高裁判決なんか、
原子炉から20km以上離れた周辺住民には
原告適格(訴える資格)がない
として却下(門前払い)判決をしたりしてる。
18年前にこの判決を書いた裁判官は、
今この状況を見て何を思ってるだろうか。
さすがにそんな無茶苦茶な判決は
最高裁でひっくり返されている。
「事故があれば大変なことになるだろ」と、
炉から58km離れたところに住む住民にも原告適格を認めた。
でも争う資格を認めただけで、
別に原告を勝たせるわけじゃない。
今まさに問題になっている福島第二とかも、
原子炉設置許可処分の取消訴訟が提起されたけど、
結局アレである。
最高裁判決の基本の理屈は
1 エネルギー政策は民主的な政治の場で決めるべき
2 高度な専門的科学知識をもつ専門家の判断は尊重する
3 裁判所は「あるべき判断」を下すことはできない
4 出された結論に「不合理」があれば違法にする
というもので、
要するに、
「そんなむつかしくて責任重大なこと、
よう判断せんわ、
わしらに期待せんでくれ」
ということだ。
裁判官として裁判を投げ出しはしないけど、
そこでいう「不合理」というのは、
実際には「誰が見ても判る大間違い」くらいの意味だろう。
法律家の限界か、
文系の限界か、
事故なんて起こらないでほしいよね、という意味の、
他人任せの楽観論か。
僕もそれ以上の理屈なんて思いつかない。
それ未満の存在だから。
だけど、だけど、
もう少し何かできなかったのか。
法ができたことは何かなかったのか。
もし「この先」が幸運にも残されているなら、
考え続けなきゃいけないと思う。