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ペーパーライセンスボクサーの司法試験日記

2012-01-26

控訴断念

やはりというか、

JR西日本の社長の訴追は控訴断念の結果となった。

 

 

検察が挙げた理由は

 

「控訴しても一審判決の認定を覆し

 有罪を獲得できる見込みは乏しいと判断した」

 

というものだった。

 

 

「有罪の可能性の有無」については、

僕には判断する情報も能力もないけれど、

 

鉄道事故に対する鉄道会社幹部の法的責任について、

その判断基準となる枠組みをどう構成するかを、

ちゃんと最高裁で判断しておく必要はなかったか。

 

 

 

まず、先日の日記で書いたように、

地裁の判決理由とされるものでは、

被害者や社会が問題しているポイントが、

必ずしもちゃんと反映されていない面があるように思える。

 

つまり、

超過密ダイヤを組んだ上で、

ダイヤ遅れを生じさせた運転員に厳罰を科す体制なのに、

速度超過等のヒューマンエラーへの対策が

十分ではなかったのではないか、

というのが一般利用者から見た事故原因のはずなのに、

 

「路線のどこかで事故が起きるかもしれない、

 といった危惧感だけでは処罰できない」

 

とする無罪理由が果たして妥当なものといえるのかどうか。

 

 

検察側はこれ以上有罪に持ち込むだけの証拠が集まらない、

という点もコメントしているようだけれど、

 

有罪無罪を分けるポイントは事実認定の部分だけでなく、

「どのような場合に監督過失が認められるか」という、

かなり理論的な問題も含んでいるはずだ。

 

 

従来の法律論では確かに被告人は無罪になる可能性が高い。

僕から見てもそう感じる。

 

それでも、今回の事件にとくに存在する要素を強調し、

従来の法律論とは違う視点での法律論を構成して、

あくまで有罪を主張することに意義があるのではないか。

 

そういう突っ込んだ解釈論を展開するなら、

地裁段階で止めてしまってはダメじゃなかろうか。

最高裁までトライアルする必要はないだろうか。

 

 

 

もっといえば、結果的に無罪になったっていいと思う。

 

最高裁で明確に

企業責任と個人責任との異同を議論して、

判例として確定することが、

今後にとって有益な意味があるはずなのだから。

 

 

 

もちろん、この議論では、

「訴追される個人の人権」の視点も無視できない。

 

明らかに無罪になるのに訴追し続けるなら、

公訴権の濫用といわれても仕方ないものとなってしまう。

 

しかし、本件被告人の当罰性については、

国論を二つに割る激しい争いになるはずだ。

その訴追を濫用というのは無理だし、

そんな問題を地裁判決だけで集結させてよいとは思われない。

 

 

 

とくに、今、日本では、ついこないだ、

公企業を前身とする私企業が行う公益性の高い事業において、

内包していた危険性が現実化してしまう事故が起きたばかりだ。

 

そのような企業の責任のあり方というのは、

今まさに日本が抱える最大の問題事項といっていい。

 

現状では原発事故の個人責任を追及する方向は出てきていないが、

そういう動きが生じないことが確定する前に、

こんな半端な形で今回の裁判を終結させてしまうことが、

果たして妥当なものといえるのだろうか。

 

 

それを妥当と考えるのは、

はっきり政財界側の人間であって、

基本的に「弱者」の側ではない。

 

自己の責任追及を早期に収束させてしまいたいと願う

政財界の要望によって、

法律家の良心がどのような影響を受けたか、

そもそも何らかの影響があったのかは、

僕には判断する材料が何もないけれど、

結果的に「強者」にとって都合のいい状態が、

法によってもたらされることとなった。

 

 

法が弱者を守る方向に動かなかったことは、

僕は単純に残念と感じる。

 

 

 

少なくとも、その結論は、

せめて憲法の番人である最高裁で下すべきではなかったかと。

 

 

 

 

教育において価値観を押し付けることは当然のことか

2ちゃんまとめサイトの「痛いニュース」で

各地で『二宮金次郎像』撤去相次ぐ

というニュースを扱っていた。

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1692437.html

 

 

なんでも、

小学校にある二宮像は基本的に戦前に作られたものなので、

老朽化が激しく、

設置し続けるなら補修費などが必要になるが、

 

親や教師の間で二宮像の人気がなく、

あえて補修等をせず撤去する例が多くなっているそうだ。

 

 

 

このニュースの何が「痛い」とされているかというと、

 

撤去の理由のうちの

 

「戦時教育の名残という指摘があった」

「『歩いて本を読むのは危険』という保護者の声があった」

 

というあたりが問題になっているようだ。

 

 

 

つまり、

 

二宮の勤勉さを推奨するために、

 その象徴である姿を像としているのであって、

 戦前か戦後かは重要な問題ではないし、

 まして本を読みながら歩くことを推奨しているのではないのに、

 馬鹿クレーマーはそんなこともわからない」

 

あたりが2ちゃんの主流の意見ということらしい。

 

 

 

