空き箱

2008-11-08 アメリカの日本マンガ市場は煮詰まっている

「グラフィックノベル」としてのマンガ 「グラフィックノベル」としてのマンガ - 空き箱 のブックマークコメント

『Publishers Weekly』の「Comics Week」を読んでいて青林工藝舎『アックス』のアメリカ版発売のニュースを知った(発売元はTop Shelf)。先週届いたアマゾンでも買えるようになった『The Comics Journal』#292林静一『赤色エレジー』のアメリカ版(こちらの発売元はdrawn and quarterly)のレビューとあわせ、けっこう複雑な気分になる。

以前アメリカでのアニメの受け入れられ方についてこんなことを書いたことがあるが、これとほぼ同様の「クリティカルな「評価」とコマーシャルな「人気」が分裂したかたちで並存する」環境がマンガについてもほぼ完成しつつあるのではないかと思ったからだ。

もちろん、こうしたクリティカルな「評価」による日本マンガの紹介はこれまでにも存在していた。90年代はじめにはアート・スピーゲルマン一派によって『RAW』で水木しげる丸尾末広の作品が紹介されており、以前田中秀臣さんが触れていた辰巳ヨシヒロなどはおそらく日本国内より欧米での評価のほうが高い。

こうした批評的な「評価」の高い作品の紹介はもともとVizがやってきたようなコマーシャルな作品の紹介とは一線を画したかたちでおこなわれてきており、はじめから分裂しているといえばいるわけだが、ここ最近のこうした動きがある種の重要性を持つと思うのは、今夏の講談社USAの発足によって日本マンガの「コマーシャルな「人気」」の部分のほうをビジネスとして囲い込む環境がほぼ完成したといえるからだ。

いうまでもなく現在のVizは小学館と集英社という日本のマンガ出版最大手二社の合同出資子会社であり、今年はスクエア・エニックスと専属契約したYen Pressというパブリッシャーが半分がスクエニ系のアニメ化作品の翻訳、半分がオリジナル作品という『Yen+』という雑誌を創刊するという興味深い動きもあった。講談社もこれまでランダムハウス/講談社の関係からほぼ独占的にランダムハウス傘下のDel Reyに版権をおろしてきているのだが、今回の現地販社立ち上げによっていよいよ日本の大手マンガ出版社のアメリカでの版権はよりはっきり系列化されガチガチに固められることになる。

実際に90年代のマンガ出版に大きな役割を果たしたDark HorseTOKYOPOPは軒並みマンガ出版ラインの規模を縮小しており、サブプライム問題に端を発する不況や大手出版チェーンBordersの倒産騒ぎなどの影響もあって、今後はここ数年右肩上がりで成長し続けてきたアメリカにおける日本マンガ出版全体の成長が止まり縮小傾向になるだろうと予想されている。

こないだ夏目房之介さんのゼミで聞いた椎名ゆかりさんのお話によればそうした中で注目されているのが「グラフィックノベルとしてのマンガ」なのだという。このとき椎名さんはVERTICALの一連の手塚治虫作品(『ブッダ』、『きりひと賛歌』、『MW』など暗くて重い作品が多い)の翻訳の成功を例に挙げ、現在の新書版ペーパーバックスタイル(TankobonもしくはDigestなどといわれるフォーマット)ではなくグラフィックノベル(この場合は出版フォーマットとしての大判のトレードペーパーバック)としてマンガに活路を見出せるのではないかという声がアメリカのマンガ出版関係者のあいだにあることを紹介していた。

その戦略の可否は置くとして、ここでいう「グラフィックノベルとしてのマンガ」はどう考えても内容的には「クリティカルな「評価」」の方向を志向するものであり、ライセンス管理の系列化がここまで進んでいる以上アメリカのパブリッシャーにとっては事実上その方向しか選択肢がなくなってきているのだともいえる。

