2011-12-03
事実と当為
今、夕方の配達の仕事に加えて、
早朝から午前中のお歳暮関係の短期バイトもしている。
ちょっとバタバタしていて、
この日記はおろか、
勉強さえも滞っている。
だからというわけでもないけど、
今日まで掲示板をまだ見ていなかったりする。
なので、もし何か掲示板で反応をいただいていても、
これから書くことはそれへの対応ってわけではないと。
とりあえず思いついたので先に書くことに。
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1
学校の講義で聞きかじったレベルの知識見識しかないのだけど、
法哲学では、
存在(事実、ドイツ語のザイン)と
当為(べき論、ドイツ語のゾレン)とを
峻別しなさい、
なんてことを習ったりする。
1−1
たとえば、我々の社会には
「人を殺してはいけない」という規範があるけれど、
それ自体は我々一人ひとりの心の中にあるだけで、
この世に何かが物理的に存在しているというわけではない。
そういうものを当為というらしい。
つまり「殺すべきではない」という「べき論」である。
1−2
それに対して、その規範は法律の形になっている。
法律自体には形はないけれど、
国会議員が多数決をしたとか、
法典に文字として記載されるとか、
そこには物理的な事実をともなうことになる。
そこで、法律は「存在」していると考えられる。
1−3
すごく大雑把にいえば、
事実が先か当為が先かというのは議論が分かれる。
つまり、一方で、
規範があるから法を作るのだ、
法は社会に存在する規範を発見する行為なのだ、
とする考え方がありうる。
必ずしも正確じゃない気がするけど、
自然法的な発想ということができるだろう。
他方で、
法があるから規範が生じるのだ、
とすることもありうる
これもそんなに正確じゃないけれど、
法実証主義って名前がついてる考え方。
ちなみに、頭の悪い僕なんかはすぐ混乱しちゃうけど、
事実に基づいて生まれる規範というのもあって、
それは上の二つの争いとは別の次元の話になる。
たとえば、『殺人罪の規定』があることで、
「人を殺した者は処罰すべきである」という規範が生じる。
そこで、『AがBを殺した』という事実があると、
「Aを処罰すべきである」という規範が生じる。
事実と当為は入れ子状態になってるんだね。
ちょい遡れば、
殺人罪という法律が存在できるのは、
『国会で殺人罪という法律を立法した
ただし平成に平仮名に法改正してるし、
法改正しないという消極的な立法を
今の国会がしているともいえる)』
という事実があるからで、
なんでその事実から殺人罪規定が効力を持つかといえば、
「国会の作った法律を守るべき」という当為が生まれるから。
なので、少しだけ正確に言えば、
上の自然法論と法実証主義との対立は、
基本的には「なんで憲法を守らなきゃいけないか」って点で、
それをどう説明するかを争っているもの、
ということらしいのだけど。
ここら辺は余談なので小さい文字で。
1−4
要するに、法や政治の議論をするとき、
今、事実に属する話をしているのか、
当為に属する話をしているのか、
というのを意識して明確にしないと、
話が噛み合わなくなってしまう。
逆に言えば、
政治や法の議論が噛み合わないとき、
かなりの確率で事実と当為の混同が見られる。
2
僕は
「原発のコストは高い」
とこの日記に書いた。
まるで物理的客観的にコスト高である、
と言っているように聞こえるかもしれない。
まあ、僕の書き方も悪かった面はある。
しかし、文脈を追えば、意味がわかるだろうと思って書いている。
僕が一貫して言っているのは、
原発を動かすのならもっとコストをかけるべきだ
ということである。
事実ではなく当為の方なんだよね。
2−1
事実として高いと言うためには、
実際にいくらであるかをある程度つかむ必要があるだろう。
2−1−1
たとえば、
スーパーに出向いたわけでもなく、
折り込みチラシを見たわけでもなく、
ネットで調べも人に聞きもしていないのに、
「今日のニンジンは高い」なんて言ったら、
お前は何を言ってるんだということになる。
それは当然。
「高いと言うなら根拠を出すべき」という批判は、
そういう行為に対してなら妥当するだろう。
2−1−2
さらに、もっと言えば、
「高い」というのは必ずしも『事実』というわけではない。
それは「評価」であって、
事実そのものではないからだ。
つまり、『高いと評価できる価格であった』という事実を根拠に、
自らの主観として高いという評価を表明することになる。
それは一種の当為だろう。
『この値段なら高いと評価すべきだ』ということだから。
とりあえず、値段を知らずにそんな評価ができるわけがない。