そこから、

・戦後教育による道徳心の荒廃

・日教組による左翼教育

モラルなきモンスターペアレント

みたいな感覚に結びついて、

一部のネット右翼たちが大騒ぎしている感じのようだ。

 

 

 

中には、

「補修費を出さずに撤去」という文脈を理解せず、

「公費による撤去費用をせしめたい奴がいる」なんていう、

かなり的外れの文句を言う人間も現れたりしていて、

そういうのは論外だとしても、

 

 

正直、僕にはあまり2ちゃん側の意見はピンとこない。

 

 

江戸時代の農村という背景があったから、

二宮尊徳の勤勉さは偉いといえるのであって、

そのギャップをいきなり現代に切り取って持ってきても、

壮絶な違和感があるのは当然のことではあるまいか。

 

にもかかわらず、その像の異様な姿から、

二宮尊徳の偉さを感じ取りなさい、

勤勉であろうという精神を培いなさい、

なんていう教育は、

 

僕には胡散臭くて押し付けがましくて、

到底素直に受け入れられるものではない。

 

 

大体、日本社会で求められている「勤勉」って何?

上に言われたことをハイハイ素直に受け入れる姿勢のことじゃないか。

 

二宮尊徳自身は、

変人扱いする周囲の目をはねのけ、

読書に要する明りの油代をケチる身内を説得しながら、

知識を蓄え思想を構築し、本質を見極めていった。

だから偉人になった。

 

二宮尊徳以外の人間が、

薪を背負って読書していたとしても、

英単語でも丸暗記するのが関の山だ。

きわめて非本質的な「学習」にしか結びつかない。

 

馬鹿馬鹿しいからやめなさいとしか、

少なくとも僕には思えない。

 

 

とりあえず、 

あえて新たに公費を投入して補修等をしない理由たちは、

その異様さから生じる違和感に基づいている。

真似したら危ないのも変なことをしているから。

 

そこを無視して「痛い」反応扱いするのは、

どうしようもなく感覚がズレている。

 

 

 

というわけで、やっと本題。

 

 

 

上のような感想を前提に、

ブログのコメント欄に

 

二宮像(≠二宮本人)をありがたがる感覚って、

 ものすごい価値観の押し付けでしかないよね

 それを嫌がる感覚は不自然でも何でもない」

 

と書いた。

 

 

 

それに対して受けたレスの一つが下の内容。

 

 

 

教育というのは価値観を押し付けるものだ

 

 

 

ちなみに、僕が以前にこの日記で、

大学入試でのカンニングのニュースに関して、

 

現行の大学入試が丸暗記能力を試すだけに等しい状態だから、

こんな事件が起きるというのに、

誰もそれを問題にしない。

現状の教育は押し付けによる人格侵害でしかなく、

人格形成の側面がまったく欠けている

 

という主張をしたことがあるけども、

 

それに対しても同じような言葉を頂いたことがあった。

太字部分は掲示板で頂いた内容をもとに微修正

 

 

 

今さらでもあるけれど、

この機会に、

 

教育とは価値観を押し付けることなのか

 

という問題について、

率直な私見を述べたいと思う。

 

 

 

まあ、本来の法律的議論の姿からすれば、

とりあえず教育基本法の目的規定あたりから

議論を始めるべきだろうけど、

 

戦後教育批判の皆さんは、

基本法改正なども念頭に置いて論じているわけで、

現行法の存在はとくに根拠にならないだろう。

 

なので単純に理屈だけで話を進める。

 

 

 

とりあえず結論的なことを言うと、

 

「教育イコール価値観押し付けは当然」説は、

僕は詭弁の一種だと考えている。

 

 

明らかに無茶なこと言われてるのに、

なぜだかそこに説得力がありそうな気がする、

というのが一般的なその言葉への感想じゃないかと思う。

 

そういうときにはほぼ確実に詭弁的要素が含まれている。

決して「奇麗事を排した本質的議論」などではない。

 

 

他人を教育しようとするときには、

たしかに一定の価値判断が入り込む。

それは事実だ。

 

また、教育という形で立場に偏りがある状況で、

価値判断を相手に説明するときには、

基本的に下の側は受け入れざるを得ないので、

一定の押し付けが生じる。

それも事実だ。

 

 

しかし、それは、事実としてそうである、というだけだ。

 

 

それが事実だからといって、

理念として正しいということには絶対にならない。

 

極端な例を挙げれば、

AがBを殺したら、Bが死んでしまう。それは事実だ。

しかし、Bが死ぬことが「正しい」わけではない。

普通はAは悪いことをしたとして罰せられるだろう。

 

事実として存在したとしても、

規範としてそれが「正しい」と認められなければ、

その事実を打ち消すか、すくなくとも修正しようとされる。

 

 

僕はこのことを、この日記で、

事実と当為を峻別すべき」という話題で論じたことがある。

http://d.hatena.ne.jp/boxingfan-law/20111203#p1

 

そこで僕は、

何か議論が生じるとき、かなりの確率で、

事実(実際に存在するもの)と、

当為(そうある「べき」だという規範)とが、

混同されている、と言った。

 

 

ここでの「議論」もその一バリエイションといっていい。

 