講談社USAの影響 講談社USAの影響 - 空き箱 のブックマークコメント

こうした「MANGA」を巡る環境の変化を講談社USAの立ち上げにあわせてまとめたBenjamin Ong Pang Keanによるシリーズ記事がアメリカの大手コミックスニュースサイトNewsaramaに出ている。

「The Kodansha Fallout: More Manga Changes?」

「The Kodansha Fallout II: The Manga Landscape」

「The Changing US Manga Scene: Where Does Viz Stand?」

「The Changing US Manga Scene: Remembering When West Has Met East」

「The Changing Manga Scene - What Does the Future Hold?」

コメントでツッコミが入ったりもしていて(w 多少不備な部分はあるが(逆にいえばそういう部分もコメント欄のツッコミまでちゃんと読めばOK)、この一連の記事はアメリカにおけるマンガ出版の歴史や経緯を振り返るにはコンパクトで大変便利なものだ。

この記事やAnime News NetworkForumでの反応を見る限りでは、いまのところアメリカのアニメ・マンガファンのあいだでも「講談社USAの誕生を諸手をあげて祝福する」という雰囲気には程遠いことがうかがえる。

いちばん現地のファンの不安を煽っているのは「現状アメリカのパブリッシャーから出版されているタイトル群の版権が引き上げられるのではないか?」というもので、これに関してはDel Reyからは「引き上げはない」旨のアナウンスが出された一方、『無限の住人』、『アキラ』、『甲殻機動隊』などの作品の版元であるDark HorseのCarl HornはAnime Expoの会場での談話で「噂の存在は承知しているが、契約の問題があるためどのタイトルがそれにあたるかは話せない」と事実上ライセンスの引き上げがあることを認め、『セイラームーン』、『12国記』、『Beck』などのパブリッシャーであるTokyopopNewsaramaの記事では「まだわかりません」みたいなことをいっているが、じつはこちらは現在事実上出版ラインが壊滅しておりコミックス出版から手を引くことがほぼ確実である。積極的に推し進めてきたOEL(Original English Language)マンガに関しても理不尽な契約の問題が表面化するなどかなりズタボロな状態で「相応の対価によってライセンスの買戻しがあるならありがたい」くらいな感じなのだろう。

TokyoPopのOELマンガの現状についてはNewaramaのこここここことかTHE BEATとかComics Worth Readingとかに死ぬほど関連記事があるみたいなんだが、まだちゃんと読んでないのでとりあえず保留。

幼年期の終わり 幼年期の終わり - 空き箱 のブックマークコメント

このNewsramaのシリーズ記事ではBen Dunnのスーパーヒーローコミックスとマンガの融合に向けた(不毛な気もする)情熱がよくわかる「The Changing US Manga Scene: Remembering When West Has Met East」なんかも相当おもしろいが、やはり結論にあたる「The Changing Manga Scene - What Does the Future Hold?」がもっとも面白い。このテキストではViz、Tokyopopなどの現場を渡り歩いてきた編集者Jake Forbes、『Manga: The Complete Guide』の著者でアメリカ版ジャンプの編集者でもあったJason Thompson、コミックアーティストのBecky Cloonanのコメントから成り立っているのだが、特にJake Forbesのコメントがおもしろい。

彼によればマンガ出版の最初の波−プレトーキョーポップ期−はほとんどがボランティアベースのものだった。「コネと強い意志を持った一握りのひとたちがライセンスを取得して、その存在すら知らない大部分のアメリカのコミックスファンにマンガの魅力を伝えようとして懸命に働いた、ただその過程で金持ちになった人間がいないわけじゃない(トーレン・スミス、君のヨットから僕に反論するのは君の自由だ)。次の波は企業家と消費者によって成り立っていた。強気なアメリカンオポチュニズムに支えられてマーケットは拡大し、ある日マンガはシリアスなビジネスになった。パブリッシャーはもはやマンガの世話役ではなくなりコンテンツの供給元になった」