そこに事実の根拠が必要なのはもちろんだ。
2−2
しかし、繰り返すけども、僕がしていたのは、
物理的客観的な価格の高さの主張ではない。
「今よりももっと高くすべきだ」という当為の議論だ。
そのような当為は、
基本的には僕の心の中にある規範意識から生まれる主張であって、
必ずしも客観的な事実の根拠を要するものではない。
2−3
もちろん、事実の裏付けがまったくない当為は、
何の説得力もないものであって、
「勝手に言ってるだけ」というものになりがちではある。
その手の当為の最たるものは宗教だ。
宗教家はいきなり「正しく生きろ」みたいな当為を言い出すし、
あえて根拠を出すとしても生まれ変わりとか天国とか、
まったく存在している根拠のない『事実』を持ち出してくるわけで。
ただしそんな当為であっても、
少なくとも論理的に誤りということなんかできない。
単に多数決でその意見を法的政治的に押し込めることができるだけ。
2−4
そして、当為を裏付けるために根拠を挙げる場合でも、
事実が存在すると立証する場合とは別の形になるし、
事実に基づいた評価する際に必要なものとも別になる。
事実なり評価なりとして「高い」と示すには、
具体的にいくらかを立証なり少なくとも試算する必要があろうが、
「高くすべき」とする当為の主張の根拠となるのは、
・現状では○○のコストが計算されていない
・現状で不都合が生じている
といったもので十分となる。
2−5
上の例でいえば
ニンジン農家が窮乏にあえいでいる、
といった事実の情報が仮にあるとすれば、
僕が「ニンジンをもっと高く売るべき」と主張することも、
根拠のないものではなくなる。
現実にいくらでニンジンが売られているか、
ニンジンをいくらくらいの価格に設定すれば妥当になるか、
などといった議論は、
まったく無関係ではないにしても、
必須のものでは決してない。
2−6
そして、原発のコストとして、
これまでは1キロワット当たり4円以下で計算されていて、
事故後に5円という計算が発表され、
さらにそれを批判する形で7円の発表がされたのも、
すべて、「○○をコストに加えて計算すべき」という、
当為の部分に争いがあるからに他ならない。
原発のコストは4円であり、
火力発電の根拠は最低でも6円である、
さあ、どちらを選択しますか、と問うなら、
それは錯誤であり、詭弁であり、詐欺となりうる。
そこでなされているのは、
コストを4円で計算するような内容の原発の運営と、
6円のコストで運営する火力発電の比較でしかない。
7円の原発もあれば、
10円20円の原発もありうる。
4円の原発など不安だらけだし、
被害者救済が薄すぎるのであって、
むしろ原発に反対する理由になる。
にもかかわらず、
4円の方が経済効率がいいでしょうなんて議論をするのは、
僕は大間違いであると考える
(一定の事実に基づいてそう評価する)。
2−7
もっといえば、たとえば、
「原料価格が相場でこれくらい」という事実があっても、
ただちにその価格がコストになる、というわけではない。
そこには、
『なるべく安いコストで発電すべき』
という当為が前提にあるから、
流通価格に何も上乗せしない金額をコストにしているに過ぎない。
そこまで言えばかなり屁理屈じみるのだけれど、
たとえば、国内の未掘石炭の再利用とか、
国内の雇用対策などの政策のもとに、
あえて外国の石炭を使わずに、
高価な国内産の石炭で火力発電のコストを計算する、
みたいなこともありうるわけだ。
何が言いたいかというと、
人間が意思をもって行う活動については、
純粋な事実はほぼ存在せず、
必ず何らかの当為が前提となっている、
ということである。
2−8
ここでは、
コスモクリーナーの開発や、
少なくともそれに代わる放射能対策の具体化や
(地層処理は今のところまったく具体化していない)、
事故で家や仕事を奪われた人への賠償が進んでいないことや、
賠償額を下げようとする動きがいくつも見られることなどなど、
そういった事実があることで、
現状の計算が不当に低く抑えられているという評価は可能であるし、
もっと高く計算すべき(払うものを払うべき)
という議論の根拠となる。
少なくともコスモクリーナーは極論としても、
その方向でのコストをもっともっと考えるべきだし、
もっと損害賠償を厚く迅速に確実にすべきだと主張している。
僕が言う「原発は高い」は、
そういう当為を挟んだ上のものだ。
そこで計算の対象とする事実はとくに挙げていないけれど、
それがために不十分な議論になっているとは思えない。
3
要するに、よんた さんが僕に向けた批判は、
僕が『事実として高い』という発言をしたものとして、
批判の対象としたものというべきだと考えている。
だからいつまで経っても噛み合わないのです。