 

「価値観を押し付けるべきではない」として、

教育現場で起きている一定の状況を批判したのに対し、

 

「教育とは価値観を押し付けるものだ」と再批判することは、

当為の主張に対して事実を述べているだけだ。

 

現実の壁は分厚いから、実際問題としては、

崇高な当為はすぐにくじけそうになるので、

なんとなく論破された気になってしまうが、

少なくとも理論的には何も論破されていない。

 

 

「教育で価値観が押し付けられることが多い」という事実は

「教育で価値観が押し付けられるべきではない」という当為と、

完全に両立する。

 

そして、その当為の下では、

その事実は排除または少なくとも抑制されるべき対象となる。

殺人者は処罰されるべきという当為が生じるのと同じ。

 

 

その事実に言及したときに本来なすべき議論は、

「どういう教育内容を考えれば、

 押し付けではなく生徒の自発性を養えるか、

 押し付けになってしまう状況を排除・緩和できるか」

といったものにならなければならない。

 

自発的判断こそが人格のキモであり、

押し付けはそれと矛盾しかしない。

 

 

もしそこで、

「教育は価値観を押し付けるべきだ」

という主張を当為として構成するのであれば、

それは教育ではなく「洗脳」ということになる。

僕は「洗脳こそが正しい」とする当為を正当化する方法を知らない。

 

そもそも、「洗脳こそが正しい」という議論はパラドックスでしかない。

まず、洗脳されれば発言はすべて自分の意見ではなくなるのであって、

自分を洗脳すべきなどという発言は成立しえない。

おそらく、そこで洗脳されるのは自分ではないのだろう。

他人を洗脳して自分の思い通りにしたいという願望の表明ということだ。

そこで述べているのは「正しさ」ではなく自分の「有利さ」である。

 

価値観押し付けは当為として成立しない。

成立する余地がある当為があるとすれば、せいぜい、

「“一定の”押し付けをしてでも十分な教育をすべきだ」

「“そのときは”個性を塗り潰しても思考力の発達を促すべきだ」

という留保としての「価値観押し付け」にとどまらざるを得ない。

押し付けが単独で当為を構成することはあり得ない。

基本的には「押し付けられうる」というのは事実の問題だ。

 

 

にもかかわらず、

なすべき議論に向かわず、単なる事実に言及することで、

「価値観の押し付けだからそれはやめよう」という意見を

押しとどめようとする行為は、

 

・詭弁に騙されて思考停止している無能さの表明

・詭弁を弄して人権侵害を正当化しようとする詐欺

 

のどちらかである。

 

 

 

もっといえば、実際問題として、

その「教育とは価値観の押し付けだ」という言葉が、

日教組批判の文脈などで語られることが多いという事実がある。

 

そこでなされている議論は、

共産主義社会主義的な唯物論的思想に基づいて、

戦前の価値観などを攻撃する「価値観」に対して、

それに再批判を加える目的を持っている面がある。

全部ではないにせよ、ないとはいわせない。

 

その状況で、

ひとたび「価値観を押し付けたっていいのだ」と言い切ってしまえば、

「左翼教師」たちの価値観を攻撃する正当性が、

大部分失われてしまうはずだろう。

国や教育委員会が「戦前の価値観」を押し付けていいのなら、

教師が「左翼的価値観」を押し付けることを止める根拠は、

一体どこにあるというのか。

 

理論的には「価値には序列がある」という主張の下に、

戦前の価値観は優れているが、左翼思想はダメ、

といった「レッテル」で整合性をつけるのだろうが、

そんなものは基本的に根拠なき宗教である。

靖国のようなものを勝手に信仰するのは勝手だが、

他者に押し付ける正当性を根拠づけるものは基本的にない。

 

自分は押し付けていいけど、

自分の嫌いな考えの奴はダメ、

という、体のいいダブルスタンダードが、

「教育とは価値を押し付けるもの」という言論である、

といっても過言ではない。

 

 

もちろん、純理論的には、

「価値を押し付けることの是非」と、

「押し付けられる価値の具体的内容」とは、

次元の異なる問題ではある。

 

価値は相対的なはずだ、と言いながら、

完全に一から反天皇、反靖国の議論をするとすれば、

つまり公の存在が全員にその思想を押し付けようとしないのに、

一から反対する立場を表明しようとするならば、

そういう議論も批判されるべき面を持つ。

 

誤解されるといけないが、

僕は特定の政治的立場を応援する者ではなく、

論理的な正当性と手続きの保障を是とする者であり、

価値の相対が自由を保障すると信じる者だ。

僕が学ぶ法律学がそう教えているから。

 

 

ただ、本当に実際問題として、

かなり多くの人間が、

次元の異なる問題をいっしょくたに論じている。

この問題に限らずいろんな問題でそうする。

 

上の事実と当為という次元の違う話を混ぜるのも、

その一例だ。

 

 

その混乱も含めて、

「教育とは価値観の押し付けだ」論は、

ダブルスタンダードなのだ。

 

 

少なくとも詭弁の一種だ。

 

 

 

 

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