「僕はライセンスベースの出版がビッグビジネスになる時代は終わったと思う」彼はそう言葉を続ける。「ダークホースやヴァーティカルのような本当の意味で「本」について考えてビジネスをしている企業は常にオタク層以外の「外部」に向けてアピールすることのできる評価の高い高品質なマンガタイトルをカタログに揃えている。それに日本には十分な数のスモールパブリッシャーがある、海外のニッチテイストが味わいたければ小さな出版社と組めばいい。でも、マスマーケット向けの商品は別だ。日本の出版社は中間業者を必要としていない。Vizはそのいい例であり、例外でもある。彼らは版権の認可もおこなっているからだ。全体の中での彼らの占める割合はあまりにも大きく、それでいてその所有権は彼らのコンテンツの供給元である日本の二大マンガ出版社、集英社と小学館が握っている(彼らはVizについてはそれぞれ同等の経営権を持つが、日本では依然として競争相手でもある)」

(「The Changing Manga Scene - What Does the Future Hold?」、Benjamin Ong Pang Kean、『Newsrama』、http://www.newsarama.com/comics/080718-MangaFuture.html、21 July 2008)

フォーブスは「MANGA」をある種の文化的なムーブメントとして捉えているらしく、Tokyopopの試みを「ライセンスの外側に日本のポップカルチャーをモデルにした新しいポップを築こうとする挑戦」だったと主張したりしているのだが、そういう日本人が喜びそうな「ジャパニーズクール」的な発想の是非(将来的にはともかく現状は失敗してるわけだし)はともかく、ここで重要なのは「日本の出版社は中間業者を必要としていない」という認識だろう。ジャンプの現場にいるトンプソンはもっと露骨にいまのアメリカのマンガ市場の状況を「Vizとそれ以外」とまったく簡潔にまとめているが、日本人にとって重要なのはアメリカでのアニメやマンガのブームによって結果的にアメリカのエンターテインメント産業の一角に日本企業がライセンサーとして食い込めた、という結果のみだろう。

アメリカでも日本国内でもアニメやマンガについては奇妙なほどメディア論やビジネス的な側面と文化(運動)的な側面が混同して語られるが(例えばオタクや萌え、やおいといった言葉にまつわる議論)、本来これははっきり分けて考えられるべきものである。

その辺の混乱をクルーナンは「言葉遊び」だと切って捨て「もし私がBD(フレンチコミックス)を書いたとして、いちいちそれを「OELBD」とか「OGBD」とか呼ぶわけ?」とはなはだもっともなことをいっている。

現在のアメリカにおける「MANGA」という言葉は「日本のマンガ」という本来の意味を離れ、絵のスタイルやそれを拡大してジャンル扱いまでされておりひどく混乱した状況にあるのだが、その辺も含めてアメリカ人の混乱にわざわざ日本人がつきあう必要はないわけで私たちはこの問題に対してはもっとビジネスライクであるべきだろうと思う。

そして、その意味で私はアメリカでの「クリティカルな「評価」」についてはもっとちゃんと考えられたほうがよいと思っている。アメリカにおけるアート的、文芸的な(あるいはグラフィックノベルとしての)「評価」は当然日本におけるそれとは異なっている。コミックストリップからの伝統の延長線上で現在のグラフィックノベルの「純文学的」な評価は成り立っており、辰巳や林、手塚への評価もそういう流れのなかでなされている。相手の評価基準がわからなければ、なにが評価されているのかも理解できないし、そのような評価と『Naruto』のようなポップなプロパティーのビジネス的な成功を混同するのはバカげている。

今後、海外のマンガやアニメの受容からさまざまな新しい表現、ハイブリッドな表現が生れてくる可能性があるのは確かであり、クリエイターはそこに夢を見るべきだとも思う。

ただ、ジャーナリストや批評家や研究者は夢と現実を混同すべきではない、課せられた役割が違うはずなのだから。

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